こうちゃんです。 @tabikin_outdoor(Instagram) @tabikinblog(Twitter) マーシャル諸島共和国の歴史や文化、料理、旅費、おすすめ観光スポットなどをまとめてみ ... こうちゃんです。 @tabikin_outdoor(Instagram) @tabikinblog(Twitter)   クウェート国の歴史や文化、料理、旅費、おすすめ観光スポットなどをまと ... こうちゃんです。 @tabikin_outdoor(Instagram) @tabikinblog(Twitter) ドミニカ共和国の歴史や文化、料理、旅費、おすすめ観光スポットなどをまとめてみました ... こうちゃんです。 @tabikin_outdoor(Instagram) @tabikinblog(Twitter) オマーン国の歴史や文化、料理、旅費、おすすめ観光スポットなどをまとめてみました。 ... こうちゃんです。 @tabikin_outdoor(Instagram) @tabikinblog(Twitter) バチカン市国の歴史や文化、料理、旅費、おすすめ観光スポットなどをまとめてみました。 ... アメリカ大陸横断、オーストラリア1年滞在、ニュージーランド南島1周、ヨーロッパ周遊一人旅、東南アジア周遊一人旅、その他の国も行っています。. アフガニスタンの歴史 目次 1・アレキサンダー東征からイスラム軍の侵攻まで。 2・イスラム軍の侵攻からパシュトゥーン民族の登場まで。 3・パシュトゥーン登場から英露の介入まで。 4・英露対立によるアフガン介入からアブドゥルラフマーン即位まで。 アフガニスタン東部における豪雨・鉄砲水被害(茂木外務大臣によるお見舞いメッセージの発出)(令和2年8月31日) 中央アジア5か国及びアフガニスタンに対するバッタ対策強化のための支援(無償資金協力)(令和2年7月28日) しかし、歴史の項でも触れるように国家としてのアフガニスタンは、人口割合で40%程度を占めると言われる多数派パシュトゥーン民族による支配が続いてきました。 アフガニスタンが建国された年は1709年4月21日。 正式名称はアフガニスタン・イスラム共和国 :(03)5226-6660から6663(代表), Copyright © Japan International Cooperation Agency. 【ホンシェルジュ】 19世紀から20世紀初頭にかけておこなわれた「アフガニスタン戦争」と、20世紀後半から現在も続く「アフガニスタン紛争」。この記事では、アフガニスタンを舞台にした2つの戦いについて、原因や目的、経緯、現状などをわかりやすく解説していきます。 ャのカージャル朝へラートを攻撃, 1881 ・アブドゥルラフマーンはアユーブハーンを下す, 1978 ・クーデターによりダウドとその家族殺害される. <アフガニスタンの歴史> アフガニスタンは古来より東西文明の重要な土地した。 紀元前3000年に、マザリシャリフ地方(首都カブールとは、 【マーシャル諸島共和国】歴史・文化・料理・旅費・治安・おすすめ観光スポットなどを紹介. その直後、ムガル帝国から一時デリーを奪った スール朝 (1539~55)もアフガン系であったが、その支配は短期間で終わり、その後インド亜大陸は、ムガル帝国の時代となり、アフガニスタンはイランの サファヴィー朝 (シーア派)とインドの ムガル帝国 (スンナ派)の抗争の場となった。 が、9月4日~5日には、杉浦外務副大臣がアフガニスタンを訪問した。, 10月28日~31日、アブドラ外相が訪日。その際、日本は新たな支援パッケージを発表。これまでの日本の復旧・復興支援は2億8200万ドル、人道支援を含めると3億7,500万ドルの支援を行った。, 12月16日、在京アフガニスタン大使館開設。, 新藤外務大臣政務官がアフガニスタンを訪問し、12月22日、カブール善隣友好会議に出席した。. アフガニスタンの歴史 「文明の十字路」と呼ばれるアフガニスタンは、古代から交易の中継点として栄えました。18世紀にはアフガニスタン人の王朝が成立します。しかし1973年にクーデターが起こり共和制を導入。その後再び共産主義政党によるクーデターが発生し、1979年12 今から約40年前の1979年12月ソ連がアフガニスタンに侵攻を開始しました。ソ連とアフガニスタンの小競り合いにアメリカなどの他国も加わり、アフガニスタン侵攻は10年にも及びました。 しかし、な … アフガニスタンのことがわかる基本情報をまとめました。 建国された年・歴史. アフガニスタン ... て同国の和平・復興に取り組んでおり、また、アフガニスタンと同じアジアの一員であり歴史 的に手を汚していない日本に対しては、アフガン各派や関係各国から強い期待感が高く、相応の貢献を行うことは日本に取り責務。 (3) また、いわゆる失敗国家(failed state アフガニスタンについて簡潔にただし十分に詳しく紹介していきます。宗教、歴史、人口、場所から分かる特徴などを確認していきましょう。, しかしアフガニスタンは不幸にも、中央アジア、インド亜大陸、中東の交差点という戦略的場所に位置しているため、歴史上で何度も何度も侵略されてきました。, 一方、国際関係や国際開発において、国際社会の平和や安定のためには無視できない国であり、同分野を学んだり、同分野で仕事をする上では基本的な概要だけでも知っておきたい国になります。, そこで、アフガニスタンについて簡潔に、ただし十分に詳しく、宗教、歴史、人口、場所の特徴などをまとめていこうと思います。, アフガニスタンとは共和制国家で、公式にはアフガニスタン・イスラム共和国(Islamic Republic of Afghanistan)と呼ばれる国。, 中東、中央〜南アジアに位置する内陸国で、南と東をパキスタン、西をイラン、北をトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、そして北東の端を中国と接している内陸国です。, その位置から、東洋と西洋が出会う場所とも言え、現在でも(狭義のアフガン人である)パシュトゥーン人を始め、他にも、タジク人、ハザラ人、ウズベク人、トルクメン人などが住む多民族国家であり、過去には世界史上の有名人アレキサンダー大王とその部隊もこの地へ訪れています。, 一方で、地政学的な理由から大国が何度も干渉してきた結果、国内では内戦が広がって無秩序・無法状態となります。, その混乱に乗じて台頭してきたイスラム主義組織のタリバンと、そのタリバンを追放しようと応戦するNATO・現政府軍の戦いが続き、アフガニスタンは疲弊し、未だに国内は混乱状態に陥ってしまっています。, アフガニスタンは、中東、中央〜南アジアに位置する内陸国で、南と東をパキスタン、西をイラン、北をトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、そして北東の端を中国と接している内陸国と言うのは既に触れた通り。, その国土の面積はおよそ65万平方キロメートルで、これは関東二つ分の広さとほぼ一緒(または東北地方より少しだけ小さいぐらい)。, そして、アフガニスタンの大部分はヒンドゥークシュ山脈の中にありますが、低地の砂漠地帯もいくらかあるのが特徴です。, また、その場所の地形から、最も標高が高い地点は7,486mのノシャックで、最も標高が低い地点でもアムダリヤ川の258mと、平均的な海抜が高く、例えば首都カブールの平均標高は1800mあるとされます。, 一方で、非常に自然が綺麗な国ではありますが、山が多くて乾燥した国であるアフガニスタンには、農耕地が思ったほどありません。, わずか12%程度が耕地向きで、実際に継続して農業用の土地として使われているのは、国土の1%にも満たないと言います。, ただし、場所によって標高が異なるため、同じ季節であっても地域によってかなりの気温の差があるのが特徴です。, 例えば、7月のカブールは38度程度まで気温が上がるのに対して、ジャラーラーバードは45度以上になる日もあるといった具合です。, また、砂漠地帯では強烈な砂嵐が起こり、風速が最大時速177kmになることもあります。, また、場所に関する情報としてアフガニスタンの首都と主要都市を、人口規模を合わせて紹介すると次の通りになります。, ただし、ムスリムと言っても、そのうちおよそ80〜90%はスンニ派で、残りの10〜15%程度がシーア派となっており、シーア派の多くはアフガニスタンにおける少数民族のハザラ人が占めます。, 一方、残りの1%弱には、約20,000人のバハーイー教徒(バハー・ウッラーがイランで19世紀半ばに創始した一神教)と、約3,000〜5,000人のキリスト教が含まれます。, また、1980年代中盤までは、30,000〜150,000人のヒンドゥー教徒とシーク教徒がアフガニスタンに住んでいたとされますが、タリバン政権が台頭してきた結果、現在ではわずかしかアフガニスタン国内に残っていません。, そして同じように、数は少ないものの、過去にはユダヤ人達も住んでいましたが、1979年にソビエト連邦がアフガニスタンへ信仰した際に国外へ逃げ出し、2005年まで唯一アフガニスタン国内に残っていたユダヤ人、ザブロン・シミントヴ(Sablon Simintov)も、すでにアフガニスタンにいない可能性が高く、基本的に現在のアフガニスタンにはユダヤ人は居住していないと考えて良いかと思います。, 現在、アフガニスタンの人口はおよそ3500万人弱(2016年時点)と推定されています。, 多民族国家であるため複数の民族が居住しており、単一の民族だけで人口の過半数を超えるものは存在していないほどです。, また、アフガニスタン人の平均寿命は男性で61歳、女性で64歳となっており(参照:WHO)、乳児死亡率は世界でも非常に高い方であるとされ、1,000の出生数に対して115人の新生児が無くなってしまうという報告もあります(参照:ThoughtCo.)。, 多民族国家であるアフガニスタンには数多くの言語が存在しますが、公用語として制定されているのはダリー語とパシュトー語。, 両言語ともインド・ヨーロッパ語族のイラン語群に属し、また両方とも、少し変化が加えられたアラビア文字で表記されます。, また、公用語ではありませんが、アフガニスタンでは他にもハザラギ語、ウズベク語、トルクメン語などが使われています。, ちなみに、ダリー語はペルシャ語のアフガニスタン方言で、隣国のイラン人とは相互に理解が可能。, それに対して、パシュトー語はアフガニスタンの最大民族パシュトゥーン人の母語であり、国内ではおよそ40〜45%のアフガニスタン人がこの言葉を母語として話します。, アフガニスタンはイスラム共和制であり、大統領によって率いられ、大統領の人気は5年間。最長2期まで務めることが出来、3選は禁止されています。, 一方、アフガニスタンの国会は二院制で、102議席の上院に相当する長老議会と、249議席の下院に相当する人民議会で構成されています。, また、最高裁判所の裁判官は9人。大統領からの任命を受けて10年の任期で配置され、また、それらの裁判官の任命には人民議会の承認が必要です。, 1人当たりのGDPはPPPベース(購買力平価)で年間およそ1,900USドル。名目GDPで見た場合は年間600USドルに届きません。, そのため、アフガニスタン国民の多くが貧困状態に陥っており、自国だけでは経済が成り立たないため、多くの外国援助を受けており、その合計支援額は年間数十億米ドルに上ります。, また、労働者のおよそ80%が農業に携わっており、工業とサービス業はそれぞれ10%前後だとされています。, このアヘンが隣国の国を通ってロシアや中国に広がっているため、国際的なアヘン撲滅運動が行われています。, その他の輸出品には、小麦、綿、羊毛、手織りのじゅうたん、宝石などがある一方、社会を回すために必要な食料やエネルギーは、多くを海外からの輸入に頼っている状態です。, アフガニスタンには、少なくとも50,000年前には人が定住していたと言われ、ムンディガクやバルフといった古い街は、約5,000年前には誕生しており、インドのアーリア人文化と関係があった可能性が高いことが示唆されています。, メディア人は現在のイラン北西部に広がっていた人々(現在のイラン人の祖先の一つ)で、ペルシャ人のライバルでした。, 紀元前550年には、ペルシャ人がメディア人に取って代わり、アケメネス朝をアフガニスタンの一部を含むこの地域に建国します。, そして、紀元前328年にはアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)がアフガニスタンに侵攻し、バクトリア(バルフ)を首都として、帝国の一部に取り込みます。, しかし、紀元前150年頃には、この地に台頭してきたクシャーナ朝によってギリシャ人達は追放されてしまいます。, その後アフガニスタンは、遊牧イラン人が建てたパルティア(古代イランの王朝)によって支配され、その支配は300年頃まで続いた後、サーサーン朝が支配権を握っていったのです。, サーサーン朝の支配下にあった時、ほとんどのアフガニスタン人は、ヒンドゥー教徒か仏教徒、またはゾロアスター教徒でした。, アラブ人はサーサーン朝に勝利してこの地を支配した結果、この地に住む多くの人々はイスラム教とに改修してムスリムになったのです。, しかし、アラブ人の支配は870年までしか続かず、その後は再びペルシャ人がこの地を治めることになります。, ペルシャ人の支配はしばらく続きますが、1220年にはチンギス・ハーン率いるモンゴル軍がアフガニスタンを征服。, ちなみに、このモンゴル人の末裔が、アフガニスタン人の中でも東アジア人の特徴を色濃く持つハザラ人だと言われます。, 1747年、パシュトゥーン人であるアフマド・シャー・ドゥッラーニーによってドゥッラーニー帝国が建国されたことで、アフガニスタンにおけるモンゴル人の治世は衰えていくことになります。, 19世紀には、「グレート・ゲーム」と呼ばれる、中央アジアの支配をめぐるロシアとイギリスの競争が高まりました。, 結果、イギリスとアフガニスタンは、1839〜1842年と1878〜1880年に2回の戦争をしています。, イギリスは、第一次アングロ・アフガン戦争でアフガニスタンに完敗しましたが、第二次アングロ・アフガン戦争以降はアフガニスタン対外関係(外交)の支配権を得ることに成功したのです。, しかし、当時のアフガニスタン国王ハビーブッラー・ハーンは、イギリス寄りの考えを持っていると噂されて1919年に暗殺されます。, 同年ハビーブッラーの弟であるアマーヌッラーが国王として即位、アフガニスタンはインドのイギリス領を攻撃し、イギリスが持つアフガニスタン対外関係の支配権を放棄するよう促し、アフガニスタンの独立が認められます。, また同時に、ロシア・ソビエト連邦と外交関係を樹立し、1926年にはソビエトと中立及び相互不可侵条約を締結しています。, このアマーヌッラーが1929年に国王から退くと、アマーヌッラーの従兄弟であるムハンマド・ナーディル・シャーが王になりましたが、反ハザラ人政策を取ったことでハザラ人から反感を買い、4年後の1933年に暗殺されてしまいます。, それからは、ムハンマド・ナーディル・シャーの息子であるムハンマド・ザーヒル・シャーが1933年に王位に就きました。, しかし、彼の従兄弟にあたるムハンマド・ダーウードは、アフガニスタンは共和国であるべきだと主張してクーデターを起こし、ムハンマド・ザーヒル・シャーは1973年に追放されてしまいます。, すると今度は、ソビエト連邦の支援を受けてマルクス主義を取り入れたアフガニスタン人民民主党(PDPA)によって、1978年に次はムハンマド・ダーウードが追放されてしまうのです。, この時、ソビエト連邦は政情不安を利用して、1926年に締結した中立及び相互不可侵条約を無視。, 1989年にソ連軍が撤退すると、アフガニスタン統治に空白が生まれ、国内の支配圏を巡ってアフガニスタン紛争が始まります。, そしてタリバン政権は、ウサマ・ビン・ラディンとアルカイダを支援しているとして、アメリカ主導の作戦によって劣勢に立たされていきます。, その後、国際連合安全保障理事会の国際治安支援部隊の支援を受け、アフガニスタンには新しい政府が誕生しました。, この新しい政府は、タリバンによる反乱と影の政府と戦うため、引き続きアメリカ主導のNATO軍から支援を受け、一方でタリバンは引き続きテロを起こすなど、まだ混乱が収まっていないのです。, アフガニスタンは、歴史的に様々な民族や国にとって要所にあったため、人口は多民族化し、また、悲しいことになんども紛争などに巻き込まれてきた国です。, しかし、このような国こそが安定して初めて国際社会の平和や安全が確立するため、決して無視してはいけない重要な国の一つだと言えます。, 当サイトは当サイトのメイン管理人である「ハリマン」が、内向きになりつつある日本人をもう少しだけ外向きにしたいという思いで運営しています。 さらに詳しくは下のホームボタンをクリックしてください。. テロリズムの温床、泥沼の紛争地という印象が強いアフガニスタン。一体どのような経緯で争いの場となってしまったのでしょうか。この記事では紀元前からさかのぼり、アフガニスタンの歴史をわかりやすく解説していきます。理解が深まるおすすめの本も紹介するので、あわせて参考にしてみてください。, 南アジアにある共和制国家のアフガニスタン。正式名称は「アフガニスタン・イスラム共和国」といい、首都はカブールです。南東でパキスタン、西でイラン、北でタジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンと国境を接していて、海には面していない内陸国となっています。, 国土面積は日本の約1.7倍の約65万平方キロメートル、人口は約3100万人。人口のうち約45%がパシュトゥーン人で、約30%がタジク人、約12%がハザーラ人、約10%がウズベク人です。公用語はパシュトー語とダリー語が用いられており、そのほか地方言語としてウズベク語、トルクメン語、バローチー語などを話す人もいます。, 国民の大多数がイスラム教を信仰していて、約85%がスンニ派、約14%がシーア派です。全体の1%ほどと少数ながらシーク教徒、ヒンドゥー教徒、キリスト教徒も存在します。, アフガニスタンでは2001年に厳格なイスラム政権だったタリバン政権が崩壊し、カルザイ政権のもとで世俗化が進められ、2004年に新憲法が制定されました。しかしいまだにコーランやシャリーアにもとづく規定が残っていて、大統領もイスラム教徒以外は就任することができません。, またキリスト教に改宗した男性に死刑判決が下されたり、女性の権利改善を訴えた男性が死刑宣告された事例もあり、人権についても問題視されることが多いのが現状です。, 中央政府よりも各部族の影響力が強く、不貞行為をした女性がその家族の手で処刑される名誉殺人や、レイプ被害を受けた女性がレイプ犯と結婚させられる事例、小学生ほどの年齢の少女が強制的に結婚させられる事例もたびたびあり、2008年におこなわれた調査では87%もの女性が何らかの暴力被害を受けた経験があることがわかりました。, カルザイ政権と、それに続く2014年からのガニー政権のもとで、女性の教育や労働に対する規制はだいぶ緩められましたが、それでもさまざまな権利が制限されているといえるでしょう。, 2020年2月、アメリカ政府とタリバンとの間で和平合意が成立し、5月にはアフガニスタン政府とタリバンとの間でも和平合意が成立しました。しかし各地では武力衝突が起こり、テロ組織の活動も活発です。日本の外務省が発表している危険情報では、アフガニスタン全土に対して「レベル4:退避勧告」が出されています。, 現在のアフガニスタンがある地域に人類が住み始めたのは、旧石器時代である紀元前10万年頃のこと。紀元前8000年頃には農業や牧畜がおこなわれ、紀元前6000年頃にはラピスラズリという宝石を産出し、輸出していたことがわかっています。, この場所は、中東、中国、中央アジアを繋ぐ交通の要衝にあり、古くから大国の影響を受けてきた地域でした。紀元前330年にはマケドニア王国のアレキサンダー大王に征服され、ヘレニズム文化が流入。大王の死後はセレウコス朝シリアの支配下に入ります。, 紀元前305年にはアフガニスタン東部がマウリヤ朝インドに征服され、仏教が盛んになりました。ほぼ同時期にアフガニスタン北部ではグレコ・バクトリア王国、南部ではアルサケス朝パルティアが興っています。, 紀元前1世紀頃には、中央アジアの遊牧民族大月氏傘下の諸侯だったカドフィセス1世がクシャーナ朝を興し、4代目君主のカニシカ1世の時代にはガンジス川中流域、インダス川流域、バクトリアなどを含む大帝国となりました。, ササン朝ペルシア、エフタル、突厥などの支配を受けた後、8世紀の初頭にはアッバース朝の侵攻を受けてイスラム教が流入。9世紀にはイラン系のターヒル朝、サッファール朝、サーマーン朝が興りますが、10世紀末にマーム―ン朝の侵攻を受け、滅亡しました。, 1017年にはカブールを首都とするイスラム王朝のガズナ朝がマーム―ン朝を滅ぼし、インドに侵攻。インドにイスラム教が流入するきっかけとなります。12世紀から13世紀にかけて、ガズナ朝はゴール朝に、ゴール朝はホラムズ・シャー朝に滅ぼされ、ホラムズ・シャー朝はモンゴル帝国に征服されました。, モンゴル帝国のもとでチャガタイ・ハン国、クルト朝の支配を受け、1370年頃にはティムール朝の支配下に入ります。1507年にティムール朝が滅亡した後はサファヴィー朝イラン、ムガル朝インド、オスマン帝国による争奪の地となり、特にアフガニスタン第2の都市であるカンダハールは何度も主が変わることになりました。, 1709年、イスラム教スンニ派を信仰するパシュトゥーン人の2大部族連合のひとつ「ギルザイ部族連合」に属するホータク族の族長ミール・ワイスが、イスラム教シーア派を信仰するサファヴィー朝イランに対し反乱を起こしました。ホータキー朝カンダハール王国を興します。, この王朝は約30年しか続かない短命だったものの、一時はアフガニスタン、イラン、パキスタン西部、タジキスタン、トルクメニスタンの一部におよぶ広大な領域を支配しました。, 1747年には、2大部族連合のもうひとつ「アブダーリー部族連合」に属するサドーザイ族の族長アフマド・シャーが、サドーザイ朝を建国します。, アフマド・シャーは部族連合の名前を「真珠の時代」を意味するドゥッラーニーに変更し、王朝もドゥッラーニー朝と呼ばれるようになりました。続くバーラクザイ朝を興したのも、同じドゥッラーニー部族連合に属するバーラクザイ族出身者だったことから、バーラクザイ朝も含めてドゥッラーニー朝、ドゥッラーニー帝国と呼ぶこともあります。, 19世紀に入ると、アフガニスタンの地はイギリスとロシアによる「グレート・ゲーム」の場と化します。バーラクザイ朝は1838年に起こった「第一次アフガン戦争」でイギリスに勝利したものの、1878年の「第二次アフガン戦争」では敗北。イギリスの保護国となりました。, 「第一次世界大戦」が終結した1919年、バーラクザイ朝のアマーヌッラー・ハーンが「第三次アフガン戦争」で勝利してイギリスからの独立に成功。1926年に国号をアフガニスタン王国とします。, アマーヌッラー・ハーンは、トルコ共和国を模範に世俗主義・民族主義・共和主義へと改革を推進。また王妃であるソラヤ・タルズィーも女性の地位向上のために動き、夫婦でアフガニスタンの近代化に努めます。しかし、これが保守派たちの反発を招くことになり、イギリスが保守派を支援して改革は頓挫しました。, アマーヌッラー・ハーンに代わって国王に即位したムハンマド・ナーディル・シャーは、イスラム教スンニ派のハナフィー学派を国教に定めますが、今度はこれが少数派であるシーア派の反発を招き、1933年11月に暗殺されてしまいます。, 跡を継いだ息子のザーヒル・シャーは、「第二次世界大戦」では連合国、枢軸国のいずれにもつかない中立を保ち、戦後の冷戦下でも東西双方の陣営とバランスをとった外交を展開。1960年代には立憲君主制を導入して、出版や政党設立の自由を認めるなど民主化路線を進めました。, しかしザーヒル・シャーの改革も保守派や親ソ連派の反発を招き、1973年7月、従兄弟のムハンマド・ダーウードによるクーデターで王政が廃止。バーラクザイ朝は滅亡しました。, クーデターで国王を追放したムハンマド・ダーウードは、共和制を宣言し、大統領に就任。国名をアフガニスタン共和国とします。近代化を図ってソ連に接近し、イスラム教徒を弾圧しました。, しかし徐々にアメリカへも接近するようになっていきます。すると1978年4月、政治家のヌール・ムハンマド・タラキーがを指導者とするアフガニスタン人民民主党が、ソ連の援助を受けてクーデターを起こし、大統領一族を処刑してしまいました。, 国名はアフガニスタン民主共和国に変更され、これに反発したイスラム義勇兵たちがアメリカやパキスタンの援助を受けて蜂起。1978年から「アフガニスタン紛争」が勃発します。, 1979年にはソ連軍がアフガニスタンに侵攻。紛争は10年続く泥沼と化し、冷戦の終結やソ連崩壊の遠因にもなりました。, 1989年にソ連軍が撤退した後、アフガニスタンでは、ソ連の援助を受けるムハンマド・ナジーブッラー大統領が率いる「人民民主党政府」、パシュトゥーン人主体の「ヘクマティヤール派」、タジク人主体の「イスラム協会」、ハザーラ人主体のシーア派勢力「イスラム統一党」による紛争が続いていました。, タリバンはアラビア語で「学生」を意味する「ターリブ」の複数形。「マドラサ」と呼ばれるイスラム神学校で軍事的・神学的な教育を受けた生徒で構成されています。1994年に創設された比較的新しい組織で、創始者のムハンマド・オマルはもともとマドラサの教師でした。, ある日、オマルの夢に預言者ムハンマドが現れ、「武装蜂起し、味方を助けよ」と告げたことをきっかけに、30人ほどの教え子とともにタリバンを結成したそう。当初はライフル16丁だけの貧弱な武装しかありませんでしたが、軍閥に誘拐された少女を救出するなどして人々からの支持を集め、1995年には国内第3の都市ヘラートを、1996年には首都カブールを占領。「アフガニスタン・イスラム首長国」を建国するまでの勢力を築きます。, タリバンはイスラム教の教えを厳格に適用し、服装の規制、音楽や写真など娯楽の禁止、女子教育の禁止など極端な政策を実施。国際社会から批判を受けますが、パキスタンの情報機関であるISIやサウジアラビアの情報機関であるGIPの支援を受けながら勢力の拡大を続けました。, 2000年頃には、ブルハーヌッディーン・ラッバーニーを大統領、アフマド・シャー・マスードを軍事指導者とする「アフガニスタン・イスラム国(通称:北部同盟)」の支配地域を除いた、国土の9割ほどを支配します。, また、1996年頃には数々のテロ行為の首謀者と考えられていたウサマ・ビン・ラディンなどアルカイダの幹部を客人として受け入れ、国内にテロリストを育成する訓練キャンプを設置。国連安全保障理事会からはテロ行為防止のためにアルカイダ幹部の引き渡しが要求されますが、拒否しています。, その結果、国際社会から経済制裁がおこなわれることになりますが、麻薬の密輸などを通じて資金を獲得して対抗しました。2000年頃、アフガニスタン産のケシは世界の生産量の75%を占めていたそうです。, 2001年9月11日、「アメリカ同時多発テロ事件」が起きた際も、タリバンはアルカイダ幹部の引き渡しを拒否。アメリカは有志連合諸国や北部同盟と連携してアフガニスタンを攻撃し、タリバン政権が崩壊することになりました。, 暫定政権による統治の後、2004年にハミード・カルザイを首班とするアフガニスタン・イスラム共和国が成立します。, しかしタリバン政権幹部の多くは戦場を離脱し、アフガニスタン南部やパキスタンとの国境地帯に潜伏していて、2013年にムハンマド・オマルが死亡した後も即席の爆発装置などを駆使して政府軍や国際治安支援部隊を攻撃しています。, 2019年の時点で、アフガニスタン国土の約46%を影響下に置くまでに勢力を回復させているそうです。, 長年にわたり紛争が続いているアフガニスタンで、約30年間も支援活動を続けた日本人の医師がいます。人々を治療し、1600もの井戸を掘り、10万人が利用できる長さ25kmの用水路を作りました。本作は、当事者である中村哲が、「天」と「縁」をキーワードに自身の半生を振り返った作品です。, なぜ彼が医療活動だけでなく、井戸や用水路の建設に力を入れたのか、その理由がよくわかるでしょう。現地の状況がつぶさに記され、荒れた土地が少しずつ開発されていく様子は目を見張ります。, 2019年、正体不明の武装組織に襲撃され亡くなったという報道は日本にも衝撃を与えましたが、彼の功績を知るうえでも、アフガニスタンのリアルな実情を知るうえでも、読んでおきたい一冊です。, イギリスの元外交官である作者が、タリバン政権崩壊直後の冬にアフガニスタン西部の都市ヘラートから首都カブールまで、36日間かけて歩いた旅の記録です。, 旅のお供は、オオカミ避けの番犬のみ。ムガル帝国の初代皇帝にちなんで「バーブル」と名付けられています。彼らが辿った道はかつて皇帝バーブルがこの地を征服した際に通った道であり、またタリバンがアフガニスタンを制圧する際に通った道でもありました。, 凍傷や飢餓、さらにはスパイ疑惑など、旅は常に死と隣り合わせ。そんななか、戦乱の爪痕がそこかしこに生々しく残るアフガニスタンの現実が迫ります。歴史と今を感じられる、おすすめの一冊です。, 中東屈指の金融都市ドバイを有するアラブ首長国連邦。UAEという略称で知られています。この記事では治安や政治、石油産業なども含めて、古代からの歴史をわかりやすく解説。おすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。, 近い将来、中国を抜いて世界一の人口大国になると目されているインド。一体どんな歴史を歩んできたのか、古代から植民地時代を経て、独立、近代化を果たすまでの流れをわかりやすく解説していきます。. 紀元前1世紀頃には、中央アジアの遊牧民族大月氏傘下の諸侯だったカドフィセス1世がクシャーナ朝を興し、4代目君主のカニシカ1世の時代にはガンジス川中流域、インダス川流域、バクトリアなどを含む大帝国となりました。 Copyright© 旅筋ブログ , 2020 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5. 19世紀には、「グレート・ゲーム」と呼ばれる、中央アジアの支配をめぐるロシアとイギリスの競争が高まりました。 結果、イギリスとアフガニスタンは、1839〜1842年と1878〜1880年に2回の戦争をしています。 イギリスは、第一次アングロ・アフガン戦争でアフガニスタンに完敗しましたが、第二 … アフガニスタンの歴史や文化、料理、旅費、おすすめ観光スポットなどをまとめてみました。, アフガニスタンは海のない内陸国で、パキスタン、イラン、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンさらに中国に隣接しています。, また、アフガニスタン・イスラム共和国の文化的・経済的中心地として、最大の都市もカーブルとなっています。, アフガニスタンの人口は、31,108,077人(3000万人)で、世界第38位です。, ちなみに、日本の人口は、126,535,920人(約1億2,654万人)で世界第10位です。, アフガニスタンに行くには周辺の都市で乗り換える必要があり、乗り換えの時間によって所要時間が変わってきます。, 2020年現在も、政府と反政府(タリバーン、IS、アル・カイダなど)の内戦が続いています。, 比較的政府の目の届いている首都カーブルでも反政府によるテロや爆撃が後を立ちません。.