オリックスに、元ロッテ内野手で前BCリーグ石川監督の渡辺正人氏(38)がスコアラーとして加入することが18日、分かった。上宮(大阪)から97年ドラフト1位で入団し、ロッテで15年間プレー。バイプレーヤーとして堅実な守備を誇り、打撃では通算140安打をマークした。退団後はBC信濃で選手兼コーチ、石川ではヘッドコーチと監督を歴任。来季は6年ぶりのNPB復帰となる。, オリックスは昨シーズンからスコアラーの球団担当制を敷き、より深くライバルを分析。今季は欠員が生じたが、来季は渡辺氏を増員して担当制を復活させる。この日、初出勤した渡辺氏は西武を担当する予定。「機会をいただいたオリックスに感謝しています。独立リーグでは環境の違いを感じながら、選手といろんなことができて勉強になった」と経験を新天地に生かす意気込みを語った。, ※当記事の引用は全て以下の記事からです。記事全文は以下のリンクをクリックしてご覧ください。 阪急軍(1936年 - 1946年)阪急ブレーブス(1947年 - 1988年)オリックス・ブレーブス(1989年 - 1990年)オリックス・ブルーウェーブ(1991年 - 2004年) ※大阪近鉄バファローズを吸収合併オリックス・バファローズ(2005年 - 現在), オリックス・バファローズ(英語: ORIX Buffaloes)は、日本のプロ野球球団。パシフィック・リーグ最古の球団。, 大阪府をフランチャイズとし、大阪市西区にある京セラドーム大阪を本拠地、兵庫県神戸市須磨区にあるほっともっとフィールド神戸[注 1]を準本拠地としている。また、二軍[注 2]はウエスタン・リーグに加盟していて、2017年シーズンから舞洲バファローズスタジアム(大阪市此花区の舞洲スポーツアイランド内)を本拠地に定めている。, 2004年シーズン終了後に、神戸を本拠地とするオリックス・ブルーウェーブが、大阪を本拠地とする大阪近鉄バファローズの吸収合併によって誕生した球団である[注 3]。「バファローズ」の名を用い、大阪を本拠地、神戸を準本拠地としているが[注 4]、運営母体はオリックスのままであり、運営法人も大阪阪急野球協会の流れを組むオリックス野球クラブ側が存続しているため、オリックス・ブルーウェーブの後継球団扱いであり、球団史において大阪近鉄バファローズの歴史は傍系扱いになる。, [1]阪神急行電鉄(現:阪急電鉄株式会社)は1920年に日本最初のプロ野球球団とされる「日本運動協会」の経営を引き取り「宝塚運動協会」として運営していたが1929年7月に解散。後の阪急ブレーブスとの球団としての繋がりはない。しかし小林一三はいずれプロ野球時代が来ると予見。1935年に読売新聞社が大日本東京野球倶楽部を結成したのを受けて、小林はアメリカ出張中にワシントンから電報で球団設立を指示し、1936年1月23日に大阪阪急野球協会が設立される。ライバル企業である阪神電気鉄道が立ち上げた大阪タイガースに対抗するため、設立を決意したとも言われる。発足当時の球団で球場を自前で新たに建設することを計画したのは阪急だけである。小林一三が慶應義塾大学出身だったこともあり、宮武三郎、山下実、山下好一ら慶應義塾大学のスター選手を入団させ、初代監督にも同OBの三宅大輔を招いた[2]。同年2月5日に結成された日本職業野球連盟に参加。球団名に企業名を入れた日本で最初のプロ野球球団である[3]。, トーナメント制の夏季の大阪大会で首位になっている。1937年5月1日、本拠地球場となる阪急西宮球場が開場、春季は8球団中4位となったが監督の三宅は妥協を許さぬ厳しい姿勢が選手の反発を招いて解任され、村上実が秋季の指揮をとるがチームは投手陣が弱く粘りがないとされ、8球団中7位に終わっている。村上の後任には山下実がプレイングマネージャーで就任。, 投手陣の健闘で春、秋共に3位となるが、上位の首位の巨人や2位のタイガースにはどうしても勝てないという状況だった。1939年、この年より1シーズン制通しての成績で優勝、順位を決め、便宜上春夏秋の3季制としたが、春季は投手陣が踏ん張り9連勝もあり首位となっているが、巨人には未勝利のままで、年間を通じても巨人、大阪に次ぐ2位に終わっている。, 井野川利春を4番選手兼任監督に迎える。森弘太郎が28勝を挙げ、山田伝が打率5位になるが3年続けて巨人、大阪に次ぐ3位に終わる。1941年、戦局悪化で各球団共に選手の応召が続き戦力が低下するが、森弘太郎がノーヒットノーランを達成するなど30勝を挙げ、最多勝となり、チームも勝率.631[注 5]の成績を挙げるが、首位巨人と9ゲーム差の2位に終わっている。1942年以降も応召が続き8球団中4位、1943年、選手兼任監督の井野川が応召され西村正夫が監督になるが8球団中7位。1944年、夏季終了時点で応召による選手不足でリーグ戦続行が不可能となり、途中打ち切りとなり3位に終わっている。, [4]西宮球場の倉庫でボールやバットが保管されていたこともあり、11月の戦後プロ野球初試合となる東西対抗戦が神宮球場で開催され、1946年よりリーグ戦が再開される。他球団に比べて、用具がそろっていたことや野口二郎や今西錬太郎が加入したことで、阪急の下馬評は高かったが、投手陣が6月に調子を落とし、長打力不足もあって、チームは8球団中4位に終わる。, リーグの愛称義務化により、チーム名を「阪急ベアーズ」と改称したものの、オープン戦での成績が悪く、「ベアー」という単語も投資の世界で縁起の悪い言葉であることから、開幕前の4月18日までに阪急ブレーブスに再改称した[5]。, 総監督に浜崎真二、西村正夫が助監督、これに井野川利春も復員してきて助監督という首脳陣となった。野口二郎が24勝、今西錬太郎が21勝を挙げるが8球団中4位に終わり、オフには青田昇が巨人に移籍。1948年、投手は良いが、青田が抜けて長打力不足となったのが響き本塁打がリーグ最低の25本で、3年連続8球団中4位に終わる。1949年、長打力不足はこの年も続き、投手陣では天保義夫と今西錬太郎の2人で43勝をあげ、対巨人戦では11勝8敗と勝ち越すがそのうち7勝は天保が挙げており、この年は2位となった。この年のオフ2リーグ分立に伴い、阪急はパシフィック・リーグ所属となる。, パ・リーグ参戦初年度の開幕4戦目から球団新記録の11連敗と低迷[注 6]し、54勝64敗2分で首位の毎日オリオンズと28.5ゲーム差の4位に終わる。, 天保義夫と野口二郎で合わせて13勝止まりで、7球団中5位と低迷。オフにはジミー・ニューベリー、ジョン・ブリットンが入団。, ニューベリーが11勝、ブリットンが打率3割の活躍を見せるが、2年連続7球団中5位。, 西宮球場にナイター設備が完成し、5月5日よりナイター試合が行われるようになった。阪急はこの年のナイター試合で26戦21勝と「夜の勇者」のあだ名がつくほど強く、新加入のルーファス・ゲインズが14勝、ラリー・レインズが盗塁王になるなど、8月から9月には首位に立つこともあり、9月2日には大映、阪急、南海の3チームがゲーム差無しのそれぞれ1厘差で並んでいたが、ここから南海が12連勝、逆に阪急は5連敗で優勝争いから後退し[6]、最終的に南海と4ゲーム差の2位で終わっている。オフには梶本隆夫が入団。, 新人の梶本隆夫がこの年の開幕戦の対高橋ユニオンズ戦で初登板で初先発し、初勝利を挙げている。梶本はこの年20勝をあげる活躍を見せるが、チームはその他の投手陣が安定せず、後半戦に息切れして 8球団中5位。ラリー・レインズが首位打者となるが、この年限りで退団。, 新加入のロベルト・バルボンが1番打者で163安打、49盗塁を記録し、チームも夏場まで好調だったものの、9月以降投手陣が不調となり、80勝を挙げたものの、99勝の南海から19ゲーム差の4位に終わる。, 米田哲也の入団に関して、阪神との二重契約問題が生じていたが、2月13日にコミッショナー裁定で阪急入りしている。その米田は9勝、梶本隆夫が28勝、種田弘が17勝を挙げるなど、リーグ1の投手陣と、盗塁のシーズン日本プロ野球記録を更新した河野旭輝の活躍で3位。監督は藤本定義が就任。オフには、地元の西宮出身で東京六大学では長嶋茂雄らと競い合って首位打者にもなった慶應の中田昌宏が入団。, 1月25日、球団創設者である小林一三が死去[7]。梶本隆夫が24勝、米田哲也が21勝とヨネカジコンビが共に防御率1点台の成績を残すが4位に終わる。オフには立教大学の「立教三羽烏」の1人、本屋敷錦吾が入団。, 前半戦を2位で折り返し、8月には首位に立つこともあり、南海、西鉄との首位争いとなるが、3位に終わる。チーム73勝のうち、米田と梶本で53勝を占めた[8]。, 米田、梶本が5月まで勝てず、チームは前半戦に8連敗、オールスターを挟んで8月1日に11連敗を記録し、球団史上最低勝率を更新する.369で5位に終わる。藤本定義はシーズン途中で監督を辞任しており、戸倉勝城が指揮を継いだ。, あまりの打撃の不振から西宮球場にラッキーゾーンが設置され、本塁打は前年より7本増えたが、それでもリーグ最低の数字で、相手チームの本塁打も増える結果となり、梶本隆夫と米田哲也が共に20勝するものの4位に終わる, 中田昌宏が南海の野村克也と共に最多本塁打を獲得するが、得点力不足で、米田、梶本は2年連続ともに20勝だが5位に終わり、この頃には「地味」という意味で「灰色の阪急」というあだ名が定着している。このオフ、コーチに西本幸雄を招いている, 8月半ばまで2位を保つが、最終的には4位に終わっている。11月6日、西本が監督に就任。, 梶本隆夫がプロ入りして初めて勝利数が二桁に届かない5勝、米田哲也がリーグ最多敗の23敗で、投手陣は石井茂雄が頼りという状況で、8連敗を3度記録するなど、最終的に57勝92敗1分で首位の西鉄から30.5ゲーム差の最下位に終わる。, ダリル・スペンサーとゴーディ・ウインディが加入し、野球の戦術を熟知したスペンサーは阪急に「考える野球」をもたらし、やがて来る黄金時代へと大きく貢献する。チームは前半戦を首位で折り返し、南海との首位争いとなり、8月に対南海戦3連敗で2位に落ち、9月12日に南海との首位攻防戦に勝利し0.5ゲーム差としたが直後に3連敗[9] 、9月19日の東京オリオンズ戦に阪急が負けたことで南海が優勝[10]、最終的に3.5ゲーム差の2位に終わる。, チームは前半戦だけで首位と27.5ゲーム差と離され、打線はスペンサー頼みで、スペンサーは7月にはサイクル安打を達成し[注 7]、野村克也と本塁打王争いとなるが、10月に交通事故でシーズンを棒に振る。チームは4位に終わる。この年初めてドラフト会議が行われ、長池徳二や住友平が入団。, 梶本隆夫が9月27日に15連敗を記録するなどこの年は2勝止まりで、打線は頼みのスペンサーが20本塁打63打点に終わり、チームも5位に終わる。10月14日、監督の西本幸雄の信任投票事件が起きて、西本は辞意を表明し[注 8]、球団は青田昇を後任監督に進めるが、それを聞いたオーナーの小林米三が自ら西本を説得し、西本は19日に辞任を撤回している。, スペンサーが30本塁打、長池徳二が27本塁打するなど攻撃力がアップ、投手陣は足立光宏が20勝、米田哲也が18勝、梶本隆夫が15勝を挙げる。オールスター前には2位に8ゲームをつけ首位、10月1日、対東映フライヤーズ戦(西京極)に勝利し[12]、球団史上初のリーグ優勝を達成する(球団創立から32年目での初優勝は日本プロ野球史上最も遅い記録となっている[13])。しかし初出場となる日本シリーズでは巨人に2勝4敗で敗退。, 投手陣は米田哲也が29勝、打線ではそれまで9年間で8本塁打の矢野清がこの年27本塁打で「10年目の新人」と呼ばれる活躍を見せる[14]。チームは南海との首位争いとなり、10月11日の共にシーズン最終戦を同率で並び、阪急は対東京戦、2点ビハインドの9回裏に矢野が同点打を放ち、10回裏にサヨナラ本塁打で勝利をおさめている。阪急の試合終了の8分後、同時に試合を行っていた南海が近鉄に敗れたことで、2年連続優勝達成。しかし日本シリーズでも2年連続で巨人に2勝4敗で敗退。ドラフトで後に「花の(昭和)44年組」と呼ばれることになる山田久志、福本豊、加藤秀司が入団[注 9]。, 近鉄との優勝争いとなり、10月19日に対近鉄戦(藤井寺)に勝利して3年連続リーグ優勝達成[12]。長池徳二が本塁打と打点の二冠王となる。しかし日本シリーズは3年連続で巨人に2勝4敗で敗退。, 福本豊が一番に定着し初めて盗塁王を獲得し、この後福本は13年連続で同タイトルを獲得することになる。山田久志が10勝を挙げるが、打線が低調で4位に終わる。オフに、前広島コーチの上田利治を打撃コーチとして招聘する[15][注 10]。, オールスター前までに2位に6ゲーム差をつけ、オールスター直後のロッテ戦2連勝で差を広げるが、この直後8連敗した[16]。それでも9月28日のロッテ戦に勝利し、2年ぶり4度目のリーグ優勝達成[12]。長池徳二が31試合連続安打を記録[注 11]するなどMVPとなり、山田久志が最優秀防御率を獲得。新旧戦力がかみ合った年になった。しかし、日本シリーズは巨人と4度目の対戦で、第3戦で9回2死から山田が王貞治に逆転サヨナラ3ランを打たれて敗れるなど、1勝4敗で敗退。オフには東映の大橋穣、種茂雅之らを阪本敏三、岡村浩二、佐々木誠吾との交換トレードで獲得。, 移籍の大橋穣と種茂雅之が揃ってダイヤモンドグラブを獲得するなど、守備が強化され、福本豊がシーズン盗塁数のメジャーリーグ記録(当時)を上回る106盗塁[注 12]を挙げるなど、最終的には2位に14ゲーム差をつける強さで、9月26日に南海に勝利して2年連続5度目のリーグ優勝達成[12]。しかし、5度目の巨人との日本シリーズでは、2年連続1勝4敗で敗退。V9時代の巨人とはこれが最後の戦いとなったが、すべての年で3勝以上挙げられずに敗退しており、V9時代の日本シリーズで最も多く巨人に負けた球団となった。, この年よりパ・リーグは前・後期の2期制によるプレーオフ制度を導入。前期は3位に終わったものの、後期は前期優勝の南海に12勝0敗1分として、他球団を圧倒して10月5日に優勝する[18]。阪急有利とみられた南海とのプレーオフは第5戦までもつれ、0対0で迎えた9回表に2点を取られて、3勝2敗で南海の「死んだ振り」[19]に敗退し、西本幸雄は監督を辞任[注 13]、西本の後任にはヘッドコーチの上田利治が就任[20]。この年のドラフト会議で作新学院高等部江川卓を1位指名したが入団拒否。, 前期は最終的にロッテとの優勝争いとなり、5月まで不調だった阪急は対南海3連戦に3連勝したことで調子をあげて6月20日に前期優勝決定。後期はロッテ、南海との優勝争いとなるが3位となり、通年では2位に終わる。ロッテとのプレーオフでは3連敗で敗退。, 前期は関西大学から松下電器を経て入団した新人の山口高志が7勝を挙げるなどあり、優勝。後期は6位だったものの、近鉄とのプレーオフでは山口の2完投もあり3勝1敗で3年ぶり6度目のリーグ優勝達成。投手陣はチーム最多勝が山口と山田久志の12勝だったが、この年の2桁勝利投手は山口、山田らを含めて5人となった。打線では新外国人のボビー・マルカーノ、バーニー・ウイリアムスの活躍があった。広島東洋カープとの日本シリーズでは4勝0敗2分で6度目の日本シリーズで初めて日本一を達成。, 山田久志が最多勝を獲得し、この年より日本プロ野球史上初の3年連続MVPを獲得。福本豊が盗塁王、加藤秀司が打点王になるなど「花の44年組」がいずれもタイトルを獲得し、「阪急史上最強の年」とまで言われ、前後期とも優勝で2年連続7度目のリーグ優勝達成。4年ぶりに巨人との6度目の日本シリーズとなったが、阪急が3連勝のあと、巨人に3連勝されて迎えた第7戦は足立光宏が完投し、4勝3敗で日本一達成となり、前後期優勝の状態で日本一となったため、球団初の完全制覇を達成した。, 前期は南海、近鉄との在阪3球団による優勝争いとなり、6月3日からの対南海戦を3勝1敗とし、64試合目に優勝決定している。後期は先行するロッテ、それを追う阪急との優勝争いとなり、近鉄との最終3連戦で3連勝すれば逆転の可能性も残っていたが、近鉄に敗れたことで1分2厘の差で2位に終わる。ロッテとのプレーオフでは3勝2敗として、3年連続8度目のリーグ優勝。2年連続巨人との日本シリーズは山田久志の投打にわたる活躍で4勝1敗で3年連続日本一を達成。投手陣では新人の佐藤義則が7勝を挙げて新人王を獲得。打線では代打本塁打の記録をもつ高井保弘が、2年前より導入された指名打者制のおかげでレギュラーに定着し、この年は4番にも入っている。, 前後期ともに優勝し4年連続9度目のリーグ優勝。投手陣ではこれまで6勝の今井雄太郎が完全試合を達成するなど、2年目の佐藤義則と共に13勝を挙げ、打線では簑田浩二がレギュラーに定着、この年より8年連続ダイヤモンドグラブを獲得する活躍を見せる。ヤクルトスワローズとの日本シリーズでは3勝3敗とした第7戦、ヤクルトの大杉勝男のレフトポール際への本塁打の判定を巡って監督の上田が1時間19分の猛抗議をするも判定は覆らず。先発していた足立光宏が試合再開後に降板し、ヤクルトの松岡弘に完封されて3勝4敗でシリーズ敗退。上田は抗議の責任を取る形で、翌日監督を辞任。梶本隆夫が監督に就任する。, 前期は近鉄とは1ゲーム差の2位に終わる。後期は優勝で、近鉄とのプレーオフに3連敗で敗退し、5年ぶりにリーグ優勝を逃す。加藤英司が首位打者と打点王の二冠王。, 山田久志、山口高志の故障もあり、前期4位、後期は5位で10年ぶりのBクラスとなる5位に終わり、梶本は監督を辞任し、投手コーチに降格。後任には上田利治が3年ぶりに監督に復帰。, 前期は2位で、この年山田が16勝するなど復調したが、後期は主軸打者が不振で5位となり、通年でも4位に終わった。, 広島の水谷実雄が加藤英司とのトレードで入り、水谷は4番で36本塁打、114打点で打点王になり、トリプルスリーを達成した簑田浩二や、ブーマー・ウェルズらと強力なクリーンアップを形成するものの、チームは首位の西武と17ゲーム差の2位に終わる。, 開幕から3連勝し、5月から6月にかけて13連勝で独走態勢に入り、9月23日の対近鉄戦(藤井寺)で6年ぶりにリーグ優勝達成[注 14]。ブーマー・ウェルズが外国人選手初の三冠王を獲得も、広島との日本シリーズではブーマーが徹底的にマークされ、3勝4敗で敗退。この年が阪急最後の優勝となった。, 勝ち越すものの首位の西武と15.5ゲーム差、3位の近鉄とゲーム差無しの1厘差で4位に終わる。, 6月4日に近鉄と首位が入れ替わると、そのまま後退し、3位に終わる。佐藤義則の故障などで先発陣が不足するなど、監督の上田は「選手層が薄いと実感した」とコメントした1年となった。, 首位の西武と9ゲーム差の2位となるが、かつての先発3本柱の山田久志が7勝、佐藤義則が7勝、今井雄太郎が4勝に終わる。, 開幕10試合で1勝9敗で、シーズン通して3位以上とならないまま、監督の上田として初の負け越しで4位となる。阪急電鉄の創立記念日で尚且つ10.19で知られる試合が行われた10月19日、球団がオリエント・リースに買収されることが発表され、この年が阪急ブレーブス最終年となった。オフには、山田久志と福本豊が現役引退。また、この年同じくダイエーへ球団買収となった南海の門田博光が、ダイエー球団の本拠地の福岡へ行くことを拒み、オリックスに移籍。, 1988年11月4日、正式に阪急電鉄からオリエント・リース(翌1989年にオリックスに社名変更)に球団が譲渡。球団名はオリックス・ブレーブス(ORIX Braves)、会社名は「オリックス・ブレーブス株式会社」にそれぞれ変更された(1990年9月には、現在のオリックス野球クラブ株式会社へ社名変更)。球団事務所はそれまでの大阪府大阪市北区角田町から、同市同区曾根崎新地に移された。球団オーナーは小林公平から宮内義彦オリックス社長に交代し、球団社長(兼球団代表)に近藤靖夫が就任した。同時に、球団幹部の一般公募を実施し、その結果として井箟重慶が1989年には球団常務に就任。井箟は翌1990年から2000年まで球団代表を務めた。球団譲渡とともに、ユニフォームは黒と赤を基調としたデザインから、オリックスブルー(紺色)とブレーブスゴールデンイエロー(黄金)を基調にしたデザインへ変更される。当初は、「ブレーブス」の愛称と阪急西宮球場の使用が継続されたが、1988年に完成したグリーンスタジアム神戸を準本拠地とすることも併せて発表された。グリーンスタジアム神戸は阪急時代だった1988年5月の対南海戦でも使われたが、1989年には主催試合が14試合と増加し、1990年も13試合組まれた。監督は上田が続投。, 球団譲渡後の初年度となったシーズンは開幕8連勝でスタートダッシュに成功。南海から移籍した門田博光を加えたブルーサンダー打線がチームを引っ張ったが、9月25日のダイエー戦で門田がブーマーとハイタッチした際に脱臼し戦線を離脱、投手陣の駒不足も深刻でエース佐藤義則とルーキーの酒井勉が全てのポジションを担っていたがシーズンが進むにつれスタミナ切れで失速したことが響き、優勝した近鉄にゲーム差なし、勝率1厘差の2位となった。酒井は西武渡辺智男との新人王争いを制し新人王に選ばれた。, ブーマー・福良淳一の怪我や不調、また課題だった投手陣の整備ができず西武の独走を許す形になり2年連続の2位に終わる。上田監督が辞任。門田が退団した。, 1991年より、40年以上も本拠地としていた西宮球場からグリーンスタジアム神戸に本拠地を移した。当時、オリックス球団はコンサルタント会社を使って西宮球場周辺の市場リサーチをしたが、西宮球場は競輪場と兼用していたため、公営競技である競輪が行われる場所は「男がビール片手に集まる場所」とのイメージがあったため、西宮周辺は女子大学が多いにもかかわらず、野球観戦をする女子大生らが足を運びにくいとの調査結果が出たのが本拠地移転の動機だった。移転の候補地としては、札幌市や千葉市、大宮市も検討されたが、結局はグリーンスタジアム神戸に決まった。その理由は、すでに同球場が準本拠地のような位置づけだっただけでなく、神戸市から熱心な誘致活動を受けたことや、同球場に大型スクリーンの設備投資を約束してくれたこと、入場者数によって球場使用料が変わったり球場内の売店の売り上げや、広告収入を球団と神戸市が折半するなど、当時としてはこれまでの慣例にとらわれない使用契約を結んでくれたことなどが要因である[25]。また、本拠地移転と同時に、チーム名を長年使用したブレーブスからブルーウェーブ(BlueWave)に変更、オリックス・ブルーウェーブとなる。監督も長年チームを率いた上田から土井正三に代わり、脱阪急色が進んでいった。, 開幕5連敗でスタートダッシュに失敗。以降も4月24日から6連敗、5月6日から8連敗を喫し、5月終了時点で14勝27敗で最下位に沈むなど低迷したが、投手では新人の長谷川滋利、野手では7年目の高橋智の活躍もあり6月以降は復調。しかし自慢のブルーサンダー打線は上手く機能せず、投手陣も若手ベテラン問わず不調や怪我があり3位に終わる。この年のドラフトでは1位で田口壮を、そして4位で鈴木一朗(イチロー)を獲得した。ブーマーが退団。, 開幕権はこの年から新しく本拠地を千葉マリンスタジアムに移転した千葉ロッテが本拠地の開幕戦を熱望したため、交渉の結果オリックス側が譲渡した。前年リーグ三位の打率ながら本塁打と打点はリーグ4位と中途半端な打撃成績の一方リーグ5位の失策数もあり、脱ブルーサンダー打線を目指し守り重視の野球を目指したが、前年に続き4月8日から5連敗、5月9日から8連敗と序盤から低迷。脱ブルーサンダー打線も打率こそリーグ2位になったが本塁打数はリーグ最下位と苦しみ野手陣の怪我や不調を投手陣がカバーするのがやっとで年間成績は首位西武と18.0ゲーム差でまたしても3位に終わる。松永浩美との交換トレードで、阪神から野田浩司を獲得。, 阪神から移籍の野田が最多勝に輝く活躍を見せたが、阪急世代のベテランらが目立った活躍ができず、3年連続の3位に終わり、土井は監督を退任した。後任には仰木彬が就任した。, 仰木の下でレギュラーとして起用されたイチロー(この年に登録名を変更)は初の規定打席到達にして日本新記録の年間210安打を樹立し、当時のパ・リーグ新記録となる打率.385を記録。その功績に対してオフには正力松太郎賞が贈られた。また、それまで内野手だった田口を外野手に転向。左翼田口・中堅本西厚博・右翼イチローは当時12球団最強の外野陣と言われるほどの守備力の高い布陣となった。開幕から主力投手陣の不調や大砲不在と苦しいスタートだったがこの年から導入された予告先発を上手く利用し多種の先発オーダーを展開、前半は佐藤義則、山沖之彦の両ベテランが支え後半は主力投手陣が本来の力を取り戻し優勝争いにも加わったが最多本塁打がイチローと藤井の13本が最高と大砲不在が最後まで響き最終順位は2位に終わった。イチローフィーバーに後押しされたチームは、観客動員も球団記録を大幅に更新した。, 1月17日に発生した阪神・淡路大震災では、当時の本拠地・神戸市が甚大な被害を受けた一方で、神戸市西区内の強い地盤の上に建つ「青濤館」(球団所有の選手寮兼室内練習場)では被害が軽微にとどまった。そのため、震災の直後には、館内に備蓄していた水や食糧を近隣の被災者へ無料で配布した[26]。球団関係者は全員無事だったものの、春季キャンプ以降のスケジュールの大幅な変更を余儀なくされたほか、一時は神戸での試合開催が危ぶまれた。しかし、地元・神戸市出身の宮内オーナーが、「こんなとき神戸を逃げ出して何が市民球団だ。一人も来なくてもいいから、スケジュール通り絶対、神戸でやれ」という表現で神戸での開催を主張。結局、当初の予定に沿って神戸で公式戦を開催することが決まったため、チームは「がんばろうKOBE」を合言葉にシーズンへ臨んだ。被災した神戸市民を励まそうと一丸となったチームは、6月には月間20勝を超える躍進を見せ、ペナントレースは独走状態となり、7月末に早くもマジックが点灯した。前年までの覇者西武には直接対決15連勝を記録し、6年ぶりに勝ち越し、対戦成績では21勝5敗と大きく勝ち越した。また、4月19日の対ロッテ戦(千葉マリンスタジアム)で野田浩司が1試合奪三振19の日本新記録を達成すると、佐藤義則が8月26日の対近鉄戦(藤井寺球場)で、当時の史上最年長でのノーヒットノーランを記録。また2年目の平井正史が抑えの切り札として当時の日本記録となる42セーブポイント(15勝、27セーブ)を挙げた。「マジック1」とした後の地元神戸での4連戦(近鉄戦1試合、ロッテ戦3試合)に全敗し念願の地元胴上げはならなかったものの、西武球場で行われた9月19日の対西武戦に勝利し、1984年以来11年ぶりにして球団譲渡後初のリーグ制覇を達成した。日本シリーズではヤクルトスワローズに1勝4敗で敗れたが、被災地とともに戦うチームの姿は大きな感動を呼び、ファンは熱烈な応援でチームを支えた。この年の「神戸」と「ブルーウェーブ」の関係は、ホームタウンとプロスポーツチームの理想的な関係として各方面で取り上げられた。, 日本ハムに先行を許し、5ゲーム差の2位で前半戦を終えたが、後半戦に入ると日本ハムとの直接対決で(引き分けを挟んで)5連勝を記録し、8月末に首位に立つ。9月23日の日本ハムとの直接対決(グリーンスタジアム神戸)ではイチローのサヨナラ安打で勝利を収め、リーグ2連覇と2年越しの「神戸での胴上げ」を実現した。8月17日から優勝決定までは21勝4敗2分という驚異的な勢いであった。日本シリーズでも巨人を4勝1敗で下し、地元神戸で1977年以来19年ぶりにして球団譲渡後初の日本一に輝いた[注 15]。なお、オリックスの日本シリーズ出場はこの年が最後となっており、2019年現在消滅した近鉄を含めた13球団の中では唯一、21世紀に開催された日本シリーズに出場経験が無い。この年は観客動員数も大幅に伸び、過去最高の179万4000人を記録している。91年新人王の長谷川滋利がMLBアナハイム・エンゼルスに移籍。, 4月・5月はほぼ勝率5割であったが、6月になると月間16勝3敗1分という快進撃を見せ首位に浮上。8月上旬の時点で2位西武に4.5ゲーム差をつけ、リーグ3連覇を視界に捉えたが、そこから投手陣が崩壊。さらに若返りを焦ったあまり2連覇に貢献したベテランを相次いで放出してしまった結果、勝負所で若い選手のミスが敗戦に繋がり、西武とのマッチレースに敗れ2位に終わる。尚、23年ぶりに全球団に勝ち越しながら優勝を逸するという珍記録も残している。, 開幕6連敗を喫するなど波に乗れないまま、借金14の最下位で前半戦を折り返す。後半戦に入ると復調しリーグトップの勝率を記録、最大15あった借金を完済し、勝率5割の3位に終わった。しかし優勝戦線には一度も絡めず、激戦のパ・リーグの中で唯一首位に立てなかった。この年のドラフト会議で、沖縄水産高校の新垣渚を指名し、交渉権を獲得したが、入団交渉は難航し、球団編成部長の三輪田勝利が自殺するという事態となった。新垣は入団せず九州共立大学に進学し、後にダイエーに入団している(詳細は三輪田勝利#1998年のドラフト、突然の死参照)。, 8月半ばの時点で首位ダイエーと4ゲーム差の3位につけていたが、そこからダイエーと2位の西武に合わせて6連敗を喫し、優勝戦線から脱落。最終的には打率リーグ1位、防御率2位となったものの、若手の伸び悩みが目立って3位に終わった。この頃から1995年と1996年のリーグ連覇を担った選手たちが、引退・トレード・FA等で次々とチームを去っており、弱体化の傾向が目立つようになる。そしてそれ以降優勝争いができないシーズンが続くことになる(観客動員数も年々減少)。, ファームの収益性改善・独立採算を目指し、ファームのチーム名をサーパス神戸( - こうべ、SURPASS KOBE。後にチーム名は「サーパス」に変更)に改称した。「ファームとは本来選手がいてはいけないところ」という理念のもとにファームの改革に着手する。首位と0.5ゲーム差の3位で前半戦を折り返したが、8月に4位に転落すると、イチローの戦線離脱が追い討ちとなってAクラス争いからも脱落。結局4位に終わり、オリックスへの球団譲渡後としては初、球団としては阪急時代最後のシーズンである1988年以来12年ぶりにBクラスに転落した。また、シーズンオフにはイチローがポスティング制度を利用して大リーグのシアトル・マリナーズに移籍した。この年オフから3年間、ドラフト下位指名選手は「契約金ゼロ」での入団(活躍後の後払い)を実行するなど、若手にハングリー精神を植え付けようとする試みを始めたものの効果は出ず、チームの弱体化に歯止めはかからないままだった。, ハンファ・イーグルス(韓国)から獲得した具臺晟や新人の大久保勝信を加えて臨んだ。イチローの守っていた右翼では若手の葛城育郎がレギュラーを確保し、大久保も新人王を獲得するなど若手の台頭こそあったものの、それまでの監督生活13年間でBクラスは前年の1回だけという名将仰木を以てしても戦力不足は補えず4位に終わった(しかしシーズン勝ち越しはしている)。このシーズンをもって仰木は監督を退き、後任には石毛宏典が就任。この年に左翼のレギュラーで、チームの精神的支柱の田口壮がFA宣言を行い、大リーグのセントルイス・カージナルスに移籍した。9月26日の対近鉄戦(大阪ドーム)では、大久保が北川博敏に代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打を喫した。, この年はチーム打率.235と極端な貧打に悩まされた。この貧打により、主戦投手の金田政彦が防御率2.50で最優秀防御率のタイトルを獲得するも4勝9敗、具臺晟もリーグ2位の防御率2.52を記録しながら5勝7敗と投手陣を見殺しにする試合が多く、阪急時代の1963年以来39年ぶりとなる球団史上2回目の最下位に転落してしまった。特に接戦に弱く、1点差だと15勝23敗、2点差だと8勝21敗であった。5月14・15日にはダイエーの主催ゲームとして台湾・台北市立天母棒球場で2連戦を開催、球団としては阪急時代の1962年に当時の米国統治下にあった沖縄での対大毎戦以来40年ぶりの日本国外での試合となった。また藤井康雄がこの年をもって引退した。, 前年の極度の貧打を受けてシーズンオフにはメジャーリーグで将来を嘱望されたルーズベルト・ブラウン、ホセ・オーティズや、中日で本塁打王を獲得した実績のある山﨑武司など長距離砲を積極的に補強したが、大砲に偏った構成が響いて開幕から打線のつながりを欠いて低迷。当初不振に喘いでいた外国人選手の起用を巡っての球団との対立もあって4月23日に石毛は解任された。, 後任監督には打撃コーチを務めていたレオン・リーが就任し、オーティズを二塁手で起用するなどの極端な攻撃重視のオーダーを組んだ。これにより打率、本塁打の向上は見られたが得点力には必ずしも結びつかず。逆に投手陣に故障や不振が続出したところに、ブラウンやオーティズなど守備力に難がある選手が多かったことが重なり、ディフェンス面が壊滅。とくに、7月26日から8月1日までの1週間で91失点し、その後も大量失点する試合が目立った。結局、シーズンを通しての失点は927(818自責点)にものぼり、シーズン通してのチーム防御率も5.95という日本プロ野球史上ワーストの成績に終わる。特に対ダイエー戦では20失点以上を6月から9月にかけて毎月に計4度記録するなど[注 16]。48勝88敗4分、最終的な借金が40と大惨敗であった。球団史上初の連続最下位となり、レオンが引責辞任。後任にはこの年まで西武の監督だった伊原春樹が就任。このオフ、ダイエーからFAで村松有人を、阪神からムーアを獲得している。, 後述する近鉄との球団合併問題が発生し、ブルーウェーブとしての最後の年となった。この年もチーム防御率5.66と投手陣が崩壊し、3年連続最下位に終わっている。特にダイエーには4勝23敗、うち後半戦は10戦全敗と大敗した。これはこのカードの最多敗戦記録であり、プロ野球全体でも同一カード最多敗戦タイ記録である[注 17]。後半戦で全敗したことについて、当時監督だった伊原春樹は「後半戦はダイエー戦の前にいつも西武戦が組まれていて、ダイエー戦ではまともな投手がいなかった」と述べている。また、山﨑武司、川越英隆といった一部主力選手と伊原との確執も囁かれていた。9月27日のYahoo! 交流戦は5勝13敗で最下位に終わった。7月17日、八木亮祐との交換トレードで近藤一樹が東京ヤクルトスワローズに移籍、このトレードによって大阪近鉄への在籍経験がある現役選手がオリックスから姿を消した[67]。, 後半戦に至っても低迷から抜け出すことはできず、本拠地最終戦となった9月29日の楽天戦に敗戦し、4年ぶりの最下位が確定した[68]。同一シーズンでオープン戦・交流戦・公式戦・2軍のすべてが最下位となるのは史上初で[69]、さらに公式戦では全球団に負け越し、交流戦でもヤクルトを除く全球団に負け越す結果となった[70]。しかしながら、シーズンのチーム捕逸数が「0」という日本プロ野球史上初の記録を達成した[71]。また、チーム打率・得点・安打・チーム防御率リーグ最下位、本塁打・失点は5位に低迷した[72]。この年のセ・リーグでは広島東洋カープが25年ぶりの優勝を果たしたため、オリックスは12球団の中で最も優勝から遠ざっているチームとなった。この年のセ・リーグのクライマックスシリーズでは最後の初出場球団の横浜DeNAベイスターズが初出場でファイナルステージには初進出をした為、オリックスは12球団で唯一のファイナルステージ未進出の球団となった。オフには糸井嘉男がFA権を行使して阪神に移籍した。, この年より、二軍の本拠地が舞洲サブ球場へと移転。練習場と合宿所も含めて神戸から大阪へ移る形となった(詳細は後述)。首位楽天と2ゲーム差の2位で4月を終えるが、5月は4連敗、6連敗、そして2003年以来の球団ワーストタイ記録の9連敗、9カード連続負け越しを喫し[73]、5月下旬の交流戦前に一時順位は5位まで下がった。5月22日、奥浪鏡が運転免許停止中に自家用車を運転して交通事故を起こし、8月3日に退団[74]。5月28日のロッテ戦で山岡が初勝利して交流戦に入り、6月4日の巨人戦まで7連勝し、交流戦を単独首位でスタートするが、6月11日の中日戦から17日のDeNA戦まで6連敗を喫する。19日のDeNA戦で逆転勝ちし、交流戦再編後初の勝ち越し、交流戦で6位に入った。なお、広島には3年連続で3連敗した[75]。長打不足解消のため、5月30日にクリス・マレーロの入団を発表した。, 交流戦初戦から単独4位に浮上するがその後は順位の変動がなく、3位楽天と15ゲーム差の4位でシーズンを終えた。この年のセ・リーグではDeNAがクライマックスシリーズで優勝し1998年以来の日本シリーズに進出したため、オリックスは12球団唯一のCS優勝未経験チームとなり、かつ21世紀に入ってから近鉄を含む13球団で唯一の日本シリーズ未出場チームとなった。オフに日本ハムの増井浩俊をFAで獲得。平野佳寿がFAでアリゾナ・ダイヤモンドバックスに移籍した。, シーズン開幕からロメロ、T-岡田ら中軸は打撃不振に陥ったものの、田嶋大樹、アンドリュー・アルバース、増井ら新入団の投手の奮闘で、一時はAクラスに立った。しかしながらオールスター明けには8連敗を喫し[76]、最終的には4位に終わり4年連続のBクラスとなり[77]、12球団で唯一2007年から2018年までの平成のクライマックスシリーズを1度も優勝しなかった。入団3年目の吉田正尚がシーズン中盤から4番打者に定着。シーズン終了後に福良監督が辞任し、西村徳文ヘッドコーチが昇格することが発表された[78]。小谷野栄一が現役引退。オフには自由契約となっていた中島宏之が巨人に[79]、同じく自由契約となっていた金子千尋が日本ハムにそれぞれ移籍[80]、西勇輝が阪神へFA移籍した[81]。, この年から、英字略称および帽子やヘルメットのロゴマークが「Bs」から「B」に改められ、開幕前の3月21日にMLB・マリナーズのイチローが現役引退を表明した。これにより、オリックス・ブルーウェーブに所属経験のある選手が全員引退することとなった。この年は最下位でシーズンを終了し、2010年代では全12球団で唯一リーグ優勝かクライマックスシリーズのどちらかを優勝せずに2010年代を終えた。山岡泰輔が最高勝率、山本由伸が最優秀防御率を受賞。また、今シーズンを持って岸田護が現役引退。一方、セ・リーグのクライマックスシリーズでは阪神タイガースがファイナルステージを初めて敗退をした為、オリックスは12球団で唯一ファイナルステージ未進出ながらファイナルステージを敗退していない球団となった。, 6月23日から始まったZOZOマリンスタジアムでのロッテとの6連戦では、最終日の同月28日まで勝利を飾ることができず、日本プロ野球史上初となる同一球場同一カード6連敗を喫したが、同日先発した昨年最高勝率の山岡泰輔がこの試合で緊急降板し戦線離脱した。, 一時は5位に何とか持ち直すも、その後 福岡ソフトバンクホークスに連敗し再び最下位に転落。, 8月20日の試合後に行われた会見で、成績不振を理由に西村監督の辞任が発表され、事実上の解任となった。 Supported by CRTM. BBスタジアム→スカイマークスタジアム, 合併当初は大阪と神戸にある両球場での一軍公式戦は半分ずつの開催であったが、徐々に大阪の比重が重くなり、現在ほっともっとフィールド神戸で行われる一軍公式戦の試合数は、京セラドーム大阪の僅か1/3以下となっている。詳細は, それまでも達成例はあったが、日本ではサイクル安打が知られておらず、スペンサーが日本球界に広めたとされる。, 日本一の瞬間、守備で外野手3人以外全員他球団から移籍した選手という珍しい場面があった(投手・, 6月17日に21対11、7月27日に26対7、8月1日に29対1、9月24日に20対11。, 実質的に愛称の変更であり、会社法人としては合併しておらず、社名は「オリックス野球クラブ株式会社」のまま。近鉄の運営会社「株式会社大阪バファローズ」は翌年3月いっぱいで解散。ただし、2007年まで近鉄側もオリックス野球クラブに出資した。, この日オリックスが勝つか引き分け、もしくは西武が負けるか引き分けるかでオリックス3位確定という状況だった。, 阪神もオリックスと同じく2005年からの3年間に限り「ダブルフランチャイズ制」が認められていた。(, 2019年終了時点で、リーグ優勝を達成した監督に選手として当チームでプレーした人物はいない。これは、太平洋戦争前から存続する5球団(他に巨人・阪神・中日・ソフトバンク)では唯一である。, 近鉄のマスコット「バフィリード」については商標権をオリックス本社が譲受し、2013年に復刻イベントで「バフィリード」が登場した。, 当時との差異点は左肩のオリックスの社章がスポンサー・イーモバイルのマークになっている点のみ。, この3連戦の2日目の13日早朝に淡路島で地震が発生したが試合は予定通り行われている。, なお復刻ユニフォームには、当時とは違い、スポンサー広告が張り付けられている。大阪近鉄バファローズの1999年 - 2004年当時の復刻版ホームユニフォーム分では2003-2004年当時の袖スポンサー「, 年間指定席などはダイエー主催試合でないと使用できないため、その分が少なかった模様。, オリックスの前身であるオリエント・リース自体は大阪発祥の企業であり、2014年現在まで、関東を発祥とする企業が近畿圏本拠の球団を保有した例はない。大洋ホエールズ(現:, 以前は「仰木維新」(2005年)→「仰木魂・伝承」(2006年)→「新たなる鼓動」(2007年)→「大阪激弾! Copyright © ORIX Buffaloes All Rights Reserved. ⇒月別のニュースまとめはこちらをクリックしてください。, 昨シーズンから始まったばかりの担当制が、2年目にいきなり欠員でできなかったというのはお粗末かと思うんですが…。渡辺氏の経験はスコアラーとしても活きそうですね。あとはデータを活かした作戦や采配ができるかですが…, やっぱり、フロント側が足を引っ張っているように見えるんですよね…。 ⇒12月(契約更改など)の関連ニュースまとめはこちらをクリックしてください。, <オリックスバファローズ・月別ニュースまとめ> 本来、あてにしたいところをあてにできない状況にしている、ってことですしね…。, ↓ブログランキングに参加しております。当ブログを今後も読みたい、と思っていただけましたらお好きな方をクリックお願いいたします。, 当ブログでは、広告配信にGoogle AdSenseを利用しています。 Google AdSenseでは、Googleなどの第三者配信事業者が、適切な広告を配信する目的でCookieやウェブビーコンを使用することがあります。 このCookieには、当ブログや他サイトへのアクセスに関する情報(氏名・住所・メールアドレス・電話番号などは除きます)が含まれています。 ユーザーは、必要に応じて設定によりパーソナライズ広告を無効にすることができます。, 【最新情報あり】オリックスバファローズ2020年ドラフト会議・選択希望選手のニュース一覧, 【フェニックス】2020/11/9(月) オリックスバファローズ VS 東京ヤクルトスワローズ, 【フェニックス】2020/11/8(日) 千葉ロッテマリーンズ VS オリックスバファローズ, オリックス ヒギンス&モヤは来季残留が濃厚 コロナ禍で外国人調査難航、新外国人獲得のリスク懸念 <バファローズ最新ニュース>. オリックス・バファローズ(英語: ORIX Buffaloes )は、日本のプロ野球球団。 パシフィック・リーグに所属している。. バファローブル&ベルが「Twitter」・「Instagram」の公式アカウントを開設!! ⇒オリックス・スコアラーに元ロッテ渡辺正人氏, まだまだ若いですが、首脳陣という立場の経験は豊富で、そこは強みなんじゃないですかね。, ちなみに、渡辺氏は通算成績が物語っている通り「守備の人」ではありますが、私はこのシーンがやはり印象深いので、貼っておきますね…。まさに神スライディングだと思います。, <2017年・オリックスバファローズ12月(契約更改など)の関連ニュースまとめ> ☆査定・スコアラーG副部長:宮田典計 ☆広報部長:森川秀樹 ☆広報部課長:吉田直喜 ☆広報部 熊谷泰充、香川真弓 ※Gはグループ ☆チーフスコアラー 島袋修 ☆スコアラー 依田栄二、川畑泰博 前田大輔、仁藤拓馬 義和弘 打撃投手 「大阪エヴェッサ冬の陣」に太田椋選手、バファローブル、BsGirlsが参加します!, 今シーズン最後!11月3日(火・祝)BsGirlsオンラインステージ ~#野球で笑顔に~@BsTV生配信!, オリックス・バファローズ × エイベックス BsGirls AUDITION 2021, 【オンライン限定】BsGミュージックカード~メンバー直筆サイン入りでお届けします!~, 【10/4メニュー追加!】Bsオリ姫デー、飲食メニュー登場!対象メニュー全てにオリメンボイスメッセージ付きオリジナル写真が付きます!, 10/1(木) 「誇り高き闘将~西本幸雄メモリアルゲーム~」限定 阪急復刻版ヘルメットメニュー登場!, ジョーンズ選手日米通算2000本安打達成記念! 9/18(金)より対象飲食メニュー購入でオリジナルステッカーをプレゼント!, 10月24日開催試合対象 ホームランボールプレゼント Supported by ワキ製薬, 10月23日開催試合対象 ホームランボールプレゼント Supported by ワキ製薬, 10月24日(土)は先着でオリジナルウェットティッシュをプレゼント!「パーソルDAY」開催!, 株式会社ハングとのeBASEBALL プロリーグ ユニフォームスポンサー契約締結のお知らせ, 【B9 STARS】公式Twitterをフォロー&リツイートしてサイングッズをゲットしよう!オリメンカードも登場!!, 【B9 STARS】ついにバファローズ☆ポンタが登場!本拠地でのチェックインも再開!!, 12/5 Bs Fan-Festa Online2020 オリックス・バファローズの公式オンラインショップ。選手グッズ、応援グッズ、オーセンティックユニフォームや限定商品などのアイテムを販売しております。 12月5日(土)「Bs Fan-Festa Online2020 Supported by CRTM」開催決定!, 【オリックス×カンテレ】あのシーンをもう一度!BsTV on YouTubeにて『プレイバックORIX』絶賛配信中!, 11月6日開催試合対象 ホームランボールプレゼント Supported by ワキ製薬, 【前売購入者限定】10月3日(土)・4日(日)楽天イーグルス戦で「Bsオリ姫デー2020 supported by FWD富士生命 ユニフォーム付きチケット」を販売!(10/2更新), 【緊急企画!】10/14(水)福岡ソフトバンク戦・10/28(水)北海道日本ハム戦が達成記念カード付きチケットに!!, 【前売購入者限定】9/25~27北海道日本ハム戦で吉田正尚選手フェイスガードキャップ付チケットを販売!(9/23更新), 観戦証明書デザイン発表!「Bsオリ姫デー2020 supported by FWD富士生命 おうちで応援チケット」, 11月5日開催試合対象 ホームランボールプレゼント Supported by ワキ製薬, 「ホームランボールプレゼント Supported by ワキ製薬」9月のフォトメッセージ, 11月3日開催試合対象 ホームランボールプレゼント Supported by ワキ製薬, 10月27日開催試合対象 ホームランボールプレゼント Supported by ワキ製薬, 【更新】オリ目線BsTVドラフト会議supported by リポビタンD@YouTube LIVE開催, 【応援感謝企画!】11月6日(金)本拠地最終戦来場者の中から抽選で選手直筆サイン色紙プレゼント!, 内野・外野指定席引換券のお申込み期限について【ゴールド会員(Aコース)・レギュラー会員のカード会員証選択された方対象】, 【アプリ会員限定!】11月3日(火・祝)“吉田正選手メッセージ入り キットカット”プレゼント!, 【ただ今から!オンライン限定受注スタート】「Buffaloes宮城大弥投手初勝利Tシャツ(デサント社製)」発売!, 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24]。ただし、野球協約における正式な本拠地球場である専用球場については規定通り1つとされ、大阪ドームが登録された。この年は大阪で34試合、神戸で32試合(他東京ドーム遠征2試合)が開催されている。球団は最終的には神戸での試合数を削減した上で大阪ドームに本拠地を一本化する方針であった(大阪ドームでの主催公式戦、当初案は2006年:42試合→2007年:54試合→2008年:60試合)。, ところが2005年10月、大阪ドームを運営する第三セクター「大阪シティドーム」が会社更生法を申請し、その後のドームの運営体制が不確定な事態となった影響から、オリックスは同年、専用球場の登録をスカイマークスタジアムに変更し、主催公式戦を半数ずつ[注 25]開催する措置を執った。同年4月、オリックスが大阪ドームの買収に乗り出し、同年6月にシティドーム社を100%減資した上で施設とともにオリックス子会社のオリックス・リアルエステート(現:オリックス不動産)が買収した(詳細は大阪シティドーム参照)。これを受けてオリックスは2007年、再び大阪ドームを専用球場として登録。同年も予定を変更して主催公式戦のうち48試合が大阪で開催された。, 2008年以降はダブルフランチャイズ制が終了、専用球場の選択は保護地域の大阪府内にある京セラドーム大阪(大阪ドーム)に限られることになった。ただし神戸総合運動公園野球場(ほっともっとフィールド神戸)の準本拠地としての使用も継続とし、年間20試合程度を開催していった。2011年度からは大阪ドームでの試合数を増やし、近鉄との合併後初めて20試合をきった。これまで必ず行われ特別料金が設定されていた神戸での対巨人戦と対阪神戦もなくなった。神戸で中止になった試合が発生した場合は、あらかじめ組み込まれている予備日を除いて大阪で振り替えられるようになっている。また、2017年は神戸での試合数は従来通り15試合を確保しているものの、うち週末の開催は土曜日の2試合のみ(いずれもデーゲーム)と、週末の開催が前年より大幅に削減された(2016年は週末の開催が8試合あった)。2018年は前年比で週末の開催が増やされたがトータルでは13試合とされ、うち2試合が雨天中止・大阪ドームへの振り替えとなったため実際は11試合に留まった。2019年も当初予定として11試合、2020年は1991年の神戸移転後では初めて1桁の3試合(予定 当初は8試合だったが、新型コロナウィルス感染拡大による防疫の観点からさらに縮小)となり、減少が続いている(但し神戸での予備日の設定がある)。, 正式な本拠地球場は1つであるが、選手名鑑などでは両球場を併記している場合もある(1999年までの近鉄も本拠地と準本拠地が併記されていたことがあった)[86]。, 大阪・神戸以外のいわゆる「地方球場」開催における主催は、合併後2005・2007-09年の東京ドーム以来行われなかったが、2015年に阪急時代の準本拠地・わかさスタジアム京都で1試合を主催、以後2017年(当初から地方開催予定なし)を除き、毎年地方開催を復活させている(なお2019年と2020年はわかさスタジアムでそれぞれ2試合予定されながら、2019年は雨天により、2020年は新型コロナウィルスの感染拡大による防疫の観点からそれぞれ全て中止となり、結局地方開催自体が消滅した)。, 球団合併以後の大阪ドーム、神戸総合運動公園野球場の試合数(中止分を反映した実勢試合数)は以下の通りである。, オリックス球団は、ブレーブスとしての初年度(1989年度)から、ファームチーム(二軍)の本拠地を神戸市に設定。1991年に初代「青濤館」(選手寮)を神戸総合運動公園の近くに設ける一方で、公園内のサブ球場(グリーンスタジアム神戸サブ球場)を本拠地として使用した。サーパス神戸時代の2000年からは、「青濤館」を残したまま、本拠地を北神戸田園スポーツ公園野球場(あじさいスタジアム北神戸)に移転。その一方で、2010年からは、神戸サブ球場の使用も再開した。, しかし、オリックスでは2007年以降、大阪ドーム(京セラドーム大阪)を一軍の本拠地として本格的に使用。「青濤館」の老朽化が進んでいることもあって、2010年代の前半からは、二軍の本拠地を一軍と同じ大阪市内へ移転することを検討してきた。2015年には、舞洲ベースボールスタジアムがある舞洲(大阪市此花区)が、移転の候補地として浮上。同年12月7日には、大阪ドームを運営する球団関連会社の大阪シティドームが、大阪市所有の舞洲ベースボールスタジアムおよび近隣の未利用地(舞洲野球場北西用地)の運営委託に関する一般競争入札に応募した。その結果、2016年4月1日から50年間にわたってスタジアムおよび未利用地の運営を委託されることが決まった[87]ため、オリックス球団は舞洲への本拠地移転計画を正式に発表した。この発表では、球団社長の西名宏明が、「大阪に本拠地を置く球団として、京セラドーム大阪から近い場所(スタジアムのある舞洲スポーツアイランド内)にスポーツ施設が整っていたことが(移転決定の)大きな要因」と述べている[88]。, 上記の計画によれば、大阪シティドームと大阪市による事業用定期借地権契約の締結後に、オリックスが総工費約30億円で舞洲ベースボールスタジアムの北西に球団の練習施設(サブ球場、室内練習場、第2代「青濤館」、クラブハウス)を建設。竣工後の2017年シーズンから、初代の「青濤館」を閉鎖した[26]うえで、二軍の本拠地を同スタジアムおよびサブ球場へ移転した。球団主催分のウエスタン・リーグ公式戦については、大半の試合を舞洲サブ球場で実施しつつも、神戸市内の上記球場でも一部の試合を引き続き開催[87]。一軍の主催公式戦についても、神戸総合運動公園野球場(ほっともっとフィールド神戸)で一部試合の開催を継続する。また、舞洲に新設する練習施設では、一軍の選手が常時利用することも想定している[88][89][90][91][92]。, オリックス球団では、二軍本拠地の移転に先駆けて、2016年9月14日付で連携協力に関する包括協定を大阪市と締結[93]。以前から舞洲に練習の拠点を置いているプロスポーツチームのセレッソ大阪(Jリーグ)・大阪エヴェッサ(Bリーグ)と共同で、2017年春から「舞洲プロジェクト」(大阪市と民間企業の連携による舞洲スポーツ振興事業)に参画している[94]。その一方で、初代「青濤館」の建物と敷地については、舞洲への本拠地移転後に所有権を放棄した[95]。, 実際には、本拠地移転初年の2017年シーズンのみ、ウエスタン・リーグ主管試合の大半をナイター照明設備のない舞洲サブ球場で開催。設備のある舞洲ベースボールスタジアム(3年間の命名権契約によって同年6月15日から「大阪シティ信用金庫スタジアム」に改称)では開催を見送ったため、舞洲エリアでの主管試合は全試合デーゲームであった。2018年には、1月22日から舞洲サブ球場を「舞洲バファローズスタジアム」へ改称する一方で、大阪シティ信用金庫スタジアムでもナイトゲーム限定で主管試合の一部を開催した。2019年からは、舞洲サブ球場にも命名権を設定したため、同球場を「オセアンバファローズスタジアム舞洲」に改称。, 当球団は、50年を超える伝統を持つチームを吸収合併し、なおかつ存続側の球団自体もオーナー企業の変更や本拠地移転を経験した複雑な歴史を持つ[注 29]。, 球団は2006年に「阪急ブレーブス・近鉄バファローズ・ブルーウェーブの『3つのB』の伝統を大切にする」と宣言し、球団理念にもそれをうたっている[99]。2005年から2018年までの球団ロゴに複数形を示す「's」を加えていたのも、その理由であった[101]。, その一方、公式ウェブサイトの「ヒストリー」においてはオリックスが球団を買収した1988年(ブレーブスについては同年10月)以降の歴史のみが本文に記載されている[118]。近鉄については合併当初は創立時から記載していた(アーカイブ)。, パ・リーグでは東北楽天ゴールデンイーグルス以外の5球団がオーナー企業の交代と本拠地移転を経験しているが、このうち千葉ロッテマリーンズ公式ウェブサイト「チームヒストリー」、福岡ソフトバンクホークス公式ウェブサイト「「ホークスの歩み」」や埼玉西武ライオンズ公式ウェブサイト「伝説の西鉄ライオンズ」では、前身球団創設以来の歴史を記載している[注 30]。ただし、ホークスの場合南海時代の歴史やエピソードが積極的に取り上げられるようになったのは、ソフトバンクに親会社が交代してからで、ダイエー時代は「南海色をできるだけ消すという姿勢は、なかなか改められなかったようだ」という指摘がある[119]。ライオンズの場合も西鉄時代の歴史が記載されるようになったのは、西武による買収・移転から約30年を経た2008年からである。, 球団関係者からは2007年の時点で「それぞれの球団のファンにすると、中途半端な印象があるのかもしれません」「2つの球団が合併したとはいえ、選手の大半は近鉄側でしたから、大阪に力点を置いた事業展開を行うべきだったのかもしれません」といった、複雑な成立過程を持つ球団ゆえの悩みを認める発言がなされている[120]。, 2011年シーズンには「LEGEND of Bs 2011 蘇る黄金の70's」と題して1970年代の阪急・近鉄に光を当てたイベントが実施され、両球団の復刻ユニホームの使用や当時の選手とかつての阪急応援団長・今坂喜好による始球式がおこなわれたほか、このイベントの専用ウェブサイトでは両球団の創立以来の歴史も(1970年代を中心とする形ながら)記載された[121]。, 2012年は前記の通り「LEGEND of Bs 2012 劇的 感動の80's」と題して1980年代の阪急・近鉄をクローズアップしたイベントを実施。1980年代の両チームの歴史を記載した専用ウェブサイトも開設された[122]。, 2013年現在、これらの専用ウェブサイトへのリンクが上記「ヒストリー」のページに掲示されており、間接的な形ながら前身球団の歴史を公式ウェブサイトから知ること自体は可能になっている。京セラドーム大阪でも、「LEGEND of Bs 2011 蘇る黄金の70's」の開催を機に、前身球団(阪急・近鉄・ブルーウェーブ)の復刻ユニフォーム・キャップを3階のコンコースに常時展示している。, 2013年シーズンには、オリックス・近鉄両球団の1990年代以降合併までの歴史を振り返る「LEGEND of Bs 2013 Miracle!夢が叶ったあの時」として、大阪近鉄が2001年のリーグ優勝時に着用した最後のユニホームを復刻。パリーグ6球団共同企画「レジェンド・シリーズ2013」では、ブルーウェーブ時代のユニフォームの復刻版が披露された。また、同年は大阪に本拠を置いた南海ホークス(1988年にダイエーが買収・本拠地を福岡へ移転)の創立75周年にも当たることから、後継球団の福岡ソフトバンクホークスとの間で「OSAKA CLASSIC 2013」(4月17日 - 19日の京セラドーム3連戦)を開催。オリックスナインが1978 - 1996年の近鉄、ソフトバンクナインが1984 - 1988年の南海仕様のユニフォームを着用した[123]。2014年の「OSAKA CLASSIC 2014」(5月16日 - 18日の京セラドーム3連戦)では、オリックスナインが1966年 - 1973年前期の近鉄、ソフトバンクナインが1972年 - 1973年後期の南海仕様のユニフォームで試合に臨んでいる(なお、2015年も5月1日から3日間開催された)。, 「LEGEND of Bs」「OSAKA CLASSIC」の対象試合では、7回裏へ入る前(「OSAKA CLASSIC」の場合には7回表も含む)に前身球団の応援歌を流すなど、応援のスタイルも前身球団に沿った内容に変えている。球場内の売店では、前身球団の本拠地で人気を博した「スタジアムメニュー」や弁当の販売を復活させるほか、復刻ユニフォームのデザインや前身球団のマスコットにちなんだスペシャルグッズを発売。シリーズ終了後には、選手が試合で実際に着用したユニフォームを対象に、公式サイトでオークションを実施している。試合によっては、前身球団の著名なOBが試合前の無料トークショーや始球式に登場したり、前身球団の本拠地で「ウグイス嬢」や「スタジアムDJ」を務めた人物が試合中の選手コールやアナウンスを担当したりすることもある。シーズンの最終成績が5位であった2013年度には、このような復刻企画を繰り返したこともあって、主催72試合の平均観客動員数が前年度比8.1%増の19,979人を記録した。, 2014年3月4日からは、オリックス主催試合の開催日(試合開始予定時刻の3時間前から試合終了30分後まで)に限って無料で開放することを条件に、京セラドーム2階「スタジアムモール」の三塁内野席寄り(手形展示スペース付近)に「Bs SQUARE」という展示施設を常設[124]。前身球団で活躍した選手が実際に使用した野球用具・ユニフォームや、現役選手の手形・グラブ・ミットを展示している。また、(前身球団を含めて)球団史上重要な節目になった優勝を、写真・映像・資料(球団に贈られた記念のペナントやトロフィーなど)を通じて紹介する。, ちなみに、映像については、「『プロジェクトBs』シリーズ」(過去の「LEGEND of Bs」開催期間中に京セラドームやほっともっとフィールド神戸のビジョンで上映されたスペシャルムービー)の素材を流用。2013年までは2階の別フロアにあった「B's CLUB」(球団公式ファンクラブ)の受付や、球団主催イベントの開催にも対応したダイヤモンド状のフロアも設けられている。, かつて運営していた事業者の側だと、ブレーブスの親会社だった阪急電鉄は、阪神電鉄との経営統合で阪神タイガースとの間接的な関係が生じた後も、正雀工場での阪急レールウェイフェスティバルでブレーブス関連のヘッドマークの展示やミニチュア標識板、ブレーブス坊やのグッズなどの物品販売が行われた年度がある。また阪急西宮ガーデンズでは「阪急西宮ギャラリー」で阪急ブレーブスに関する展示が行われている他、かつて球場敷地にあった「ブレーブス子供会記念碑」や「ブレーブス後援会記念樹」も再設置されている。また、阪急電鉄創業者・小林一三の旧宅に開設された小林一三記念館でも球団関連の展示が行われている他、ブレーブスOBによるトークショーが行われたことがある。ただし、阪神電鉄及び阪神タイガースへの配慮もあり、阪急阪神東宝グループ公式ウェブサイトの「グループのあゆみ」では、旧ブレーブスについての記述はない他、オリックス球団による阪急復刻企画への直接の協賛は行わなかった[注 31]。, その一方、旧バファローズの親会社だった近畿日本鉄道では、球団に関する権利関係のほとんどをオリックス球団およびオリックスグループ関連企業に譲渡しているためか、公式ウェブサイト上でも保有・売却の事実があったことを社史「近畿日本鉄道100年のあゆみ」から引用する形で簡略的に触れる程度で、サイト上の歴代ポスターギャラリーでも旧バファローズ関連については一切掲載されないなど消極的な扱いとなった。, 結果的に、現在も阪神電鉄・阪神タイガースを通じてプロ野球との一定の関係が残っている阪急阪神東宝グループと、一切手を引いた近鉄グループの間では前身球団へのスタンスに温度差がみられる。, 阪急東宝グループ→阪急阪神東宝グループは、関係企業が保持していた「ブレーブス」の商標権を期限切れ後に更新しなかったため、失効後はMLB球団のアトランタ・ブレーブスがロゴマークなど一部の分野で登録している。, オリックス・バファローズでは、上記の本拠地以外にも、関西地方の野球場でウエスタン・リーグの主催公式戦を年々増やしている。2012年からは、藤井寺球場のあった大阪府藤井寺市の近隣に位置する富田林市の「富田林市立総合スポーツ公園野球場」(1997年に開催されたなみはや国体の軟式野球会場)で、毎年7月の第2(または第3)日曜日(2014年から土・日曜日)に同リーグの公式戦を開催。同年12月11日には、富田林市と「スタジアムニックネーム協定」を締結したことによって、同野球場に「富田林バファローズスタジアム」というニックネームが常時付くようになった[125]。この協定は、自治体(富田林市)によるスポーツ振興施策の提案にプロ野球の球団(オリックス・バファローズ)が賛同したことによる無償でのニックネーム使用契約という日本初の事例[126]で、球場名・チーム名に関する前述のネーミングライツ契約とは異なる。ちなみに、(大阪)近鉄バファローズも、1985年から2004年まで藤井寺球場に「バファローズ・スタジアム」というニックネームを冠していた。, 2015年9月23日に佐藤薬品スタジアム(奈良県橿原市)で開催されたウエスタンリーグ・対阪神戦では、「球場を満員にするプロジェクト」(前述)によるワンデイニックネームとして、スタジアム名を1日だけ「佐藤薬品バファローズスタジアム」という名称に変更した[117]。2016年からは、佐藤薬品スタジアムにとどまらず、豊中ローズ球場(大阪府豊中市)に「豊中ローズバファローズスタジアム」、花園セントラル球場(同府東大阪市)に「花園セントラルバファローズスタジアム」という名称を主管試合の開催日のみ使用。2017年からは、高槻萩谷球場(同府高槻市)で主管試合を開催する場合にも、「高槻萩谷バファローズ球場」というワンデイニックネームを冠している。さらに、2018年1月22日からは、二軍の本拠地(舞洲サブ球場)でも「舞洲バファローズスタジアム」という名称を常時使用している。, 2009年8月7日 - 9日の対千葉ロッテマリーンズ戦において初開催された。特別ユニフォームは開催日により異なる3種類のデザインが採用された。ベースは赤地であり、入場者に配られたユニフォームの背中部分には大きく「大阪夏の陣」の文字がプリントされていた。7日開催分のデザインと8日、9日の文字デザインは異なっていた。, 戦前の1939年5月6日、甲子園で行われた南海とのダブルヘッダー第2試合では、南海の宮口美吉・平野正太郎両投手に無安打に抑えられながら2-1で勝利した。4回裏に1点を先制されたものの6・7回に犠打・失策・四球をからめて1点ずつを取り逆転勝利したもの。無安打に抑えられながら得点をあげた試合は他に1939年の金鯱(8月3日の対イーグルス戦・西宮)・1959年の巨人(5月21日の対阪神戦・甲子園)・1964年の南海(5月13日の対近鉄戦・大阪)があるが、勝利したのはこの時の阪急だけである。, 1940年4月6日に西宮で開かれた南海戦で、阪急は32-2の30点差という大量得点で勝利を飾った。これは1試合の最多得点及び、最多得点差勝利の日本プロ野球記録である。, 1944年5月16日、西宮での対産業戦の7・8回に記録。その時の打撃は以下のとおり(太字は押し出し四球)。, 1950年11月5日、阪急西宮球場で開かれた、対毎日オリオンズ戦。当時阪急の監督だった浜崎真二は毎日の湯浅禎夫総監督に「(毎日の)リーグ優勝が決まった後なので、わしが投げるからあなたもどうだろう」と持ちかけて、湯浅も「よし」と快諾。両監督が先発投手になった。, この当時の年齢は浜崎が48歳10か月、湯浅が48歳1か月で2人合せて96歳11か月という最年長先発投手となった。浜崎は3回2/3(4回の2アウトまで登板)したが、21人の打者に対して8本の被安打、5失点(自責点も5点)で敗戦投手。一方の湯浅は4回を投げて勝ち投手にはなれなかったが19人に対して2本の被安打、2失点(自責点も2点)と好投した。, 1999年6月11日からはダイエーの本拠・福岡ドームでダイエーとの3連戦をオリックスの主催ゲームとして開催した。これは神戸が屋外球場なので梅雨時の試合消化が難しくなることを懸念し、ダイエー側の許諾を得て福岡ドームで主催ゲームを開催することになった。しかしベンチのスペース上、主催のオリックスは三塁側、ビジターのダイエーは一塁側と通常のダイエー主催ゲームと同じ配置だった。また、当時ダイエーの監督だった王貞治は、「(本拠地でビジターとして試合しようとも)とにかく勝てばいいんだよ」と、珍事には動じていないことを強調した。13日には試合途中で控えの内野手を使い切ってしまったため、外野手のイチローが三塁を守るというハプニングもあった。イチローが公式戦で外野以外のポジションを守ったのはNPB時代はこの時だけである[注 36]。, オリックスのホームゲームであるにもかかわらず観客の大半がダイエーを応援し、ダイエーが勝った試合終了後には花火の打ち上げとヒーローインタビューが行われるなど、ダイエーのホームゲームと変わらない球場の雰囲気だった。ただし、観客動員は3試合ともホークス主催の同球場同カードより1万人程度低く、観客動員の当ては外れた形となった[注 37]。, これより10年前、1989年にダイエーは当時親会社のヘッドオフィスがあった神戸を準本拠地として主催試合を開催することを計画していたが、兵庫県をフランチャイズとしているオリックス(当時)と阪神の許諾を得られなかった為に実現に至らなかった過去の経緯から、同年オリックス主催のダイエー戦13試合(うち2試合中止で西宮に代替)を神戸で開催した。, この前年の1998年3月29日には、オリックス主催の対中日ドラゴンズ戦を中日の本拠地であるナゴヤドームで開催した。, 2000年から2002年のドラフトで契約金を出来高制とした“契約金ゼロ”の選手を入団させ話題になった。これはドラフトの時点ではドラフトにかかるには一歩足りないと思われる選手を入団テストの上でドラフト指名して二軍で育成し、その後一軍登録日数が一定に達するなどの条件で出来高として契約金相当額を支払う、という現在の育成選手制度に近いものであった。2001年に北川智規が7試合に登板(先発3、救援4)したほか、2002年には高見澤考史が一軍に定着し、出来高を受け取っている。しかし北川はその後一軍に定着できず、高見澤は故障に泣き、どちらも2004年までに自由契約となった。, その他の選手はほとんど一軍で戦力になることはなく、中島俊哉(2005年から2014年まで楽天に所属)以外は2005年までにプロ野球を去っている。なお、この時入団した選手は前述の高見澤、北川、中島の他、高橋浩司・庄司大介(以上2000年入団)、板倉康弘・深谷亮司・藤本博史・橋本泰由(以上2001年入団)、塩屋大輔(以上2002年入団)である。開田博勝のように契約金ゼロでの指名ということを事前に伝えておらず、入団拒否に至った例もある。, 結局「契約金ゼロ枠」の選手がほとんど活躍していないこともあり、2003年秋から05年まで常務GMを務めた中村勝広が「夢や憧れだけで入団させることは本人やチームのためにならない」とし、同年から廃止された。以降、2000年代には育成選手も梶本達哉のみしか指名されておらず、怪我などで育成枠に降格する例としては宮本大輔などがいたが、育成枠自体があまり積極的に活用されることはなかった。しかし、2010年代にはフレディ・バイエスタスなどの外国人を育成枠で獲得し、2011年度のドラフト会議で稲倉大輝・柿原翔樹が育成枠指名された(バイエスタスは2012年途中に自由契約、稲倉、柿原も2013年10月1日に戦力外通告されている)。その後も2015年度に赤松幸輔を育成枠で指名し、2016年7月には3軍創設を念頭に育成選手を獲得する動きがあると報じられ[138]、10月20日のドラフト会議では5人の選手を育成枠で指名した[139]。, 2003年、対ダイエー戦で2回も大量失点試合を喫した。まず7月26日に福岡ドームで7-26・続いて8月1日にヤフーBBで1-29と大敗を喫した。後者は2リーグ分立以降の1試合の最多失点・最多失点差敗北の記録となってしまった。この年は他にも6月17日に岩手県営野球場で11-21・9月14日にヤフーBBで11-20で敗れており、同一カードでの20失点以上を4試合もしてしまったのは日本プロ野球史上ワースト記録である。, 2006年、ボールのかごを持った猿の「ゴウ(背番号555)」がやってきて、審判にボールを手渡すという、当時広島やロッテがファンサービスの一環で行っていた「ベースボール・ドッグ」に対抗した「ベースボール・モンキー」を導入した。, オリックスは1991年 - 2004年まで神戸を本拠としており、1995年の阪神・淡路大震災以後、復興のシンボルとして注目を集めた。2005年に近鉄と合併してからは大阪ドーム(現在の京セラドーム大阪)との併用となり、年間30試合程度に試合数が削減されたが、やはり神戸のチームという印象が根強く、観客動員の面でも神戸での試合が大阪よりも比較的よく入っていたというデータ[140]があった。, 近鉄との球団合併最初のシーズン、かつ震災10周年の2005年は、神戸と東京での主催試合では「がんばろうKOBE」のロゴを入れたワッペンをつけて試合に臨んだこともあった。これ以後も、阪神・淡路大震災の発生から節目の年度に当たる一部の神戸での主管試合(2010年度、2015年度など)では、ブルーウェーブ時代のユニフォームの復刻版を採用して着用したり、震災の記憶を風化させないためのプロジェクトなどイベントを継続して行っている。, 前述のように2007年に事実上京セラドームに一本化(協約上は2008年度以後)され神戸を含めた兵庫県での主催試合も20試合程度に削減され、2011年 - 2015年は15試合(ただし予備日の無い振替試合は大阪開催)とさらにその数を減らしている。, 2017年からは、二軍の練習拠点を神戸市内から舞洲スポーツアイランド(大阪市此花区)へ移転した。当初、移転計画を発表した2015年の時点で、一軍公式戦のうち球団主管で15試合を神戸で開催することを西名球団社長が明言した[141]ものの、2018年は13試合(実際は雨天中止の2試合が京セラドーム大阪に振り替えれられたため11試合)、2019年は11試合、2020年は5試合(予定)と徐々に神戸での開催を縮小している。なお、二軍でも、ウエスタン・リーグ主管試合の一部を移転前に続いて神戸市内で開催している(上述表参照)。, ちなみに神戸はメインだった2003年から合併後の今日まで、オリックス球団が管理許可制度の下で球場の運営を行っていることもあり、神戸市営地下鉄西神・山手線の電車の窓には主力選手のステッカーが貼られているほか(女性専用車両は除く)、神戸での公式戦開催日にはバファローブル(2010年シーズンまではネッピー)が描かれたヘッドマークが取り付けられている。, ブルーウェーブ時代の2004年、現在のフランチャイズが確立してから関西に本拠地を置く球団としては初めて東京都(東京ドーム)で主催公式戦・対北海道日本ハムファイターズを開催した。福岡ドームでの件とは違い、これまで同地を本拠としていた日本ハムが札幌ドームに移転したために伴うものと、オリックスが会社設立40周年を迎えたことを記念して、現在のオリックスの本社がある東京[注 38]で主催ゲームを開催することにしたものである。, 2006年は専用球場を一時的に神戸にした関係上、東京ドームでの主催ゲームはなかったが、その年以外では2009年まで毎年「オリックスグループお客様感謝DAY」と銘打ち、オリックスグループの社員と取引先の顧客を無料で招待する試合として、リーグ戦期間中の週末の2試合を利用して開催した。, 対戦相手は、バファローズとなった2005年も2004年に続いて対日本ハム戦を行った。2007年は対西武ライオンズ戦2試合を開催。ちなみに西武が東京ドームでパ・リーグのチームと試合をするのは、日本ハムが北海道に移転する前の2003年以来で、2008年は対千葉ロッテマリーンズ戦2試合、2009年は対東北楽天ゴールデンイーグルス戦2試合が行われたが、福岡ソフトバンクホークスとのカードは開催されていない。東京ドームでの主催試合の通算成績は5勝5敗である。, 2010年以降は開催されていない。なお、2010年のオリックスグループの社員と取引先の顧客を招待する試合は、3月30日、3月31日に行われた日本ハム主催試合のビジターゲームにて行った。, 2010年6月7日、対広島東洋カープ戦4回戦(福山市民球場)の6回表1死1塁、坂口智隆の二塁内野安打から荒金久雄、後藤光尊、T-岡田の3者連続タイムリーに北川博敏の3ランで打順一巡の猛攻。坂口の左前打までプロ野球新記録となる1イニング最多連続打席安打、前身の阪急時代の9者連続安打を抜く10者連続安打を達成した。しかし、奇しくも同日の15分前に千葉ロッテマリーンズも同記録を達成しており、タイ記録扱いとなった。, 阪急時代は同じく阪急電鉄が大株主であった関西テレビとの結びつきが強く、土曜・日曜のデーゲームを中心に数多くの試合を放送していた[注 40]。朝日放送・毎日放送・読売テレビは1960年代から70年代に関西テレビが編成上の都合で放送できない(特に1961年はキー局・フジテレビの方針で野球中継から一時撤退)ごく一部のカードを中継していた[注 41]。, オリックス・ブルーウェーブへの改称後は、毎日放送[注 42]が多数の中継を担当した。また、関西テレビではフジテレビ制作の巨人戦全国中継に差し替えて中継することもあった。現在は、朝日放送テレビと関西テレビで対阪神の交流戦と、それ以外の年数試合を関西テレビと読売テレビで深夜に録画放送が行われるのみである。読売テレビ・テレビ大阪・毎日放送は系列局やキー局系列BS放送への技術協力(球団制作映像と併用)が中心(ノンクレジットの場合あり)。, サンテレビはオリックス売却後はナイター中継中心となったが、阪急時代は阪急電鉄・阪急百貨店の筆頭提供で、デーゲームを放送することもあった。以前は対阪神の交流戦のほか、阪神戦がない日や、中継権獲得不可能な阪神の試合(主に東京ドームの対巨人戦)の裏カード時などに年数試合完全生中継が行われていた。2015年限りで原則として撤退し、それ以降は対阪神の交流戦に限定する形で水曜日に朝日放送テレビとのトップ&リレー中継(2017年)を、他曜日に自社制作の完全中継(2019年土曜。同年は関西テレビと並列)を行うのみとなった(阪神主催は2018年に自社制作と朝日放送テレビとトップ&リレー中継を各1試合実施)。対阪神戦の場合、ベンチリポートを両サイドに配置し、オリックスが勝利してもヒーローインタビューを放映するなど、中継内容は通常の阪神戦より中立的となる。また中継縮小後も、ファンフェスタへの協賛と賞品の贈呈は継続している。, かつて、テレビ大阪も阪急ブレーブス時代に数試合、オリックス・ブルーウェーブ時代〜2007年に数試合中継されることもあった。また、2015年と2016年にはテレビ東京で関東ローカル中継が各年1試合放送された。, 京都放送(KBS京都エキサイトナイター)は、阪急ブレーブス時代に京都市西京極総合運動公園野球場での主催試合を、オリックス売却後は同球場での近鉄バファローズ主催でのビジター扱いの試合を自社制作で放送したことがあるが、阪急主催の対近鉄戦は、近鉄主催の後者と同様『近鉄エキサイトアワー』として近鉄グループがスポンサーにつき、近鉄応援の放送となっていた。, 2005年まで(パリーグ同士の対戦については2004年)はフジテレビ系列(関西テレビ・フジテレビ共同制作。阪急時代に球団と関西テレビが兄弟会社だった関係で年1試合程度ナイターの全国生中継が行われていた。また、2000年代前半には年1試合程度、土日のデーゲームの全国生中継が行われていた。)、2006年まではテレビ朝日系列(朝日放送制作)、2007年までテレビ東京系列(テレビ東京・テレビ大阪共同制作)でも全国中継していた。ほか、1989年-1990年代末期まではTBS系列(毎日放送制作)でも放送されたり、対巨人のオープン戦に限り日本テレビ系列(読売テレビ制作)で放送された。, 李承燁と朴賛浩の韓国人選手が加入した2011年から韓国SBSテレビが主催ゲームの放映権を獲得し、スポーツ専門チャンネル「SBS CNBC」にて放映されることとなっている。, CS放送は球団が制作著作権を保有。関西テレビ放送の関連会社メディアプルポ・エキスプレスが共同で制作協力している。パ・リーグTV向けの映像はCS向けと同一内容。, 1936年から1946年までは「阪急軍」(1945年は戦況悪化のため、公式戦を休止。合同チームによる非公式戦のみ開催。), 旧球場名:グリーンスタジアム神戸→Yahoo!