湾岸戦争停戦後,再度反乱に立上がったクルド人をイラク軍は激しく攻撃,このため 25万人の難民が発生した。 こうした難民の帰還を促すべく,国連安全保障理事会はイラク北部北緯 36度以北の地域をクルド人のための安全地帯と定め,これに基づき多国籍軍の 空軍 が監視している。 「これは人権問題です。家族と引き離され、病院に行くときは手錠をかけられます」東京・品川の「東京入国管理局」で、今年1月から収容されているチョラクさん(38)に私は面会した。チョラクさんは、トルコ国籍をもつクルド人。ご存知の通りクルド人は、トルコ、イラク、シリアなどに広く住む、国家を持たない最大民族で、いまも多くの迫害にあっている。チョラクさんは、兄がクルド人の独立運動に参加していたことから、自分の身にも危険を感じ、14年前の2004年、身重だった奥さんを国に残して、埼玉に避難していた兄を頼って来日した。その後奥さんもチョラクさんを追って来日し、いまはトルコで生まれた長男(中学2年生)と日本で生まれ小学校に通う次男・三男の5人で生活している。いま日本にいるクルド人は、埼玉を中心に2千人以上と言われている。しかし、難民認定されている人はゼロだ。, 面会は録音録画禁止、入国管理局の職員の立会いのもとで行われた。「2004年に日本に着いて1週間後、ここ(東京入国管理局)に来て1回目の難民申請を行いました。その際は難民認定されず、仮放免(在住は許可するが就労は不可)となりました。その後も2回申請しましたが、いずれも認定されず、4回目の申請中の今年1月に仮放免の延長のために訪れたところ、『きょうから認めません』と言われ、家族で私だけ、そのままここに収容されました」収容されている部屋は、ナイロン畳に8人が共同生活をしている。国籍がバラバラのため共通言語は日本語のみ。朝7時に起床、夜10時に就寝するほかは、朝昼晩の食事がある。その間は自由時間で、入浴や面会、運動で時間をつぶしている。就労できないチョラクさんの一家は、「配偶者ビザ」で働いている兄(奥さんが日本人)が生活の面倒を見ている。「14年間仕事が出来ません。長男はトルコ国籍ですが、次男と三男は日本で生まれても、国籍は認められません」日本では無国籍の子どもであっても通学できる。しかし、国籍のない彼らにとって小中学校は義務教育でないため、通学していない子どもたちもいるという。, 今年5月、アメリカのトランプ大統領が不法移民に対して導入した「不寛容政策」で、2千人以上の子どもが親から引き離され、世界中から非難されたことはまだ記憶に新しい。トランプ氏の政策には当時多くの日本人が批判したが、実は日本国内でも親子が引き離される現実があり、いまも続いていることを知らない。「家族とは電話で話をしていますが、私はいつここから出られるのかわからない。妻はいま心を病んでいます。これは人権問題です。難民条約のどこに(無期限収容していいと)書いてあるのですか?この収容の目的は何ですか?トルコに帰りなさいということですか」難民条約では、難民の基本的な人権を保障し、迫害のおそれのある国への追放・送還の禁止、定住に対する便宜を与えることなどを定めている。日本も難民条約に加入しているのだが、一方、難民認定には世界的に見て極めて高いハードルを設けている。昨年度の難民申請数は、約2万人(うち処理件数は約1万1千人)。しかし認定したのは20人と、認定率は0.2%以下だ。政府は人口減少の中労働力を確保するため、外国人労働者を積極的に受け入れる方針に転換した。しかし一方で、政治問題が絡む難民受け入れには消極的なままだ。, 日本に在留する難民申請者の支援を行うNPO法人WELgee(ウェルジー)の代表・渡部清花さんは、「彼らは強制送還こそされないものの『いてもいい、でも働いてはダメ』というありえない状況にいる」という。「ただ、難民認定されなかったらそれで終わりなのかというと、そうではないというのが私たちの考えの根底にあります。難民認定による安定的な法的地位ではなく、別の方法での法的地位を作ることを、私たちは彼らと共に目指しています」, そのほかにもWELgeeでは、就労許可を得られない難民申請者がコミュニティと一緒に生活できる新たな試みを、いま千葉で行っている。「難民申請者の中には、『日本は難民条約に加入していて、人権と平和の国だ』と期待してくる人もいますが、政府の難民認定率はとても低い。無期限収容は考えるべきですし、適切な医療も受けられないというのは人権侵害にあたるのではないでしょうか」, いまここに収容される難民申請者は約600人、さらに茨城県の牛久にある東日本入国管理センターには約1千人が収容されているといわれ、彼らは皆いつ家族に会えるかわからないまま暮らしている。こうした状況に対して上川法務大臣は、「全国の入管収容施設に現に収容されている者は,在留資格を有しないなど法律上の在留要件を満たさず,あるいは刑法上の罪を犯したことにより,我が国での在留が好ましくないと判断された者だ」としたうえで、「出身国に向けて速やかに送還することで収容を終わらせることが肝要である」との見解を示している(今年5月29日閣議後会見)。さらに、「現に,仮放免中の者が殺人,殺人未遂又は強盗致傷の容疑で警察に逮捕される案件が昨年中に3件発生しており,このほか,薬物事犯,傷害,窃盗などの容疑で逮捕される事案も生じている中において,仮放免の是非を慎重に判断するということについては,むしろ当然のことと考えています」と仮放免者による犯罪を強調し、厳しい姿勢を示した。, 面会時間は30分。立会人が終了を告げた時、チョラクさんはこう言った。「このインタビューを受けたら、申請はもうだめになるかもしれないです。でも日本人には、日本でもこういうことが起きている現実を知ってほしいです」政府にはいま、難民申請者の人権へより真摯な配慮が求められている。(執筆:フジテレビ 解説委員 鈴木款), Facebook *23 現地調査についての詳細はこちら *14 拷問等禁止委員会定期報告に関する総括所見(第2回)(2013年6月28日)、自由権規約委員会第6回政府報告書審査(2014年8月20日)など 収容 この原則は、難民認定を受けた人だけでなく、難民申請手続き中の人にもあてはまります。, 一方で、残念ながら、難民申請中にもかかわらず送還されてしまうことが、海外でも、そして日本でも、起きているのが現実です。そして今、日本では、送還について大きく見直されようとしています。難民申請中は送還が停止になる手続きに一部例外を設けようという提案がなされ、そう遠くないうちに法改正の可能性もあります。, しかし、それはノン・ルフールマン原則という観点で「極めて問題(*1)」です。この記事では、力の限り泣き叫んで送還を免れ、二度の難民不認定や収容を乗り越えて後に難民認定を得た人の実際のストーリーもご紹介していますが、そのような人が決して少なくないのが日本の現状です。 2015年、日本の入国管理局に届けられた難民受け入れ申請の数は7千件を越した。そのうち難民認定を受けた件数はわずか27件にすぎない。, 蕨市にある「ワラビスタン」はすでに日本社会の一部となっている。この4月、熊本県で大地震が発生した際、クルド人たちは国際難民援護協会のメンバーと共に、いの一番に被災地に入り、支援物資を運んで瓦礫の除去作業に携わった。蕨市の駅前では、日本人とクルド人の子供たちが、熊本災害支援のため募金活動も行なった。, 6月20日の国際難民デーでクルド人ボランティアたちは、川口市、蕨市を地元警察と共にパトロールして回った。この地域に住むクルド人の多くがが建設業、レストラン業で働き、大学でクルド語を教えている。ワッカス氏は日本人社会はクルド人に対して非常に友好的で、「真面目で責任感がある」ととらえていると語っている。しかし、完全に受け入れるということはない。スプートニク:2015年、日本で難民申請を行った人は7千人を超えるにもかかわらず、申請を受理された人はわずか27人です。日本に在住するクルド人で難民認定を受けた人はいますか?, ワッカス氏「ここ25年、クルド人は難民申請しているんですけれど、今まで政治的な難民として認められた人は一人もいませんね。でも特別在留資格を持っている方はいます。」, ワッカス氏「最初に日本のシステムを理解してからということになっています。今までの日本の歴史の中で移民と難民という違いがあります。日本は島国です。そして韓国、中国、北朝鮮という隣国との問題がありますので、本音で言えば難民を受け入れることができないんですね。ドイツ・フランス・イギリスなどは第二次世界大戦後、労働者が不足していました。このような理由から、ヨーロッパでは移民を受け入れてきた歴史もあり、そういう観点から難民認定されます。でも今までは日本ではそういうことはなかったんですね。日本は労働力は自力で処理できますから外国人の労働力は必要ないとして、今まで移民のことは考えませんでした。最近は、状況に変化が起きています。」, ワッカス氏「日本がクルド人の政治難民を受け入れられないということはわかっています。ただ20年も『仮放免』状態にいる人がいますが、これはあまり良いことではないですね。もちろんどういう形でその人が難民状態にあるのかを調べるのは必要なことです。経済難民のケース、政治には関係なく色々なことをやっている人もいますし、仕事をするために難民申請をしているケースも多いです。これも日本政府は考えに入れていると思います。, 私たちクルド人は、日本国籍をもらおうとしているのではありませんし、永遠に日本に住もうというのでもありません。国連は、トルコ政府から政治的弾圧を受けているクルド人は、難民であるとみなしています。しかし、国際的なスタンダードに沿って難民認定がもらえなくても、特別在留許可が出れば、問題はなくなります。もし労働ビザがもらえるのなら、それは日本人側からしてみればクルド人を雇ってよいという保証になりますから、私たちは嬉しいです。」, クルド人共同体の誰もが毎日のように言葉の問題、社会の壁にぶち当たっているというのに、30分にわたるインタビューの間、ワッカス氏の口からは一度も愚痴は漏れなかった。ワッカス氏はこう語る。「私たちは闘士です。クルド人には武士の精神がありますから。」, https://cdn1.img.jp.sputniknews.com/i/logo-itemprop.png, https://cdn1.img.jp.sputniknews.com/i/logo.png, https://jp.sputniknews.com/opinion/201609172785201/, 下記の「登録」ボタンをクリックすると、貴殿の個人情報の処理と、個人情報保護方針への貴殿の同意が確認されたことになります。, プロフィールが削除されました。プロフィールの再現は削除後30日以内であれば、登録の際のこちらからの送信メールにあるアドレスから可能です。, ソーシャルネットワーク上のユーザーアカウントを通じてスプートニクのサイトでユーザー登録および認証を受けたという事実は、本規約に同意したことを意味する。, © *19 第200回国会第84号「参議院議員福島みずほ君提出外国人の収容および「送還忌避」に関する質問主意書」 *8 収容を一時的に解かれる仮放免者も含む 写真に写っていた数十人も指名手配されました。その結果、突然逮捕され、約十時間かかる場所までほかの数人と押し込められて移送され、排泄等もまともに認められず屈辱的な取り扱いを受けた話なども聞いています。, 2006年に当時の小泉純一郎首相がトルコを訪問した際にエルドアン首相(当時)が同協会事務所について、「閉鎖してほしい」などと要求したと報道されています(*25)。2003年にトルコを訪問した日本の参議院副議長にも同様の要求があったそうです。 私自身、まさか友好協会の設立に首相が弾圧に乗り出すなどと思ってもみませんでした。「クルディスタン」という言葉が、クルド人の「国」という風に捉えられたのでしょうか。2009年の米国国務省報告書等は、「トルコで、単なる集会参加によって処罰され得る状況があり、拷問・虐待が行われ、民族対立が高まっている」と指摘し、2012年にも同様の記載があります。, しかし、Fさんは難民の再申請でも不認定となり、その後高裁でも認められませんでした。判決は、上記の米国国務省報告書等の内容を、「2012 年(結審時)においても同じ状況があるとは考え難い」と判示しています。, ーー送還に至るまでも、本人にどのような説明がなされているのかなど外からはよく分からないです。, ある日入管職員から「明日、関西空港に行く。荷物をまとめるように」と言われ、空港で担当者から「あなたは無理矢理帰す」と言われたと言っていた人もいました。「弁護士に電話をしたい」と言ったら、「ダメ」と言われ、「帰らない」と言ったら、手錠をされ、手足を捕まれて、持ち上げられて運ばれ、飛行機に乗せられたそうです。, 難民不認定決定を受けた直後の送還の執行は、裁判を受ける権利の侵害です。しかも、難民を保護する部門が決定(難民不認定の決定)の通知の時期を調整して、送還する部門の執行と符合させるのは、おかしいことです。, 注:2016年2月、スリランカ出身のタミル人難民申請者が、26日に難民不認定の判断の取り消しを求め、裁判を起こすための委任状を弁護士に預けていたが、翌早朝に突如送還された事例なども報道されています(*26)。, ーー難民申請中の送還停止措置(送還停止効)がなかったこと、収容の厳しさなど、現状の国の議論はKさんの時代を少し思い出させるようでもありますが、法改正によって、難民申請中の送還停止に一部例外が設けられたら送還は増えるでしょうか。, 自費出国のケースについて、例えば前述のKさんのように、収容されることが怖いという人もいます。トルコに帰って捕まるのと、日本で捕まるのとどちらが厳しいのか。Fさんは、3年9カ月の実刑でしたが、日本でも3年収容されている人はざらにいて、いつ出られるか分かりません。その先の、日本での生活の見込みもありません。その結果、耐えられなくなって帰国という選択をします。そのようにして難民申請数も抑制されることを入管庁も期待して、収容という措置を政策的に使っているのではないでしょうか。入管庁としては出国すれば関係はないのです。身体拘束を政策的に使うのは根本的に間違いです。日本のような無制限の収容は国際的には誤りです。, 帰国したらどうなるか。それは場合によります。すでに指名手配されているなどであれば空港で拘束されるでしょうが、別の場合には、ある意味ギャンブル的というか、迫害にあうかもしれないし、捕まらない可能性もあるでしょう。日本で難民申請した人で、帰国したあとに、何とかヨーロッパやオーストラリアに逃げて難民認定を得た人が複数います。日本で追い詰められた人がそのような道を選ぶことは、合理的な判断と思います。, また、家族の関係も大きいです。呼び寄せた妻子が日本で困窮すると、支援者としては帰らないほうがいいと思っても、帰るケースもあります。, ーー難民申請者の中には退去強制令書の発付をされている人もおり、日本の法律や手続きを守らない人がおかしいという意見も見られます。, 例えば空港で難民認定申請をした人には、退去強制令書が出されてしまいますが、犯罪者だからではありません。なぜなら、その人は、犯罪をするどころか日本社会に一歩も踏み入れないうちに退去強制令書を出されてしまうのです。退去強制令書は犯罪を意味しません。また、「日本にいてはいけない人だ」というのもおかしいです。難民申請中でも一旦退去強制令書が出され、しかし審査を受けている間は送還をしないことにして、難民認定の結果によっては退去強制令書が撤回されることになるというのが、そもそも日本の制度です。未だ審査中なのですから、「日本にいてはいけない人」かどうかも決まっていないのです。, 複数回難民申請をしている人についても、難民申請に新たな理由が発生しているのかもしれません。複数回申請について、法務省の専門部会での提言(*27)を真正面から議論しないで送還しようとしているのは誤りです。, ーー送還というのは、母国で迫害のおそれがあると主張する者にとって最大の恐怖ですが、日本では難民認定率も低く、覚悟の上で帰国する人もいるなど厳しい状況です。弁護士としてどのような思いで支援しているのですか。, 難民申請という本国の迫害からの保護のために手続きを支援するのが支援活動の本来の役目だったはずが、今は日本でのむごさと向き合うばかりで、複雑な思いです。 *26 朝日新聞「スリランカへ強制送還」2016年4月2日 *11 難民認定手続き中の審査請求を指している いま日本にいるクルド人は、埼玉を中心に2千人以上と言われている。しかし、難民認定されている人はゼロだ。 この記事の画像(4枚) 「14年間、仕事が出来ない」 面会は録音録画禁止、入国管理局の職員の立会いのもとで行われた。 *16 出入国在留管理基本計画(案)に対するパブリックコメントへの法務省の回答(2019年4月26日)および第201回国会・衆議院予算第三分科会での高嶋政府参考人の答弁(2020年2月25日) 中国とアフリカの関係を3つの柱で見ていきます。積極的なアフリカへの進出をはかる中国と、アフリカ諸国の現在の関係は、今後の国際情勢を占う上でも重要です。 近代の中国とアフリカ諸国の関係は1950年代後半、中国がアルジェリア、エジ... アラブの春は、近年起きた革命の中でも最も規模が大きく影響力の大きなもの。そのアラブの春が起きた原因を探りながら、失敗したのか成功したのか、そしてその後までを見ていきます。 中東とチュニジア・リビア・エジプトといった北アフリカの... 世界に数ある諜報機関の中でも、その能力が高いと言われるスパイ組織・諜報機関を10個紹介していきます。実在するスパイ組織を確認していきましょう。 国外を担当するスパイ組織または諜報機関は、海外からの潜在的な脅威に対する防衛の最前... 中国軍(中国人民解放軍)について基本的な知識から、なぜ脅威となりつつあるのかを示す5つの兆候までを紹介し解説していきます。 世界最大の人口を誇り、過去数十年に渡って圧倒的な経済成長を見せてきた中国は、現在、世界No.2の経済大... ロシア革命とはなんだったのか?ロシア革命を出来る限り簡単にわかりやすく解説していきます。原因やその後の世界史に与えた影響などを確認していきましょう。 「ロシア革命とは一体どのような革命だったのか?」 この質問に対して答え... コソボ紛争をわかりやすく解説してきます。原因や歴史的な経過を追うと同時に、いつくかの抑えておきたい知識までを見ていきましょう。 1998年から1999年にかけて旧ユーゴスラビアの一地域「コソボ」を巡って起きたコソボ紛争は、同地... ヒンドゥー教の神と女神一覧|ヴィシュヌ・シヴァ・ブラフマーに加えて9つの神を見ていこう!, クルド人達は、自らが多数派となる国を持てず、また、コミュニティは分断されたままとなってしまった, 同年12月にイラン政府が政府軍を投入した結果、このクルディスタン共和国は崩壊しています, イラクではクルド語やクルド文化が認められ、イランに比べれば、クルド人に対する同化政策的なプレッシャーは比較的少なかったものの、, 2017年9月25日に行われた独立をめぐる住民投票では賛成派が多数となり、その結果を踏まえたクルド人自治政府は、それから2年以内の独立を目指す, アブドゥッラー・オジャランが「クルディスタン」の独立を目的として、マルクス主義組織であるクルド労働党(PKK)を結成, アナトリア半島東部が勢力の活動の中心となり、反政府のゲリラ活動を展開し、頻繁にテロ攻撃を行っていくこととなった, PKKによる攻撃、それに対するトルコ政府による軍事制裁により、トルコ北部はこの期間、事実上の内戦状態にあった. お問い合わせ, ©Tomi Asikainen/Amnesty International Finland, 日本と世界における難民・国内避難民・無国籍者に関する問題について(日本への提案)更新版. 法改正をめぐる法務省の発表や報道では、「送還忌避」「退去拒否外国人」などの言葉が使われ、送還を拒むことの問題が強調されがちですが、本記事で紹介する実例や弁護士の証言を通じて、難民・難民申請者を送還することの危険性について考える機会としていただけたらと思います。, 難民を送還してはならないという「ノン・ルフールマン原則」(ルフールマンはフランス語で「送還」の意)は、難民保護において最も重要です。日本も加入している難民条約には、次のように規定されています。, 締約国は、難民を、いかなる方法によっても、人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であることまたは政治的意見のためにその生命または自由が脅威にさらされるおそれのある領域の国境へ追放しまたは送還してはならない。(33条(1)), ノン・ルフールマン原則は、難民申請者にも同様に当てはまります。難民申請者(庇護希望者)は、難民である可能性があるので、その判断がなされる前に送還されてはならないのです(*2)。, ノン・ルフールマン原則は非常に強い概念です。そのため、難民条約だけでなく、拷問等禁止条約(3条)、自由権規約(6条・7条)などの国際的な人権条約でも定められています。さらに、「絶対的規範」として、条約の締約国でない国さえも拘束し、例外なくすべての人を対象にするなど、外国における人権侵害から逃れてきた人に対する実効的な保護を確保するため発展してきました(*3)。, なお、難民条約には、ノン・ルフールマン原則の例外が非常に限定的ながらあります。難民の滞在国の安全に非常に深刻な危険を持つ場合や、殺人、強姦、武装強盗など特に重大な犯罪について有罪が確定している場合です(33条(2))。そのような例外の適用においても、適正な手続きがなされる必要があり、送還により拷問などの相当な危険につながる状況があってはならないとされています(*4)。, 難民に対して、①「難民条約上の難民には当てはまらない」という判断に加えて、➁「送還しても基本的人権が脅かされる重大な危険性がない」という合理的な判断がなされるまでは、原則として送還はしてはならないーー送還は絶対に避けなければならないというのが国際的なルールです。, 適正な難民審査が行われなかったり、出身国状況の認識が誤っていたことで、難民が送還されてしまった場合、迫害や深刻な人権侵害を受ける危険性が生じます。, 2016年12月2日にイギリスから送還されたDN氏は、空港内で国家情報局により拘束され、尋問された。その際、DNは治療が必要なほどの拷問の被害を受けた。牢獄から抜け出した後、DNは病院に体から毒を抜くために病院に駆け込み、緊急で胃洗浄とバリウム浣腸を受けた。DNは(DRCの国家情報局から)隠れて生活することを余儀なくされている。, 調査したイギリスの難民支援団体によると、DRCでは送還された難民申請者への拘禁、拷問、強制的な身代金の支払い、レイプやセクシャルハラスメントが断続的に報告されています。送還された人の状況を把握するのは大変困難です。送還先での迫害の実態が明らかにされているのは一部に過ぎないということにも留意する必要があります。, 日本では「退去強制令書」が発付されると、出入国在留管理庁(入管庁)の入国警備官は、速やかにその外国人を送還しなければならないのが原則とされています(*6)。退去強制令書は、大まかにいって、正規のパスポートやビザ、在留資格を有していない人に対して発付されます。, 2018年に退去強制令書の発付を受けたのは8,865人。同年に送還が実施されたのは9,369人でした。送還には、自費出国や国費送還などの形態があります。9,369人のケースの主な内訳は、自費出国 8,755人、国費送還517人です。, 送還を拒み、最終的に国費送還をされた人、もしくは収容が続いている人(*8)は、帰れない事情があると主張した/している人です。帰れない事情を抱える人の多くに、難民申請中の人が含まれています。, 難民としての特徴が、非正規での入国をせざるを得ないことにつながっている側面もあります。例えば、難民は自分を迫害する本国政府が発行するパスポートやビザなどの書類を整えにくい傾向にあると言え、そのため、難民条約31条には、「庇護申請国へ不法入国しまた不法にいることを理由として、難民を罰してはいけない」と定められているのですが、そのような人が空港で難民申請を希望しても、日本ではほとんどの場合、特別に在留を許可する事情がないとされ、退去強制令書が発付されます。, また、入国時には正規の資格がある場合も、在留資格の期限を超えてしまい(オーバーステイ)、非正規滞在となってから難民申請をせざるを得なかった事情の人もいます。準備もなく命からがら逃れてくる状況で、外国である日本の難民に関する手続きについて知ること、行うことは簡単ではありません。空港等で難民申請手続きをするよう積極的に情報発信する国もありますが、日本はそうとはいえません。このような場合も、退去強制令書の対象です。※後述のように、オーバーステイで難民申請しても認定された人はいます。, ただし、国際的なルールと同様に、日本の法律(出入国管理及び難民認定法)でも、送還先はノン・ルフールマン原則に反する領域を含まないものとなっています(*9)。また、難民申請中は「送還の執行を行わない(*10)」となっています(これを送還停止効といいます)。, 退去強制令書の発付を受けた人を、直ちに送還できないときは、送還可能な時まで収容できるとされています。つまり、難民申請者は空港での難民申請と同時に収容されたり、収容期間が長期化する場合が多く、大きな問題となっているのです(収容問題の詳細はこちらを参照)。, そして、難民認定手続きがすべて(*11)不認定となった場合や不認定の取り消しを求めて起こした訴訟が棄却されたり、本人が難民申請を取り下げた場合などは送還が実行可能となります。, ※注:送還に最終的に応じた難民申請者の中にも難民の可能性が高かった人もいると考えられます(詳細は、文末の大橋弁護士のインタビューをご覧ください)。, ※上記灰色部分の手続と併行して、退去強制手続が行われる。一般的に、退令手続の間は空港又は空港周辺の入管施設に収容されるが、退去強制令書の発付を受けても退去をしない場合、そのまま収容は継続され、仮放免許可が出ない限り、解放されることはない。なお、一時庇護や仮滞在制度など、難民申請者の在留を認めるための制度はほとんど使われていない。, トルコ国籍のクルド人難民申請者・Kさんは1998年に収容をおそれ、自費出国による送還のかたちで日本から出国しました。 © Fuji News Network, Inc. All rights reserved. Mail. *24 現在は閉鎖されている *15 第192回国会・参議院法務委員会での金田勝年法務大臣の答弁(2016年10月20日)、第196国会・衆議院法務委員会での上川陽子法務大臣の答弁(2018年5月9日) 日本に住むクルド人のおよそ30%が入国管理局で仮放免許可申請証に判をもらっている状態にある。難民申請を行ってはいるが、認定されてはいないという状態でかろうじて在留していることを「仮放免」 … ブルクタウィットさんの場合でも、アムハラ語しか分からず、初めての国で初めての施設を行き来する中で、もし「送還されそうになっている」と勘が働かず力の限り抵抗をしなければ、弁護士がついていなければ、送還をされていたかもしれません。二度の難民申請で、入管庁からは不認定の判断がなされており、送還は目の前にありました。, 迫害のおそれがあり国へ帰れないと訴える人の滞在の可否を決め、命にかかわるといえる難民審査。しかし、日本でこれを担っている入管庁の審査には多くの問題が指摘されています。結果として、送還に深刻な危険を伴う人にも滞在を認めない判断が下され、図4のように、難民認定の門は限りなく狭く閉ざされています。難民保護としての機能が果たされていません。, <図4:「UNHCR Refugee Data Finder」より当会作成 単位:人>, ・難民認定の実務を入管庁が担っているため、難民を「保護する(助ける)」より、「管理する(取り締まる)」という視点が強いという、難民認定制度のそもそものあり方に問題があります。空港で難民として助けてほしいと訴えても、上陸が許可されず、そのまま収容されたり、難民不認定と同時に収容・送還されたりする事態が起きやすく、実際に起きています。本来は、治安上のリスクに関して入管庁のチェックを受けた後に、別の独立した政府機関が難民の審査を行うべきです。, ・難民申請手続きの透明性が不十分です。一次審査の面接に弁護士の同席も認められず、録音・録画がないのは、日本の特徴的な点です(図5)。諸外国では、面接の様子を録音・録画し、申請者にそのデータを共有するといった取り組みも行われています。現状では、入管庁職員が作成した調書や通訳が正確か確認することは困難です。難民不認定の理由の説明も不十分です。判断する側が有する情報は開示されません。, ・難民として当てはまるかどうかの基準が明確ではありません。また、迫害のおそれを裏付ける「客観的な証拠」が過度に重視されたり、証拠を提出しても「証拠価値がない」とされる場合もあり、それらの判断基準は明らかにされていません。本人の供述の評価にも問題があります。日本の難民・迫害の解釈はとても狭く、厳しいと指摘されています。, これらの点は、法務大臣自身が設置した有識者会議やUNHCRでも指摘されています(*13)。, ※そのほか、手続きの課題については以下も参照ください。 でも、難民申請者たちが感じる不条理はさらなるものだと思います。 TASビル4階 MAP 活動レポート > AFP 2020 / Delil Souleiman, 「ダーイシュ」との戦いに女性たちが加わる―スプートニク独占インタビュー(写真、動画), ウォール・ストリート・ジャーナル:クルド人との親交はロシアの近東における影響力を高める, ロシアカップ第4戦 トルソワ優勝 複雑なコンビネーションジャンプ決める コストルナヤは2位, 韓国のガールズグループ「BLACKPINK」の動画に 中国人ネットユーザーらが猛非難!, 憎悪を煽り立て、人種・民族・性・信教・社会的差別を助長し、少数者の権利を迫害するもの, 他のユーザー、個人ないし法人に対する中傷や脅迫を含み、その名誉や尊厳を傷つけ、または社会的評判を貶めるもの, 商業的目的を持った発言、適切でない広告、違法な政治的宣伝または、そうした情報を含む別のサイトへのリンクを含むもの, スパムを含み、スパムの拡散やメッセージの大量配信サービスおよびインターネットビジネスのための素材を宣伝するもの, そのコメントが、同一または類似の内容を持つ大量のコメントを投下する行動の一環をなす場合(フラッシュモブ), 内容の稀薄な、または意味の把握が困難ないし不可能なメッセージを大量に投稿した場合(フラッド), インターネット上のエチケットを乱し、攻撃的、侮辱的、冒涜的振舞を見せた場合(トローリング), テキストの全体または大部分が大文字で又は空白無しで書かれるなど、言語に対する尊敬を欠く場合, 上記規則への違反と認められ、アクセス禁止措置が取られる理由となった行動に対する説明. Fax: 03-5215-6007 難民不認定とされて収容、2004年に自費出国で送還され、イスタンブール空港で拘束。かばんに入っていた、日本における、友好協会主催の集会や祭り、フットサル大会の写真が押収されました。フットサル大会は、難民申請者を支援する日本人たちが協力して実施したイベントでしたが、そのユニフォームのマークが‟非合法組織"の旗とみなされたことや、祭り等に参加したことを「非合法組織を援助した」という犯罪として、Fさんは、3年9カ月の懲役刑の判決を受けました。裁判係属中に釈放されて偽名で脱出したFさんは、再度日本で難民申請しています。 *27 前掲注13, 〒101-0065 在日クルド人(ざいにちクルドじん、クルド語: Kurdên Japonyayê)は、日本に一定期間在住するクルド人である。日本に帰化や亡命した人、およびその子孫が日本に居住している。 難民認定手続き ーー送還対象者になかなか直接的な支援はできませんが、一般の人でも何かできることはありますか? *18 出入国在留管理庁「第7次出入国管理政策懇談会における「収容・送還に関する専門部会」の開催について」など *2 UNHCR「難民の権利と義務」 まず知ることです。ただ、本国からの保護のために難民の事情を公表することは控えなければならない面があり、私たちもこの現状をどうしたら広く伝えることができるのか、本当に悩ましく思っています。 *25 根本かおる『難民鎖国ニッポンのゆくえ』ポプラ新書、西中誠一郎「いまだ悪夢から覚めることができない ―新しい難民認定制度と難民申請者の現在」『アジア太平洋研究センター年報2005-2006(大阪経済法科大学)』 当時は難民申請者数が数十人から百人超に"急増"していました。そのため入管は、1997年から、在留資格のない難民申請者を突然連行して収容したり、一次審査で不認定にすると同時に収容したりする、収容強化措置によって申請の抑制を図っていました。当時の収容施設(東京入管第2庁舎)は、今の東京入管収容場と比較しても劣悪な環境で、陽も差さず、長期収容に耐えられるものではありませんでした。一時的に収容から解かれる「仮放免」もあまり出ませんでした。現在は難民申請中は送還が停止される手続きがありますが、当時はありませんでした。, 帰国直後、KさんはPKK(クルド労働者党)のテロ活動を支援していたという容疑で逮捕され、警察対テロ支部によって取り調べを受け、のち起訴されました。本人は否認しており、裁判中だった1999年に自宅で殺されました。その事件は、トルコ国内でも報道されています。(K さんを担当していたクルド難民弁護団・大橋毅弁護士 談) *22 イギリスには、「明らかに根拠のない」主張に基づく難民申請者に対して、一次審査において不認定となった場合、英国内での不服申し立てを認めない制度がある(Non-Suspensive Appeal Procedure:NSA)。NSA適用可否の判断にあたって、様々な手続きを経る必要があり、控訴院に提訴する権利もある。その上、第三者機関の勧告等を受け、ガイドラインが改訂され、その適切な運用のために努力が図られている。他方、不適切なNSAの適用事例も認められる(難民研究フォーラム「イギリスの難民該当性審査の迅速処理制度とその課題」) *21 前掲注17「第2回会合UNHCR提出資料」 *17 法務省「収容・送還に関する専門部会」 クルド人とはどういった人たちなのでしょうか?彼らについて理解するためにも、迫害問題を引き起こす原因となった歴史的背景や、トルコやイランにおけるクルド人の状況を見ていきたいと思います。トルコやイラク、そしてイランやシリアの一部をまたがるように Twitter *3 川村真理「外国における人権侵害とノン・ルフールマン原則―難民法・人権法の適用範囲と実効性―」 Tel: 03-5379-6001 東京都千代田区西神田2-5-2 *6 出入国在留管理庁「退去強制令書の執行・送還・自費出国」 *20 前掲注17「第4回議事概要」 政策提言  > *7 出入国在留管理庁「資料3 送還に関する現状(令和元年11月11日)」 *5 難民研究フォーラム「[事例集]送還された難民・難民申請者とその後」 クルド人とはどういった人たちなのでしょうか?彼らについて理解するためにも、迫害問題を引き起こす原因となった歴史的背景や、トルコやイランにおけるクルド人の状況を見ていきたいと思います。, 国際情勢や中東地域に関するニュースなどを見ていると、彼らクルド人に関して耳にすることが良くあります。, この記事では、クルド人について理解を深めるために、クルド人に関する基本的な知識から、迫害問題つながった歴史的背景、そして、比較的大きなクルド人人口を抱えるトルコ、イラン、イラクにおける彼らの状況について見ていきたいと思います。, クルド人は、トルコのアナトリア半島東部にあるトロス山脈やイラン西部にあるザグロス山脈、また、イラク北部、シリア、アルメニアなどの一部地域や周辺地域に居住して同一言語を持つ、イラン系の山岳民族グループ。, クルド人達が主に住むとされる、大まかに区分された上記の地域一帯は一般に「クルディスタン」と呼ばれることがあります。, クルド人の言語「クルド語」は、ペルシア語やパシュトー語(パシュトーン人が話す言葉)と同じ、西イラン語群に属する言語で、多くのクルド人によって使われます。, 一方で、クルド人はクルド語以外に現地の言葉(例:トルコ語やアルメニア語など)も話すことがほとんどです。, そして、国境をまたいで住み、また調査基準も異なるといった理由から、統計によってその推定人口規模は大きく変わってくるため、クルディスタン以外の国に住むクルド人のディアスポラ(離散民)達も加えると、その人口規模はおよそ2500万〜4500万人と範囲がとても広く、正確な数字と言うのは良く分かっていません。, メソポタミア平原、そして、トルコやイランの山岳地帯各地を、ヒツジやヤギを連れて移動する生活を基本としており、必要に応じて最低限の農業を営んでいました。, しかし、この移動を伴う遊牧生活は、第一次世界大戦(1914年~1918年)後に国境が設定されたことによって、困難になってしまいます。, その結果、多くのクルド人は伝統的な遊牧生活をやめ、村に定住して農業を営んだり、それまでの彼らの生活には無かった仕事に就く道を選ばざるを得なくなりました。, 先史時代のクルド人に関してはほとんど知られていませんが、クルド人の祖先は数千年もの間、現在と同じ山岳地帯を中心に暮らしていたと考えられています。, また、メソポタミアにおける初期の帝国についての記録には、「クルド」に似た名前の山岳民族に関する記述が多数存在します。, さらに、古代ギリシアの歴史家クセノフォン(Xenophon)の著作「アナバシス」に記される、, ただし、メソポタミアの記録にしろ、アナバシスに記された記録にしろ、それが実際にクルド人を指しているかどうかについて確実なことは分かっていません。。, そのため、現在でもクルド人の大半はイスラム教徒であり、中でもイスラム教の最大宗派であるスンニ派に属する人が多数を占めています(但し、他の宗派や他の宗教を信仰する者も存在する)。, また、クルド人は軍人としての戦闘能力が高かったこともあり、歴史の中で多くの国の軍隊から傭兵として必要とされてきました。, 例えば、十字軍との戦いで功績をあげたことで西欧諸国においても名が知られているサラディン(1137または1138〜1193年)はクルド人であり、彼らの戦闘能力の高さを象徴する存在です。, 一方で、クルド人はクルド人が住む地域「クルディスタン」に長期間に渡って居住してきたにも関われず、それまでに国家を持つことはありませんでした。, そして、「クルディスタン」は、西アジアから北アフリカまでの地域を支配して台頭してきたオスマン帝国(1299年〜1922年)によって、領土の一部として組み込まれることになったのです。, 第一次世界大戦でオスマン帝国が破れると、オスマン帝国が所有していた領土は、戦勝国側によって恣意的な国境線が描かれて異なる国に分断されてしまいます。, これは、結果的に生まれた、複数の国にまたがるように位置するクルディスタンに住むクルド人コミュニティも、同時に分断されることを意味していました。, それ以降、一時はクルディスタン王国(1922年〜1924年)が作られたり、政治的な理由からソ連によってクルディスタン共和国(1946年〜1946年)が樹立したりしましたが、クルド人達は、自らが多数派となる国を持てず、また、コミュニティは分断されたままとなってしまったのです。, この状況は各国にあるクルド人コミュニティの中から起こった、「分離独立」を求める運動や活動につながり、現在まで続いています。, ちなみに、この分離独立の裏にあるクルド人の民族主義またはナショナリズムの高まりは、他の要因も影響していると考えられます。, などで、これが、都市圏に居住する少数でありながら影響力を持つクルド人の知識人を刺激し、民族主義運動の拡大が促進されたと言えるのです。, しかし、国を持たずにコミュニティが分断され、異なる国の文化や社会に住む状況が1世紀近く続いてしまった結果、「クルド人」としてのアイデンティティは以前に比べて薄くなっていると言われます。, 特に、より良い生活を目指して都会へ出たり、また、他の国へ移住して生活しているケースも多く、これらのことが、クルド人コミュニティの連帯感を薄めてしまっています。, クルド人について、基本的なことから歴史までを見てきましたが、ここからは、クルド人口が多い、トルコ、イラン、イラクで暮らすクルド人達の状況(主に迫害状況)について焦点を当てていきたいと思います。, トルコで生活するクルド人は、トルコ政府により非情な待遇を受けてきたと言えるでしょう。, クルド人はクルド人ではなく「山間部で生活するトルコ人」であるとし、クルド語の使用を禁止。, など、「クルド人」としてのアイデンティティーを剥奪しようとした試みが行われてきました。, また、トルコ政府は東部地域におけるクルド人による政治的な活動を抑圧し、クルド人の西部都市への移住を奨励。, これは、高原地方に集中していたクルド人の人口を拡散させることが狙いだったと考えられます。, ちなみに、欧州連合(EU)への加盟を目指していたトルコ政府は、EUからの圧力に屈する形で、2002年、クルド語による公共放送そして教育を承認していますが、根本的な解決には至っていません。, イランでは、同化政策を推し進める政府からの圧力に直面すると同時に、イスラム教スンニ派が多数を占めるクルド人達は、国の大多数を占めるシーア派によって、宗教的な迫害とも向き合う生活を強いられていると言えるでしょう。, ちなみに、第二次世界大戦直後、ソビエト連邦の支援の下でクルド人は、「クルディスタン共和国(マハバード共和国)」と呼ばれるクルド人国家を1946年1月、イラン北西部に樹立させています。, 実際に撤退した後、同年12月にイラン政府が政府軍を投入した結果、このクルディスタン共和国は崩壊しています。, ただし、時を同じくしてイラン・クルド民主党(KDPI)が設立され、以降は断続的にイラン政府に対する小規模の戦闘攻撃を展開されています。, 一方、イラクではクルド語やクルド文化が認められ、イランに比べれば、クルド人に対する同化政策的なプレッシャーは比較的少なかったものの、政府による弾圧は最も残忍であったと言えるでしょう。, イラクでは1931年から1932年、そして1944年から1945年にかけて、クルド人系武装勢力による反乱が起きました。, 事態は政府によって短期間で封じ込められましたが、クルディスタン共和国で軍を率いた「ムスタファ・バルザーニー」の指揮のもと、武装勢力による小規模な反政府活動は1960年代まで続き、1975年、クルド人達とイラク政府との和解が試みられたものの失敗に終わり、新たな戦闘が勃発ました。, 一方で、1970年にはイラクの最大政党「バアス党」と、バルザーニー率いるクルディスタン民主党の間で協定が結ばれ、クルド人自治区が設置されています。, 1979年、バアス党の党首にサダム・フセインが就いて同国の大統領になると、油田開発を推し進めるためにも、クルド人が大半を占める油田地域(キルキークなど)にイラク人を移住させ、クルド人を追い出す政策を打ち出します。, この政策は1980年代に強化され、多くのクルド人が強制的に移住を迫られることとなりました。, さらに、イラン・イラク戦争(1980〜1988年)が同時期に起こった結果、イラクとイランの国境付近では、イランを支援しているとの疑いで、クルド人の取り締まりが強化されました。, そして、同戦争の終盤、1988年3月から8月にかけて、「アンファル作戦」と呼ばれる残忍非道な事件が起こります。, クルドの反政府勢力の反乱を鎮めるため、イラク勢力は大量の化学兵器をクルドの民間人に向けて使ったのです。, 例えば、最大規模の化学兵器による攻撃の一つは、3月16日、ハラブジャ近郊で起き、マスタードガスや神経ガスによって約5000人が殺害されたと推定され、アンファル作戦はジェノサイドの一つであるとさえ言われることがあるのです。, 2003年にサダム・フセインの政権が倒れたことで、クルド人自治区の独立機運が高まりましたが、イラク国内のアラブ人や、クルド人問題を抱えるトルコが強行に反対し、未だに独立には至っていません。, しかし、2017年9月25日に行われた独立をめぐる住民投票では賛成派が多数となり、その結果を踏まえたクルド人自治政府は、それから2年以内の独立を目指すと発表しています。, 歴史的な背景から迫害問題を抱え、中東地域に関するニュースでよく耳にする「クルド人」について見てきました。, 同地域の情勢において、クルド人は一つの鍵となる人々であるため、国際情勢を理解する上でも重要です。, 当サイトは当サイトのメイン管理人である「ハリマン」が、内向きになりつつある日本人をもう少しだけ外向きにしたいという思いで運営しています。 さらに詳しくは下のホームボタンをクリックしてください。. 難民支援協会「法務省による2019年の難民認定者数等の発表をうけて」 難民支援協会「日本の難民認定はなぜ少ないか?-制度面の課題から」, <図5:一次審査において、2点とも認められていないのは上記9か国中、日本のみ(ただし、親を伴わない年少者など、脆弱性が高い者に限って弁護士やカウンセラーなどの立会いを認める運用が2017年より試行されている)。(難民研究フォーラムより)>, 適切な難民審査がなされていない上、送還についても司法など別の機関の判断が入ることなく、すべて入管庁だけで決定できる日本の強制送還に対しては、国連からも勧告がなされています(*14)。, 日本では、これらの難民審査の改善がまず図られ、保護されるべき人が保護をされる必要があります。ブルクタウィットさんのように、本人の努力や様々な運・偶然によって左右されるものであってはなりません。誤って送還するリスクを限りなく減らす仕組みづくりを行うべきではないでしょうか。, 近年、難民申請者の急増、難民申請手続きの長期化を背景とし、「送還忌避問題が深刻化している(*15)」とされ、「送還忌避者」という言葉が出てきました(*16)。そして、2019年10月、法務大臣のもとに「収容・送還に関する専門部会」が設置(*17)。有識者や実務者からなる委員によって、「送還を促進するための措置の在り方」と「収容の在り方」について2020年6月に提言が示されました。今後、法改正の動きにつながっていきます。, 提言の中には、「庇護を要する者を適切に保護しつつ、送還の回避を目的とする難民認定申請に対処するため」として、現状では難民申請中は送還が止められる手続き(送還停止効)に、一部例外(難民申請を複数回行った人など)を設けることが含まれています。そのほか、「送還忌避罪」の導入なども挙げられています。, しかし、「送還忌避問題が深刻」「送還忌避者の増加(*18)」ということが議論の前提になっていますが、法務省は、2018年以前の送還忌避者の実態をそもそも「集計していない(*19)」と回答しています。また、図1のように、送還・帰国者数は実は年々伸びています。, 「難民申請をすれば送還が停止されることを濫用・悪用しているケースがある(*20)」ともされています。特に複数回の難民申請が注視され、難民申請中の送還の一時停止の手続きから対象外にしよう、と考えられています。しかし、上述の事例や図3が示すように複数回難民申請により庇護が受けられた人はいます。加えて、99%以上が難民として認められない日本の厳格すぎる審査と今なお向き合い、収容されながらも留まっている申請者がたくさんいます。, ノン・ルフールマン原則を遵守するために、難民申請者は例外なく送還停止がなされるべきです。明らかに理由がない難民申請の場合でも、もともとの決定をした機関とは別の独立した機関・裁判所などに不服申立ての権利が認められ、かつその機関や情報の専門性・正確性が担保される必要があります(*21 22)。, 万一誤った判断で送還されたら、その命に私たちはどう向き合ったらいいのでしょうか。この方針転換から考えるべき私たちの国の姿勢が問われています。, 日本は、労働力として外国人材を活用したいという姿勢も示しています。このように送還や収容の課題を指摘すれば、難民受け入れの負担的側面にばかり目が向いてしまいますが、難民申請者を取り締まることを重視して捉えるのではなく、あるべき制度に整えた上で、日本社会で働き、生活していけるように転換していくような、両者にとってのぞましい発想もあるのではないかと考えます。, ーー大橋弁護士は、クルド難民弁護団として長年難民支援をされています。トルコ国籍の難民申請者の大半を占めているクルド人について、日本はこれまで1人も難民認定をしていません。これまでの担当事案で、送還されてしまった方はいますか。, クルド人は「世界最大の少数民族」と言われます。3千万人ほどがいるとされており、トルコ、イラク、イラン、シリアなどに暮らしていますが、クルド人による国家はありません。トルコでは、クルド人による国家の設立を求める活動は犯罪であり、クルド語を話すことなども犯罪とされたりした歴史があります。, Kさんがトルコで取り調べられた内容は、日本でクルド人たちが民族の団体を設立するために行なっていた会合についてで、捜査機関から反政府組織活動と断定されたのです。これは、後に、トルコの対テロ本部での尋問記録が手に入ったことで明らかになり、誰がその会合に来ていたかなども書かれていました。法務省も、2004年でトルコ現地で調査(*23)を行った際に「記録は本物だ」と認めています。, なお、その会合で話されていた民族の団体が、後に、2003年に設立された「クルディスタン&日本友好協会(*24)」でした。埼玉県蕨市に、在日クルド人が小さな事務所を借りて開設した手作りの団体です。互助と、日本にクルド文化を紹介することを目的とするもので、もちろんテロ行為と無関係でした。, トルコ国籍クルド人のFさんの話をします。 *4 前掲注2 トップページ > 在日クルド人(ざいにちクルドじん、クルド語: Kurdên Japonyayê)は、日本に一定期間在住するクルド人である。日本に帰化や亡命した人、およびその子孫が日本に居住している。, 日本クルド文化協会によると難民などで、構成される在日クルド人の数はおよそ2000人とされる[2]。特に埼玉県蕨市や川口市を中心とした埼玉県南部には、1990年代にトルコ政府の迫害を恐れたクルド人たちが友人を頼って来日し、トルコ国籍のクルド人の難民約1300人が集住している[3]。蕨市周辺はワラビスタン[4][5]とも呼ばれている。, 背景として、川口市は鋳物産業が盛えた工業の街で、中堅・中小企業が集積しているため外国人労働者に寛容だったようである。日本政府による難民認定を申請しているものの、後述の理由もあり実際に認められるのは稀である。日本人女性と婚姻して滞在許可を得ることを画策する人も少なくないが、不法滞在者や在留特別許可による滞在が大多数を占めている。, 在日クルド人はトルコ国籍が大半を占めるが、イラン国籍のクルド人も少なくなく、さらにISILの支配によるイラクやシリア情勢の緊迫化などに関連して、イラク・シリア国籍のクルド人なども出現した。そのような背景から、近年、来日するクルド人は増加し、一説には在日クルド人の総数は埼玉県内だけでも1,300人以上と推定されているが正確な統計は無い。日本とトルコの間には相互ビザ免除制度が適応されているために、観光ビザで入国しビザの期限が過ぎても滞在し難民申請を行うケースが多い。平成27年のトルコ国籍者の難民申請者数は926人と、全体では3番目に多くなっている[6]。川口市だけでもトルコ国籍者は平成28年には800人を超えており[7]、その大半がクルド人であると推定される。諸外国の中でもとりわけトルコ政府との良好な関係を持つ日本政府はトルコ国籍保持者はトルコ人(2015年末時点の不法滞在者を含まない合法的に滞在登録を行っている在日トルコ人数は4157人)と認定しているため、欧米諸国等でも行っているようなクルド人としての民族認定は行っておらず、日本にクルド民族がどの程度いるのかを把握することは難しい。, また、1990年代に来日した世代の2世も誕生しており、蕨市周辺には日本で生まれ育ったクルド移民2世の若者の姿をよく見かけるようになった。, 多くの在日クルド人はクルド語とトルコ語を混用して使用し、クルド人男性の大多数は日本語を習得している。日本で生まれ育ったクルド人の子などは3か国語を話す。在日クルド人はトルコ国内では制限されているクルド人の文化を自由に表現し、トルコでは政治的な側面から禁止されている"Runi"や"Rohat"という名前を子供に付ける人も多い。また、ネブロスと呼ばれるクルドの新年を祝う祭りなどを蕨市内の公園で盛大に祝う[8]、など、彼らはクルド文化を紹介するイベントを開催し、周辺住民と積極的に交流している。また、クルド人はもともと宗教的な民族ではなく世俗主義的であるため、イスラム主義とは距離を置いている人が多く、祈りをしない人も珍しくない。, クルド人は建設業や飲食業で働く人が少なくない。不法就労するものも少なくないが、日本人との婚姻等で永住権を取得するなどして合法的な就労ビザを取得した人の中には起業する人もおり、日本国内にはクルド人が設立した会社がおよそ20社ほどあるとされる。, クルド人が日本で定住を始めてから長い年月が経ち、生まれも育ちも日本というクルド人も生まれている。しかし、就労許可が無いために大学を卒業しても就労できない者が出るという問題も起きている[9]。, 2015年6月のトルコ総選挙でクルド人政党の国民民主主義党(HDP)が躍進して以降、トルコ政府がクルディスタン労働者党(PKK)を武装集団叛徒としてクルド人地域への空爆を行って多数の死者が出るなどトルコ政府とクルド人との対立は激化した。そのような中、2015年10月25日には11月1日に再び行われる総選挙の海外在外事前投票を行っていた在日トルコ大使館前でトルコ政府を支持する在日トルコ人とそれに反対する在日クルド人が乱闘となるなど、日本社会においても対立が表面化した[10]。, この事件について、2015年10月28日、在日クルド人団体の日本クルド文化協会は、騒動について謝罪し、トルコ人たちと対立する意思はない事を表明した。なお、この事件の原因は、クルド人とトルコ人双方が政党や武装組織の旗を掲げたことが原因とされるが、日本クルド文化協会は旗について否定した[11]。, トルコのクルド人に対しては、日本政府は一貫して“親日”のトルコ政府側に立つ。そのため、トルコのクルド人による難民認定の申請に対して、日本政府は難民と認めていない(難民認定は国内に政治的迫害が存在することを認める事であり、現在の良好な関係を損ねる原因になるため)。ただし、日本とトルコには、最大90日間の査証免除協定があるため、難民認定を目的とした渡日が心配されている。これに関して、警視庁公安部は、2006年11月から2007年4月にかけて、埼玉県に居住していたトルコ国籍クルド人8人を入管難民法違反容疑で逮捕した。2007年6月27日、公安部の調べでは、8人のうち数人はクルディスタン労働者党の支援者であると認めており、彼らがテロ活動の支援をしていた可能性があると見ているが、十分な証拠が見つからなかったため、全員の身柄を入管に引き渡した。彼らのうち数人はすでに強制退去となっている。, 2004年、クルド人の難民申請者の親子アフメット・カザンキランとラマザン・カザンキランが入国したが、不法入国としてトルコに強制送還された。彼らは国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が難民認定した難民であるが、日本側は日本の東京高等裁判所が「迫害はなかった」とする判決を出したことと、イギリスが2人の難民申請を却下したことを根拠として、難民として認定しなかった。2006年1月、彼らの家族はニュージーランドに難民申請を行って認められ同国に移住したが、息子のラマザンは兵役のためトルコに残った。2007年3月13日、出国可能となったラマザンはニュージーランドに出国し、家族と再会することができた。これは、『バックドロップ・クルディスタン』と言うドキュメンタリー映画となっている。, 2005年2月7日、東京入国管理局はトルコ国籍のクルド人を収容した。彼は、カザンキラン一家と同様、国連難民高等弁務官事務所から難民と認定されているが、東京入国管理局では難民と認定せず強制退去の処分を下した。これに対し、処分の取り消しを求める訴訟を起こし、上告中であったが、仮放免中には月に1回の出頭が義務づけられているため、東京入管に出頭し、そのまま収容された。, また、エルダル・ドーガン一家は1999年に来日し難民認定を求めたが、難民と認定されず強制退去の処分を下された。これに対し、処分の取り消しを求める訴訟を起こしたが、2006年に敗訴した。2007年5月、カナダ政府により難民申請が受け入れられ、2007年7月10日、エルダル・ドーガン一家はカナダに出国した。, http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/221102/042000211/?P=2&nextArw, http://www.moj.go.jp/nyuukokukanri/kouhou/nyuukokukanri03_00112.html, http://www.city.kawaguchi.lg.jp/kbn/04013058/04013058.html#t02, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=在日クルド人&oldid=79670519.