小佐野はこれ以上球場経営をする気もなく、買い手がつかなくなった東京スタジアムは取り壊しせざるを得なくなった。 そこで大急ぎで改修工事が行われ、翌2005年の開幕時には見違えるような球場に生まれ変わっていた。 ロッテのこの措置に仙台市民は大いに失望した。 優勝した翌年の1971年、遂に永田はオリオンズを手放した。 ところがロッテは、本拠地球場として宮城球場ではなく後楽園球場を使用したのである。 を地図で見る, チーム選択 マリーンズ 大阪近辺に存在すると噂されるネターランド王国の国王でありながら、フリーライターとしての貌も持つ。 だが、ロッテとすればそんなことはどうでもよく、親会社の宣伝効果が高い首都圏に戻ってくればそれで良かったのである。 ハマスタの改修もないはずなので、東京五輪の野球・ソフトボール会場は西武ドームになっていた。 3… | 要するに、ロッテ球団は仙台に“定住”する気はさらさらなく、首都圏にいい球場ができればいつでも本拠地移転が可能なように準備をしていたのである。 そして翌1970年、オリオンズは見事にリーグ優勝を果たした。 表向きの理由は宮城球場の収容人員が28,000人で、日本シリーズ規定の30,000人に満たないというものだったが、たった2,000人の差だったら交渉次第でどうにでもなるだろう。 漢字はもちろん仮名文字やアルファベットすら表示できず、数字のみ表記する、実に単純な電光掲示板だったのである。 本拠地球場をフルキャストスタジアム宮城とし、現在(2011年)その名称はクリネックススタジアム宮城となっている。 さて、今回は各球団の本拠地球場の変遷を一覧にしてみました。 日本のプロ野球では 2リーグ分裂時に フランチャイズ制度 が設けられました。 それまでの1リーグ時代は、以下の3つを主要開催球場としてい … Guide 球団プロフィール ; giantsとyankees; 今更聞けないQ&A; Information&News. 「横浜ベイスターズ」の前身である「大洋ホエールズ」本拠地は川崎の前は下関であった、では大洋の本拠地が下関のままだったら。 多少は現実よりも人気があった 場所柄九州(特に福岡・大分県)での人気が高かったと思われる。 その分西鉄・ダイエー→ソフトバンクの人気が下がっていた 県営宮城球場と表記されたこともあり、つまり宮城県が運営する球場である。, ロッテ・オリオンズが宮城球場を本拠地としたのは1973年から。 本拠地で試合するのに実態はビジターのような遠征と同じで、選手の疲労もたまった。 )。, 宮城出身の小坂誠が相思相愛で入団しミスターオリオンズを襲名。同じく宮城出身の佐々木や斉藤隆も入団は別としてもオリオンズ志望であった。, 1962年以降も後楽園球場だったら1970年の日本シリーズは後楽園決戦になっていた。, 東京スタジアム撤退後の1974年頃オリオンズが戻ってくるという噂が実現していた場合、外野フェンスを高く改修して営業再開。, 80年代から90年年代中盤まで栄光の時代を築いたので九州では圧倒的に西鉄ファンの数が激増していた。, むしろ名称は「福岡西鉄ドーム」「西鉄福岡ドーム」「西鉄ドーム福岡」のいずれかになっていた。, そして2000年代後半に西鉄が球団経営から撤退し、社長が王との関わりが親密なソフトバンクが親会社になり上記のように「福岡ソフトバンクライオンズ」になっていた。, 史実の福岡時代の球団歌の題名には全て「ライオンズ」という語句が入っているので「いざゆけライオンズ」あたりが妥当かと。, それはない。むしろホークスのそのままで、ブルーウェーブとバファローズだけが合併していた。, 仮にホークスの本拠地が大阪のままだったら「大阪ドーム」を本拠地にしていた、近鉄は合併まで藤井寺。, その場合楽天イーグルス設立は史実通りで、バファローズ・ホークスの合併球団の親会社は大阪の有力企業になっていた。, もしライオンズがダイエーに買収されていなかったら、ホークスがダイエーに買収されていた。, 2000年代中盤にダイエーの経営が悪化し撤退した後はその他の有力企業に買収されるか、上記に出ているようにバファローズと合併して東北楽天ゴールデンイーグルス設立は史実通りになるかのどちらかになっていた。, 両者に共通して(前者の場合はホークス、後者の場合は合併球団)、新親会社候補はサントリー・伊藤忠商事などになっていた。, 前者の場合、バファローズも2000年代後半に近鉄が経営から離れ、他の有力企業に買収されていた。, もしくはバファローズは史実通りブルーウェーブと合併していた。チーム名も史実と同じ「オリックス・バファローズ」。イーグルスも史実通りに設立。ただし新生バファローズのフランチャイズは2005年から2007年までは兵庫県・京都府の両方で、2008年から京都府のみとなる。本拠地は兵庫は神戸総合運動公園野球場で、京都は, 西武(国土計画)は株を持っていた大洋ホエールズの親会社に就き、「横浜西武ホエールズ」になっていた。, ホエールズは「横浜西武」じゃなくて「西武」として所沢新球場に移転。ただ海無し県なのに「ホエールズ」とはこれ如何に?となり何か新しい愛称に変更。結局空いたハマスタはオリオンズが移転, 国土計画主導なら横浜から動かず、「横浜コクドホエールズ」になる可能性も。この場合、コクド本社が横浜に移転。, みなとみらい線及び副都心線の開通、そして西武池袋線からの直通運転が史実より早く実現していた。, 言うまでもなくライオンズの埼玉移転はないので、むしろオリオンズが埼玉に移転していた。, ダイエーが球団運営から撤退した後は、サントリー・伊藤忠商事などに身売りされていたかもしれない。, その場合、大阪ドーム本拠で藤井寺は練習場扱い。球友寮(藤井寺球場隣接のバファローズ選手寮)を増築もしくは藤井寺市内のどこかに移転することになろう。, 南海汐見橋駅が大阪ドームから徒歩圏にあるので、南海側も球場の最寄駅としてPRしていた。, ギャオス捕獲計画がまったく別(おそらくかなりチャチかつ荒唐無稽)のものになっていた。, 遂には鷹ファンはセレサポから影響されて阪神との交流戦では「俺たち大阪!!お前ら西宮!」の文字を掲げていた, ホークスとタイガースの日本シリーズは「御堂筋シリーズ」として実際に行われた昭和39年より騒がれる, もしロッテが福岡に移転した場合、福岡の旧西鉄ライオンズファンから大ブーイングを受けるかもしれないのでロッテは除外。, 1988年の南海→ダイエーの身売り時に門田博光が単身赴任を避けて移籍することもなくホークス一筋で現役を終えていた。, 中百舌鳥球場への回帰が株主総会等で検討されるも、何かしらの理由で最後まで実現せずに終わる。, 「南海沿線に客を引き寄せられない」と言う理由から、最悪の場合西鉄と同時期に身売りor近鉄と合併していたかもしれない。, 死のロードは阪神だけでなく南海にも降りかかり、下手すると福岡時代初期まで良い成績を残せなかった可能性も…。, ブレーブスを応援する関テレ・MBS VS タイガース中心のABC・読売、そして中立の立場のTVOという構図か?. 宮城県がロッテを受け入れようというのである。 //-->, 東北地方最大の都市・仙台市。 ロッテはようやく”仮住まい”を手に入れることができ、1973年から宮城球場で多くのホームゲームを行うこととなった。, 翌1974年からロッテは正式に宮城球場を本拠地球場にすると発表し、保護地域も宮城県に移管した。 ただし、野球協約では主催試合を本拠地球場で50%以上行わなければならないとなっているが、ロッテは首都圏開催を確保するため試合数を変更できるという特例を求め、これが承認された。 完成当時のチーム名は大毎オリオンズ、1964年からは企業名を排し(「大毎」は大映と毎日新聞の合成)都市名を冠に付けた東京オリオンズとなった。 プロ野球のスタートは1934年、現在の読売ジャイアンツが大日本東京野球倶楽部とそて発足したころまで遡ります。深い歴史を持つプロ野球について、当記事では球団名の変遷を振り返ります。12球団の球団名年表も作成していますのでご覧ください。 このことで本拠地を失ったロッテオリオンズは、1973年からは宮城県仙台市にある宮城球場を暫定本拠地とし、1977年までは首都圏や静岡などを転々として、ジプシーロッテなどと呼ばれていたんですよね ホームの宮城球場で試合をするときは遠征で、日本ハム・ファイターズとビジターの後楽園で試合する時には家から通うという、奇妙な現象となった。 ファンに胴上げされたオーナーなど、後にも先にも永田だけだろう。 ここでは、この5年間とその前後の球団の事情について取り上げる。 第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。 工事期間が僅か半年とは思えない、見事な出来栄えだ。 あまりにも仙台をバカにしたこの仕打ちに、仙台市民は怒りと共に呆れかえっただろう。 時代に合った両翼101.5mの広いフィールド、全面人工芝となりスコアボードもスタンドも大幅改修、球場内のサービスも最新式を取り入れた、どこに出しても恥ずかしくない個性的な球場となった。 2リーグ分立した1950年以降の日本プロ野球で、特に流転していた横浜DeNAベイスターズ、千葉ロッテマリーンズと北海道日本ハムファイターズの本拠地の変遷を地図で見る チーム選択 ベイスターズ マ … 「杜の都」とも称されるこの市は宮城県の県庁所在地であり、人口105万人を数える政令指定都市である。 コンテンツ 一覧. 本拠地球場を持たないジプシー球団・ロッテの誕生である。, 朗報は北からやってきた。 だが、それでも日程は半分以下しか埋まらず、残りの主催試合をどうするか頭を悩ませた。 と言っても、宮城球場のスコアボードが電光式だったのは、得点の数字のみ。 つまり、宮城球場は暫定本拠地となったのである。 第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。 高校時代は日本史に世界史を専攻していた私、最近は旅行先でその歴史の舞台を訪れることに感動を覚えたりしております, その歴史、今回はマリーンズの本拠地の歴史を書いてみようかと思っておりますが、いかんせん私がマリーンズファンになったときはもちろん、本拠地は千葉マリンスタジアムなわけですから、他の球場に関する知識などは全くといっていいほどありません。, なので、それ以前はネットなどで調べた情報であることをご了解いただけたらと思いますm(_ _ )m, 1949年、毎日新聞社を母体とする毎日オリオンズとして産声をあげたマリーンズ、最初の本拠地は後楽園球場でした, 1937年に開場した後楽園球場は、ご存知の通り1988年に東京ドームがオープンするまで、読売ジャイアンツが本拠地として使用しており、現在では珍しくなりましたが、オリオンズ以外にもファイターズやスワローズ等複数の球団が同時にフランチャイズとしていた時期もあったんですよね, この後楽園球場は1988年に解体され、その跡地は現在、東京ドームホテルや東京ドームシティとなっております。, 1958年、毎日オリオンズは大映ユニオンズと合併し、球団名が毎日大映オリオンズ(大毎オリオンズ)となり…, 1962年、大毎のオーナーであった永田さんが私財を投じて東京都荒川区南千住にオリオンズの専用球場となる、東京スタジアムを建設し、ここを本拠地とするんですね, 東京の下町に作られたこの球場、ナイター開催時は真っ暗な街にここだけ明るい光が灯り、当時は光の球場と呼ばれたとか。, 1964年には東京オリオンズと改称、そして1969年にはロッテをスポンサーに迎え(この時点ではまだオーナー企業にはなってない)、ロッテオリオンズとなりますが…, 1971年、大映はロッテに球団の経営権を譲渡して倒産、さらにはスタジアムの買い取りをロッテに求めたものの、貸借を希望するロッテと折り合いが付かずに破談、これにより東京スタジアムは閉鎖、1977年に開場からわずか15年で取り壊されてしまいます, 余談ですがこの東京スタジアムの跡地、現在は荒川スポーツセンターとなっているようです。, このことで本拠地を失ったロッテオリオンズは、1973年からは宮城県仙台市にある宮城球場を暫定本拠地とし、1977年までは首都圏や静岡などを転々として、ジプシーロッテなどと呼ばれていたんですよね, お気づきになられた方も多いと思いますが、そう、現在は楽天イーグルスが本拠地としている、クリネックススタジアム宮城の改修前の写真なんですね, 現在もKスタにはたくさんのマリーンズファンが集まりますが、それは40年近く前にわずか5年間だけではありますが、本拠地としていたことがあるのかもしれませんね, 1978年、ロッテオリオンズは神奈川県川崎市川崎区にある川崎球場を正式に本拠地とすることに。, この川崎球場時代は、とにかく観客がガラガラだったようで、スタンドで流しそうめんをやっている映像なんかが有名になりましたね(苦笑), この川崎球場、最近も仕事で近くまで行った際に立ち寄りましたが、現在では老朽化で危険だった観客席スタンドはほとんど解体され、グラウンドはアメフトのコートとして使用されているようでした, ところでこの川崎球場の名物だった肉うどん、よくマリンでも復刻版が販売されることがありますが、これホント美味しいのでオススメです, ところでロッテオリオンズのファームの本拠地、以前は東京都青梅市にある青梅球場(現在の名称は青梅スタジアム)でしたが…, そして1990年、千葉市はプロ野球の招致を目的として、開発を進めていた幕張新都心に多目的スタジアムを建設、千葉マリンスタジアムと名づけられます, そしてこのマリンスタジアムで、ロッテオリオンズはオープン戦1試合を実施、翌1991年には公式戦も行ったようです。, そしてこの年、千葉にプロ野球を誘致したい千葉市と、川崎球場の老朽化に不満を抱いていたロッテ球団との思惑が一致し、1992年よりロッテは完成して2年の千葉マリンスタジアムへ本拠地を移転することとなりました, そして千葉移転に伴い、球団名の『ロッテ』を『千葉ロッテ』と改称し、オリオンズに変わる新しい愛称を公募, そのときの1位は『ドルフィンズ』だったようですが、頭文字がドラゴンズと被る『D』だったために却下、そして漫画でもあった『パイレーツ』も候補に挙がったようですが、漫画のイメージがあまりよくない(弱小球団)ということでこれも却下され、最終的にマリンスタジアムにちなんだ『マリーンズ』が採用, こうして、千葉マリンスタジアムを本拠地とする、千葉ロッテマリーンズが誕生したのでした, 奇しくも今年・2011年は千葉移転20周年ということで、移転当時のピンクユニでのオールドユニフォームシリーズが行われたり…, …ということで、マリーンズの本拠地の歴史を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか, よくよく振り返ってみると、現在はもう存在しない球場もあったりすることが寂しかったりもしますが、こういう歴史を先人たち(選手もファンも)が作ってきたことに、感慨深いものがありますよね, よくおじいちゃん世代が息子や孫に、『わしは長嶋の現役時代のプレーを見たことがあるんだよ』などと嬉しそうに語ったりするらしいですが、我々も何十年後かに、『おじいちゃんはね、伊志嶺のプレーを新人のころから見てたんだよ』などと語ってるかもしれませんね, この機会に、千葉ロッテマリーンズの本拠地の歴史を振り返ってみましょうか☆ | しろ☆くろ. BACK HOME--!! 第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。 球場建設から僅か10年、「光の球場」と謳われた東京スタジアムは一瞬の輝きだけ放って、その幕を寂しく閉じた。, 本拠地球場を失ったロッテは、首都圏に球場を探したが、もうプロ野球を開催できる球場など残ってなかった。 第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。 それが現在の千葉ロッテ・マリーンズ、当時のロッテ・オリオンズである。 この暫定措置が実は大きな曲者だった。, 宮城球場が暫定とはいえ正式な本拠地になってからも、球団事務所や合宿所は東京にそのまま置き、選手たちも東京に住んでいて仙台に移住する者はいなかった。 ただし近鉄とオリックスの合併は承認されたので(合併球団はオリックス・バファローズ)1球団足りなくなり、IT企業の楽天の新規参入が認められて新球団が発足した。 1969年、球団経営に行き詰まり、菓子メーカーのロッテに命名権を売却、チーム名はロッテ・オリオンズとなった。 市民に愛されない球団にも思わぬメリットがあったのである。 新潟 1. この年の日本シリーズで、中日を4勝2敗で破って見事日本一に輝いたロッテは、優勝パレードをなんと東京で行ったのだ。 もっとも、川崎に移転したロッテは12球団で最も不人気の球団に成り下がり、不遇の時代を迎えるのだが……。, ロッテが去った後の宮城球場は、年に数回のプロ野球開催があるだけで、それ以外では地元のアマチュア野球の常打ち球場として使用されていた。 ジプシー・ロッテ(英語: Gypsy LOTTE ) は、プロ野球・ロッテオリオンズ(現:千葉ロッテマリーンズ)が、1973年から1977年の間、特定の本拠地球場を持たずに球団運営を行っていた様子を揶揄した呼称のひとつである。. 過酷な移動を強いられてきた選手たちも、ようやくジプシー生活から解放されると、この首都圏回帰を喜んだ。