危急 (vulnerable): 5種 Lana`i hookbill (Dysmorodrepanis munroi): 絶滅 / 絶滅, Greater `amakihi (Hemignathus sagittirostris): 絶滅 / 絶滅, Lesser `akialoa (Hemignathus obscurus): 絶滅 / 絶滅, O`ahu`akialoa (Hemignathus ellisianus ellisianus): 絶滅 / 絶滅, Lana` i `akialoa (Hemignathus ellisianus lanaiensis): 絶滅 / 絶滅, O`ahu nukupu`u (Hemignathus lucidus lucidus): 絶滅 / 絶滅, O`ahu`alauahio (Paroreomyza maculata): 絶滅寸前 / 絶滅, Lana`i `alauahio (Paroreomyza montana montana): リスト外 / 絶滅, O`ahu`akepa (Loxops coccineus wolstenholmei): リスト外 / 絶滅, Laysan honeycreeper (Himatione sanguinea freethii): リスト外 / 絶滅, `O`u (Psittirostra psittacea): 絶滅寸前 / 絶滅危惧, Kaua`i `akialoa (Hemignathus ellisianus procerus): 絶滅 / 絶滅危惧, Kaua`i nukupu`u (Hemignathus lucidus hanapepe): 絶滅寸前 / 絶滅危惧, Maui nukupu`u (Hemignathus lucidus affinis): 絶滅寸前 / 絶滅危惧, Maui `akepa (Loxops coccineus ochraceus): 絶滅危惧 / 絶滅危惧, Po`ouli (Melamprosops phaeosoma): 絶滅寸前 / 絶滅危惧, Maui parrotbill (Pseudonestor xanthophrys): 絶滅寸前 / 絶滅危惧, Hawaii creeper (Oreomystis mana): 絶滅危惧 / 絶滅危惧, Hawaii `akepa (Loxops coccineus coccineus): 絶滅危惧 / 絶滅危惧, `Akikiki (Oreomystis bairdi): 絶滅寸前 / リスト候補, `Akeke`e (Loxops caeruleirostris): 絶滅寸前 / リスト外, Hawaii `amakihi (Hemignathus virens virens): 軽度の懸念 / リスト外, Maui `amakihi (Hemignathus virens wilsoni): 軽度の懸念 / リスト外, O`ahu `amakihi (Hemignathus flavus): 危急 / リスト外, Kaua`i `amakihi (Hemignathus kauaiensis): 危急 / リスト外, `Anianiau (Hemignathus parvus): 危急 / リスト外, Maui `alauahio (Paroreomyza montana newtoni): 絶滅危惧 / リスト外, `Apapane (Himatione sanguinea sanguinea): 軽度の懸念 / リスト外. 20世紀以降のハワイミツスイ類の絶滅や減少の主要因として、外来鳥類とともに持ち込まれた感染症が注目されてきました。鳥マラリアと鳥ポックスです。, 鳥マラリアとは、原生動物 Plasmodium 属の原虫により感染する病気で、吸血性の蚊によって媒介されます。ハワイでの移入時期は不明ですが、20世紀初期(1900-1960年)の愛鳥家による東南アジア産、南北アメリカ産、アフリカ産の(スズメ目の)放鳥によって持ち込まれた可能性が高いようです。外来鳥類は100以上の導入記録がありますが、結果として50種が帰化したと言われています。鳥マラリアは、1930年代にハワイ島において外来種であるソウシチョウとメジロから正式に記録されています。過去30年間の調査では、外来種よりも在来の森林性鳥類(ハワイミツスイ類を含む)で一貫して高い感染率が記録されています。, 鳥ポックスはAvipoxvirus 属ウィルスの接触感染による病気で、主に吸血節足動物(蚊など)により感染が広まります。移入時期はこれまた不明ですが、19世紀の終わりには病症の記録あります。また、18世紀の終わりまで生息していた在来鳥類の博物館標本から、PCRによって増幅したDNA産物が記録されています。, いずれの感染症も、もともとハワイにはなかったものです。ハワイで独自に進化してきた鳥類では抵抗性が低く、感染後に死亡する個体が多いことが致命的でした。一方、外来鳥類には抵抗性があるものも多く、感染しても必ずしもすぐに死なないため、これが感染を広げた要因でもあります。, これら感染症を媒介する有力な蚊としてネッタイイエカ(Culex quinquefasciatus)がいます。もともとハワイには蚊は分布していませんでしたが、本種は19世紀にハワイ諸島に持ち込まれたと考えられています。, 感染症がハワイミツスイ類などに与える影響が実験的に調べられるようになったのは、1950年代になってのことです。カウアイ島の低地に、在来の森林性鳥類4種、ライサンフィンチ (Telespiza cantans)とアパパネ(Himatione sanguinea sanguinea)、カウアイアマキヒ(Hemignathus kauaiensis)、アニアニアウ (Hemignathus parvus) を鳥かごにいれて野外に放置し蚊の吸血にさらしました。その結果、かごに入れられた個体は、鳥マラリアや鳥ポックスで次々に死亡しました。このシンプルで明快な実験を足がかりに、1970年代にハワイ島で詳細な調査が行われ、鳥マラリアによる在来鳥類への影響が明らかになってきたというわけです。, ただし、鳥マラリアや鳥ポックスが絶滅の直接要因であるという証拠は十分ではありません。例えば、鳥マラリアが正式に発見される以前、つまり19世紀の終わりに最初の絶滅の波が、そして1910年より後に再び波があったからです。しかも、鳥マラリアなどの本格的調査が行われる1970年代より以前の記録は、私的観察が主流であり証拠が十分ではないというわけです。, いずれにせよ、これら感染症によってハワイミツスイ類を含む森林性鳥類が劇的に減少したのは確かです。それは、ベクターである蚊の分布と在来鳥類の分布からも明らかになっています。ベクターである蚊は標高600mより高くなると急速に個体群密度を減らします(しかし2500mまで蚊は分布する)。標高1500mより下では、蚊の個体数と在来鳥類の個体数が負の相関を示しています。また、鳥マラリアへの耐性を調べたところ、耐性が低い種の密度は、1500mよりも高い地域でピークがあります。つまり、蚊による感染症の拡大で、低い標高域では多くの種が姿を消し、蚊の繁殖が低調な高標高域にのみに見られるようになったというわけです, ハワイ島において標高にそった、在来鳥類、鳥マラリア、蚊の相対的な個体数/頻度(van Riper et al. ブログを報告する. ペストの歴史においては、過去に3度のパンデミックが確認されている。 発生日、収束日、どのパンデミックに分類するかについてはまだ議論が存在する 。. ペストの歴史においては、過去に3度のパンデミックが確認されている。 発生日、収束日、どのパンデミックに分類するかについてはまだ議論が存在する 。. 参考文献 軽度の懸念 (least concern): 3種 リスト候補 (candidate for listing): 1種 絶滅危惧 (endangered): 6種 古くからハワイ諸島で暮らしてきた人々は、西欧人との接触によってさまざまな伝染病に罹りました。その結果、当時の人口が10分の1になるほど深刻な影響を被ったのです。ハンセン病もまた、そうした伝染病のひとつでした。 ‚±‚Æ‚Í‚È‚­‚È‚éB, @ˆÈãƒnƒƒC•a‘΍ô‚ð‘‚¢‚Ä‚Ý‚Ü‚µ‚½‚ªA‘‚¢‚Ä‚¢‚邤‚¿‚ɁAŽÀ‚Í‚±‚ê‚ÍŽ©•ª‚ÌŽ–‚¾A‚Æ‚¢‚¤‚±‚Æ‚ª‚æ‚­‚í‚©‚è‚Ü‚µ‚½B. 絶滅 (extinct):14種 ハワイでは特筆すべき風土病はありませんが,過去には蚊に刺されて発熱するデング熱や,ネズミ,マングース等の動物が媒介するレプトスピラ症,ネズミ,ナメクジ等の動物が媒介する広東住血線虫症などの発生が認められています。 4 医療事情 ハワイ諸島での絶滅や種の保全、外来種による影響などを語る上で欠かせない事例としてハワイミツスイ類があります。あまりに有名な話なので、これまで特別にとりあげてきませんでしたが、2009年に良い総説論文が出ていたのでそれを含めてざっと紹介しておきます。 Ecological Monographs 56:327-344. 絶滅 (extinct):17種 リスト外 (nd): 3種, 合衆国リスト (1986) The epizootiology and ecological significance of malaria in Hawaiian land birds. ハワイ島におけるデング熱対策の非常事態宣言が遅きに失したとの批判を受けたことから、ジカ熱は拡大する前に手を打つことにしたのではないでしょうか? 観光が一番の産業であるハワイで、伝染病が広がるのは大きなイメージダウンです。 ハワイでは、1830年頃からサトウキビ畑や製糖工場で働く移民を求めていました。 というのも、白人が来るようになって、それまでハワイになかった伝染病が流行るようになったからです。 触るな危険、カタツムリが運ぶ死の感染症が増加している… 2017.04.13 12:10; 235,681. mayumine リスト外 (nd): 9種. Van Riper C et al. ハワイ諸島での絶滅や種の保全、外来種による影響などを語る上で欠かせない事例としてハワイミツスイ類があります。あまりに有名な話なので、これまで特別にとりあげてきませんでしたが、2009年に良い総説論文が出ていたのでそれを含めてざっと紹介しておきます。, ハワイミツスイ類(ハワイミツスイ亜科:Drepanidinae) は「ハニークリーパー(honeycreeper)」と呼ばれ、新大陸からやってきた1祖先種から20属50種以上に分化したと言われているハワイ固有の鳥類です。同じくガラパゴス諸島で適応放散したダーウィンフィンチ以上にその形態(色彩、嘴の形)の多様性が高いことで知られています。例えば、黒い羽毛をもつものから赤い羽毛をもつ種、イカルのような嘴をもつものから花吸蜜に特殊化した嘴をもつ種などが知られています。, しかし、古くから入植した人々によって生息地(主に森林)が奪われ、一部の種は装飾目的で乱獲されてきました。これによって多くの種が失われ、さらに西洋人の入植後、外来鳥類が持ち込んだ鳥マラリアなどの感染症の蔓延でさらなる種が絶滅したと言われています。, 近代まで生存が確認されていた41種のうち、17種がすでに絶滅し、13種が絶滅寸前にある状態です。わずか3種だけが比較的安定して生息していると言われています。, ハワイミツスイ類の多様な形態(すべて絶滅種:左上 オオ Moho nobilis;右上 ライサンミツスイ Himatione sanguinea freethii;左下 アキアロア Hemignathus ellisianus;右下 ハワイマシコ Chloridops kona), IUCNレッドリスト žã«ãŠã‘るデング熱の流行(感染が疑われる場合には、早期に医療機関を受診してください。)(その2), 狂犬病~もし咬まれたら,すぐに医療機関へ. (2009) Introduced avian diseases, climate change, and the future of Hawaiian honeycreepers. Journal of Avian Medicine and Surgery 23(1):53-63. 1986より), ただし、ハワイミツスイ類でも、鳥マラリアによる耐性は異なっているようで、例えば、イイウィ(Vestiaria coccinea)の方がアパパネ(Himatione sanguinea sanguinea)よりも感染後の死亡率が極めて高いことが報告されています。, ハワイミツスイ類を脅かす要因は、感染症だけではありません。外来鳥類との資源をめぐる競争や、クマネズミが営巣中のハワイミツスイ類を襲う可能性も指摘されています。, 21世紀になって新たな問題も認識されるようになりつつあります。「地球温暖化」です。ハワイ諸島は、東のハワイ島からマウイ島、オアフ島、カウアイ島にかけて西にいくに従い、標高が低くなっています。ハワイ島には4000mをこえる山があるし、マウイ島にも3000mをこえる山があります。ところが、オアフ島やカウアイ島には1000m台の山しかありません。オアフ島では高所にわずかな種(アパパネとイイウィなど、しかしイイウィは絶滅寸前)が残存するのみです。もし、今後気温が上昇するようなら、感染病のベクターである蚊の分布域がより高い地域に移動し、ハワイミツスイ類の生息域がますます狭くなってしまうことでしょう。この問題に関しては、ハワイだけで解決できる問題ではありません。, ただし朗報もあります。近年の調査によって、一部のハワイミツスイ類では、標高300mで個体群密度を増やしている種がいることが発見されました。これは、ハワイミツスイ類の中に、鳥マラリアに対する耐性が進化してきたことを示しているのかもしれません。. 絶滅危惧 (endangered): 14種 Atkinson CT, LaPointe DA. ハワイ大好き人間がかかるハワイ病. Van Riper C et al. | 白人持ち込んだ伝染病で現地の人が多数死亡. ハワイでは特筆すべき風土病はありませんが,過去には蚊に刺されて発熱するデング熱や,ネズミ,マングース等の動物が媒介するレプトスピラ症,ネズミ,ナメクジ等の動物が媒介する広東住血線虫症などの発生が認められています。 4 医療事情 1492年、コロンブスによるアメリカ大陸発見。ヨーロッパ人にとっては「発見」でしたが、そこに代々住み生活していた人びとにとっては「侵略」のはじまりでした。〈インディアン〉(この記事では北米ネイティヴ・アメリカンを示すために〈インディア… 第一のパンデミックは、西暦541-750年、エジプトから地中海(ユスチニアのペスト)、ヨーロッパ北西部まで広がった 。 症状 ハワイが好きで好きでしょうがない人たちが大勢いるらしい。ハワイ病と呼ぶ。伝染率はそれほどでもないが罹患率はかなり高い。海外旅行に免疫の無い人間ほど罹りやすいような気がする。 Ecological Monographs 56:327-344. 引用文献  9000012040001, https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_221.html#target02, https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/iyakuhin/yakubuturanyou/index_00005.html, https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_221.html#target03, http://www.honolulupd.org/information/index.php?page=dv, https://www.mofa.go.jp/mofaj/ca/ha/page22_001736.html, https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/hague/index.html, https://help.cbp.gov/app/answers/detail/a_id/3643/, https://www.ezairyu.mofa.go.jp/RRnet/index.html, https://www.ezairyu.mofa.go.jp/tabireg/index.html, https://www.anzen.mofa.go.jp/medi/usa_medi.html, https://www.honolulu.us.emb-japan.go.jp/itprtop_en/index.html. 新型コロナウイルスについては、「感染症危険情報」を確認してください。 国・地域によっては、新型コロナウイルスに関して、日本からの渡航者に対する入国制限措置及び入国後の行動制限措置をとっている場合もありますので、渡航をお考えの方は必ず こちら をご確認ください。 Atkinson CT, LaPointe DA. また、マムルーク朝下の学者であったマクリーズィーは『エジプト地誌』の序文で、1403-1404年にかけて起こったペストの流行で自身も感染を経験し、多くの住民が死亡したり都市や農村が荒廃したことを述べた上で、自分の力の及ぶ限り現在に伝わっているマムルーク朝の状態を伝えておきたいと述べている。[18], その後も、ペストは何度か流行しているが、17世紀は、14世紀とともに小氷期によりヨーロッパの気候が寒冷化し、ペストが大流行して飢饉が起こり、英蘭戦争や三十年戦争をはじめとする戦乱の多発によって人口が激減したため、「危機の時代」と呼ばれた[要出典]。いっぽう、中国の歴史地理学者曹樹基によれば、16世紀から17世紀にかけての明末清初期の華北では、合計1000万人がペストで死亡し、人口動態の面でも大変化があったとしている[19]。, ペスト菌の存在がわからなかった時代には大流行のたびに原因が特定の人びとにおしつけられ、魔女狩りが行われたり、特にユダヤ教徒をスケープゴートとして迫害する事件が続発した。清教徒革命を経て王政復古後のロンドンで1665年に流行したペストでは、およそ7万人が亡くなっており、のちに『ロビンソン・クルーソー』を刊行して有名になったダニエル・デフォーは、『疫病の年』("A Journal of the Plague Year", 1722年)を著して当時の状況を克明に描写している。, 19世紀末、中国を起源とするペストが世界中にひろがった。これは、雲南省で1855年に大流行した腺ペストを起源とするものであり、1894年(明治27年)の香港での大流行をきっかけとして世界的に拡大した。ロベルト・コッホに師事した北里柴三郎は日本政府により香港に調査派遣され、腺ペストの病原菌を共同発見した。同じ年のほぼ同時に、パスツール研究所の細菌学者で、スイスとフランスで活躍した医師アレクサンダー・イェルサンもペスト菌を発見し、これを発表した。こうしてペストの原因が、はじめて確定された。, こののち、北里の研究により腺ペストを治す方法は抗血清によって確立されたが、出血熱に関してはいまだ有効な治療法が確立されていない。, このときの中国発の腺ペストは、20世紀初頭、中国の東部沿岸地域や台湾、日本、ハワイ諸島をはじめ、さらにアメリカ合衆国、東南アジアから南アジアの各地にも広がった[注釈 2]。ペストの世界的な広がりの背景にあったのは、植民地主義の展開のもとでなされた交通体系の整備や商品流通の活性化、人間の移動などにより互いに各地が緊密な関係をもつにいたったことがあげられる[20]。その一方で、感染症の有無によって「清潔」「不潔」の観念が生じ、また、その観念が一般化して、中国人に対する差別的な検疫や入国制限などもおこなわれた[20]。1902年(明治35年)、東京・横浜地方でもペストが発生したため、役所がネズミ1匹を5銭(のち3銭)で買い上げるという措置を講じ、媒介者たるネズミの駆除に乗り出している[21]。ネズミの買い上げは、横浜市の場合、市役所の衛生課、衛生組合事務所、警察署、巡査派出所、巡査駐在所が管轄しており[21]、当時の『国民新聞』によれば1905年(明治38年)3月の時点ですでにネズミ買い上げ金総計が4万円を突破している[22]。, 1910年から翌1911年にかけては、清朝末期の満州で肺ペストが流行した。ロシア帝国と日本は、ペスト対策の実施を口実として満州進出の拡大を企図するが、清朝政府は1911年、奉天で国際ペスト会議(奉天国際鼠疫会議)を開き、日露に限らずアメリカ合衆国やメキシコ、英・独・仏・伊・蘭・墺など数多くの外国代表をその会議に招くことで日露両国の影響力の低減をはかった[20]。これは、帝国主義のもと、感染症とその対策が政治問題化した好例である。, 第3次の流行で最大の被害を受けた国はインドであった。第二次世界大戦までに死亡者は1200万人以上に達したといわれる[6]。また、インドでは1994年にもペストが発生し、パニックが起こるほどであった。日本では、明治になって国外から侵入したのが初のペスト流行であるとされている。第二次世界大戦後はしばらくのあいだ流行は沈静化していたが、1960年代のヴェトナムでペストが大流行し、死者が年間1万人に達する年もあったといわれる。ベトナム戦争等による社会秩序の混乱が伝染病の蔓延を促進した典型例といわれる[6]。, なお、アルベール・カミュによって、ペストに襲われたアルジェリアのオラン市を舞台とした小説『ペスト』が発表されたのは1947年のことであった。, 一方では、労働力不足を経済外的な強制力で補おうとする領主による封建的反動もおこっている。フランス北東部では、, 各港は、ペストが交易船を媒介として広まることがわかると、感染地からの船舶の寄港を禁止した。ヴェネツィアでは、東方から寄港する船舶を沖合の島に40日間停泊させて、その隔離期間のなかで感染の有無を確かめさせた。, 飯島渉は、19世紀末から20世紀初頭にかけて流行したペストが雲南起源であったことが、マクニールに中世ヨーロッパのペストが雲南起源でモンゴル帝国によって媒介されたという着想をあたえたのではないかとしている。, https://books.google.com/books?id=F3bNWrVRMb8C, https://books.google.com/books?id=5KtDfvlSrDAC, CNN - A history of the plague in China, from ancient times to Mao -- and now, Black Death - Cause and outbreak - Britannica, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ペストの歴史&oldid=79828096. ペストの歴史においては、過去に3度のパンデミックが確認されている。発生日、収束日、どのパンデミックに分類するかについてはまだ議論が存在する[1]。, しかし中世の黒死病は、第二のパンデミック初期ではなく、第一のパンデミック末期とみなされることもある。その場合は二番目のパンデミックの始まりは1361年となる。また第二のパンデミック収束日も、文献によりさまざまである(1840年ではなく1890年という記載もある[1]。, ペロポネソス戦争のさなかの紀元前429年、篭城戦術を用いてスパルタ軍と対峙していたギリシャ最大のポリス、アテナイ(アテネ)を感染症の流行が襲い、多数の犠牲者を出した事がトゥキュディデスの『戦史』2巻に記載されている[4]。この疫病は、発熱、発疹を症状とする致死性の疾患で、かつて「アテナイのペスト」と呼ばれていた時期もあった[5]が、様々な感染症の可能性を示しており[4]、具体的な疾病名の推測は不可能とされる[4]。但し、記録に残る症状の分析により、今日では痘瘡(天然痘)または発疹チフス(あるいはそれらの同時流行)と考えられており、ペスト説は完全に否定されていると言ってよい。これは有名な歴史家トゥキディデス自身がかかり回復した記録から判明した(激しい頭痛、目の炎症、喀血、咳、くしゃみ、胸痛、胃けいれん、嘔吐、下痢、高度の発熱)。, なお、古代ギリシャ最大の民主政治家として知られ、アテナイにおいてペロポネソス戦争を主導したペリクレスもこの疫病で死亡しており、この戦争でのアテナイの敗北およびデロス同盟の解体を招いた。, なお、トゥキディデス著『戦史』によれば、「アテナイのペスト」はペロポネソス戦争時に流行したため、アテナイでは敵のスパルタ側が貯水池に毒を投げ込んだという噂がながれたという[6]。, 165年から180年に流行が起こり、感染した人の25%から33%が死亡し、350万から700万人ほどの人々が死んだ[7]。「アントニヌス帝(マルクス・アウレリウス・アントニヌス)のペスト」とも呼ばれる。, 記録に残る歴史的な感染症の流行のうち、現代医学で言うところのペストと同じ症状と推定される感染症の最初の流行は、542年から543年にかけてユスティニアヌス1世(在位527年-565年)治下の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)で流行したペストであり、現代の病態分類では腺ペストと推定されている[8]。, 東ローマ皇帝ユスティニアヌス自身も感染したため「ユスティニアヌスの斑点」ないし「ユスティニアヌスのペスト」と呼ばれた[8]。エジプトのペルーシウムからパレスティナ地方へ、さらには帝都コンスタンティノープルへと広がって多くの死者が発生し、人口の約半数を失って、帝国は一時機能不全に陥るほどであったという。, 542年には旧西ローマ帝国の領域に侵入し、ブリテン島周辺には547年に、フランスへは567年に広がって、ヨーロッパ、近東、アジアにおいて最初の発生から約60年にわたって流行し続けたと記録されている[8]。ユスティニアヌス自身は感染したものの軽症で済み、数ヶ月で回復したといわれている。コンスタンティノープルでは、流行の最盛期には毎日5,000人から10,000人もの死亡者が出て、製粉所とパン屋が農業生産の不振により操業停止に陥ったとさえいわれている[8]。, 一説によれば、ペスト流行による東地中海沿岸地域の人口の急減のために「東ローマ帝国による統一ローマの再建」というユスティニアヌスの理想は挫折を余儀なくされたのに対し、アルプス山脈以北の西ヨーロッパ世界はいまだ交通網が未発達で、ゲルマン民族大移動以後の荒廃もあって自給自足経済の要素が強く、ペストの流行が相対的に軽くすんだために、それ以降の発展が可能になったともいわれている[6]。, 14世紀のヨーロッパで猛威をふるったペストは、感染すると、2日ないし7日で発熱し、皮膚に黒紫色の斑点や腫瘍ができるところから「黒死病」(Black Death)と呼ばれた。カナダ出身の歴史家ウィリアム・ハーディー・マクニールによれば、「黒死病」は、中国の雲南省地方に侵攻したモンゴル軍がペスト菌を媒介するノミと感染したネズミを中世ヨーロッパにもたらしたことによって大流行したものである[9]。マクニールの説(『疾病と世界史』、原著は1976年)では中国の雲南省~ビルマから拡がったか、あるいは満州~モンゴル高原の草原に生息する穴居性齧歯類が感染源であろうと推測している[9]。しかし、歴史家のウィンストン・ブラックによれば、2000年代から始まった当時のペスト犠牲者の人骨のDNA研究やペスト菌の遺伝子分析の結果から考えると中国起源説は可能性が低く、おそらく中央アジアが起源であろうとしている[10]。現在のところ、中央アジア起源説と中国起源説(雲南~ビルマあるいは満州~モンゴル高原)が有力である[11]。ただし、科学史家の村上陽一郎によって中東起源説も提起されている[12]。, ペストは、1320年頃から1330年頃にかけては中国で大流行し、ヨーロッパへ上陸する前後にはマムルーク朝などイスラム世界でも猛威をふるっている。この病気が14世紀のヨーロッパ全体に拡大したのは、モンゴル帝国によってユーラシア大陸の東西を結ぶ交易が盛んになったことが背景になっている。当時、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサなどの北イタリア諸都市は、南ドイツの銀、毛織物、スラヴ人奴隷などを対価とし、アジアの香辛料、絹織物、宝石などの取引で富を獲得していた。こうしたイスラームとヨーロッパの交易の中心となっていたのは、インド洋、紅海、地中海を結ぶエジプトのアレクサンドリアであり、当時はマムルーク朝が支配していた[要出典]。, 近年の遺伝学等の研究成果により流行の発信地だと目されているものの、残された記録が乏しく外部の観察者による記録に頼っている。一例を挙げれば、あるアラブ人が書いた報告書によると、1347年にペストがクリミア半島に上陸する前にユーラシア草原西部に位置するウズベクのある村々は流行によって完全に無人化したという[9]。, マクニールによれば、「1331年に河北で疫病が発生し人口の9割が死んだ」という記録があることから、早ければ1331年に(ヨーロッパに先んじて)中国でペストの流行が始まった可能性を指摘している。また、1353-1354年にかけて中国内の8か所の遠く離れた別々の場所(山西、湖北、河北、江西、湖南、広東、広西、綏遠)で流行し、一部地域では住民の3分の2が死亡した[9]。伝統的な中国の編年史はモンゴル人の蛮行を強調しようとするが、1200年と1393年の間の中国の人口半減をよく説明し得るものはモンゴル人の蛮行ではなくペストの蔓延であった[9]。, 1347年10月、ペストは、中央アジアからクリミア半島を経由してシチリア島に上陸し、またたく間に内陸部へと拡大した[13]。コンスタンティノープルから出港した12隻のガレー船の船団がシチリアの港町メッシーナに到着したのが発端といわれる。ヨーロッパに運ばれた毛皮についていたノミに寄生し、そのノミによってクマネズミが感染し、船の積み荷などとともに、海路に沿ってペスト菌が広がったのではないかと推定されている。ペストはまず、当時の交易路に沿ってジェノヴァやピサ、ヴェネツィア、サルディーニャ島、コルス島、マルセイユへと広がった[注釈 1]。1348年にはアルプス以北のヨーロッパにも伝わり、14世紀末まで3回の大流行と多くの小流行を繰り返し、猛威を振るった。正確な統計はないが全世界で8500万人、当時のヨーロッパ人口の3分の1から3分の2にあたる約2000万から3000万人前後、イギリスやフランスでは過半数が死亡したと推定されている。場所によっては60パーセントの人が亡くなった地域もあった[14]。, この疫病がヨーロッパに到達した数か月ののち、ローマ教皇クレメンス6世は、当時のカトリック教会の総本山のあったアヴィニョンより逃亡したが、そのいっぽうで教皇の侍医長であった外科医ギー・ド・ショーリアックはアヴィニョンにとどまる勇気を示している[14]。また、腺ペストに特徴的なリンパ節の腫瘍は「腫れ物」と称され、人類のみならずイヌやネコ、鳥やラクダ、ライオンさえをも苦しめた[14]。, このときのペストの流行ではユダヤ教徒の犠牲者が少なかったとされているが、ユダヤ教徒が井戸へ毒を投げ込んだ等のデマが広まり、ジュネーヴなどの都市では迫害や虐殺の対象となった[13]。ユダヤ教徒に被害が少なかったのはミツワーにのっとった生活のためにキリスト教徒より衛生的であったという説がある一方、実際にはゲットーでの生活もそれほど衛生的ではなかったとの考証もある[要出典]。, 黒死病は、ヨーロッパの社会、特に農奴制(領主の側からみれば荘園制)に大きな影響をおよぼした。農村人口の激減はかえって封建領主に対する農民の地位を高めることとなった。たとえば、イギリスでは労働者の不足に対処するため、国王エドワード3世が1349年にペスト流行以前の賃金を固定することなどを勅令で定めている。それ以外にも、領主は地代を軽減したり、農民保有地の売買を認めるなど、農民の待遇改善に努力するようになった[要出典]。, 一方では、労働力不足を経済外的な強制力で補おうとする領主による封建的反動もおこっている。フランス北東部では、1358年に百年戦争とペストの流行による農村の荒廃、領主の農奴制強化に対する反抗などを背景としてジャックリーの乱が起こり、また、イングランドでも1381年にワット・タイラーの乱が起こっており、いずれも、当時の封建反動に抵抗して起こった農民反乱であった[要出典]。, イングランド、フランス両国においては百年戦争によって封建領主が没落するいっぽう王権の伸張がはかられ、中央集権国家へと脱皮していった。聖職者を失った教会も混乱し、人手不足による賃金の急騰、ヨーロッパ全体における戦争の停止など「黒死病」の政治的・社会的影響は多岐にわたった。, また当時は、黒死病が蔓延したことを、神が下した罰ととらえ贖罪のため身体に鞭をあてて各地を遍歴する行者も多数あらわれ、医師のなかには、腫れ物を切開したり、毒蛇の肉を薬と称して与えたり、また、予防として香草や酒精を用いることを勧める者も少なくなかったという[13]。免疫をつけるために便所や下水にかがみこんで悪臭を吸い込もうとする人びとまであらわれた[14]。「メメント・モリ(memento mori, 死を思え)」という標語が流布し、どのような態度や振る舞いをとったら無事に天に召されるかを説いた「往生術」についてもさかんに著作がなされた。黒死病の流行は、「死の舞踏」はじめ絵画や文学のテーマにも大きな影響をあたえたのである。, ルネサンス初期の著名な文学者ジョヴァンニ・ボッカッチョが1349年から1353年にかけて著した『デカメロン』(十日物語)[15] は、, さて神の子の降誕から、歳月が、1348年目に達したころ、イタリアのすべての都市の中ですぐれて最も美しい有名なフィレンツェの町に、恐ろしい悪疫が流行しました。ことの起こりは、数年前東方諸国に始まって無数の生霊を滅ぼしたのち、休止することなく次から次へと蔓延して、禍災(わざわい)なことには西方の国へも伝染して来たものでございました。, で書き出されており、ペストの流行についてふれている。『デカメロン』は、ペストを逃れて郊外に住んだフィレンツェの富裕な市民男女10人が、10日間にわたり、1日1話ずつ語り合うという設定で著されており、社交・機知・ユーモア・エロスに富む人文主義の傑作とされているが、ペストの恐怖からの心理的逃避が背景となっている[16]。また、フィレンツェの詩人で人文主義者ペトラルカが思いを寄せた少女ラウラもペストのために命を失っている。, 前掲マクニールに師事したジョン・ケリーは、黒死病の拡大に重要な役割を果たしたのは、13世紀にモンゴル人がユーラシア大陸に巨大な帝国(モンゴル帝国)をつくりあげたことであると述べ、これにより、広い範囲での貿易や旅行が可能になってジャムチ(駅伝制度)など通信網の発達が格段に進んだことに起因するとの見解を表明している[14]。, 14世紀の黒死病は、今日まで腺ペストとみなされ、ネズミが媒介するペスト菌により起きたものと考えられてきたが、リヴァプール大学のクリストファー・ダンカン(動物学)とスーザン・スコット(社会歴史学)は、キリスト教会の古記録や遺言、当時の日記などを詳細に調べて検討し、2004年に『黒死病の再来』("Return of the Black Death")を著し、黒死病は腺ペストではなく動物由来感染症による出血熱ではなかったかとの異論を唱えており[8]、反響を呼んでいる。しかし、ケリーはDNA鑑定の結果などをもとにダンカンらの見解を退け、黒死病はペストの大流行であったと結んでいる[17]。, 北アフリカでもヨーロッパと同時期に流行が始まった。1348/1349年にはハフス朝のチュニスで勉学の身であったイブン・ハルドゥーン(当時16歳)はチュニスでのペスト流行により少年時代に習った教師のほとんどが死亡し、自身の両親も死亡したため孤児となった。[18] 種の大量絶滅、外来種、感染症、地球温暖、保全など多くのトピックが関連する教科書的な事例です。あらためて紹介するほどでもありませんが、個人的なメモとして書き留めておいたということで。, naturalist2008さんは、はてなブログを使っています。あなたもはてなブログをはじめてみませんか?, Powered by Hatena Blog Journal of Avian Medicine and Surgery 23(1):53-63. 第一のパンデミックは、西暦541-750年、エジプトから地中海(ユスチニアのペスト)、ヨーロッパ北西部まで広がった 。 (2009) Introduced avian diseases, climate change, and the future of Hawaiian honeycreepers. 絶滅寸前 (critically endangered): 10種 (1986) The epizootiology and ecological significance of malaria in Hawaiian land birds.