広島において被爆死 引用終わり 我が国の戦後に行なわれたウオーギルトインフォメーションプログラムによる傷はまだまだ深いと思います。, バンブーさん来店。 「野蛮な人間もいた。日本人の歯で作った腕輪は、彼らの歯を抜き取らなくては作れない」 「私の名前を出さないのなら話してあげてもいいのだが・・・」私は約束した。 これは、米軍が我が軍兵士の遺体をどのような扱いをしたかを考えれば、自ずと答えは導き出されます。 $380.00 米国人の日本人の遺骨に対する扱い 9月27日火曜日晴れ 酔狂師さん来店。 ちょっと遠いですが、地下鉄有楽町線 江戸川橋(歩いて八~一〇分), Copyright © 2020 酒たまねぎや URAホームページ. http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2009/08/15/MNPK195PD6.DTL, また、サピオには日本兵の頭蓋骨で遊んでいるマクファーソン中尉 『あるいは両手を挙げて出てきたのに撃ち殺されたのではね』 最後に墜落機より飛び降り、地上に激突する寸前にパラシュートが松の木に引っかかって宙づりになったのち捕虜となる。 最寄り駅 地下鉄東西線  神楽坂駅(歩いて五~七分)(当店の場所の地図) Kくん来店。 その頭蓋骨は一体につき三十五ドルで販売されていた。(一九四四年). サルよりマシ。, 米国人の日本人の遺骨に対する扱い と、武末氏は書いているが、近代、白人がやってきた事を考えれば容易に想像がつく事です。, http://www.bangordailynews.com/story/Greater-Bangor/Japanese-trophy-skull-finally-returning-home,152313, 「Japanese trophy skull finally returning home 」となっている。, そして記事には、words “1945 Jap Skull Okinawa”とその頭蓋骨に刻まれていた事が書かれている。 大学側は否定も肯定もしなかった。単に記録がないと答えたそうである。私は大学の名前を教えてくれるよう頼んだ。しかし、博物館はそれを拒んだ。> 一方、前田利長は家康の元に部下を差... 二人の時間を大切に過ごすイサさんとタキさん。しかし、イサさんの様子が急変して…... ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号 第6091713号)です。 昭和二十年(一九四五年)七月二十八日に、呉沖に係留されていた日本帝国海軍戦艦「榛名」を攻撃した時に、対空砲火により撃ち落とされ、広島県佐伯郡八幡村に墜落したB-24爆撃機「タロア」号乗組 … 「トランプ、君は首だ」バイデン勝利でワシントンの黒人デモ聖地でもお祭り騒ぎ ... 菅氏がやり続けた東京新聞・望月衣塑子記者への露骨な嫌がらせは総理会見でも続く... 三浦瑠麗氏、菅首相のブレーン起用も…専門家から「必然性ない」「コア支持層へのア... PCR検査拡充の慎重論に「偽陽性1%に根拠なし」「感染の4割以上は無症状者から」 ... キンプリ高橋海人「アイドルは誰かを幸せにしてこそ満たされる」 “寂しい期間”経... SixTONESが週刊朝日に登場!表紙&観音グラビア&インタビュー一挙10ページ!, 「現代ホスト界の帝王」ローランドさんがAERAの巻頭に登場「逆境マネジメント」を語る, 【12/4(金)開催】『AERA』働く女性応援イベント「頑張りたい」と「頑張り過ぎ」のハザマで, ≪主催≫クレヨンハウス 武田砂鉄氏トークイベント 「振り返りながら考える わたしたちのこれから」, 【主催/JPIC ONLINE】内田樹×岩田健太郎『コロナと生きる』刊行記念対談イベント, 『中学受験2021 時事ニュース 完全版』阿部亮平さん(Snow Man)が巻頭インタビューに登場!, ≪主催≫代官山 蔦屋書店 『コロナ危機の社会学』刊行記念 西田亮介×安田洋佑トークイベント, 「科学漫画サバイバル」シリーズ累計1000万部突破! シリーズ初のアニメ映画DVDの発売も発表. などが掲載されているが、これらの旧日本帝国軍人の御遺骨はどのようにアメリカ軍に扱われたか。   このやり方全体は、話をしてくれた将軍の全面的な是認を受けていた」 遺骨は昭和二十年十二月六日、陸軍第十部隊に引き渡される。, ジョセフ・E・ダビンスキー少尉(中尉という説もあり)(機長) 2016.2.8 07:00 週刊朝日. 太平洋戦線に投入されたアメリカ兵のなかには、敵兵の遺体の一部を切断したり、狩猟の獲物と同じように扱い「戦争の記念品、土産」として持ち去る例があった[7]。記録に残された初期の残虐行為は、1942年(昭和17年)8月17日のギルバート諸島ブリタリ環礁(マキン島)に対するマキン奇襲作戦でおこなわれた[8]。エヴァンズ・カールソン中佐に指揮されたアメリカ海兵隊奇襲部隊のうち、次席指揮官ジェームズ・ルーズベルト少佐は、フランクリン・ルーズベルト大統領の長男であった[8]。150人ほどの日本軍守備隊を一掃した海兵隊員は、戦死した日本兵の遺体を損壊し、切断した男性器を口中に詰め込んだという[9]。マキン島を再占領した海軍陸戦隊は戦場整理の際、日本兵の遺体がズボンを脱がされていたことを不審に思ったが、腐乱が進んでいたこともあり蛮行に気付かなかった[10]。, 同年9月、アメリカ軍は「遺体のコレクション」を行うことを懲戒処分の対象とするとの命令を出した[11] 。 パラシュートで脱出後中国憲兵隊に引き渡される。 米軍兵による日本軍戦死者の遺体の切断(べいぐんへいによるにほんぐんせんししゃのいたいのせつだん)は、第二次世界大戦時、太平洋戦線においてアメリカ軍兵の一部が日本軍戦死者の遺体に対して行った戦争犯罪、猟奇行為。アメリカ軍より公式に禁止されていたと考えられているが、禁止令は戦場の兵士の間で常に遵守されていたわけではない。これらの猟奇行為がどの程度行われ、公的に認識されていたかは不明である。, 太平洋戦争において連合国軍は少なからず人種差別的表現をもちいており、アメリカ合衆国においては「戦闘員と民間人の区別をつけず日本人を皆殺しにせよ」と主張する者も多かった[4]。日本兵を人間扱いせず、動物として描くこともあった[5]。アメリカ軍人向け雑誌には、海兵隊の志願兵に「日本兵狩猟許可証」を「無料の弾薬と装備と給料」で出すと宣伝した[5]。また具体的な事例として、アメリカ海軍の代表的指揮官ウィリアム・ハルゼー・ジュニア提督は「ジャップを殺せ、ジャップを殺せ」をスローガンとしており、艦隊宛の通信文は「やつらを死なせ続けろ」と結ばれていた[4]。チェスター・ニミッツ提督宛の私信でも「もっと猿の肉を確保する」ための潜水艦の活動を提案した[4]。ハルゼーは新聞記者達に対して、日本を占領した暁には日本人女性全員に不妊手術を施すべきだと冗談まじりに語り、また昭和天皇の処刑もほのめかした[6]。日本側はこれらの言動を察知して、プロパガンダに利用した[7]。, ハルゼーの発言は冗談めいていたが、戦場では連合軍兵士による残虐行為が実際に行われていた。 同チームの調査団は7日から同島を訪れ、旧日本兵が集団で埋葬されているとみられる2カ所で遺骨の収集に当たった。>, 二千二百人が集団で埋葬とはどういうことか。 表は昭和二十年、大阪俘虜収容所における比較表。 と、別の将校が調子を合わせる」, ホーランディア攻略戦で敗れて捕虜となった日本軍人の大多数は、機関銃の乱射で殺されたのである。, 「我が軍の将兵は日本軍の捕虜や投降者を射殺することしか念頭にない。日本人を動物以下に取り扱い、それらの行為が大方から大目に見られているのである。われわれは文明のために戦っているのだと主張されている。ところが大平洋における戦争をこの目で見れば見るほど、われわれには文明人を主張せねばならぬ理由がいよいよ無くなるように思う」(七月一三日), 「安全でかなり贅沢な将校クラブに座しながら、これらの日本軍を『黄色い奴ばら』と表現するアメリカ軍将校の言に耳を傾けねばならないのである。彼らの欲求は日本兵を無慈悲に、惨たらしく皆殺しにすることなのだ。オウィ島に来て以来、敵に対する畏敬の言葉も同情の言葉も聞いた覚えはまったく無い」(七月二一日), 「私は突っ立ったまま、密林の焼け焦げた跡や、日本軍が身を隠している洞窟と思しき断崖の黒点を眺めやる。あの焼け爛れた地域の地表下に極限の苦悶隠されているのだ 遺骨は昭和二十年十二月六日、陸軍第十部隊に引き渡される。, チャールズ・O・パウムガートナー軍曹(下部射撃手)は広島県佐伯郡八幡の山中にパラシュートで着地。 角兵衛と右近が直接対決!!その結果は…!? このサピオの記事に書かれているようなことは私の手元の本に書かれています。, 一部重複する事をご了承ください。 どうしたんでしょう・・・・ 最初の極秘文書により13名の方々が埋葬されたが、その御遺体は昭和23年10月13日に掘り返され、横浜・久保山で火葬とされました。, 極秘であるはずの巣鴨プリズンで処刑された方たちの遺体処理がどうして久保山斎場で焼かれたことがはっきりしたかというと、飛田美喜久保山斎場長が昭和23年8月23日8月21日以降、日に追って火葬された遺体と翌日新聞に発表される処刑者数とを突き合わせた結果、その数が一致したからだそうです。 実際、キッドが体当たりを受けた以前に、ある時死亡した日本兵を海から引きあげたことがあった。 松の司の松瀬社長、Iさん、Sさん、マルガリータさん来店。 飢餓、絶望、そして死体や死に瀕した男たち。ただ祖国愛と信ずるもののために耐え、よしんば心底で望んだとしても敢えて投降しようとしない。なぜならば両手を挙げて洞窟から出ても、アメリカ兵が見つけ次第、射殺するであろうことは火を見るよりも明らかだから」(七月二一日), (以上は先に書きましたようにリンドバーグ日記よりの直接の引用では無く、「日本の反論」米田健三著 p百六十一~百六十五よりの引用), そして、米田氏はこうも書かれています。 バーンハウスは艦長とともにこの非道な行為を止めた。後日、このパイロットの遺体は艦長の指揮のもと、アメリカ海軍の伝統にのっとり水葬にふされた> Copyright 2020 Asahi Shimbun Publications Inc. All rights reserved. 結果、記憶なし。 Proudly powered by, http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2009/08/15/MNPK195PD6.DTL, http://en.wikipedia.org/wiki/American_mutilation_of_Japanese_war_dead, http://www.collectorsdeck.com/index.php?main_page=product_info&cPath=92&products_id=99. 平成22年11月10日水曜日晴れ △ 日本兵の頭から頭蓋骨を取り出して故郷の恋人に土産として送った海兵隊隊員もいたぐらいである。キッドでこのようなことが起きても不思議ではなかった。 「戦争プロパガンダの嘘を暴く」(三好誠 展伝社 平成十七年刊)p百十八~百十九, 多くの国民が飢えている時に、主食その他で皇軍兵士と同量だったのです。 以上 この老人は私の顔を見ながら言った。 その英霊7名の遺骨は伊豆の興亜観音の境内にある〈七士之碑〉に納められていますが、これは刑の執行後、東京裁判の弁護人だった三文字正平氏、飛田美喜久保山斎場長、久保山斎場のすぐ隣にある興禅寺の市川伊雄住職の3人が再火葬がすみ、七人に区別しておいた骨を進駐軍が砕いてごちゃごちゃに一つにし、それを黒塗りの箱に収め、いずれかに持ち去ったが、収め方が粗雑だったために残った中小の骨や細骨、骨灰などをコンクリートの骨捨て場に捨てたものを、厳重な警戒のもとにある久保山斎場に三人が二十六日の夜半、骨捨て場に忍びこみ、拾い上げたものです。ですから7名の皆様の遺骨が混ざってしまっています。それらは大人の骨壷1個分ぐらいしかなかったそうです。(写真は昨年参詣させていただいた時のもの) (その後我が国に返還されたはずとサピオの記事は書いています。), 同様にこのサピオの記事に掲載された ロバート・C・ジェンストン中尉(爆撃手) (同九月九日), 先日、下記のような記事がありました。 Nさん、真理子さんと来店。 Sさん二名様で来店。 博子さん、幹子さん四名様で来店。 Nさん来店。 ローレンス・A・フォールス・ジュニア中尉(航法士), ウォルター・ピスコール軍曹(エンジニア) これについて米田氏は第二次大戦に対してアメリカ参戦を反対していたリンドバークは昭和一九年になって南太平洋の戦場視察と慰問を許される。そこで、「アメリカ人が文明人であることを主張せねばならぬ理由がなくなる」ような、米軍兵士の日本兵捕虜に対する数々の蛮行を見聞することとなったと書かれています。, 「日本兵士殺害に関する将軍の話----実戦参加経験がないまま帰国する軍曹が、せめて一人だけでも日本兵を殺したいと不平を漏らした。 「あのパイロットのことは、私が一番よく知っているよ」 今月一杯で、故郷の岡山にお帰りになるそうで、わざわざ挨拶にいらしてくださった。 ナベちゃん来店。 「特攻パイロットを探せ」平義克己著 扶桑社 平成一六年刊)p二百五十一~二百五十二, これが人道的とされてきたアメリカの姿です。アメリカ国内においては大東亜戦争中も人種差別が合法でした。公立の学校においてさえ、人種差別が憲法違反とされたのは一九五三年のことです。軍隊においては別々に従事させていました。, バンブーさん来店。 日本でもこの記事が報道されると、外務省(重光葵外務大臣)[24] を含め、各方面から抗議の声があがった。前述のハルゼー提督の言動もふまえて、アメリカ兵は「野獣、野蛮、悪魔」として描写された[7]。各新聞の反応は以下のとおり。日本産業経済新聞は「我勇士の遺骨で戰線土産物/鬼畜に劣る米兵の正體!」[25]、毎日新聞は「この米奴を叩き殺せ」と紹介し社説で解説[26]、讀賣報知新聞は「見よ米鬼の殘忍」[22]、朝日新聞は「野獣を抹殺せん/國際法以前の問題/何より勝つこと 負ければ一億がペン軸だ/重傷のわが兵士を逆さに生埋め 血を絞られた抑留邦人/これが米鬼だ」[27] などの表題や見出しの記事を掲載した。 No Reproduction or publication without written permission. <第二次大戦におけるソ連軍の蛮行は周知の事実だが、米軍については極めて人道的であったがごときイメージが長い間流布されてきた。記録映画などに登場する日本占領前後の米軍将校のほとんどが、降伏した日本軍兵士や民間人に食糧を支給し、医療を施す善良な姿で映っている。だから、「鬼畜米英という教育はまちがいだった。玉砕は犬死にだった。文明国の軍隊はあんなにも寛大だったのだ」という論理がまかり通ってきた。しかし、前線の諸記録に垣間見られるのは、むしろ日本人が軍民を問わず玉砕を選ばざるをえなかった米軍の残虐さである>(同書p百六十一~百六十二), 「敗北を抱きしめて」などの著書で有名なジョン・ダワーもその著書「容赦なき戦争 太平洋戦争における人種差別」(平凡社ライブラリー)に書いています。 『(原文伏字)では二〇〇〇人ぐらい捕虜にした。しかし、本部に引き立てられたのはたった一〇〇人か二〇〇人だった。残りの連中にはちょっとした出来事があった。もし戦友が飛行場に連れて行かれ、機関銃の乱射を受けたと聞いたら、投降を奨励することにはならんだろう』 中国憲兵隊に引き渡される。 サプライズな贈り物にナタリーは、それを『東条』と命名しました。> 戦争が終わり、彼はこの頭蓋骨をペンシルバニアの実家に持ち帰った。しかし、良心に苛まれて、当時ある大学に通っていた友人にその頭蓋骨を渡し、大学に寄付してくれるよう依頼したそうである。 珍しく記憶あり。 今回が初めてギリギリブラザース勢揃い。 記事にも多くのアメリカ軍の我が軍兵士に対しての醜い行為の証言が書かれている。   福岡のTさんの御紹介ということで、二名様来店。 http://www.collectorsdeck.com/index.php?main_page=product_info&cPath=92&products_id=99 デビット・A・パシフィックフィールド軍曹(ラジオオペレーター) でっ、遅い時間からドンチャン。 いわゆるA級とされる戦犯の方々7名は昭和23年12月23日に処刑されました。この12月23日とはその時の当時の皇太子つまり今上陛下の誕生日です。その日に合わせて刑が執行されたのでした。 リンドバーグは下記のように日記に残しています。, 「われわれがもし日本兵の歯をもぎとったり、ブルドーザーで遺体を穴の中に押しやり、さらった土をかぶせてやったりする代わりに、人間にふさわしい埋葬を営んでやることが出来るのであれば、私はわが国民性にもっと敬愛の心を抱けたに相違ない。ブルドーザーで片付けたあとは墓標も樹てずに、こう言うのである。『これが黄色い奴らを始末するたった一つの手さ』と」(七月二一日), 「山道の片側にある爆弾でできた穴の縁を通り過ぎる。穴の中には五人か六人の日本兵の死体が横たわり、わが軍がその上から放り込んだトラック一台分の残飯や廃物で半ば埋もれていた。わが同胞が拷問によって敵を殺害し、敵の遺体を爆弾でできた穴に投げ込んだうえ、残飯や廃物を放り込むところまで堕落するとは実に胸糞が悪くなる」(七月二四日), ブルドーザーで遺体を片付け、その上に残飯、廃物を放り込む。 カミラウス・カークパトリック軍曹(機首射撃手) 米軍による醜い遺体処理と我が国のアメリカ兵遺体処理の違いについて 「特攻パイロットを探せ」(平義克己著 扶桑社 平成十七年刊) p二百五十一~二百五十二, <キッド(駆逐艦)は日本機を一機撃墜した。パイロットは落下傘で機内から脱出したが、キッドがそのパイロットを捕虜にしようと引き揚げた時にはすでに死亡していた。血気にはやる数人の乗組員たちは日本人パイロットの遺体をナイフできりつけ、耳を殺ぎ落としたり、首をはねたりなど、非道な行為にはしった。中には、下顎を頭蓋骨からはずし、それで装飾品をつくった者もいた。 Yさん、Hさん、Nさん来店。 <「これは状態の良いジャップです。ニューギニアビーチで死んだのを切り取ってきました」 映画「硫黄島からの手紙」の中に、昭和七年ロスアンゼルスオリンピック馬術大障害飛越競技にて金メダリスト(オリンピック史上、馬術で我が国唯一のメダリスト)であるバロン西こと西竹一中佐(戦死後大佐)が負傷したアメリカ兵の手当てを部下に命じる場面と、アメリカ兵による降伏した日本兵を銃殺する場面までこの映画の中にあります。昨年、日記にも少し書きましたがロシア軍はもちろん、アメリカ軍、オーストラリア軍、オランダ軍、支那軍などの連合国は多くの捕虜虐殺をやっています。もちろん、日本軍も同様ですが、どういうわけか我が国の先人だけを責める日本人が多い。 インチキラクターさん来店。 パラシュートで脱出し、観音、現西飛行場にあった三菱造機の工場の屋根に降りたが既に死亡していた。 <しかし、人の頭蓋骨や遺体の一部を持ち帰った米兵がいることは驚かざるを得ない> 三菱病院から医師が駆けつけ、必死で人工呼吸し生き返らせようとしたが、無駄に終わった。 この件についてキッド博物館に尋ねたら、以前その大学に実際に問い合わせたことがあると言う。 「どういう意味ですか?」 いわゆるA級戦犯といわれる7名の方はもとよりBC級戦犯といわれ処刑された方々の埋葬などは秘密にされ、御遺族にも知らされていません。これは連合国側がこれらの英霊が英雄崇拝の対象になるのを恐れたためともいわれています。たとえば、我が国の巣鴨プリズンにおいて絞首刑された59名と銃殺1名の英霊(いわゆるA級戦犯とされた7名、BC級戦犯とされた53名)に対しての遺体処理を、昭和21年3月13日付GHQ極秘文書により「絞首刑による戦犯の遺体は自己所有の軍服から肩章と略章の一切を剥ぎ取って埋葬せよ。墓には白塗の木札を立て、ただ墓標番号だけを記せ」と指示、さらに昭和23年8月13日付の新たな指示として「処刑された戦犯の遺体は火葬に付し、遺骨は極秘裡に処分すること、またその処理に当たっては佐官級の高級参謀に責任を負わせ、遺体の身元や処分した場所など一切外部に漏らさぬ事」とあり、文章の指示にそって処理された。 遺体は三菱病院長の日下部旦三氏が検死の上、広島市尾長町(現山根町)の国前寺に葬られた後、戦後、昭和二十年十二月初旬、吉川正治参謀、通訳、アメリカ第八軍の将校二人立ち会いのもと、発掘され、第八軍に引き渡された。, ルドルフ・C・フラナギン中尉(副操縦士) 広島において被爆死, 先人は爆撃により肉親を、友人を殺したであろう憎き敵を、墜落し亡くなったからと「米軍勇者之墓」と書いて手厚く埋葬したのです。, そして、米国は被爆死した自国の軍人の事を隠し通そうとした。 ジュリアス・モルナー軍曹(尾部射撃手) 米軍による戦犯遺体処理について サイモン・ハリソンはこれらの行為はガダルカナル島の戦いが最初の機会であったと結論付けている。明らかに、生きていようが死んでいようが、初めて日本軍と遭遇した時、戦死者の身体の一部をコレクションすることは軍当局に懸念を抱かせる規模で行われ始めた[12]。 ドナルド・F・マービン中尉(オブザーバー) 『俺にはこいつを殺せないよ!やつは捕虜なんだ。無抵抗だ』 私もこの三好誠氏の著書により初めて知る事が出来ましたが、なぜ、このような事実が今まで報道されてこなかったのか。 続く, 今日の築地本願寺の蓮。 日刊ゲンダイ。今日ぐらい小沢関連ネタをやめればいいと思うが。 Tさん来店。 アクセス情報について | 個人情報 | 著作権 | 会社案内 | 朝日新聞出版 | ソノラマプラス | 朝日新聞デジタル | 広告掲載について | お問い合わせ 「特攻パイロットを探せ」(平義克己著 扶桑社 平成十七年刊) P六七, 連合国軍の捕虜虐殺については有名なリンドバーグの日記にも書かれています。下記の「 」内の引用文はリンドバーグ日記よりの直接の引用では無く、私の手元にある「日本の反論」(米田健三著 並木書房 平成十六年刊)よりの引用ですので文章は米田氏が要約・抜粋したものです。 ペリリューの戦い、硫黄島の戦いなどで日本軍との間に死闘を展開したアメリカ海兵隊では、激戦につぐ激戦による最前線兵士の精神的疲労も重なって、日本兵の遺体損壊が日常的になっていた。 『ところがわが方の連中は捕虜をとりたがらないのだ』 時事通信2010年10月22日(金)19時56分配信 『ちぇっ、戦争だぜ。野郎の殺し方を教えてやらあ』 ナタリーというこの女性に対し、 ホロン部員Yさん来店。 硫黄島で戦死した旧日本兵の遺骨収集を進める政府の特命チーム(リーダー・阿久津幸彦内閣府政務官)は22日、首相官邸で第3回会合を開き、51人分の遺骨を島内2カ所で発見したことを報告した。計2200人が集団で埋葬されている可能性があるという。 二名様来店。 メイン州ホールデンにて銃や軍用品を売買するラルフ・マクラウド(Ralph McLeod)氏は二〇〇五年6月に発見し、日本に返すべきだと同業者から五十ドルで購入して、日本大使館に連絡した。 Headhunting Trophy Head – WWII Japanese Jaw – Gong Handle 偵察隊に捕らえられた一人の日本兵捕虜が軍曹の前に引き立てられた。軍曹は言った。 世界でも非常に安全な国として知られる日本。 しかし、他国同様過去には放火等の大量殺人やシリアルキラーによる連続殺人事件等、凶悪な犯人によって、数多くの命が奪われた忌まわしい事件も数多く存在します。 偵察隊の一人がそういうと、日本兵に煙草と火を与えた。煙草を吸い始めたとたんに、日本兵の頭部に腕が巻つき、喉元が一方の耳元から片方の耳元まで切り裂かれた。 ギリギリブラザース三名様で来店。 というような記事です。 写真には六つ墓が写っている。 「土産」には金歯のほか、頭蓋骨や他の人体各部が採取されることもあった[7]。収集された遺体の部位は、耳を切り取ってベルトにぶらさげる、歯でネックレスをつくる、竿に生首をたてる、戦車に頭蓋骨を取り付ける、といった具合に使用された[7]。, ペリリューの戦い、硫黄島の戦いなどで日本軍との間に死闘を展開したアメリカ海兵隊では、黄色人種に対する人種差別感情と、激戦につぐ激戦による最前線兵士の精神的疲労も重なって、日本兵の遺体損壊が日常的になっていた[13]。撃墜した日本軍機パイロットの遺体や、特攻により損傷したアメリカ海軍艦艇に残されたパイロットの遺体が「コレクション」された記録もある[14]。, 大量の日本軍の戦死者の遺体は排尿や死体への射撃などで冒涜され、あるいは記念品として前述のような猟奇的行為が行われた[15]。なおこれらの猟奇行為は、敵兵に対する怒りから行われるだけでなく、モンゴロイドである日本兵に対する人種差別的感情からも行われていると批判された[注 1]。, 戦後、マリアナ諸島から本国へ日本軍将兵戦死者の遺体の残りが送還された時、約60%がそれらの頭部を失っていた[16]。サイパン島で収容所にいた日本人少年は、海岸で頭蓋骨をボール代わりにして遊ぶという猟奇的行為を行うアメリカ軍兵士を目撃している[17]。, これら日本人の遺体を切り刻み持ち去る行為は、日本の軍部やメディアがおこなった報道や反米宣伝により、日本国民にも広く知られていた[18]。誇張と部分的な真実が結びつき、アメリカ軍は「悪魔」「殺戮者」として描かれるようになる[19]。こうした報道は連合国軍への敵意を煽ることになった[20]。結果的に、連合軍上陸後にサイパン[18]や沖縄で発生した民間人の集団自殺などにつながったとしている。, 日本軍の戦死者の部位を切り取り「コレクション」する連合国軍兵士の猟奇行為は「戦争の全期間にわたり連合国軍当局に懸念を抱かせるのに十分な規模で行われ、そして、広く広報され、さらにアメリカや戦時中の日本の新聞においてコメントされていた」[21]。, ライフマガジン誌は1944年5月22日に、アリゾナで勤労動員されているアメリカ人女性が海軍将校のボーイフレンドからプレゼントされた「日本兵の頭蓋骨」トロフィーの横で手紙をしたためている画像を配信した[7]。 「パイロットの頭から頭蓋骨を取り出したのは私です」一瞬耳を疑った。 でも、洗い物はする元気もなく、そのまま・・・・・, 捕虜給与規則(昭和十七年二月二十日陸軍大臣通達第八号) 米国、英国、オランダ、ロシア、支那、オーストラリアなどは、多くの文献にあるように、我が国の軍人捕虜をどのように扱ったか。自国の軍人と同じ量の食事を捕虜である我が国軍人に与えたのか。 平成22年11月24日水曜日晴れ△ “This is a good Jap – a dead one picked up on the New Guinea beach.” Natalie, surprised at the gift, named it Tojo. カリフォルニア大学バークレー校に日本兵の頭蓋骨が同大学博物館に収蔵されたままということで、これは、国際法に反する、ということで、日本に返還すべきだ、という記事。 今日は珍しく意識あり。 その木で作られた十字架には「米軍勇士之墓」と書かれている。 もちろん御遺族に届けられた白い壷に納められた遺骨は、御本人のものも混ざっていることは間違いないという程度のものでしたが、マッカーサーによる酷い仕打ちを受けた御遺族にとりありがたいものだったには違いありません。, アメリカ軍による復讐裁判がほぼ終わった昭和24年4月フィリピンに独立を与え裁判の続行をゆだねました。そのフィリピン政府による6年間の続けられた裁判により93名の死刑が確定し、17名の死刑が執行されました。この17名の遺骨はのちに掘り返されて、御遺族の元に帰りました。これがBC級戦犯とされた方がたでは数少ない例です。後は私の知っている限りでは、金子啓蔵氏の御苦労により遺骨が御遺族の元へと帰された堀内豊秋大佐の例だけです。 1945 image of a Japanese soldier’s decapitated head hung on a tree branch, presumably by American soldiers, Front line warning sign using a Japanese soldier’s skull on, 現在でも、ネットにて「日本人兵士の下顎の骨」として売られているページを見つける事ができる。 また日本の各新聞や雑誌はライフ誌が1944年5月22日に掲載したくだんの「女性と頭蓋骨トロフィー」の画像にも言及した[28][29]。讀賣新聞は「米鬼の蠻行はこれだ 復讐に我らの血は沸き返る」[30]、朝日新聞は「屠り去れこの米鬼」「仇討たでおくべき」(昭和19年8月11日朝刊)[31]等の表題や見出しをつけた。, 1944年6月13日付けの報告ではアメリカ陸軍法務部長(JAG)において、「そのようなひどい残虐な行為」が不快であることに加え、戦時国際法違反であると主張されており、それを全ての指揮官に配布することを推奨しており、「敵の戦没者の虐待は病人と負傷者の扱いについて規定された1929年に批准されたジュネーブ条約の露骨な違反であり、さらにそれは関わるごとに、戦場を保持している交戦国は負傷者と死者を探し当て、彼らを強盗行為やそのほかの悪行から保護する処置を捕らなければならない」とされている。, これらのアメリカ軍人の行為は陸上戦における慣習的な不文律に違反しており、死刑に処することもできた[32]。アメリカ海軍法務部では1週間後、その見解を反映し、「幾人かのアメリカ軍将兵が犯した残虐行為により、日本人による報復行為が引き起こされ、それが国際法の元で正当化されるおそれがある」とさらに付け加えた[32]。しかし、これらの違法行為(遺体切断、戦利品収集)はその後も断罪されることはなく、戦争終結まで続いた[7]。, チャールズ・リンドバーグ(ニューギニア戦線に従軍)の日記やユージーン・スレッジのペリリュー・沖縄戦記には日本兵による米軍戦死者の遺体の切断の証言と、米軍兵による日本軍戦死者の遺体の切断の証言が載っている。, この記事には暴力的または猟奇的な記述・表現が含まれています。免責事項もお読みください。, Simon Harrison “Skull Trophies of the Pacific War: transgressive objects of remembrance” Journal of the Royal Anthropological Institute (N.S) 12, 817-836 (2006)p. 827, Simon Harrison “Skull Trophies of the Pacific War: transgressive objects of remembrance” Journal of the Royal Anthropological Institute (N.S) 12, 817-836 (2006) p.827, Simon Harrison “Skull Trophies of the Pacific War: transgressive objects of remembrance” Journal of the Royal Anthropological Institute (N.S) 12, 817-836 (2006) p.828, Simon Harrison “Skull Trophies of the Pacific War: transgressive objects of remembrance”, James J. Weingartner “Trophies of War: U.S. MIKAさん四名様で来店。 ちなみに、映画でも描かれていますが西中佐が肌身離さず持っていた愛馬ウラヌスの鬣は後に一九九〇年になってアメリカで発見され、返還されたそうです。 パラシュートで脱出。太田川の河口、草津辺りの海面に着水。 記憶あり。サルよりマシ。 フィリピンには7千もの島があり、日米両軍の戦闘はルソン島以外でも展開された。レイテ島はもちろん、大岡昇平の作品で知られるミンドロ島でも、観光地として有名なセブ島でも……。 バナナの生産地として知られるミンダナオ島で凄惨(せいさん)な体験をしたのは、谷口末廣さん=東京都武蔵野市在住、95歳=だ。 1944(昭和19)年9月。第133飛行場大隊に所属する谷口さんは、同島のバレンシア飛行場にいた。 友軍機を待っていたところ、まるでカラスの群れのように40~50機が頭上の空を覆った。「おーい。友軍機がやってきたぞ」 大声で叫ぶと、仲間たちが兵舎から飛び出してきて、飛行機に手を振った。 ところが、その機体が急降下したかと思うと、バラバラッと爆弾や焼夷弾(しょういだん)を投下してきた。 谷口さんは、身一つを守る穴(タコつぼ)に飛び込んだ。直後に爆弾が炸裂(さくれつ)し、降ってきた土に首まで埋まった。隣に首のない戦友がいた。 米軍機による飛行場への爆撃は4、5日おきに続いた。滑走路は弾痕ででこぼこにされ、そのたびに穴埋め作業に追われた。 年が明けると、米軍が島の南北から上陸し、本格的な攻撃が始まった。航空司令部は「飛行場を死守せよ」と言うばかり。4月下旬には、「山岳地に撤退して陣地を構築し、玉砕覚悟で徹底抗戦せよ」との命令が下った。 岩石を積んだだけの粗末な陣地に身を潜めた。マラリアで伏せっていた部下の上等兵が谷口さんの手を握り、「班長殿、家内が迎えに来ましたので、お先に帰ります」とつぶやいて息をひきとった。煙が立つから荼毘にはふせない。せめて家族に遺骨を届けようと、手首を切り取って持ち歩いた。. P七十七 その遺骨は昭和35年8月18日に愛知県幡豆郡幡豆町の三ヶ根山山頂付近に殉国七士廟が設けられ、その中の殉国七士の墓に遺骨が分骨されて安置されました。, 久保山斎場で焼かれたその他の戦犯とされた英霊の遺骨も、大きな骨は米軍が全部拾い集めて持っていってしまいますので、共同骨捨場から残った細かい骨と灰を飛田場長が丁寧に集めて、火葬場の片隅に掘った穴の奥にひそかに納めておいたそうです。巣鴨での処刑が打ち切られてから、飛田美喜久保山斎場長はここに供養塔を建てようと思いつきましたが、我が国がまだ占領されていた時の事ですので、何ごともマッカーサーの司令部に問い合わせなければなりません。許可願を出したところ、供養塔の建立は許可になったそうですが、塔の表に「供養塔」の三文字以外は絶対に書いてはならぬと指示があったそうです。また、建立者として、火葬場の職員の名前以外を書く事も許可にならなかったそうです。 <硫黄島で51人の遺骨収集=政府チーム―旧日本兵、集団埋葬の可能性 ある水兵がその日本パイロットの頭蓋骨から、下顎を取り出して飾りを作ったという話があった。この話は、戦友会で数人に確認がとれている。 アメリカにおいて大東亜戦争中の我が軍の兵士の遺骨がトロフィースカルとして扱われているという記事です。 今日は早い時間から大忙し。 Kさん、Sさんと来店。 以上参考文献及び引用文献 (正論2005年10月号 戦跡を歩く)(巣鴨プリズン13号鉄扉 上坂冬子)(償いは済んでいる 上坂冬子)(東京裁判 人物往来社刊), あの特攻隊の事を屈辱し酷く書いている古川利明氏がその同じ著書「カルトとしての創価学会=池田大作」の中で「石原莞爾の遺骨は東条英機と一緒に、東京・江戸川区にある国柱会の妙宗大霊廟に納められている」(P179)などと書くのは、東条大将の遺骨とされるものが如何様な経路を経ているかを知り、そして考えればこのような事は書けないのが普通です。悲しい事に東条大将個人と特定できる遺骨は無いのですから・・・・・, 米軍勇士之墓 それにより、今も残るこの建立された供養塔には表の「供養塔」と裏に「昭和二十年十月八日之建」と火葬場長を含む6名の名前が記されているだけです。, そして、サンフランシスコ講和条約に調印して我が国が独立したあと、供養塔の下に埋もれていた遺骨や遺灰を取り出し、英霊六十名の分として御遺族に等分に分骨したそうです。 「ある機関銃分隊は急造の小さなパイプを持って歩き回っていたが、それは日本兵の死体の口に彼らの尿を流し込むのに使われた」 初めてのお客様Tさん二名様で来店。 以下引用 今日は予約もないしヒマやろうなと思っていたら、 この男は、当時機械工のチーフであり、第一エンジンルームの責任下士官であった。彼が、パイロットの頭部を発見したのは、キッドがサンフランシスコ近くのハンターズポイント海軍修理工場に帰港した一ヶ月後だった。体当たりを受けてから二ヶ月以上後のことであった。頭部はかなり腐乱していたが、アルコールで洗い落とし、頭蓋骨だけ取り出し、船のマストに飾ったという。 何振りもの名刀が戦後のドサクサに米国軍人により接収という名の強奪、強盗に遭いました。アメリカ軍の戦利品あさりでありますが、このぐらいならまだかわいいもので、「SAPIO」の九月二十九日号にて「アメリカを彷徨う 旧日本兵の遺骨」と題された在米ジャーナリストである武末幸繁氏の記事がありました。 料理、洗い物その他に追われ、飲めなかった。 遺体は同じく、広島市尾長町(現山根町)の国前寺に葬られた後、戦後、発掘され、第八軍に引き渡された。, 残りの三名のうち、 11月26日金曜日曇り一時雨 △ http://en.wikipedia.org/wiki/American_mutilation_of_Japanese_war_dead, ここにはSAPIOに掲載されていた写真以外にもいろいろな写真が掲載されている。