日本とアメリカの間で繰り広げられた太平洋戦争(1941~45年)における最大級の総力戦、それがこのミッドウェイ海戦だ。 42年、北太平洋のハワイ諸島北西のミッドウェイ島。� 史実に着想を得たコミック『アルキメデスの大戦』が、待望の実写映画化された!第二次世界大戦前夜の日本海軍の建艦計画など、軍事技術を軸に歴史に埋もれた物語を取り上げ、漫画家・三田紀房がコミックとして世に発表した『アルキメデスの大戦』。話題の作品が実写... 連載コラム「邦画特撮大全」第54章2019年7月26日より公開される『アルキメデスの大戦』。戦艦大和の建造を巡る人間ドラマで、山崎貴監督のVFXによって戦艦大和が描かれます。(C)2019「アルキメデスの大戦」製作委員会今回の邦画特撮大全は、かつて実写特撮によって戦... 豊川悦司×エメリッヒ映画『ミッドウェイ』あらすじとキャスト。日本公開は2020年秋... 映画『アルキメデスの大戦』ネタバレ感想と解説レビュー。巨大戦艦の建造と戦争を... 映画『連合艦隊』あらすじと感想評価。戦艦大和の悲劇を二つの家族の悲劇を通じて... 『罪の声』小説あらすじネタバレ。犯人9人は映画化キャストで誰になるのか⁈【予想解説】, 『ミッドナイトスワン』小説と映画の結末の違いをネタバレ考察!ラストまで続く内田英治監督の細かい心理描写|映画という星空を知るひとよ30, 映画『罪の声』ネタバレあらすじと感想レビュー。実在の未解決事件の真相を解き明かすミステリー!, 『きみの瞳が問いかけている』ネタバレ感想とラスト考察。映画は横浜流星のキックボクシングに魅了される, 映画The Witch魔女|ネタバレ感想。ラスト結末までノワール・SFサイキック・バイオレンスが作り込まれた秀作, 『さくら』小説ネタバレと結末までのあらすじ解説。西加奈子原作の一匹の老犬が見守る家族のヒストリー|永遠の未完成これ完成である16, 『来る』ネタバレ感想と考察。ホラー映画に登場したアレの正体を解説【オムライスのくにへいってみたいの意味も】, 映画『ばるぼら』あらすじと感想。二階堂ふみがヌードの濡れ場で稲垣吾郎を相手に手塚漫画に挑む|TIFF2019リポート23, 『朝が来る』原作小説ネタバレと結末までのあらすじ。映画で母としての女性の生き方はどう描かれるか考察|永遠の未完成これ完成である7, 『ミッドナイトスワン』ラスト感想と評判解説。最後の海で世界へと飛び立っていく“二人”の美しい白鳥の姿. Office of Navy Intelligence, The Battle of Midway: June3-June 6, 1942, p.55. 巨匠ローランド・エメリッヒ×日米豪華キャスト競演!巨匠ローランド・エメリッヒが構想20年・製作費120億をかけて、真珠湾攻撃からミッドウェイ海戦までを史実に基づき描いたスペクタクル超大作『MIDWAY』(原題)が2020年秋に日本公開されることが正式決定しました。... 以下、『ミッドウェイ 運命の海』のネタバレ・結末の記載がございます。『ミッドウェイ 運命の海』をまだご覧になっていない方、ストーリーのラストを知りたくない方はご注意ください。. "という見出しの特ダネ記事として報じられた[669][670][671]。シカゴ・トリビューン社は、フランク・ノックス海軍長官が経営するシカゴ・デイリー・ニュース社と競合する反ニューディール派の新聞社だった。この記事はアメリカ側で大問題となり、日本側が暗号被解読を察知する機会は存在していた。, この図上演習は、AL作戦では、空母隼鷹、龍驤が濃霧の中、アメリカ軍水上部隊の襲撃を受け撃沈判定となり, 『第1航空艦隊戦闘詳報(1)』pp.13-14、『輸送船鹿野丸の最後 其の1(2)』p.8, 『第1航空艦隊戦闘詳報(1)』pp.23-24「所謂基礎訓練を実施せるに過ぎず。編隊空戦は一部旧搭乗員をして3機程度のものを実施せり」, 「輸送船鹿野丸の最後 其の1(2)」p.4、「特設船あるぜんちな丸戦時日誌戦闘詳報」p.29, 「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」p.3、「輸送船鹿野丸の最後 其の1 (2)」p.22、「特設船あるぜんちな丸戦時日誌戦闘詳報」pp.36-37、, 「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」p.4「月明かりを利用して来攻せる敵飛行機1機の雷撃により"あけぼの丸"艦首に若干の被害あり」、, 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.2,60、「飛龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」p.56, 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.19「偵察隊編成。右の他、第8戦隊、2D/3S、十三試艦爆偵察あり」, 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」p.32、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.29, 豊田穣『豊田穣戦記文学集2 ミッドウェー海戦』講談社 316、317、324、331頁, 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.30、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.6、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」p.20, 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.31、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.24(蒼龍戦闘詳報)、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.22(飛龍戦闘詳報), 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.11「0445:敵艦隊攻撃準備、攻撃機雷装、其の侭」, 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.30、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」p.21、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.8、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.2, 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.16「筑摩艦長→8S(午前6時20分光):午前6時30分発進の予定。(午前6時53分光)タナ5、5号機発艦(午前6時35分)」, 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.15「タナ2、零式水偵を発進、利根4号機の発見せし敵に触接せしめよ」, 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」p.21、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.17、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.2, 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.50、57、「蒼龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」pp.55、57, 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.47「所見:敵雷撃機に味方戦闘機過集中の傾向大なり」, 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.39「各母艦共主としてこの雷撃機に対し回避しありし時」, 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.44、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.42「0725:敵艦爆(12機)、母艦上空高度4000米に発見、爆撃により母艦に3弾命中火災」, 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.26、「赤城飛行機隊戦闘行動調書(2)」p.32、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」p.34、, Jonathan Parshall, Anthony Tully: Shattered Sword: The Untold Story of the Battle of Midway, Washington 2005、p.241-242, 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.18、34、「飛龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」p.61、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.2、30-31, 「第1航空艦隊戦闘詳報(4)」p.1「25番通12、同陸6。エンタープライズ型25番通5、同陸1」, 「蒼龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」p.54、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.66「0800:敵艦上機1機発見、之を追跡す」「0810:敵機動部隊発見、触接開始」「0830:我敵航空部隊見ゆ。地点ミッドウェー5度、120浬、針路80度、速力25ノット」「0840:敵航空部隊は空母3隻を基幹とし駆逐艦22隻をともなう」, 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.33「0837:敵航空部隊見ゆ、ミッドウェーよりの方位4度、150浬」「0840:敵航空部隊は空母3隻を基幹とし駆逐艦22隻を伴ふ(0840)」, 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.34「0845:触接を止む(〇八四五)」(機動部隊受信0854), 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.34「偶々電信機故障の為通信不能にて、帰投後の報告により(以下略)」, 「赤城飛行機隊戦闘行動調書(2)」pp.31-32、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」p.34。白根大尉、菊地、小山内、大森、井石、石田、木村, 「加賀飛行機隊戦闘行動調書」pp.24、26-27、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.11-12, 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.45、59、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.36-37, 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.18、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.12, 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.34、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.11, 「加賀飛行機隊戦闘行動調書」p.24、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.18、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.13, 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.69。「別紙第一、発受信記録、略(資料なし)」, 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.16「尾部方向舵の指揮官機マークを確認す」, 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.35、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.3,15-16。, 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.19「雷撃終了後、該空母の西方約30浬乃至40浬に第一次敵空母攻撃に依り大火災を生じたる空母と覚しき炎上中の艦船の爆発らしき褐色煙を認む」, 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.19「該空母(ヨークタウン)の東方約30浬を高速東進する三重の円形陣の敵艦隊を認む」, 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.45、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.12、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.5,35-36, 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.38「1403に至り特に触接機十三試艦爆を発艦せしめんとありし時」, 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.54「1450:2F機密第762番電攻略部隊電」、, 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.48-49、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.3「各艦は担任母艦付近に在りて敵潜水艦及び機動部隊に対し警戒を厳にし、敵機動部隊来らば刺違戦法を以て敵を撃滅せよ」, 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.49、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.3-4「本艦2号機午後2時13分頃傾斜火災中の敵空母の東方30浬に敵空母4、巡洋艦6、駆逐艦15西航するを認めたり。その後は敵戦闘機の追跡を受け敵を見ず」, 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.36「1510、敵航空母艦2隻(ヨークタウンまたはホーネット型)(中略)其の南方約4浬に巡洋艦5、駆逐艦6を伴う航空母艦2隻(艦型不明)針路260度速力12ノット」. 「未体験ゾーンの映画たち2020見破録」の第51回で紹介するのは、 歴史に名高い大海戦を描いた戦争映画『ミッドウェイ 運命の海』 。 特殊効果やドキュメンタリー番組の演出で活躍し、『FLYING FORTRESS フライング・フォートレス』(2011)を監督したマイク・フィリップスの作品です。 ミッドウェー、ミッドウェイ(英: Midway ) 現版の各項目は、アーカンソー州のミッドウェイとミッドウェイゲームズ以外は全て、ミッドウェー島の戦いに関係する内容である。 地理. 第一航空艦隊源田実中佐は、日本の兵力が分散し過ぎて目標を見失っており、集中という兵術の原則にも反していると感じたため、図上演習後の研究会で連合艦隊参謀黒島亀人に「作戦の重点をアメリカ艦隊撃滅に置くべきである。そのためにはアリューシャン攻撃部隊やあらゆる作戦可能な兵力を、たとえ第五航空戦隊(瑞鶴、翔鶴)が参加できるのを待ってもミッドウェーに集中すべきだ」と主張したが、黒島は「連合艦隊長官は一度決めた方針に邪魔が入ることを望まれない。機動部隊の主要任務はミッドウェー攻略支援だ」と答えたため、アメリカ艦隊撃滅は二次的なものと源田は受け止めた[43]。源田実は、作戦目標がアメリカ軍機動部隊の撃滅かミッドウェー基地攻略なのか曖昧であったとし、戦略戦術からいってどうにも納得できない部分があり航空主兵なのか戦艦主兵なのかも曖昧で、戦艦大和と山本長官が後ろからついてくる事も疑問だったという[44]。, 4月28日から1週間かけて戦艦大和で行われた「連合艦隊第一段階作戦戦訓研究会」と「第二段作戦図上演習」では、日本軍にとって不安な結果が出た[45]。5月1日から4日間は第二段作戦の図上演習を実施、図上演習ではハワイ攻略まで行われた。実演は3日午後に終わり、3日夜と4日午前にその研究会を行い、4日午後からは第二期作戦に関する打ち合わせが行われた[46]。図上演習では、連合艦隊参謀長宇垣纏中将が統監兼審判長兼青軍(日本軍)長官を務め、青軍の各部隊は該当部隊の幕僚が務め、赤軍(アメリカ軍)指揮官は戦艦「日向」艦長松田千秋大佐が務めた[47]。, この図上演習において、ミッドウェー攻略作戦の最中に米空母部隊が出現し、艦隊戦闘が行われ、日本の空母に大被害が出て、攻略作戦続行が難しい状況となった。審判をやり直して被害を減らして空母を三隻残して続行させた[48]。空母加賀、赤城は爆弾9発命中判定で沈没判定となり[49]、宇垣纏連合艦隊参謀長は「9発命中は多すぎる」として爆弾命中3発に修正させ、赤城を復活させた[49]。攻略は成功したが、計画より一週間遅れ、艦艇の燃料が足りなくなり、一部の駆逐艦は座礁した[48][50]。宇垣は「連合艦隊はこうならないように作戦を指導する」と明言した[48]。[注 2]また、攻略前に米機動部隊がハワイから出撃してくる可能性はあったが、図上演習でアメリカ軍を担当した松田大佐は出撃させることはなかった[52]。, 戦訓分科研究会において、連合艦隊司令部の宇垣参謀長は一航艦の草鹿参謀長に対し、「敵に先制空襲を受けたる場合、或は陸上攻撃の際、敵海上部隊より側面をたたかれたる場合如何にする」と尋ねると、草鹿参謀長は「かかる事無き様処理する」と答えたため、宇垣参謀長が草鹿参謀長を追及すると、一航艦の源田参謀が「艦攻に増槽を付したる偵察機を四五〇浬程度まで伸ばし得るもの近く二、三機配当せらるるを以て、これと巡洋艦の零式水偵を使用して側面哨戒に当らしむ。敵に先ぜられたる場合は、現に上空にある戦闘機の外全く策無し」と答えた[53][54]。そのため宇垣参謀長は注意喚起を続け、作戦打ち合わせ前に第一航空艦隊はミッドウェー攻撃を二段攻撃とし第二次は敵に備えることとした[53]。米機動部隊が現れた際に反撃するために第一航空艦隊(艦攻)の半数は航空魚雷装備となったが、連合艦隊首席参謀黒島亀人大佐は命令として書き込む必要はないと航空参謀佐々木彰中佐に指示した[55]。, 研究会で作戦参加者から最も要望されたのが準備が間に合わないことによる作戦延期だった[56]。第二航空戦隊司令官山口多聞少将と一航艦航空参謀源田実中佐は作戦に反対と食いついたが、連合艦隊司令部は聞く耳を持たなかった[57]。4日の研究会で、第一航空艦隊参謀長草鹿少将と第二艦隊参謀長白石少将も作戦に反対したが、受け入れられず、5日に再び反対しに行ったが、第二段作戦を手交され、反対せずに帰った[58]。第二艦隊長官近藤信竹中将は、米空母がほぼ無傷で残っており、ミッドウェー基地にも敵戦力があることからミッドウェー作戦を中止して、米豪遮断に集中すべきと反対した。しかし、山本長官は奇襲が成功すれば負けないと答えた。また、近藤中将は、ミッドウェー島を占領しても補給が続かないと指摘したが、宇垣参謀長は不可能なら守備隊は施設を破壊して撤退すると答え、攻略後の保持、補給には考えがなかった[59]。占領後、他方面で攻勢を行い、アメリカ軍にミッドウェー奪回の余裕を与えなければ10月のハワイ攻略作戦までミッドウェー島を確保できると考えていたという意見もある[60]。, 図上演習と研究会は、ミッドウェー作戦の目的である敵空母捕捉撃滅が難しく、高いリスクを伴う作戦であることを示したが、連合艦隊は問題点を確認することなく作戦を発動した。特に山本長官は「本作戦に異議のある艦長は早速退艦せよ」と強く訓示している[61]。第五艦隊参謀長中澤佑によれば、中沢が作戦会議で機動部隊と連合艦隊主隊の距離が離れすぎていることを指摘すると、黒島は問題ないと発言したという[62]。, 5月25日、MI作戦における艦隊戦闘の図上演習・兵棋演習、続いて作戦打ち合わせを行い、関係者の思想統一を図った。ミッドウェー攻略の次の日から始まっており、アメリカの主力および空母はオアフの南東450海里から西方に急進中の状態から立ち上がった[63]。攻略前の作戦(ミッドウェー海戦)が奇襲によって成功することが前提で、敵機動部隊が現れることも考慮していなかった[64]。連合艦隊は第一航空艦隊に対し敵艦隊に作戦中備えるように指導しながら、図上演習では攻略の翌日に敵艦隊がハワイにいるものとし、研究会では「敵艦隊が反撃に出てくれば、もうけものである」と発言しており、出現の可能性に対する判断は極めて薄く、この空気は各部隊に伝わっていたという意見もある[65]。打ち合わせにおいて第一航空艦隊は、部品が間に合わないので延期を要望し、連合艦隊は一日だけ一航艦の出撃延期を認め、6月4日予定の空襲は5日に変更されたが、7日の攻略は変更されていないため、空襲前に攻略部隊船団が敵飛行哨戒圏内に入り、発見されやすくなった。連合艦隊はこれを敵艦隊誘出に役立つと考えた[66][67]。, 出撃前日の5月26日、赤城において作戦計画の説明と作戦打ち合わせが行われた。山口少将から索敵計画が不十分という意見があった[68]。索敵計画を立案した第一航空艦隊航空参謀吉岡忠一少佐によれば、当時の敵情判断から索敵計画は改めなかったという。吉岡は、当時攻略作戦中敵艦隊がほとんど考えていなかったため、厳重にするのが良いのはわかっていたが、索敵には艦攻を使わなければならないので攻撃力が減ることとなり、惜しくて索敵に割けなかったとして、状況判断の甘さが原因と回想している[69]。, この計画での一航艦司令部の心配は、攻撃開始日が決まっているので奇襲のための機動の余地がなかったことと、空母はアンテナの関係から受信能力が十分でなく、敵信傍受が不十分となり、敵情がわかりにくいことであった。そのため、一航艦参謀長の草鹿少将は、連合艦隊が敵情を把握して作戦転換を指示することを連合艦隊参謀長の宇垣参謀長に取りつけた[69][70]。土井美二(第八戦隊首席参謀)によれば、草鹿参謀長が「空母はマストが低くて敵信傍受が期待できない。怪しい徴候をつかんだらくれぐれも頼む」と出撃前に何度も確認していたという[71]。, 山本長官の意気込みとは反対に[72]、4月下旬に日本本土に戻った第一航空艦隊(南雲機動部隊)は問題を抱えていた。開戦以来、ドック入りや長期休暇もなく太平洋を奔走したため、艦・人員とも疲労がたまっていた[73]。さらに「相当広範囲の転出入」という人事異動のため[74]、艦艇と航空部隊双方の技量が低下していた[75]。, ミッドウェー海戦後の戦闘詳報では「各科共訓練の域を出ず特に新搭乗員は昼間の着艦ようやく可能なる程度」と評している[74]。雷撃隊は「この技量のものが珊瑚海に於いて斯くの如き戦果を収めたるは不思議なり」と講評されている[76]。水平爆撃と急降下爆撃は満足な訓練ができず、戦闘機隊は基礎訓練のみで編隊訓練は旧搭乗員の一部が行っただけ[77]。着艦訓練は訓練使用可能空母が加賀のみだけだったため、新人搭乗員の訓練が優先され、ベテラン搭乗員でも薄暮着艦訓練を行った者は半分程度であった。戦闘詳報は「敵情に関しては殆ど得る所なく、特に敵空母の現存数、その所在は最後まで不明なりや。要するに各艦各飛行機とも訓練不十分にして且つ敵情不明情況に於いて作戦に参加せり」と述べている[76]。, 不安要素があったとはいえ、連合艦隊司令部、軍令部、南雲機動部隊のいずれも自信に満ち溢れていた[78]。5月5日、永野軍令部総長より山本長官に対し大海令第18号が発令された[79]。, 大海令第18号により、ハワイ攻略の前哨戦として山本長官、宇垣参謀長の指揮下で艦艇約350隻、航空機約1000機、総兵力10万人からなる大艦隊が編成された。これは戦艦大和他の戦艦部隊(第一艦隊)が呉基地の柱島泊地を出撃、参加する初めての作戦であった。, 淵田美津雄中佐によれば、第一航空艦隊航空参謀源田実は当時、第一段階作戦の後始末でミッドウェー作戦を検討する暇も無かったと打ち明けており、草鹿参謀長に至っては真珠湾で戦死した航空機搭乗員の二階級進級問題の折衝で走りまわり(航空機搭乗員の士気に関わるため)、ミッドウェー作戦の研究どころではなかったという[80]。草鹿は「準備期間が不十分で不満もあったが強く反対せず、何とかやれるだろうと考えていた。それよりハワイ攻撃の戦死者の2階級特進の方に関心があった」という[81]。, 当初、瑞鶴、翔鶴を含む空母6隻の計画だったが、珊瑚海海戦の報告を聞いた時点で海軍首脳部は無傷の瑞鶴をミッドウェーに、大破した翔鶴を修理後アリューシャン作戦に回す予定であった。しかし翔鶴の修理には3ヶ月要し、また瑞鶴も無傷であったものの参加した搭乗員の損耗が激しく、トラック島に停泊、補充を待ちの状態で、本作戦に不参加となった[82]。, これにより日本側の参加空母数が減ることとなったが、それでも隻数の上では4対3(日本軍は、エンタープライズ、ホーネット、ワスプ出現可能性考慮)と、アメリカ軍より優勢であった。ただしミッドウェー基地の航空機を計算に入れると、航空戦力比は日本軍「戦闘機105、急降下爆撃機84、雷撃機94、艦偵2、水上戦闘機24、水上偵察機10、計319(南雲部隊、近藤部隊、輸送部隊合計)」、アメリカ軍機動部隊「戦闘機79、急降下爆撃機112、雷撃機42」、アメリカ軍基地戦力「戦闘機27、急降下爆撃機27、雷撃機6、飛行艇32、大型爆撃機23」総計348機となって、ほぼ互角であった[83]。, また、日本軍では情報管理が徹底しておらず、空母飛龍では出発前に誰もがミッドウェー作戦を知っており、一般住民の方が乗組員より先に目的地を知っていたという証言もある[84]。異動してきた士官が「今度はミッドウェーですね」と挨拶し[85]、さらに日用品や食料品を機関部の通路にまで詰め込んだ[86]。連合艦隊司令部も、ミッドウェー島占領後に配備予定の21機の零(第六航空隊)を4隻の空母に詰め込んだ[87]。野村留吉(佐世保鎮守府参謀)によれば、海軍第二特別陸戦隊は「6月以降、当隊あての郵便物は左に転送されたし。ミッドウェー」と電報を打ったという[88]。また5月下旬に呉に戻った重巡洋艦加古の高橋艦長は、息子から近々行われる大作戦について教えてくれとせがまれ困惑していた[89]。白石萬隆少将(第二艦隊参謀長)は「連合艦隊は、作戦目標を多少漏らすことで敵艦隊の誘出を図ろうとしていた」との見解を述べている[90]。そして、連合艦隊長官山本五十六大将は、愛人の河合千代子と密会し、別離を惜しんだ後の手紙に「5月29日に出撃して、三週間ばかり全軍を指揮する。多分あまり面白いことはないだろう。この戦いが終わったら、全てを捨てて二人きりになろう」と記している[91]。, 作戦では日本側の事前索敵計画として6月2日までに2個潜水戦隊をもって哨戒線を構築する予定だった。しかし担当する第六艦隊(潜水戦隊で構成された艦隊)で長距離哨戒任務に適した3個潜水戦隊の内、第二潜水戦隊はインド洋での通商破壊戦後の整備中、第八潜水戦隊は豪州・アフリカでの作戦任務中、第一潜水戦隊は北方作戦に充てられる事になった為どれも作戦には投入できなかった。, このため、「海大型」で構成される第三・五潜水戦隊が担当する事になったが五潜戦は日本からクェゼリンへの回航途上で(第六艦隊に作戦が通知された5月19日時点)予定期日に間に合うのは不可能、三潜戦も所属の潜水艦の内3隻が第2次K作戦に充てられたため、両隊あわせて9隻の潜水艦が予定配置についたのは6月4日になってしまった。特に第16任務部隊が6月2日に五潜戦の担当海域を通過しており本作戦における大きな禍根になった。, 次に予定されていたのは第二十四航空戦隊によるミッドウェー周辺への航空索敵である。これは二式大艇によるウェーク島を経由した索敵計画であったが、ウェーク環礁が二式大艇を運用するには浅すぎ、経由地がウォッゼ環礁に変更された結果ミッドウェー全海域の索敵が不可能となった。更にパイロットの技量不足で夜間着水が困難であることから薄暮までにはウォッゼ環礁に帰還する必要があったので肝心な北方海域哨戒(5月31日)が短縮された。これにより、結局米艦隊を発見する事は出来なかった。仮に予定通り北方海域を哨戒していたら米艦隊を発見できた確率は非常に高かった。, 最後に計画され、連合艦隊が最も重視した第2次K作戦は、オアフ島西北西480海里にあるフレンチフリゲート礁で潜水艦の補給を受けた二十四航戦の二式大艇によるオアフ島の航空索敵である[92]。第1次は3月に実施し、さらに二式大艇によるハワイ空襲時にもフレンチフリゲート礁は使用された。しかし、アメリカ軍は日本軍の作戦を暗号解読で察知すると、海域一帯に警戒艦艇を配置して封鎖した。潜入した伊号第百二十三潜水艦は「見込み無し」という報告を送った[93]。これを受け第十一航空艦隊は5月31日21時23分に作戦中止を二十四航戦に指示した。この偵察作戦が成功すればそれがもたらす成果は大きいはずだったが[94]、大型機による夜間偵察では大型艦を空母と誤認する危険があった[95]。また米空母の真珠湾在泊を確認できれば作戦の価値は極めて大きいが、米空母が不在であった場合は、5月末から6月初にかけての日本海軍の状況判断から見て、米空母はまだ南太平洋方面で行動中であろうと判断したのではないかという意見もある[96]。6月1日、二十四航戦の司令部からミッドウェーの600浬圏付近で敵の潜水艦や飛行艇と会敵したことと、第2次K作戦の中止が連合艦隊司令部、南雲機動部隊司令部に伝達された[97][98]。無線封止が重要視されたため連合艦隊司令部からは南雲機動部隊に作戦中止の連絡はしていない[99]。作戦中止に対し連合艦隊司令部から作戦再興の指示は出されなかった[100]。南雲機動部隊首脳部もK作戦の中止を大した問題とは考えなかった[97][101]。連合艦隊参謀らによれば、知的手段は崩れたが、連合艦隊は米艦隊はハワイからの出撃が遅れるだろうと考えていたの大した心配はしていなかったという[102]。, アメリカ軍は日本軍来襲の情報収集、分析し、ミッドウェー作戦に備えていた。1942年3月4日、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツはオアフ島に日本軍の大型航空機(二式飛行艇)2機が爆撃を行い(K作戦)、同月11日にはミッドウェーに新型飛行艇(前同 二式飛行艇)1機が接近、撃墜されたことをふまえ、日本軍の攻勢の兆候と判断した。ただ、これは誤解で、実際には日本軍の爆撃は攻勢作戦とは関係のない偵察監視・妨害作戦に過ぎなかった。日本海軍の主力部隊は南方戦線から日本本土へと帰投しており、次に太平洋のどこかを攻撃することは確実であるものの、ハワイ、ミッドウェー、米本土西岸など可能性が幅広く、判断がまとまっていなかった。米本土西岸への日本軍上陸の誤報なども影響している。, 真珠湾攻撃直前に変更された日本海軍の戦略暗号 "D"は、アメリカ軍の諜報部よりJN-25と呼ばれていた。1942年4月頃には、ハワイ真珠湾に所在するアメリカ海軍エドウィン・レイトンの情報班が、日本軍の暗号を断片的に解読し、日本海軍が太平洋正面で新たな大規模作戦を企図していることについても、おおまかに把握していた。この時点では時期・場所などの詳細が不明であった。その後、5月ごろから通信解析の資料が増え、暗号解読との検討を繰り返して作戦計画の全体像が明らかになると、略式符号「AF」という場所が主要攻撃目標であることまでわかってきた。しかし「AF」がどこを指しているのかが不明であった。アメリカ側は、[103][信頼性要検証]日本海軍の編成表から「A」「AO」「AOB」がアリューシャン方面であることは明白であると判断した。, ワシントンのアメリカ統合参謀本部は攻撃目標をハワイ、陸軍航空隊ではサンフランシスコだと考え、またアラスカ、米本土西岸だと考える者もいた。5月中旬になっても決定的な情報は無かったが、ニミッツ大将は各種情報と戦略的な観点からミッドウェーが目標であると予想し、ハワイ所在のレイトン情報主任参謀らも次第にミッドウェーが目標であるとの確信を深めていった。, 5月11日ごろ、諜報部にいた青年将校ジャスパー・ホームズの提案により、決定的な情報を暴くための一計が案じられた。彼は、ミッドウェー島の基地司令官に対してオアフ島・ミッドウェー間の海底ケーブルを使って指示を送り、ミッドウェーからハワイ島宛に「海水ろ過装置の故障で、飲料水不足」といった緊急の電文を英語の平文で送信させた。その後、程なくして日本のウェーク島守備隊(クェゼリン環礁所在の第六艦隊説もあり)から発せられた暗号文に、「AFは真水不足、攻撃計画はこれを考慮すべし」という内容が表れたことで、AFはミッドウェー島を示す略語と確認された。こうしてミッドウェー島及びアリューシャン方面が次の日本軍の攻撃目標だと確定された。, 日本側にも「6月1日における第三部特務班の判断」として「ミッドウェー島が清水不足を訴えている」と軍令部作戦課佐薙毅中佐の日誌に残されている[104]。一方、このエピソードについては、実際の暗号解読状況や手法を秘匿するための粉飾とする説もある。沈没する空母飛龍から脱出後、アメリカ軍に救助され捕虜となった相宗邦造中佐ら機関科兵34名は、アメリカ軍情報士官から1942年5月に就役したばかりの飛鷹型航空母艦隼鷹の写真を見せられて仰天している[105]。萬代久男少尉によれば、「隼鷹」の写真は軍極秘回覧簿で見たものと全く同じであった。萬代は暗号解読云々よりも、むしろ連合軍諜報活動の方が連合軍の情報戦勝利に影響を与えたと述べている[105]。, 5月26日までにハワイの情報隊は暗号解読に成功し、各部隊の兵力、指揮官、予定航路、攻撃時期などが判明した。ニミッツ大将はこの結果をミッドウェー基地の部隊に伝えたが、ワシントンではこの情報を全面的には信用せず、日本軍の偽情報ではないかと疑問を持つ者もいた。ニミッツ大将は、日本軍がサンフランシスコを攻撃するのに陸上戦力を伴うわけがなく、自己の意見が間違いないと主張、論争は続いたが、ニミッツ大将は自己の主張に基づいて作戦準備を進めた。5月26日以降は日本軍が暗号・乱数表を変えたために解読できなくなった。, ハワイ諸島は、アメリカにとって太平洋正面の防衛・進攻の戦略的に重要な根拠地であった。ミッドウェー島はハワイ諸島の前哨であり、戦略的要衝である。ニミッツ大将は日本軍の来襲の危険性があるミッドウェーを5月3日に視察し、同島守備隊の指揮官シマード海軍中佐と防備の強化について打ち合わせた。このとき、シマード中佐は兵器と人員が充足すれば防衛は可能であると意見を述べ、ニミッツ大将はシマード中佐の要望通りの補強を行うことにして防備を固めようとした。こうして、ミッドウェー島に集結した航空機は当時最新鋭のTBFを含む約120機、アメリカ海兵隊を含む人員の補強は3027人に達し、防爆掩蓋や砲台も配備していた。陸上部隊は士気が高かったが、航空部隊は寄せ集めが多く、また整備員の増強がなかったために搭乗員自ら整備・燃料補給を行うなど、完全に充足した部隊ではなかった。それでも、日本海軍陸戦隊5000名の上陸を撃退するには十分な兵力だった[106]。, ハワイの情報隊は、日本海軍のミッドウェーへの攻撃が6月3日から5日までに行われることを事前に察知し、日本側が陽動作戦として計画していた、空母龍驤と隼鷹を中心とする部隊をアリューシャン方面に向かわせてアッツ島、キスカ島などを占領、ダッチハーバーなどを空爆する作戦も陽動であることを事前に見抜いており、ニミッツ大将はこれらの情報に基づいて邀撃作戦計画を立案した。日本軍の兵力は大きく、ニミッツ大将の指揮下にある使用可能な戦力を全て投入しても対抗するためには不足が大きかった。そのため、アリューシャン・アラスカ方面には最低限の戦力を送るにとどめ、主力をミッドウェーに集中することにした。, アメリカ軍の作戦計画は5月28日に『太平洋艦隊司令長官作戦計画第29-42号』として発令され、内容は、第1に敵を遠距離で発見捕捉して奇襲を防止、第2に空母を撃破してミッドウェー空襲を阻止、第3に潜水艦は哨戒及び攻撃、第4にミッドウェー島守備隊は同島を死守などというものであった。, 5月28日に作戦計画を発した時点において、ニミッツ大将は2隻の空母しか使用が期待できなかった。サラトガは日本海軍潜水艦による攻撃で損傷、修理を要する状態にあり、第17任務部隊(TF-17)の2隻は、次にのべるように珊瑚海海戦により大打撃を受けていた。, フレッチャー少将の第17任務部隊は、珊瑚海海戦においてポートモレスビー防衛を成功させ、日本海軍の軽空母1隻撃沈し、主力空母にもダメージを与えたものの、自身も主力空母レキシントンを失い、ヨークタウンが中破していた。ヨークタウンへの命中は爆弾1発のみであったが、排煙経路を破壊される重大損傷で、機関からの燃焼煙を正常に排出できずボイラーが出力を上げられず、速力が24ノットに低下[107]。また、2発の至近弾で左舷燃料タンクから燃料が漏れ出していた。特に珊瑚海海戦では艦隊付属の油槽船ネオショーを失い、この燃料漏れは海上での立ち往生になりかねなかった[108]。, ニミッツ大将は、日本軍の侵攻に備えて太平洋南西部よりフレッチャー少将の第17任務部隊をハワイに呼び戻した。途中で何とか燃料を補給できたヨークタウンは5月27日に真珠湾に到着、直ちに乾ドックに入れられて突貫の応急修理工事が実施された。特に燃料タンクの損傷については、アメリカ西海岸のワシントン州ブレマートン港にて長期の修理を行う必要があるとの見通しがあったが、ハワイでの72時間の不眠不休の作業によって、空母としての機能を取り戻し、5月30日に乾ドックを出た。出撃時、艦には修理工が乗ったままであり、戦場へ向かって航行中も修理が続けられた。この応急修理について乗組員は「いいかげんな間に合わせ」と評している[109]。ヨークタウンを母艦とする第5航空群は珊瑚海海戦で損耗していたため、修理のために本国に戻るサラトガの第3航空群と入れ替えられた。これで当時のアメリカ海軍太平洋艦隊が投入できる空母戦力の全てがミッドウェーの戦いに参戦する形が整えられた。, もし、ニミッツ大将が準備できた空母が、第16任務部隊のエンタープライズ、ホーネットの2隻のみであった場合、戦いの様相もまた違っていた可能性は高い。前述にもあるが、日本側はアメリカ海軍の太平洋における戦闘可能空母をこの時点で正規空母2-3隻、軽空母2-3隻と見積もっており、ワスプや軽空母が出現することはあっても、珊瑚海海戦で中破したヨークタウンがミッドウェー作戦に間に合うとは想像だにしていなかった[110]。, 1942年5月28日、アメリカ海軍太平洋艦隊司令長官発の作戦計画に従い、エンタープライズ、ホーネットを基幹とする第16任務部隊(TF-16)が真珠湾を出撃し、続いて5月30日には第17任務部隊(TF-17)も基幹となるヨークタウンの緊急修理の完了を待つ形で真珠湾を出撃、死守命令を受けたミッドウェー島守備隊を助けるため一路ミッドウェー島を目指し、来襲する日本軍を待ち構えた。, 1942年(昭和17年)5月27日(海軍記念日)、南雲忠一中将率いる第一航空戦隊(赤城、加賀)、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)を中心とする第一航空艦隊(通称、南雲機動艦隊)が広島湾柱島から厳重な無線封止を実施しつつ出撃した[111]。5月28日、ミッドウェー島占領部隊輸送船団が水上機母艦千歳、駆逐艦親潮、黒潮と共にサイパンを出航した[112]。海軍陸戦隊(大田実少将)と設営部隊、陸軍からは一木清直陸軍大佐率いる陸軍一木支隊が乗船していた。船団は第二水雷戦隊(旗艦 軽巡洋艦神通)他に護衛され北上した。5月29日、連合艦隊長官山本五十六大将が直卒する主力部隊も広島湾柱島を出撃[113]。三和義勇大佐(連合艦隊作戦参謀)は「今は唯よき敵に逢はしめ給えと神に祈るのみ。敵は豪州近海に兵力を集中せる疑あり。かくては大決戦は出来ず。我はこれを恐れる」「長官から兵にいたるまで誰一人として勝利についていささかの疑問をいだく者はいない。戦わずして敵に勝つの概ありと言うべきか」と日記にしたためている[114]。, 5月30日、日本輸送部隊付近の米潜水艦がミッドウェーに長文の緊急電を発信し、日本はこれを傍受した。宇垣(連合艦隊参謀長)は、輸送部隊を発見して報告するものとすれば、敵が備えるところとなり、獲物がかえって多くなると考えた[115]。また、宇垣は、アメリカ軍の緊急交信が従来の例を見ず、ミッドウェーに向かっていることがばれている可能性もあるが、いずれにせよ変更はしないと考えた[116]。 「未体験ゾーンの映画たち2020見破録」の第51回で紹介するのは、歴史に名高い大海戦を描いた戦争映画『ミッドウェイ 運命の海』。, 特殊効果やドキュメンタリー番組の演出で活躍し、『FLYING FORTRESS フライング・フォートレス』(2011)を監督したマイク・フィリップスの作品です。, 第2次世界大戦に詳しくない人も知る、教科書にも名が記載されたミッドウェイ海戦。この戦いは今まで何度も映画化されてきました。, その戦いを従来に無い切り口で描いた映画が登場しました。あの激戦の裏で何があったかを、アメリカ側の視点で描いた作品です。, (C)2019 Bayou Pictures LLC. 吉田俊雄『栄光と悲劇 連合艦隊 東郷平八郎と山本五十六』秋田書店 358頁(源田、淵田)、, 豊田穣『豊田穣戦記文学集2 ミッドウェー海戦』講談社 後藤315、牧316、天谷317、雀部331頁, "Navy.togetherweserved: Osmus, Wesley, ENS", "Navy.togetherweserved: O'Flaherty, Frank Woodrow, ENS", "Navy.togetherweserved: Gaido, Bruno Peter, PO1", Editorial: The Battle of Midway -- A secrets storm, Breaking the code on a Chicago mystery from World War II, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ミッドウェー海戦&oldid=80170193, SBD爆撃機35機(VB-8、指揮官:ロバート・ジョンソン少佐、VS-8、指揮官:ウォルター・ローディ少佐), 九七艦攻への陸用爆弾から魚雷への転換は、もともと陸用爆弾に換装した機が少なく、短時間で終わる。水平爆撃の命中率は悪く、急降下爆撃でも敵空母に致命傷を与えることは困難である, 上空待機中の日本軍ミッドウェー基地空襲隊(約100機)の燃料が尽き掛けており、これ以上待たせる事は出来ない, 敵艦隊攻撃隊を護衛する零戦が、南雲部隊を守るためにほとんど発進しており、一度着艦して補給する必要がある, 戦闘機の護衛のない攻撃隊は、艦隊護衛戦闘機の餌食になることを珊瑚海海戦やアメリカ軍ミッドウェー基地航空隊が実証している。南雲にとって、大損害を受けることがわかっていながら「はだか」の航空隊を出すことは出来ない, (米機動部隊)5月31日午前真珠港発、6月1日「ミッドウェー」附着、その後南北に移動哨戒をなし今日に及べり, 5月31日真珠港在泊主力艦なし(本人は5月31日まで基地訓練に従事、ハワイ方面主力艦の状況明らかならず), 攻略部隊は一部の兵力を以て、今夜ミッドウェーの陸上軍事施設、航空基地を砲撃破壊せよ。, 機動部隊、攻略部隊(7戦隊欠)および先攻部隊(潜水艦隊)は速やかに敵を捕捉撃滅すべし, 主隊は攻略部隊(第二艦隊)、第一機動部隊(欠、飛竜及び同警戒艦)を集結し、予定地点に至り補給を受くべし, 輸送船18隻(清澄丸、ぶらじる丸、あるぜんちな丸、北陸丸、吾妻丸、霧島丸、第2東亜丸、鹿野丸、明陽丸、山福丸、南海丸、善洋丸 ), 第2群(Task Group 17.2 Cruiser Group) 司令官:ウィリアム・W・スミス少将, 第4群(Task Group 17.4 Destroyer Screen) 司令官:ギルバート・C・フーバー大佐, 駆逐艦 ハムマン - アンダーソン - グウィン - ヒューズ - モリス - ラッセル, 第5群(Task Group 17.5 Carrier Group) 司令官:エリオット・バックマスター大佐(兼「ヨークタウン」艦長), 第3戦闘機隊(VF-3/F4F-4/27機)、第3爆撃機隊(VB-3/SBD-3/18機)、第5索敵爆撃機隊(VS-5/SBD-3/19機)、第3雷撃機隊(VT-3/TBD-1/15機), 重巡 ミネアポリス - ニューオーリンズ - ノーザンプトン - ペンサコラ - ヴィンセンス, 第4群(Task Group 16.4 Destroyer Screen) 司令官:アレキサンダー・R・アーリー大佐, 駆逐艦 フェルプス - ウォーデン - モナハン - エイルウィン - バルチ - カニンガム - ベンハム - エレット - モーリー, 第5群(Task Group 16.5 Carrier Group) 司令官:ジョージ・D・マーレ大佐(兼「エンタープライズ」艦長), 第6戦闘機隊(VF-6/F4F-4/27機)、第6爆撃機隊(VB-6/SBD-2、3/18機)、第6索敵爆撃機隊(VS-6/SBD-2、3/18機)、第6雷撃機隊(VS-6/TBD-1/14機), 第8戦闘機隊(VF-8/F4F-4/27機)、第8爆撃機隊(VB-8/SBD-3/18機)、第8索敵爆撃機隊(VS-8/SBD-3/16機)、第8雷撃機隊(VT-8/TBD-1/15機), F2A-3バッファロー艦上戦闘機×20機、F4F-3ワイルドキャット艦上戦闘機×7機 SB2U-3ヴィンディケーター艦上爆撃機×11機 SBD-2ドーントレス艦上爆撃機×16機, B-26Aマローダー爆撃機×4機、B-17Eフライングフォートレス戦略爆撃機×17機, 航空機:喪失艦載機289機(内、21機はミッドウェー配備予定の第六航空隊。水偵4機), 航空機:基地航空隊を含め、約150機を喪失。この数字には修理不能の損傷を受けた機も含まれる, 空母ヨークタウン86名(航空搭乗員含む)、空母ホーネット53名、空母エンタープライズ44名、駆逐艦ハムマン84名、駆逐艦ベンハム1名、ミッドウェー基地46名。合計362名(航空搭乗員208名、基地・艦乗組員154名) 。高級士官の戦死は無かった。, スーパーシミュレーション ミッドウェー大空海戦 (鈴木巌:新星出版社:1985年), Ref.A06031045900「週報 第297号」(昭和17年6月17日)「敵の『空母集団』殲滅」, Ref.A06031046100「週報 第299号」(昭和17年7月1日)「米本土に深刻な脅威」, Ref.C08030023800「昭和17年5月27日〜昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報(1)」, Ref.C08030023900「昭和17年5月27日〜昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報(2)」, Ref.C08030024000「昭和17年5月27日〜昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報(3)」, Ref.C08030024100「昭和17年5月27日〜昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報(4)」, Ref.C08030040400「昭和17年6月1日〜昭和17年6月30日 ミッドウェー海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」, Ref.C08030040500「昭和17年6月1日〜昭和17年6月30日 ミッドウェー海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」, Ref.C08030040600「昭和17年6月1日〜昭和17年6月30日 ミッドウェー海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」, Ref.C08051579700「昭和16年12月〜昭和17年6月 赤城飛行機隊戦闘行動調書(2)」, Ref.C08051585400「昭和16年12月〜昭和17年6月 加賀飛行機隊戦闘行動調書」, Ref.C08051579300「昭和16年12月〜昭和17年4月 飛龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」(MI作戦出撃分含), Ref.C08051578800「昭和16年12月〜昭和17年4月 蒼龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」(MI作戦出撃分含), Ref.C08030761000「昭和17年4月1日〜昭和17年6月21日 輸送船鹿野丸の最後 其の1(ミッドウェー作戦)(1)」, Ref.C08030761100「昭和17年4月1日〜昭和17年6月21日 輸送船鹿野丸の最後 其の1(ミッドウェー作戦)(2)」, Ref.C08030680800「昭和17年5月1日〜昭和19年9月30日 特設船あるぜんちな丸戦時日誌戦闘詳報 巌嶋丸。敵潜に依る被襲撃報告(1)」, Ref.C08030020900「昭和17年5月15日〜昭和17年12月31日 第6艦隊戦時日誌戦闘詳報(1)」, Ref.C08030081200「昭和17年5月29日〜昭和17年7月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)」, Ref.C08030112500「昭和17年4月1日〜昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)」, 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本営海軍部・聯合艦隊(2)』朝雲新聞社、1975年2月, 第6戦闘機隊(F4F 27機)、第6爆撃機隊(SBD 19機)、第6索敵爆撃機隊(SBD 19機)、第6雷撃機隊(TBD 14機), 第8戦闘機隊(F4F 27機)、第8爆撃機隊(SBD 19機)、第8索敵爆撃機隊(SBD 19機)、第8雷撃機隊(TBD 15機). ミッドウェー海戦(ミッドウェーかいせん、英語: Battle of Midway)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)中の1942年(昭和17年)6月5日(アメリカ合衆国標準時では6月4日)から7日(6月3日から5日とする場合もある[1])にかけて、ミッドウェー島付近で行われた海戦。同島攻略をめざす日本海軍をアメリカ海軍が迎え撃つ形で発生し、日本海軍機動部隊とアメリカ海軍機動部隊および同島基地航空部隊との航空戦の結果、日本海軍は投入した空母4隻とその搭載機約290機の全てを喪失した。ミッドウェー海戦はMI作戦の一部であり、この敗北で同作戦は中止された。, 太平洋戦争開戦前、日本海軍は対米作戦の基本的な方針として守勢の邀撃作戦を採っていた[2]。連合艦隊司令長官であった山本五十六海軍大将は以前よりこの方針に疑問を持ち、独自の対米作戦構想として積極的な攻勢作戦を考えていた[3]。大島一太郎大尉(後に大佐、1928年〈昭和3年〉海軍水雷学校高等科学生)の戦後の回想によれば、1928年(昭和3年)に海軍水雷学校で「対米作戦はハワイを攻略するような積極作戦を採るべきである」と述べている。これは、まず国力から見て圧倒的に劣勢の日本が守勢を採っても、時期・方面などを自主的に決めて優勢な戦力で攻撃するアメリカに勝ち目がなく、また短期戦に持ち込むためには、早期に敵の弱点を叩くことで相手国の戦意を喪失させる方法しか勝機がないと判断したためと言われている。さらに山本長官は太平洋戦争開戦前より、敵の空母部隊が日本本土を航空攻撃した場合、国内へ物質的な打撃だけでなく精神的打撃が大きいと考えていた点も関係している[4]。及川海軍大臣宛の書簡、黒島参謀の回想によると、山本長官のミッドウェー作戦の第一の狙いがアメリカ海軍とアメリカ国民の士気を喪失させることで、また本土空襲の精神的打撃を大きいと認めている点が分かる。すなわち相当の危険性を承知でアメリカに対し、戦争で勝利するためには積極的な攻勢しかないと考えていた[5]。アメリカ海軍は、1941年(昭和16年)12月の真珠湾攻撃で米太平洋艦隊主力の戦艦部隊が行動不能となった後、稼動状態にあった機動部隊を中部太平洋方面に出撃させ、日本軍拠点に対する一撃離脱戦法による襲撃を繰り返した。その度に日本軍は来襲の企図や方面の判断に悩まされた[6]。日本軍はマーシャル諸島、ウェーク島、本土どれにも警戒処置をとっており、加えて戦力に余裕がなかったために哨戒は不十分であった。アメリカ軍の奇襲による被害は小さかったが、連合艦隊は受け身の作戦の困難性を認識した[7]。, 日本の連合艦隊は、真珠湾攻撃後は南方作戦に機動部隊主力を投入していたが、インド洋の英領セイロン島を攻略する作戦案が採用されなかったために、連合艦隊幕僚は第二段作戦の移行までに残された4週間で代替案を作成しなければならなかった[8]。連合艦隊幕僚は戦争を早期終結できる作戦が思いつかなかった。連合艦隊幕僚は、これまで示した作戦案が陸軍部隊を用いるから反対されたと考えており、かといって守勢の困難性を認識していたために、海上戦力のみで行う攻勢作戦計画の立案を応急的に進めなければいけないと判断した。結果、黒島亀人連合艦隊先任参謀を中心に、ハワイ諸島攻略を見据えた作戦計画を立案した[9]。軍令部は日本の国力からみてハワイ諸島の攻略と維持など不可能と判断し、むしろインド洋方面の作戦を強化してイギリスを追い詰め、間接的な同盟国ナチス・ドイツ支援を構想していたという意見もある[10]。, ハワイ攻略が企図できるようになるまで間隔が空くため、連合艦隊はMI作戦を提案した。これはハワイ攻略の準備ではなく、つなぎであったが、この作戦によって米空母を撃滅できれば、ハワイ攻略作戦は容易になるとは見ていた[11]。軍令部と連合艦隊司令部はこの作戦について対立した。軍令部はアメリカとオーストラリアのシーレーンを断ち切る米豪遮断を企図して、フィジー方面の攻略を計画していた[12]。軍令部航空担当部員の三代辰吉中佐は「仮に日本軍が同島を占領しても、米艦隊は本当に来るのか。日本軍の補給路がアメリカ軍に遮断され、疲弊したところを簡単に奪回されるだけではないか」と考え反対し、FS作戦(ニューカレドニア島とフィジー諸島の攻略)重視の立場を崩さなかった[13]。連合艦隊司令部の黒島参謀と渡辺安次参謀は、山本長官が「この作戦が認められないのであれば司令長官の職を辞する」との固い決意を持っているとして、真珠湾攻撃で空母6隻の使用を認めさせた時と同様の交渉をしたが、話は進まなかった[14]。大本営海軍部との交渉に見込みなしと判断した渡邉参謀は、伊藤整一軍令部次長に直接連合艦隊のミッドウェー作戦案を説明し、山本長官の意向を伝えた[15]。伊藤次長はこれを踏まえてさらに審議を行い、FS作戦に修正を加え、連合艦隊の作戦案を採用することを4月5日に内定[16]、永野修身軍令部総長の認可も得て、ミッドウェー島の占領および米空母部隊の捕捉撃滅を狙うこととなった[17]。古村啓蔵(筑摩艦長)は同期の富岡定俊軍令部作戦課長から、艦隊はミッドウェー攻略成功後にトラック基地に集合、米豪遮断のFS作戦実施予定と聞き、驚いていたという[18]。, さらに軍令部はミッドウェーと同時にアリューシャン列島西部を攻略し、米航空兵力の西進を抑えるとともに、両地に哨戒兵力を進出させれば、米空母の日本人本土近接を一層困難にすることができると判断。そのためのAL作戦実施を連合艦隊に諮り、連合艦隊でもその必要性を認めていたし、攻略兵力にも余裕があったので直ちにこれに同意した[19]。AL作戦の目的は、アメリカの北方路の進行を阻止するもので、米ソ間の連絡を妨害し、ソビエト連邦領シベリアにアメリカの航空部隊の進出を妨害しようとするものであった。当時、アメリカが大型爆撃機を開発したとの情報があった。図上演習においてアリューシャン方面からアメリカの最新大型爆撃機が東京空襲を行い、その一部が奇襲に成功するという結果が出ており、海軍部も連合艦隊もこの方面への関心を高めていた背景があり、連合艦隊もこれに同意、第二段作戦の全体像が固まった[20][21]。軍令部第一部長福留繁によれば、「ミッドウェーを攻略しても、劣勢な米艦隊は反撃に出ないのではないかとの懸念が強かった。そこでアリューシャン列島方面への攻略作戦を行えば、同地が米国領であるため、ミッドウェー方面への米艦隊の出撃を強要する補助手段となるだろうとの含みもあり、実施を要望した」という[22]。, 1942年4月5日、海軍の次期作戦構想が内定し、主務者連絡で陸軍に伝えた。ミッドウェー攻略は海軍単独で行うが、できれば陸軍兵力の派出を希望するとした。陸軍参謀本部は、ハワイ攻略の前提ではないことが明言され、海軍単独でも実施してもよいとのことだったので反対できなかった[23]。, 1942年4月18日、米空母ホーネットはミッドウェー近海で僚艦エンタープライズと合流し、第16任務部隊として日本に向けて進撃した。エンタープライズは航空支援を、ホーネットは日本本土に接近してジミー・ドーリットル中佐率いるB-25ミッチェル双発爆撃機で編成された爆撃隊を発艦させる役割分担である。爆撃隊はホーネットから発進後、東京を筆頭に日本の主要都市を攻撃する予定であった。第16任務部隊は4月18日の朝に犬吠埼東方で日本の特設監視艇第二十三日東丸に発見され、ウィリアム・ハルゼー中将は予定より早い攻撃隊発艦を決意する。爆撃隊は前日に発艦準備を整えていたが、40ノットを超える強風と30フィートに及ぶ波が激しいうねりとなり、ホーネットは大きく揺れていた。その中でドーリットル隊は発進し、09:20までに16機のB-25は全て発艦した。, B-25爆撃隊は、東京、名古屋、大阪を12時間かけて散発的に爆撃。中国大陸に脱出後、不時着放棄された。セイロン沖海戦で勝利した南雲忠一率いる日本機動部隊は台湾沖で第16任務部隊追撃命令を受けたが距離は遠すぎ、燃料を浪費しただけだった[24]。, 空襲による被害は微小であったが、日本本土上空にアメリカ軍機が侵入したことは日本に大きな衝撃を与えた。またアメリカ軍が航続距離の長い双発爆撃機を用いたために対応策が考えられず、陸海軍はより大きな衝撃を受けた。国民の間でも不安が広がり、しばらく敵機来襲の誤報が続き[25]、山本長官にも国民からの非難の投書があった[26][注 1]。, 山本長官は以前から本土空襲による物質的精神的な影響を重視していたため、既に内定していたミッドウェー攻略作戦の必要をこの空襲で一層感じた。連合艦隊航空参謀佐々木彰によれば、山本長官は日本空母によるハワイ奇襲が企図できるのであるから、哨戒兵力の不十分な日本本土に対しても、アメリカもまた奇襲を企図できると考えていたようであるという[28]。この空襲により日本陸軍もミッドウェー作戦・アリューシャン作戦を重大視するようになり、陸軍兵力の派遣に同意、ミッドウェー作戦は日本陸海軍の総攻撃に発展した[29]。昭和天皇の住む東京を爆撃されたことで山本長官のプライドが傷つき、アリューシャンからミッドウェーにわたる航空哨戒線を築くことで東京に対する二度目の米機動部隊襲撃を阻止する狙いがあったと推測や[30]、二度目のドーリットル空襲を防ぐためにミッドウェー攻略作戦を急ぐ必要があり、空母瑞鶴を有する第五航空戦隊の戦力が回復するのを待てなかったという推測もある[31]。, 連合艦隊が計画したミッドウェー作戦構想は、ミッドウェー島を攻略し、アメリカ艦隊(空母機動部隊)を誘い出し捕捉撃滅することに主眼が置かれた。日本軍は同島をアメリカ軍の要点であり[32]、占領した場合、軍事上・国内政治上からアメリカ軍は全力で奪回しようとすると考えた[33]。一方、軍令部では、ミッドウェーは攻略後の防衛が困難で、わざわざ米空母が出撃してくるとは考えにくいと見ていた[12]。, 作戦構想では現時点で豪州方面で活動している米空母部隊がミッドウェー近海に出撃する確率は高い、と計算していた。日本軍は情報分析の結果、アメリカ軍の空母戦力を以下のように推定した[34]。, これを踏まえ日本軍は、ミッドウェー攻撃を行った場合に出現するアメリカ軍規模を、「空母2-3隻、特設空母2-3隻、戦艦2隻、甲巡洋艦4-5隻、乙巡洋艦3-4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦30隻、潜水艦25隻」と判断した[35]。アメリカ軍が同島に海兵隊を配備し、砲台を設置して防衛力を高めていることも察知していたが、その戦力は「飛行艇24機、戦闘機11、爆撃機12、海兵隊750、砲台20前後」または「哨戒飛行艇2コ中隊、陸軍爆撃機1乃至2中隊、戦闘機2コ中隊」であり[36]、状況によってはハワイから「飛行艇60機、爆撃機100機、戦闘機200機」の増強もあると推測[37]。同島占領作戦実施の際にはアメリカ軍基地航空隊からの空襲も想定していたが、直掩の零戦と対空砲火で排除できるとしている[38]。日本軍が海兵隊3000名、航空機150機というミッドウェー島の本当の戦力を知るのは、空母部隊が全滅した後の捕虜の尋問結果からだった[39]。, 作戦は、ミッドウェー島上陸日(N日)を6月7日と決定して一切を計画した。上陸用舟艇で島のリーフを越えて上陸するため、下弦月が月出する午前0時を選んだ。7月は霧が多く上陸が困難なため、6月7日に固定した。上陸作戦の制空と防備破壊は3日前(後に延期で2日前になる)に南雲艦隊が空母6隻で奇襲することで可能と考えた。連合艦隊は奇襲の成功を前提にしており、アメリカが日本の企図を察知して機動部隊をミッドウェー基地の近辺に用意することは考慮していなかった。米機動部隊の反撃は望むところであったが、米機動部隊は真珠湾にあってミッドウェー基地攻撃後に現れることを前提に作戦を計画した。ミッドウェー島占領後、基地航空部隊の哨戒網で敵機動部隊を発見、一航艦は第二艦隊と協力してそれを攻撃、山本艦隊は機を見て参加し撃滅するというものだった[40]。, MI作戦の主目標はミッドウェー島攻略と米機動部隊(空母部隊)撃滅のどちらにあるのかはっきりしておらず、連合艦隊は米機動部隊撃滅を重視する発言をしていたが、軍令部は主目標を攻略による哨戒基地の前進にあると示していた。軍令部で作戦計画の説明を受けた第一航空艦隊参謀長草鹿龍之介少将と第二艦隊参謀長白石萬隆少将は、ドーリットル空襲の直後だったため、哨戒基地の前進によって米空母による本土再空襲を阻止するものと抵抗なく解釈し、ミッドウェー作戦の主目的は同島攻略という強い先入観を得た。また、5月の図上演習で、陽動で米艦隊を他に誘導してミッドウェーを攻略する案が出たが、連合艦隊参謀長から、陽動をしたら米艦隊をミッドウェーに引き出せないとの意見が出た。この直後、軍令部に基づく大本営命令、総長指示で攻略が主目標に示されただけに、白石少将は連合艦隊の解釈が間違っているのではと思ったという。連合艦隊は出撃前に再び米艦隊の撃滅が目的と伝えるが、参加部隊には徹底して伝わらなかった[41]。, 戦後、草鹿は作戦目標が曖昧でミッドウェー攻略が優先であったことを指摘し、「二兎を追うことになった」と表現している[42]。