GⅠ馬に至っては障害競走ですら出ていない。 クラシック最後の1冠菊花賞では、2番人気に推されるもナリタトップロードを捉えきれず2着。 年末のグランプリ有馬記念も3着に敗れる。 ライバルのメイショウドトウにすら届かない、完敗であった。 しかし、カスガは初仔を出産すると子育てを放棄。それが原因でどこかの牧場を出されてしまったのかもしれないと信さんは思いました。とはいえ、杵臼牧場は当時まだ新しい牧場。戦前からある生産牧場のように競馬場とコネクションもなく、繁殖牝馬を手に入れることは容易ではありません。信さんはカスガを手放さず、壁に押し付けて動きを封じ、仔馬に母乳を飲ませたそうです。繁殖牝馬の数がやっと10頭を超えたのは、1962年(昭和37年)になる頃でした。, 《恩人、布施・武田調教師との出会い》 天皇賞(春)(GⅠ) 1着 牧場を空けることがないよう、子どもたちが大人になるまでは、夫婦で遠出をすることもありませんでした。そんな二人の努力が実を結び、1992年の小倉3歳ステークス(G3)で、生産馬『マルカアイリス』が杵臼牧場にとって、グレード制導入後初の中央重賞勝利をもたらしました。, マルカアイリスの父『ブレイヴェストローマン』はアメリカから先代の信さんが種牡馬として持ってきた馬で、さらにマルカアイリスは杵臼牧場の基礎牝系である『バンバレラ』の血を引く馬※ということで、その喜びはひとしお。その後も「タガノアイリス」→「シルクアイリス」→「アイリスフィール」とその血統は脈々と受け継がれています。, 前述のマルカアイリス重賞制覇の6年ほど前のことです。1986年(昭和61年)、信一さんは36歳の時に、初めての海外出張でアメリカに行きました。その時に購入してきた馬2頭のうちの1頭が、後のテイエムオペラオーの母となる『ワンスウエド』です。初めて海外のセリに参加し、競り落とす時の緊張感は、今でも鮮明に覚えているといいます。, 1988年(昭和63年)にワンスウエドは初仔の『チャンネルフォー』を出産。チャンネルフォーは重賞制覇こそ叶わなかったものの、立夏ステークス優勝、阪急杯(G3)3着、CBC賞(G2)2着と思わぬ走りを見せました。信一さんはワンスウエドの子が「こんなに走るとは思わなかった」と言います。もちろん、その後のテイエムオペラオーの活躍など、この時点では想像もしていませんでした。, そして1996年(平成8年)に生まれたのが、父に『オペラハウス』を持つテイエムオペラオーです。 有馬記念(GⅠ) 1着, 大阪杯(GⅡ) 4着 鎌田家はもともと野菜農家を営んでおり、馬が好きだった信さんは野菜の行商を始め、その売り上げを元手に馬の生産牧場として道を歩むことにしたのです。しかし、もともと牧場ではなかった家が、繁殖牝馬を手に入れることは非常に難しい時代でした。そんな中、最初に杵臼牧場にやってきた馬は、農林水産省から払い下げられたアラブだったそう。, まだ小さかった信一さんはこの頃から牧場の手伝いをしており、厩舎掃除が終わらず、学校へ行くバスに乗り遅れてしまうこともしばしばだったと振り返ります。, 《杵臼牧場初のサラブレッド“カスガ”》 ドコモ・au・ソフトバンクの電話料金でお支払いをされた方は、下記ボタンを押していただくことで月額コ> ースをご利用いただけるようになります。 毎日杯(GⅢ) 1着 その後繁殖入りしたオペラオーだったが、繁殖成績は芳しくは無い。 追加登録料を支払い、皐月賞へと向かった。, 本番の、第59回皐月賞。 オペラオーはこの制度の初達成馬となり、報奨金1億円を獲得した。 クラシック2冠をかけ出走した日本ダービーでは、仕掛けが早すぎたのかナリタトップロードとアドマイヤベガに差され3着。 牧場名: 杵臼牧場: 代表者氏名: 鎌田信一: 住所: 北海道浦河郡浦河町杵臼86: 見学について: 基本可能です 時期によっては不可となるので お気軽にお問い合わせ下さい: 代表産駒: テイエムオペラオー、ステラウ … 秋初戦のGⅡ京都大賞典も3着に敗れる。 ジャパンカップ(GⅠ) 1着 この時に、冠名の「テイエム」と父の名前の「オペラ」、サラブレッドの王になれという願いを込めて「オー」、つなげて「テイエムオペラオー」と名付けられた。 そして、初重賞として彼が挑んだのがGⅢ毎日杯。 天皇賞(秋)(GⅠ) 2着 上記の通り当時は全く注目される馬では無かったので、誰も競るものがおらず購入価格はスタート価格の1000万。 ジャパンカップでも当時世界最強と言われていたファンタスティックライト等を退け1着。 All Rights Reserved. 東京優駿(GⅠ) 3着 宝塚記念(GⅠ) 1着 この時点で、オペラオーはかの「皇帝」シンボリルドルフに並ぶGⅠ7勝を記録しており、宝塚記念ではGⅠ最多勝利数の記録更新がかかっていた。 1957~59年(昭和33~35年)頃になると、杵臼牧場に最初のサラブレッドがやってきます。名前を『カスガ』といいました。カスガは1951年(昭和26年)生まれの牝馬で、1956年(昭和32年)に繁殖に上がり、どこかを経由して杵臼牧場にきたそうですが、その経緯については詳しくはわかっていませんでした。 皐月賞(GⅠ) 1着 ところで、彼の名前をよく見ると「テイエムオペラオー」だが・・・確かに世紀末覇王っぽい。, 4歳未勝利 4着 京都大賞典(GⅡ) 1着 以降のテイエムオペラオー無双時代は、どんなに強いと信じていても、やはりゴール前だけは、いつもどきどきしたと信一さんは語ります。, そして、テイエムオペラオーの引退後には、2000年にテイエムサウスポーが京王杯3歳ステークス(G3)を勝利。昨年9月(2019年9月)にはブラックホールホールが札幌2歳ステークス(G3)で優勝を飾り、杵臼牧場にとって実に18年ぶりの重賞勝利をもたらしました。, 最後に2代目信一さんから、2012年に家業を継ぐため実家へ戻ってきた正信さんへのメッセージを。そして正信さんにこれからの杵臼牧場について伺いました。, 「杵臼牧場では、昔から放牧地の更新を頻繁に行うようにし、牧草作りには力を入れています。静内のように山と平地がゆるやかに繋がっている地域と違って、浦河地域は山と平地の境目がはっきりとしているため、放牧地を簡単には広げることができません。そのため、放牧地の場所を小まめに変えるようにしています。 1998年、竹園氏の幼馴染でもある栗東の岩元市三調教師に託され、入厩。 重賞2連勝を飾り、勢いに乗ったオペラオーは古馬の最高峰を決める戦い、GⅠ天皇賞(春)に出走した。 ジャパンカップ(GⅠ) 2着 歓喜の瞬間は予期せぬ形で訪れました。ブラックホールが札幌2歳Sを勝ち、故郷の杵臼牧場にプレゼントしたJRAの重賞タイトルは2001年の京都大賞典(テイエムオペラオー)以来、実に18年ぶり。 しかし、この時は大雪のため調整が遅れてしまったためか1番人気に推されながら4着に敗れてしまう。 未勝利を脱し、500万下特別のゆきやなぎ賞も勝利した。 しかし、このレースではサイレンススズカ、エルコンドルパサーと並び「3強」と称されたグラスワンダー、未だサンデーサイレンス産駒の最高傑作と名高いスペシャルウィークにタイム差なしでゴールインしており、翌年の大躍進を予感させる結果となった。, オペラオーの年明け初戦は、GⅡ京都記念。 The rules of Visiting Stables(PDF 約10.1MB).  「生まれた時から、ゴールドシップ産駒にしては小さいけど動きが良くて、素軽い馬でした。どちらかと言うと、祖父のステイゴールドにイメージが似ていましたね。それにしても、こんなに走るとは想像できませんでした。札幌2歳Sも勝つと思っていなくて…」 4歳未勝利 1着 現在は満寿美さんと息子の正信さんの二人で、主に馬を販売していますが、それぞれに別のお客様がついており、満寿美さんは誰よりも頼れる杵臼牧場の営業ウーマン。信一さんは「自分がいつ死んでも、妻がいるから安心だ」と笑顔を見せます。, 先代の信さんが亡くなってからは、苦労をしながらも夫婦で力を合わせ、日々努力を重ねてきた杵臼牧場。 今ならばなかなかの血統だが、当時は父オペラハウスがまだ種牡馬成績を残していなかった事、日本であまり活躍しないサドラーズウェルズ系の馬だった事もあり、そこまで注目度は高くなかった。 信一さんが高校生になった1965年(昭和40年)頃になると、杵臼牧場のお客さんは関西のお客様ばかりになっていました。その理由はとある調教師たちとの出会いがあったからです。, 初代の信さんが、布施調教師に出会ったきっかけは明確ではありませんが、昔からずっと付き合いのあった大北牧場※に布施調教師が出入りしており、信さんが大北牧場に行った際に知り合ったのではないかといわれています。布施調教師は一本筋の通った人。一度関わった馬主や牧場、ジョッキーなど、まわりの人間をとても大切にする人でした。そこから、杵臼牧場には布施調教師が繋いでくれた縁から生まれた取引が増えていきました。, もう一人、杵臼牧場をとても大事にしてくれた調教師がいます。河内洋、武豊といった名ジョッキーを育て上げた武田作十郎調教師です。武田調教師が北海道出身だった縁で、初代の信さんがどこかで知り合ったそう。武田調教師には多くの馬を預託してもらい、生産馬も購入してもらったといいます。 ... 1,835,189,000円. しかし、次走の天皇賞(春)は1番人気に応え1着であり、天皇賞(春)連覇、秋と合わせて天皇賞3連覇の快挙を達成した。 ステイヤーズステークス(GⅡ) 2着 そんな馬が後に大活躍するのだから、世の中分からない物である。 グランプリ宝塚記念に加え、天皇賞(秋)も制して春秋天皇賞連覇。 そして、年末のグランプリ有馬記念に出走したオペラオー。 有馬記念(GⅠ) 5着, 競馬の世界では優秀な馬には優秀な騎手が乗るのが当然なので、馬が好成績を出すと大レース前に騎手が変わったりするような事も珍しくないのだが、テイエムオペラオーは新馬戦から引退まで、まだデビューして3年目の若手騎手・和田竜二が手綱を握り続けた。 国内では2017年にキタサンブラックが獲得賞金18億7634万3000円となり記録を更新した。  創業者で祖父の信さん(故人)は種牡馬として大成功したブレイヴェストローマンを導入した立役者。父の信一さんはテイエムオペラオーを送り出した。 テイエムオペラオーの競走馬データです。競走成績、血統情報、産駒情報などをはじめ、50万頭以上の競走馬・騎手・調教師・馬主・生産者・レースの全データがご覧いただけます。 今は多くの馬用サプリなども開発されていますが、私はできるだけ牧草で競走馬としての体を作るために必要な栄養素が摂れるようにしています。それは親父の時から変わらない杵臼牧場の信念。それは息子の代になっても続けていって欲しいですね。, 昔は近くの牧場と助け合ったり、切磋琢磨したり。牧場同士の繋がりが強かったように思います。農機具や車も共同購入したりしていましたしね。でも、昨今はそういった牧場同士の繋がりや、調教師や馬主との関係も、昔と比べると希薄になっている気がします。経営的に大丈夫でも、あと10年15年もしたら跡継ぎがいなくて、畳むところも出てくるでしょう。そういった中で牧場をやっていくのは、なかなか大変なことだと思いますが、息子には人と関わりを大事にしていって欲しいなと思います」(信一さん), 「今は好景気ですが、これがいつまで続くかはわかりません。様子を見ながらではありますが、まだしばらくは『我慢の時代』だと考えているので、また次のタイミングを見極めて、経営的に許すのであれば、規模の拡大などにチャレンジしていきたいです。, それから、もう1つ。私は杵臼牧場のスタッフ全員に、可能な限り馬とコミュニケーションを取ってほしいなと思っています。育成牧場に行った時に、人間としっかり信頼関係を築けるような馬をつくっていきたいと考えています。自分たちの生産した馬が、どこへ行っても、いろんな人に可愛がられる馬であってほしいですね」(正信さん), 名馬テイエムオペラオーを輩出した杵臼牧場。その活躍から20年近くが経った昨年、3代目の正信さんが牧場に帰ってきて7年目に、生産馬の『ブラックホール』が札幌2歳ステークス(G3)での勝利を飾りました。これを足掛かりに、杵臼牧場のまた新たな歴史がはじまりそうです。杵臼牧場の活躍から目が離せません!, 競馬をこよなく愛するIT界のホースマン集団。 オペラオーは、単勝オッズ11.1倍の5番人気とあまり人気ではなかった。 ガチガチに多くの馬にマークされて進路が完全に塞がれたが、そんな中でも僅かな隙間をこじ開け抜け出し見事に1着。 このレースは皐月賞の前哨戦に位置付けられており、クラシックを狙う陣営が賞金を加算するために狙ってくる重賞レースである。 有馬記念(GⅠ), 京都記念(GⅡ) 1着 そして、オペラオーはこのレースをもって引退し、種牡馬入りする事となった。 →テイエムオペラオー(ウマ娘) こちらでは1に関して解説をする。2に関してはリンク先のタグを使用する事を推奨。 ※この記事の馬齢表記には旧表記を用います 誕生~デビュー 1996年3月、杵臼牧場で誕生。 しかし、牧場を訪れた後のオーナー竹園正繼氏(建築・土木用資材メーカー社長)は「光輝いて見えた」とこの馬を高く評価した。 「いやあ、こんなに嬉しいことはなかったよね。ましてや、地元でさ。勝つとは思わんかったね」, こう何度も繰り返したのは社長の鎌田信一さん。レース当日、札幌競馬場を訪れていた信一さんは久々の口取りに喜びを噛みしめました。その日の夜、信一さんは札幌に残りましたが、近所の人たちが杵臼牧場に集まり、祝勝会が開かれたそうです。次々に届くお祝いの花は40を超え、玄関に収まらなくなりました。, サトノゴールドが2着に入り、新種牡馬ゴールドシップ産駒のワンツーフィニッシュが話題になりましたが、信一さんは2代父のステイゴールドの姿が浮かんできたと言います。 その後骨折してしまい、長い休養に入る事となった。, 復帰したオペラオーはダートの未勝利戦へ向かい、2戦目で5馬身差つけての圧勝。 天皇賞でもラスカルスズカら同期馬に先着し、オペラオーは見事春の盾を手に入れた。 天皇賞(秋)(GⅠ) 1着 それからはもう、レースに出れば勝つこと勝つ事。 その後、セリに出された同馬は竹園氏に購入される。 1973年(昭和48年)には、当時隣にあった川越牧場と敷地を交換。現在の所在地に牧場を移し、新しい厩舎と2つめの分場も完成しました。移転したちょうどその年に、布施厩舎に入厩していた生産馬の『キングラナーク』が産経大阪杯(グレード制以前)で優勝を果たすなど、当時の杵臼牧場は登り調子でした。, しかし、1975年(昭和50年)のことです。信一さんが27歳になり、結婚もし、跡継ぎとしても順風満帆に見えたその矢先。父・信さんが病に伏してしまったのです。病院に初めてかかった時にはすでに余命3ヶ月。それでも入院中に病院を抜け出し、社台セールで3頭の繁殖牝馬を買ってきてしまうなど、本当に馬が大好きな人でした。1981年(昭和56年)に杵臼牧場の初代、鎌田信さんは亡くなりました。, 当時、信一さんはまだ一人前とはいえず、急に父を亡くしたこの頃が一番つらく、苦しい時期だったといいます。それを支えてくれたのも、前述の布施調教師と武田調教師の二人でした。「今の杵臼牧場があるのは、布施調教師と武田調教師のおかげ」と、信一さんは感謝の言葉を何度も口にします。布施調教師・武田調教師との付き合いは、二人が亡くなるまで続いていきました。, 昭和48年に建てられた厩舎。牧草がたくさん保管できるように作られた屋根が三角の文化屋根。, 《信一さんを支える妻・満寿美さんの活躍》 宝塚記念で、オペラオーはライバルのメイショウドトウに敗れ2着。 現在の杵臼牧場 杵臼牧場は北海道の浦河地域に位置する、サラブレッドの生産牧場です。代表産駒にはシンボリルドルフに続いての中央競馬G1最多勝タイ(7勝)を記録し、当時の獲得賞金世界記録を抜いたテイエムオペラオーの他、2000年に京王杯3歳ステークス(G2)に勝った『テイエムサウスポー』、昨年9月に札幌2歳ステークスを勝利した『ブラックホール』がいます。 現在は本場の他に2つの分場を所有し、45頭弱の繁殖牝馬を抱えています。また、杵臼牧場には家族のほか9名の従業員が所属。女 … 宝塚記念(GⅠ) 2着 1968年(昭和43年)に信一さんは高校を卒業。杵臼牧場の跡を継ぐべく牧場の仕事に精を出します。  ≪“師弟愛”も同じ≫杵臼牧場が生産したテイエムオペラオーとブラックホールには“師弟愛”という共通項がある。テイエムオペラオーは師匠・岩元市三師=弟子・和田竜二のコンビで26戦14勝。デビューからラストランまで和田が手綱をとり、G1・7勝を挙げた。一方のブラックホールも管理する相沢郁師の弟子・石川裕紀人がデビューから前走まで全5戦でコンビを組んでいる。もちろん、今回も師弟タッグで参戦。21年前の再現へ“お膳立て”は整っている。 更に天皇賞(春)へのステップレース、GⅡ阪神大賞典も2着のラスカルスズカに2馬身半の差をつけて勝利した。 続くGⅡステイヤーズステークスも、ペインテドブラックにクビ差で敗れ2着。 先代の信さんが亡くなった時、信さん妻(信一さんの母)である栄子さんが、牧場のことをとてもよく理解しており、数多くの助言をしてくれたという経験から、信一さんは満寿美さんにもたくさん仕事を任せるようにしてきました。経営のことも、自分一人で決めることは何一つとしてなく、必ず満寿美さんに相談しています。 また、日本競馬にはいわゆる3冠とは別に、「秋古馬3冠」というものが存在している。  大一番に胸躍る一方で、厳しい現実にも直面している。新型コロナウイルスの影響は馬産地にも波及。北海道を訪れる馬主や調教師が激減している。「例年なら、これぐらいの時期から当歳の(購入の)話が来るんですが、今年はまったくありませんね」。皐月賞も現地観戦は叶わず。手塩にかけて育てた愛馬へ、生まれ故郷から精いっぱいのエールを送る。(岡崎 淳) 日本軽種馬協会が運営する国内最大級の競馬情報サイトjbisサーチの、テイエムオペラオーに関するページです。競馬に関する膨大なデータを手軽に検索・入手できます。 重賞勝ち馬は全て障害馬であり、中央の平地重賞を勝利した馬は1頭たりとも存在していないのである。 布施調教師の引退後、引き継いだ岩元市三調教師がテイエムオペラオーを見に杵臼牧場へやってきました。その時、一緒に訪れたのがテイエム技研株式会社の創業者であり、馬主である竹園正繼氏でした。二人はテイエムオペラオーを気に入りましたが、オペラハウスは軽種馬協会のA級種牡馬。当時、A級種牡馬はセリに出さなければならないという規則があったため、庭先ですぐに売ることはできません。秋のセールに上場し、竹園氏が1000万円落札したのでした。その後のテイエムオペラオーの活躍については皆さんもご存じの通り。, 信一さんは、初のG1参戦となった1999年の皐月賞の際に、初めて現地での応援へ。仲が良かった岡本牧場からもオースミブライトの出走があったため、一緒に中山競馬場へ向かいました。ゴール板の前に飛び込んできたテイエムオペラオーを見た時は「うちの馬だなんて思わなかった」と、信一さんは振り返ります。そして、2着クビ差でオースミブライトがゴールし、見事ワンツーフィニッシュを飾りました。 これ程の成績を残した馬が成績上位でもない騎手を乗せ続けると言うのは滅多にないことで、和田騎手は「オペラオーにはたくさんの物を貰ったが、あの馬には何も返せなかった。これからは一流の騎手になって、オペラオーに認められるようになりたい。」との言葉を残し、名コンビとして知られていたが、2018年、テイエムオペラオーが急死…中央競馬G1で勝ちきれない年が続く中での訃報であったが、なんと同年の第59回宝塚記念をミッキーロケットで制覇、実にオペラオー以来17年ぶりの中央G1制覇だった。インタビューでは「オペラオーが背中を押してくれた」との言葉を残し7番人気で有りながら大歓声で祝福された。, 日本中央競馬会(JRA)に所属していた競走馬。「世紀末覇王」とも呼ばれる。獲得賞金世界記録を16年間保持した。. この額は、2017年にアロゲートに破られるまで世界競馬史上1位の獲得賞金額である。 杵臼牧場の歴史は、現代表の信一さんが小学校低学年だった、1955年(昭和30年)頃。信一さんの父である鎌田信さんが本家から分家をしたところから始まりました。 ※この記事の馬齢表記には旧表記を用います, 1996年3月、杵臼牧場で誕生。 冥福を祈るテイエムオペラオーを生産した鎌田信一杵臼牧場社長 全国の競馬場から届けられた11,000人を超えるテイエムオペラオーへの記帳ノート 6月15日、新冠町西泊津にある白馬牧場において、テイエムオペラオーとゴスホークケンの合同慰霊祭が行われた。 こちらでは1に関して解説をする。2に関してはリンク先のタグを使用する事を推奨。 Copyright © JBBA 2002-2020.  遙か北の大地から、21年前の再現を願う。北海道浦河の杵臼牧場はG1を7勝したテイエムオペラオーを生産した名門。昨夏の札幌2歳Sを制し、牧場に19年ぶりの重賞タイトルをもたらしたブラックホールが、今週末の皐月賞に挑む。杵臼牧場の鎌田正信さん(41)は“孝行息子”の晴れ舞台を心待ちにしている。 実況も観客も最後の直線に入るまで悲鳴をだすような絶望的な展開から1着を毟り取り、見事に春秋グランプリ連覇を果たすと同時に、日本の古馬中長距離GⅠを完全制覇した。 このレースでは、4歳時に敗れたナリタトップロードをクビ差で制し1着。 「4コーナーで外に振られたけど、直線で抜けてきた。楽なレースじゃなかったよね。体は小さいけど根性があるね。ステイゴールドっぽい」, 父のゴールドシップは現役時代に幾度となくファンの注目を集めた超個性派。しかし、ブラックホール自身は生まれた当初から手がかからなかったそうです。信一さんの息子で、3代目となる代表取締役の鎌田正信さんは「超優等生。困った記憶がないんです。ゴールドシップは気性がやんちゃでしたけど、その産駒にしては素直ですよ」と振り返ります。, 桜花賞2着馬ブルーリッジリバーの子であるヴィーヴァブーケは芹澤精一オーナーの預託馬。これまでドリームジャーニー(ミラクルブラッド、牝4歳)、ゴールドシップ(ブラックホール)、エイシンフラッシュ(牝1歳)、オルフェーヴル(当歳の牝馬)と全て違う種牡馬と交配し、今はサトノダイヤモンドの子を宿しています。配合はオーナーのアイデアだそうです。, テイエムオペラオーが一時代を築いた頃はまだ学生だった正信さん。26歳まではシステムエンジニアとして働いていましたが、「後を継がないか」という父の願いもあって、他の牧場勤務を経て7年ほど前に杵臼に戻ってきました。牧場出身の名馬が逃した競馬の祭典が、今の大きな夢となっています。, 「オペラオーが取れなかったダービーを取りたいんです。石川(裕紀人騎手)くんも最初から重賞を勝つと言ってくれていましたが、まさかこんなに早く勝つとは。ゴールドシップも早熟かと言われれば、そうでもないし、伸びしろはあると思うんです」, 早めに賞金を加算できたことで日本ダービーの文字が見えてきました。父の信一さんも将来に期待感をにじませます。 阪神大賞典(GⅡ) 1着 天皇賞(春)(GⅠ) 1着 カテゴリ:馬のはなし / 色々なはなし / 人のはなし / Pacallaオリジナル, この【牧場の歴史】シリーズは、編集部がPacalla参加牧場さんに足を運び、一軒一軒取材をさせていただいて、各牧場の歴史を紹介していくコンテンツです。, 川越ファームに続く第6弾は、かの名馬『テイエムオペラオー』を輩出した杵臼牧場を訪問。現代表である鎌田信一さんと、長男であり現在取締役を務める鎌田正信さんにお話を伺いました。, 杵臼牧場は北海道の浦河地域に位置する、サラブレッドの生産牧場です。代表産駒にはシンボリルドルフに続いての中央競馬G1最多勝タイ(7勝)を記録し、当時の獲得賞金世界記録を抜いたテイエムオペラオーの他、2000年に京王杯3歳ステークス(G2)に勝った『テイエムサウスポー』、昨年9月に札幌2歳ステークスを勝利した『ブラックホール』がいます。, 現在は本場の他に2つの分場を所有し、45頭弱の繁殖牝馬を抱えています。また、杵臼牧場には家族のほか9名の従業員が所属。女性スタッフも在籍しています。, 《農家から分家し、馬の生産へ》 6月15日、新冠町西泊津にある白馬牧場において、テイエムオペラオーとゴスホークケンの合同慰霊祭が行われた。, 合同慰霊祭には鈴木正夫日高テイエム牧場場長、鎌田信一杵臼牧場社長、長浜和也白馬牧場社長などのテイエムオペラオーやゴスホークケンの関係者、地元の牧場関係者、大阪や札幌などから駆けつけたファンなどを含め約50人が参列。静内神社の山田一孝宮司の神事にのっとり、牧場内の馬頭観世音や墓碑前に置かれた祭壇に玉串を捧げ2頭の冥福を祈った。, 祭壇まわりにはテイエムオペラオーを所有した竹園正繼オーナー、現役時代に管理した岩元市三元調教師、ゴスホークケンを所有した藤田在子オーナー、所縁の関係者やファンからの供花が飾られたほか、東京・中山・京都・阪神・小倉のJRA各競馬場やJRAウインズに置かれた記帳台で記帳された11,000人を超えるテイエムオペラオーの記帳ノートも置かれた。, ゴスホークケンの墓碑には生年月日や戦績、血統などが記され、テイエムオペラオーの墓碑には競走成績、獲得賞金、受賞暦のほか、「夢と感動をありがとう」というメッセージが刻まれている。, テイエムオペラオーは父オペラハウス、母ワンスウエド、母の父ブラッシンググルームという牡の栗毛。浦河町杵臼にある杵臼牧場の生産馬で、1997年北海道市場10月市場2歳において竹園正繼氏に10,500,000円(税込価格)で購買された市場取引馬として知られている。, 競走成績は26戦14勝。1998年8月に京都でデビュー。3戦目で勝ち上がると3歳になり1999年の毎日杯(G3)で重賞初勝利。続く皐月賞(G1)を制覇して見事1冠目を手にした。日本ダービー(G1)はアドマイヤベガの3着、菊花賞(G1)はナリタトップロードの2着に惜敗。古馬になると全盛期を迎え、2000年の京都記念(G2)から阪神大賞典(G2)、天皇賞(春)(G1)、宝塚記念(G1)、京都大賞典(G2)、天皇賞(秋)(G1)、ジャパンC(G1)、有馬記念(G1)まで、年内負けなしの重賞8連勝、G15勝を記録してJRA賞年度代表馬に選ばれた。2001年は天皇賞(春)(G1)連覇と京都大賞典(G2)に優勝。獲得賞金18億3,518万9,000円はキタサンブラックに抜かれるまで歴代1位だった。, 引退後は種牡馬となり、イーストスタッド、日高軽種馬農業協同組合門別種馬場、テイエム牧場、レックススタッドを経て、2012年から白馬牧場で供用。5月17日に心臓麻痺のため急死。22歳で生涯を終えた。種牡馬としては2009年の東京ハイジャンプ(JG2)、京都ハイジャンプ(JG2)、2008年の京都ジャンプS(JG3)を制覇したテイエムトッパズレ、2008年の東京ハイジャンプ(JG2)を制覇したテイエムエースなどを送り出した。, ゴスホークケンは父バーンスタイン、母オールザウェイベイビー、母の父グランドスラムという血統。牡の黒鹿毛のアメリカ産馬で2007年3月にアメリカで行われた2歳トレーニングセールで取り引きされたトレーニングセール出身馬として知られている。, ゴスホークケンの競走成績は15戦2勝。藤田与志男氏(のちに藤田在子氏)の所有馬、美浦の齋藤誠厩舎(のちに手塚貴久厩舎)の管理馬として2007年10月に東京でデビューし快勝。3戦目の朝日杯フューチュリティS(Jpn1)を制覇してJRA賞最優秀2歳牡馬に選ばれた。, 2011年に浦河町東栄にあった日高スタリオンステーションで種牡馬入りし、2016年から白馬牧場で供用。5月20日に大動脈破裂のため急死。まだ13歳だった。種牡馬としては産駒に恵まれない中、わずか5頭の初年度産駒の中から、快足を飛ばして2017年の関屋記念(G3)、小倉大賞典(G3)、2016年の福島記念(G3)を逃げ切ったマルターズアポジーを送り出した。, なお、テイエムオペラオー、ゴスホークケンの墓参は、13時30分から15時まで可能となっている。詳細は競走馬のふるさと案内所のホームページで。, 北海道の牧場のアクセス情報や周辺にある周辺施設を、Googleマップで確認できます。.             しかし、競馬界のジンクスは恐ろしかった。 満寿美さんは様似の牛農家の出身で、結婚をするまで馬を扱ったことはなかったそうです。しかし、結婚当初から一生懸命働いてくれたと信一さんは語ります。 また、2004年には顕彰馬に選出された。 ここまでで、オペラオーは重賞8連勝、GⅠレース5連勝を記録。 テイエムオペラオー(英語表記: TM Opera O、香港表記: 好歌劇、1996年3月13日 - 2018年5月17日)は日本の競走馬・種牡馬。 さらに、ジャパンカップでもジャングルポケットの2着となった。 父はキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスなどを制したオペラハウス。母ワンスウエド、母の父がブラッシンググルームという血統だった。 GⅠ最多勝利の記録更新を願ってか、単勝オッズ1.8倍の1番人気だった。 杵臼牧場 北海道浦河の競走馬生産牧場。1949年、鎌田信氏が創業。現代表は2代目の鎌田信一氏。主な生産馬にg1・7勝のテイエムオペラオー、92年小倉3歳sの覇者マルカアイリス、00年京王杯3歳s・テイエムサウスポー。  「ホープフルSは“アレッ!?”という競馬でしたけど、弥生賞は思い切って後ろから運んで、よく伸びてきました。馬場が渋れば、展開次第でいいところがあるかな…と思っています」 “桜”の次の舞台は東国での3歳クラシック第2戦「G1第80回皐月賞」(19日、中山)。ホープフルSを勝ったコントレイル、朝日杯フューチュリティSを制したサリオスと2歳G1ウイナーに、トライアルの弥生賞ディープインパクト記念Vのサトノフラッグと、骨のある面々がそろって見応えたっぷりなレースとなりそうだ。そして、昨夏の札幌2歳Sを制して北海道浦河の杵臼(きねうす)牧場に19年ぶりの重賞タイトルをもたらしたブラックホール(牡3=相沢)が一発を狙っている。 菊花賞(GⅠ) 2着 そしてもう一人。父を亡くして牧場経営に苦しむ信一さんを支えた人、妻の満寿美さんがいます。 生涯獲得賞金はなんと18億3518万9000円。購入価格の約183.5倍である。 ちなみに、彼の5歳時は文字通りの負け無しである。 そして、年末のグランプリ有馬記念へ出走したオペラオー。 そしてこのレースで、オペラオーは2着のタガノブライアンに4馬身差つけて圧勝。 しかしレースでは、最後の直線で末脚を爆発させ、オースミブライトをクビ差で制し1着。  ▼杵臼牧場 北海道浦河の競走馬生産牧場。1949年、鎌田信氏が創業。現代表は2代目の鎌田信一氏。主な生産馬にG1・7勝のテイエムオペラオー、92年小倉3歳Sの覇者マルカアイリス、00年京王杯3歳S・テイエムサウスポー。現役にブラックホールやペプチドバンブーがいる。繁殖牝馬は約45頭。, Sponichi Annexに掲載の記事・写真・カット等の転載を禁じます。すべての著作権はスポーツニッポン新聞社と情報提供者に帰属します。, 【桜花賞】タクト生産した長谷川代表も興奮!エピファネイア産駒信頼「牧場では小粒だったが」.  2歳夏での重賞制覇はうれしい誤算だったが、だからこそ期待は膨らんでいる。 2000年が圧巻過ぎるが、その競争成績に於いて掲示板を外すことは一度もなく、引退レースの有馬記念の5着が生涯最低の着順、この成績は賞金にも大いに影響を与え オペラオーがデビューしたのは8月、京都競馬場の3歳新馬戦。 テイエムオペラオーが一時代を築いた頃はまだ学生だった正信さん。 26歳まではシステムエンジニアとして働いていましたが、「後を継がないか」という父の願いもあって、他の牧場勤務を経て7年ほど前に杵臼に戻ってきました。 京都大賞典(GⅡ) 1着(2着入線後繰り上げ) 単勝オッズ1.5倍の1番人気だったが、1着のクラシックステージに6馬身差ちぎられて完敗。 ところが、オペラオーはここでなんと5着。 「オペラオーもそうだったけど、この馬は余計なエネルギーを使わない。ひとつ勝つことも夢だけど、グレードレースっていうのはやっぱり華だから。重賞は簡単には取れない。力がなかったら取れないよ」, 2人が思いをはせる来年の初夏の府中。黒鹿毛の小さな馬体に杵臼の親子2代にわたっての夢を託します。, 広島県出身、北海道在住。スポーツ紙で約16年半、中央競馬担当を務めて今春フリーに転身。中央競馬に加え、牧場や海外競馬などの取材にも取り組んでいる。. クラシック競走だけあり、後の菊花賞馬ナリタトップロードや、父サンデーサイレンス母ベガという良血馬アドマイヤベガなど、有力馬が集結した。 で、当然のように彼は年度代表馬に選出された。 そして翌年、オペラオーはGⅡ大阪杯に出走。 京都大賞典(GⅡ) 3着 ゆきやなぎ賞 1着 活躍した時期が丁度世紀末だったため、圧倒的な強さと相まってそのような呼び名がついたのだろう。 本番の天皇賞(秋)では万能馬アグネスデジタルに敗れ2着。 父 オペラハウス(GB) 母 ワンスウエド(USA) 母父 Blushing Groom(FR) 生産者 杵臼牧場 (浦河) 和田騎手はテイエムオペラオーに騎乗し、g1初制覇を達成する。 この勝利は岩元厩舎・竹園オーナー・杵臼牧場にとっても初めてのg1制覇となった。まるで82年のダービー勝利をなぞるかのように。 しかし、それからオペラオーは勝つ事が出来なくなってしまう。 元々日本では成績が上がらない血統のサドラーズウェルズ系な事もあり、これから種牡馬として大成するかは微妙なところだろう。 ちなみに、彼は「世紀末覇王」と呼ばれる事もある。