神聖と言う割には、とりわけ神聖な何かが存在するわけでもない。, 神聖ローマ帝国とは、すなわちよくわからない国なのです。 『受験世界史の地図』は、「高校世界史の知識+α」のレベルで世界史を解説するサイトです。, ライン川とドナウ川がローマ帝国との境界だった。ドイツ西部には下ゲルマニア属州が築かれ、都は今のケルンにおかれた。, 4世紀、西欧各地でゲルマン民族の国が勃興する。ガリアで誕生した最大のゲルマン国家がフランク王国だ。, カール大帝は、フランス・ドイツ・イタリアを支配下に収め、統一した。カール大帝は、本拠地をアーヘンにおいていた。アーヘンはオランダ・ベルギー国境近くのドイツである。, カール大帝の死後、最終的にフランク王国は、870年に東フランク王国・西フランク王国・イタリア王国に分割。それぞれが現代ドイツ・フランス・イタリアの原型になっていく。, 900年代中盤のイタリア。情欲に溺れた教皇ヨハネス12世により、政治が乱れていた。, 政治的庇護者を欲したヨハネス12世は、962年、東フランク王オットー1世にローマ皇帝の帝冠を授けた。, 理念的には古代ローマ帝国の復活であり、ドイツとイタリア北部にまたがる「神聖ローマ帝国」が成立した。, 神聖ローマ皇帝は、キリスト教の司教の任命を通じて、帝国を統治しようとする(王国教会体制)。, しかし、教会の堕落を憂えた教皇グレゴリウス7世は内部改革を進め、神聖ローマ皇帝の司教の任命権を認めなかった。, 対立する皇帝ハインリヒ4世を破門した。貴族の離反を恐れた皇帝は、カノッサ城の前の雪の中で三日三晩土下座し、許しを乞うた。, 例えば、司教座都市ケルンも自立化した都市の一つだ。ゴシック様式のケルン大聖堂が建設されている。ケルン大聖堂は約156m。, リューベックを盟主とするハンザ同盟は、北海・バルト海の交易を支配する都市同盟に発展した。, ドイツの地方分権傾向は、1254~73年、神聖ローマ皇帝がいなくなった大空位時代にさらに進んだ。, 1356年、カール4世の金印勅書により、神聖ローマ皇帝が選挙によって選ばれることが明文化され、地方分権はさらに進んだ。, 神聖ローマ帝国は特定の首都を持たなかった。その時々に皇帝がいた場所で会議が開かれた。これは「旅する王権」と言われる統治方法である。, 14世紀、ボヘミア(今のチェコ)出身のカール4世は、プラハを大々的に整備。ローマ・コンスタンティノープルに並ぶヨーロッパ最大の都市に発展した。, ちなみに、カール4世と同時期にハプスブルク家のルドルフ4世(建設公)がウィーンを発展させた。ウィーンは、15世紀以降、神聖ローマ帝国の実質的首都となる。, ハプスブルク家はスイス出身の貴族である。1273年に神聖ローマ皇帝になったルドルフ1世以来、徐々にオーストリアが本拠地になっていく。, 1438年より、神聖ローマ皇帝位はハプスブルク家の世襲が始まり、ウィーンが神聖ローマ帝国の首都となる。, また、結婚によりマクシミリアン1世が当時最大の経済大国ネーデルラント(今のオランダ)を世襲すると巨大な経済力を手にした。, さらに、大航海時代を席巻し「陽の沈まぬ国」となったスペイン王位も継ぎ、ヨーロッパ随一の王家となった。, スペイン王家も兼ねたカール5世だったが、社会は大きな変化の時期に差し掛かっていた。宗教改革である。, ローマ・カトリックを徹底的に批判したのが、ルターである。聖書を権威とするプロテスタントを創始した。, 神聖ローマ皇帝としてカトリックを維持したいカール5世は反対。しかし、1555年、アウクスブルクの宗教和議でプロテスタントを認めた。, 1618年、カトリックを強制する神聖ローマ皇帝フェルディナントに反発して、民衆が皇帝の使者をプラハ城3階から地面に投げ落とした。この事件は(第二次)プラハ窓外放出事件と呼ばれる。, 皇帝は戦争を開始。近隣諸国の介入もあり、1648年のヴェストファーレン条約での終結までに、30年を要した。, 三十年戦争でドイツの人口は、2000万人から1600万人に激減。ドイツの発展は遅れた。, ヴェストファーレン条約では、プロテスタントと地方貴族の主権を認めた。高校教科書では「帝国の死亡診断書」とされる。しかし現在この見方は否定されている。, 神聖ローマ皇帝を世襲するオーストリア=ハプスブルク家は、フランス・オスマン帝国と戦った。, ウィーンには外観はバロック様式、内装はロココ様式のシェーンブルン宮殿が建造された。, 特に、1740年に即したフリードリヒ2世は、啓蒙専制君主と呼ばれ、「上からの改革」を断行。「君主は国家第一の下僕である」の名言を残した。, ポツダムにはロココ様式のサンスーシ宮殿が建造された。また、1791年にはベルリンのシンボルとなるブランデンブルク門が建設された。, 神聖ローマ帝国内で二大勢力となったプロイセン・オーストリアは1740年ついに衝突。, 1789年、フランス革命が勃発。王政が打倒された。そして、フランス人民の英雄ナポレオンが出現した。, ドイツはナポレオンの侵攻の前に屈服。1806年に、神聖ローマ帝国は解体。800年以上にわたる歴史に幕を閉じた。, フランスに侵略されたプロイセンでは、ナショナリズムが高まり、統一への機運が盛り上がりはじめた。, オーストリア主導で旧来の伝統的秩序を維持する国際的反動体制ウィーン体制が成立した。, なぜなら、フランス革命は「王権の打倒」「民族の自立」を意味するので、多民族国家オーストリア帝国とは相容れないからだ。, ちなみに、1848年はドイツ人カール=マルクスが『共産党宣言』を発表した年でもある。, 国際政治をコントロールしたオーストリアに対して、プロイセンは国内の経済統合を推進した。1834年、ドイツ関税同盟が成立。プロイセンを中心とした市場が出現した。, プロイセンとオーストリアの対立は、1866年、プロイセン=オーストリア戦争として具現化した。勝者は鉄血宰相ビスマルク率いるプロイセン。, 多民族国家となっていたオーストリアはハンガリー人の協力を得るために、1867年にオーストリア=ハンガリー二重帝国となる。, プロイセン=フランス戦争を経た1871年、南部のバイエルンも含むドイツ帝国が成立した。, オーストリア中心の神聖ローマ帝国を第一帝国、プロイセン中心のドイツ帝国を第二帝国という。, 北ドイツの政治的統一がなされた1867年、極東の地では大政奉還が宣言された。1868年には明治新政府が樹立。, 1873年には岩倉使節団が到着。ビスマルクの言葉「世界は弱肉強食が実情である。プロイセンが貧弱だった幼い頃に味わった小国の悲哀と怒りを忘れることができない。貴国も万国公法を気にするより、富国強兵を行うべきだ。さもなければ植民地化の波に飲み込まれるだろう。」は、明治日本の世界観となった。, 同盟国オーストリアも敗戦。サン=ジェルマン条約で、オーストリア=ハンガリー二重帝国は解体。オーストリア共和国が成立する。, ワイマール共和国は戦後賠償金に苦しみつつも、徐々に経済を回復させていく。しかし、1929年に世界恐慌が発生。600万人もの失業者を出した。, ナチス党は戦後体制の打破と失業対策を打ち出し、没落しつつある中間層の熱狂的な支持を獲得。, 合法的な手段で政権与党に上りつめ、1933年、合法的に独裁政権が誕生した。ナチス=ドイツの独裁体制下にあるドイツを第三帝国という。, ナチスは1939年、ポーランド進攻を開始。第二次世界大戦が勃発。1940年にはパリを陥落させた。, こうして、一時はヨーロッパ大陸全土を手中に収めたが、1945年にソビエト連邦によりベルリンが陥落した。, 1961年、東ドイツから西ドイツに逃れる市民を食い止めるために、ベルリンの壁が建設された。ベルリンの壁は、アメリカとソ連の冷戦を象徴した。, 1989年、ポーランドやハンガリーで民主化が達成。東ドイツ市民は民主化が進まないことに不満を抱き、他国経由での逃亡を図るようになった。, その中で、1989年11月9日、旅行条件の大幅な緩和が発表される。しかし、「即時」の「自由交通」ができると誤って伝えられ、会見から5時間の間に数万人の群衆が終結。, 東西ベルリンは再び行き来が可能になり、その後東ドイツが西ドイツに編入される形で東西ドイツが統一された。こうして現在のドイツ連邦共和国が成立した。, 管理人の「しまうま」です。 世界史のブログ書いてる人です。 ・Pinterest ・Facebook に公式アカウントが存在します。, Eine Rede von Adolf Hitler (アドルフ・ヒトラー氏の演説). Graf Kaspar Sternberg: Umrisse einer Geschichte der böhmischen Bergwerke, Bd. 1438年 より、 神聖ローマ皇帝位はハプスブルク家の世襲 が始まり、ウィーンが神聖ローマ帝国の首都となる。 また、結婚により マクシミリアン1世 が当時最大の経済大国ネーデルラント(今のオランダ)を世襲すると巨大な経済力を手にした。 互いに、自らがキリスト教の頂点に立つ教会であると自負していたからです。, 教会の権力は強固なものでしたが、権威を保つには後ろ盾となる強力な国家に支えられる必要があります。, 東のコンスタンティノープル教会はビザンツ帝国、西のローマ・カトリック教会は西ローマ帝国に支えられていたのです。, しかし、西ローマ帝国の消滅により、ローマ・カトリック教会は後ろ盾を失ってしまうことになります。, ローマ・カトリック教会は、この勢いのあるフランク王国を、自らの後ろ盾にしようと画策しました。, こうして、フランク王国はローマ・カトリック教会を守護する国家として、ローマ教皇から認められることになります。, それは由緒ある西ローマ帝国の皇帝として認められた瞬間でした。 こうして誕生したのが西ローマ帝国と東ローマ帝国でした。, 西ローマ帝国は首都をローマとし、東ローマ帝国はコンスタンティノープルを首都としました。, 東ローマ帝国は、ビザンツ帝国と名称を変え、1453年にオスマントルコに滅ぼされるまで存続しました。 962年のことでした。, こうして誕生したのが神聖ローマ帝国です。 西ローマ帝国の後継を称し、約1000年にわたって続いた神聖ローマ帝国。中世ヨーロッパ史を知るうえで欠かせない存在です。この記事では、帝国の始まり、大空位時代、最盛期、そして滅亡にいたるまでの歴史をわかりやすく解説。おすすめの関連本も紹介するので、ぜひチェックしてみてください。, 現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部の地域を中心に統治していた国家「神聖ローマ帝国」。480年に滅亡した西ローマ帝国の後継国家を自称し、1806年まで存在していました。, その始まりは、西ヨーロッパのほぼ全土を手中に収めていたフランク王カール1世が、ローマ教皇レオ3世からローマ皇帝に戴冠された800年とする説が有力。ただ東ローマ帝国の皇帝はカール1世の皇帝位を承認していませんでした。カール1世も「ローマ帝国の統治者」と名乗ることはあっても、「皇帝」を名乗ることはなかったそうです。, そのため日本では、カール1世の戴冠から約160年後、フランク王国の後継国家のひとつである東フランク王国のオットー1世がローマ皇帝を戴冠した962年を、神聖ローマ帝国の始まりとする説が一般的です。, カール1世の時代は、ローマ教皇の権威は東ローマ帝国の皇帝よりも下でした。やがてオットー1世の時代になると、皇帝の権威はカトリック教会と不可分のものとする考え方が一般的なものとなります。これはつまり、俗界の最高権力者である皇帝の権威は、聖界の最高権力者であるローマ教皇を通じて、ヨーロッパ全土におよぶものであるということ。そのため皇帝には、キリスト教社会の守護者としての振る舞いが求められました。, 帝国の中心がローマではなく現在のドイツにあたる東フランクにあること、それにも関わらず歴代の東フランク王がローマ王となり、その帝国が神聖ローマ帝国と呼ばれるのも、キリスト教社会の中心が教皇のいるローマだったからなのです。, しかし、皇帝と教皇の関係が常に良好なわけではありません。互いに封建領主だということもあり、領土問題などさまざまな紛争で対立関係に陥ることもあります。, その背景には皇帝の直轄地がドイツと北イタリアなどの一部に限られていて、帝国の大半が300以上の教会領や貴族領、帝国自由都市などの独立した政体で構成されていたという点があります。皇帝の力は必ずしも盤石なわけではなかったのです。, そもそも神聖ローマ帝国に明確な首都はなく、皇帝は領邦内を巡回しながら統治をしていました。しかし諸侯の力が増すにつれて皇帝の移動範囲は狭くなり、最終的には自分の領地から出ることさえ難しくなっていったのです。, 11世紀後半から12世紀後半にかけて教皇の発言力が増すと、司教や修道院長の任命権をめぐる「叙任権闘争」に皇帝ハインリヒ4世が敗れ、教皇の地位が優勢になっていきました。, ハインリヒ4世が敗れる原因となったのは、神聖ローマ帝国の皇位継承の仕組みです。神聖ローマ帝国ではゲルマン民族の伝統にのっとった選挙制でローマ王が選出され、教皇から戴冠を受けることで初めて皇帝を名乗ることができました。, 「叙任権闘争」にて、皇帝は教皇の廃位を宣言しますが、教皇も皇帝の破門を宣言します。この時、投票権をもつ諸侯が教皇側につき、ハインリヒ4世に代わる新たなローマ王の選定に動きました。, 皇帝には諸侯を敵に回すだけの力はなく、ハインリヒ4世は雪が降るなか、教皇が滞在するカノッサ城の門前で裸足で許しを請うことになるのです。これが有名な「カノッサの屈辱」と呼ばれる事件です。, これ以降、皇帝の立場は教皇だけでなく、投票権をもつ諸侯に対しても劣勢となっていきました。その結果、1254年から約20年間、ローマ王位が空白になる事態になります。これを「大空位時代」と呼びます。, 1254年、ローマ王コンラート4世が亡くなりホーエンシュタウフェン朝が断絶すると、コンラート4世と対立していたウィレム2世が現存する唯一のローマ王となりました。, 「神聖ローマ帝国」という国号は、このウィレム2世が初めて使用したもの。それ以前は「ローマ帝国」もしくは単に「帝国」と呼ぶのが一般的でした。, しかしウィレム2世も1256年に死亡。ローマ王位が空になります。この事態を受けて1257年に、諸侯によってローマ王の選挙がおこなわれることになりました。, ローマ王として選出されたのは、イングランド王ヘンリー3世の弟であるコーンウォール伯リチャードと、カスティーリャ王アルフォンソ10世の2人。いずれも帝国外からの候補者でした。, コーンウォール伯リチャードを推薦したのは、ケルン大司教、マインツ大司教、ライン宮中伯。カスティーリャ王アルフォンソ10世を推薦したのは、トリーア大司教、ザクセン大公、ブランデンブルク辺境伯、そして当初はコーンウォール伯リチャードを支持していたものの鞍替えしたボヘミア王オタカル2世です。, 血統ではフリードリヒ1世の孫娘を母にもつカスティーリャ王アルフォンソ10世の方が有利でしたが、ローマ教皇の反対や国内の反乱によって皇帝位を戴冠することができずに終わります。また、所領が金の産地だったことから莫大な富をもち、その経済力を背景に諸侯の支持を得たコーンウォール伯リチャードも、国内の反乱に敗れ、兄ともども捕虜になるという事態になり、皇帝になることはできませんでした。, ローマ王が2人とも皇帝になれなかった後、ボヘミア王オタカル2世やフランス王フィリップ3世など有力な君主を擁立する動きが出ます。しかし有力者が皇帝になることは諸侯や教皇にとって必ずしも好ましいことではありません。彼らとしては、簡単に操れる無力な皇帝であることが重要でした。, そこで目を付けられたのが、ほぼ無名に近いハプスブルク伯ルドルフ4世です。1273年、ルドルフ4世はルドルフ1世としてローマ王になります。, 大空位時代が終わりを迎え、後に神聖ローマ帝国の最盛期を築くハプスブルク家が歴史の表舞台に出た瞬間でした。, ルドルフ1世はローマ王に選出された時点で50歳を超えていました。かつてホーエンシュタウフェン朝が没落に向かうなかでも忠義を尽くして仕えた姿勢を評価されていたものの、他に特筆することのない凡庸な人物とみなされていました。, しかしそんな諸侯の予想に反して、1276年にはボヘミア王オタカル2世を倒し、ハプスブルク家をヨーロッパでも有数の家門に発展させていきます。, そのため、強大化を恐れた諸侯によってハプスブルク家が王位を世襲することは認められず、以後150年、ローマ王はハプスブルク家以外の家門から選出されることが通例になりました。これを「跳躍選挙」といいます。, 1356年には、ルクセンブルク家のカール4世が後に神聖ローマ帝国の最高法規と位置付けられる「金印勅書」を発布。選挙のルールを明確化したうえ、マインツ大司教、トリーア大司教、ケルン大司教、ライン宮中伯、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯、ボヘミア王の7人が「選帝侯」と定められ、数々の特権が与えられました。, ハプスブルク家は一時期歴史の表舞台から姿を消しますが、その間も自らの根拠地であるオーストリアの内政に力を入れ、徐々に勢力を増していきます。1438年にアルブレヒト2世が108年ぶりにローマ王になると、そこからは王位の世襲化にも成功。, さらに1508年にはマクシミリアン1世が教皇からの戴冠を受けないまま「皇帝」を名乗り、以降、神聖ローマ帝国皇帝位はほぼハプスブルク家によって独占されることになるのです。国号も「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」に変更しています。, マクシミリアン1世は、ハプスブルク家のお家芸でもある結婚政策で、オーストリアやドイツ、ハンガリー=ボヘミア、スペイン、ネーデルラント、ナポリ=シチリア、サルデーニャにまたがる広大な帝国を築きあげました。, 孫のカール5世の時代にはさらに世界各地に拡大し、「太陽の沈まない国」と形容される神聖ローマ帝国の最盛期を築くことになるのです。, 1806年、神聖ローマ帝国は滅亡します。直接的な要因となったのは、1805年にフランスとの間で勃発した「アウステルリッツの戦い」に敗れたことです。, 1806年、ナポレオンはライン川流域の諸侯を集めて「ライン同盟」を結成。バイエルンやヴュルテンベルクなどの有力諸侯を含むドイツ南西部16の諸邦が、神聖ローマ帝国から離脱しました。, これを受けて、ハプスブルク家のフランツ2世が神聖ローマ帝国の皇帝から退位。神聖ローマ帝国は約1000年の歴史に終止符を打つことになったのです。, しかし実際には、すでに1648年の時点で神聖ローマ帝国は終焉を迎えていたとする研究もあります。, ボヘミアのプロテスタントが反乱したことをきっかけに起こった「三十年戦争」で神聖ローマ帝国が敗北し、「ウェストファリア条約」が締結されました。この条約で帝国内の各領邦に主権が認められ、皇帝の権利が著しく制限されることになったのです。皇帝の有名無実化が進み、神聖ローマ帝国は事実上解体されました。, ハプスブルク家は、神聖ローマ帝国が滅亡した後も、オーストリア皇帝やハンガリー王として統治を続けます。一方でドイツはその手を離れ、1871年にはプロイセンによってドイツ諸邦が統一。ドイツ帝国が成立しました。, 神聖ローマ帝国について、18世紀にフランスで活躍した思想家のヴォルテールは「神聖でもなければ、ローマ的でもなく、そもそも帝国ですらない」と評価をし、17世紀のドイツの法学者プーフェンドルフは「妖怪に似ている」と語りました。, しかし、この不可思議な帝国は1000年にわたって実在し、その政治体制は現在のドイツ連邦の基礎として今なお、生き続けています。, 約1000年にわたってヨーロッパの中枢に在り続けた神聖ローマ帝国の、歴代皇帝の功績を簡潔にまとめた作品。, 年代を追って記述されているので、歴史の流れをつかみやすく、教会勢力や諸侯との抗争をくり広げながらもいかにして神聖ローマ帝国が存在していたのかを知ることができます。, 壮大なテーマですが、260ページと読みやすい文量なのもポイント。また、ところどころに家系図などが挿入されていて、同じような名前の人物が乱立していても混乱せずに読み進めることができるでしょう。ヨーロッパ史の幹ともいえる神聖ローマ帝国の概要を知れる一冊です。, フランク王国のカール1世、東フランク王国のオットー1世、そしてハプスブルク家のカール5世、彼ら神聖ローマ帝国の皇帝たちが抱いていた夢は「古代ローマ帝国」の復活だったといわれています。, かつて古代ローマ帝国と戦った歴史をもつゲルマン民族系の人々が、古代ローマ帝国の復活を目指すのは不思議なことです。本書では、ゲルマン系民族と神聖ローマ帝国の関係に焦点を当て、「そもそも神聖ローマ帝国とは何だったのか」という疑問を解き明かしていきます。, 神聖ローマ帝国の成立から滅亡までを振り返り、その歴史を再評価しようと試みる、読みごたえ十分の一冊です。, 中東屈指の金融都市ドバイを有するアラブ首長国連邦。UAEという略称で知られています。この記事では治安や政治、石油産業なども含めて、古代からの歴史をわかりやすく解説。おすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。, 近い将来、中国を抜いて世界一の人口大国になると目されているインド。一体どんな歴史を歩んできたのか、古代から植民地時代を経て、独立、近代化を果たすまでの流れをわかりやすく解説していきます。. フランク王国(フランクおうこく、ラテン語: Regnum Francorum, フランス語: Royaumes francs, ドイツ語: Fränkisches Reich )は、5世紀後半にゲルマン人の部族、フランク人によって建てられた王国。 カール1世(カール大帝・シャルルマーニュとも)の時代(8世紀後半から9世紀前半)には、現在のフラン … ローマ教皇としては新たな自らの保護国を得る必要性に迫られたからです。, そんな中、東フランクのオットー1世が力を認められ、ローマ教皇から戴冠されます。 一体何者?なのでしょうか。, しかし、神聖ローマ帝国には、さほど権力がある皇帝がいたわけでもなく、ましてその子孫が跡を継ぐわけでもありません。 浅野啓子(1990)「十五世紀フス派革命におけるプラハ四ヵ条」,『社會科學討究』35, p.59-82, 早稲田大学アジア太平洋研究センター. オットー1世は神聖ローマ帝国の初代皇帝となります。, 実際この時点では、神聖ローマ帝国は、単にローマ帝国と呼ばれていましたが、便宜的に記事中は神聖ローマ帝国で統一します。 ボヘミア王国(ボヘミアおうこく)、ベーメン王国、またはチェコ王国[2][3] (チェコ語: České království; ドイツ語: Königreich Böhmen; ラテン語: Regnum Bohemiae, Regnum Czechorum) は、中世から近世にかけて中央ヨーロッパに存在し、現代のチェコ共和国の前身となった王国。神聖ローマ帝国の領邦の1つであり、ボヘミア王は選帝侯の一人だった。ボヘミア王は歴史的地域としてのボヘミアを中心としてモラヴィア、シレジア、ルーサティアの全域と、ザクセン、ブランデンブルク、バイエルンの一部を含むボヘミア王冠領を支配した。, 前身はボヘミア公国で、12世紀にプシェミスル朝のもとで王国に昇格した。その後ボヘミア王位はルクセンブルク家、ヤギェウォ朝と移り変わり、最終的にハプスブルク家(後のハプスブルク=ロートリンゲン家)のものとなった。王国の首都プラハは、14世紀後半、16世紀末、17世紀初頭に神聖ローマ皇帝の在所となった。, 1806年に神聖ローマ帝国が解体されたのち、ボヘミア王領はハプスブルク家のオーストリア帝国の領土となり、1867年にオーストリア=ハンガリー帝国に移行したのちもオーストリアの一部とされた。ただし名目上、公式にはボヘミア王国は単一の王国として1918年まで存続した。その間もプラハは帝国の主要都市の1つであり続けた。国内では主にチェコ語(ボヘミア語)が話され、貴族の議会でもチェコ語が用いられていたが、三十年戦争中の1627年の反乱が鎮圧されたのちに禁止された。それ以降はドイツ語がチェコ語と対等に使われるようになり、特に議会では19世紀の「チェコ民族復活」までドイツ語が用いられた。また13世紀の東方植民の際にドイツ人が多数入植した影響で、ボヘミア外縁部のズデーテン地方の都市ではドイツ語が主に使用されていた。王国議会では、国王や時代によって、チェコ語、ラテン語、ドイツ語など使われる言語が変化した。, 第一次世界大戦で中央同盟国が敗北したことで、ボヘミア王国はオーストリア=ハンガリー帝国とともに解体された。その旧領は、新たに独立したチェコスロヴァキア第一共和国の中核となった。, 9世紀に始まったボヘミア公国の歴史の中で、11世紀後半にヴラチスラフ2世[4]、12世紀にヴラジスラフ2世[5]がボヘミア王を名乗ったが、いずれも1代限りに終わった。連続的なボヘミア王国が成立したのは1198年のことで、プシェミスル朝のオタカル1世が、ローマ王位をめぐるフィリップとオットー4世の争いに際して前者を支援する見返りに王位を認められた。フィリップは争いに敗れオットー4世が単独の皇帝となったが、オタカル1世はオットー4世や教皇インノケンティウス3世にもボヘミア王号を認めさせた。1212年に皇帝フリードリヒ2世が出したシチリア金印勅書において、ボヘミア公国は正式に王国へ昇格した[5]。, ボヘミア王は、帝国議会への出席を除き、将来にわたってあらゆる帝国諸侯としての義務を免れた。皇帝が持っていたボヘミア君主承認権やプラハ司教任命権は放棄された。オタカル1世の息子ヴァーツラフ1世はボヘミア王位を継承し、その地位を盤石なものとした。, ヴァーツラフ1世の妹アネシュカ・チェスカーは、当時の女性としては並外れて果敢かつ行動的な人物だった。皇帝フリードリヒ2世との縁談を断り、修道院に入って精神生活に生涯をささげたのである。彼女が教皇インノケンティウス4世の後押しを受けて1233年に創設した紅星騎士団は、ボヘミア王国最初の騎士修道会となった。なお外来の騎士修道会としては、ボヘミアではすでに聖ヨハネ騎士団(1160年ごろ以降)、聖ラザロ騎士団(12世紀後半以降)、ドイツ騎士団(1200年ごろ - 1421年)、テンプル騎士団(1232年 - 1312年)の4つが活動していた[6]。, 13世紀、プシェミスル朝は中央ヨーロッパ最強の王朝の1つとなった[7]。皇帝フリードリヒ2世の地中海偏重政策と彼の死後の大空位時代(1254年 - 1273年)のために、中央ヨーロッパにおける皇帝権力は著しく弱まった。また東方からはモンゴル帝国がヨーロッパに侵攻し、ボヘミアの東方のライバルであるポーランドとハンガリーが大いに力を削がれていた。, オタカル2世は帝国の大空位時代とほぼ被る治世(1253年 - 1278年)の間にボヘミア王国史上最大の版図を実現した。皇太子時代の1252年にバーベンベルク家最後の男系女子だったマルガレーテと結婚してオーストリア公となり[5]、オーバーエスターライヒ、ニーダーエスターライヒ、シュタイアーマルクの一部を獲得した。その後1260年のクレッセンブルンの戦いでハンガリー王ベーラ4世を破り、シュタイアーマルクの残部、ケルンテンの大部分、カルニオラの一部を征服し[8]、その領土はアドリア海に達した[9]。彼は「鉄と金の王」とのあだ名で呼ばれた[5]。鉄は彼の征服活動、金はその富を意味する[5]。またドイツ騎士団を支援して北方のプロイセンにも遠征して1256年に異教徒のプルーセン人を破り、クラーロヴェツ(チェコ語: Královec)という都市を建設した[5]。後にケーニヒスベルクのドイツ語名で知られるようになったその名は「王の砦」を意味するが、これはドイツ騎士団がオタカル2世に敬意を払って付けたものである[10][11]。, しかし1273年にローマ王選挙でオタカル2世を破り選出されたハプスブルク家のルドルフ1世は皇帝権回復を志し、オタカル2世の勢力を削り始めた。国内貴族の反乱にも苦しんでいたオタカル2世は、1276年までにオーストリアを始めとするドイツにおける領土をすべて失い、1278年のマルヒフェルトの戦いでルドルフ1世との決戦に挑んだが敗死した[5][12][13][12]。, 跡を継いだヴァーツラフ2世の元には従来のボヘミア王国の版図しか残っていなかった。そのボヘミアも王が幼少であることから、その保護者になるという名目で周辺諸国の侵略の的となり、一時期王国とヴァーツラフ2世は5年にわたりブランデンブルク=シュテンダール辺境伯オットー4世の支配下に置かれたこともあった[5]。が、彼は1300年にポーランド王位を獲得[5]、1301年に息子ヴァーツラフ3世をハンガリー王に即位させた。1305年にボヘミア王位・ポーランド王位をも継承したヴァーツラフ3世の元で、プシェミスル朝の支配はハンガリーからバルト海にまで及んだ。しかし翌1306年、ポーランド王位を守るためポーランド遠征を企図していたヴァーツラフ3世がオロモウツで暗殺されてプシェミスル朝は断絶[5]400年に及んだプシェミスル朝のボヘミア統治は幕を下ろした[5]。ポーランドではピャスト朝のヴワディスワフ1世が諸侯の再統合を進めて1320年にポーランド王位を復活させ、ハンガリーではアンジュー朝が成立した。その一方でボヘミア王国は、国外の諸家が王位を争う闘争の舞台となった。, 13世紀はドイツからの東方植民が活発に行われた時代であるが、プシェミスル朝の歴代君主はこの活動を大いに支援した。ボヘミアの外縁部の都市や鉱山地域には多数のドイツ人が入植し、一部はボヘミア内部にも植民都市を建設した。ドイツ人入植地として有名な都市は、ストジーブロ、クトナー・ホラ、ニェメツキー・ブロト(現ハヴリーチクーフ・ブロト)、イフラヴァが挙げられる。ドイツ人はイウス・テウトニクム(ドイツ人の法、ラテン語: ius teutonicum )と称する独自の法体系を持ち込み、これが後にボヘミアとモラヴィアにおける商法の基礎となった。チェコ人貴族とドイツ人の婚姻も一般的に行われるようになった。, .mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}14世紀、特にカレル1世の時代(1342年 - 1378年)は、チェコの歴史上の黄金時代と呼ばれる。1306年にプシェミスル朝が断絶したことで、ルドルフ1世(オーストリア公ルドルフ3世)とインジフ・コルタンスキー(ケルンテン公ハインリヒ6世)がボヘミア王位をめぐり争ったが、最終的に1310年にルクセンブルク家のヤン・ルケンブルスキーがヴァーツラフ3世の妹エリシュカ・プシェミスロヴナと結婚し、ボヘミア王となった[14]。彼は神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の息子であった。ヤンの息子カレル1世は1346年にボヘミア王位を継ぎ、ルクセンブルク家2代目の王となった。彼は幼少期にフランス宮廷で養育されて国際人としての人格を育て、またボヘミアを不在にしがちなうえ1340年には失明した父に代わり、1333年以降13年間ボヘミアを実質的に統治していた人物だった[14]。, カレル1世はボヘミア王国の地位と威信の向上に努めた。ボヘミアのマインツ大司教の管轄下にあったプラハ司教を1344年に大司教に昇格させ、ボヘミア王に戴冠する権利を与えた。またボヘミア、モラヴィア、シレジアの貴族の力を押さえ、領土経営の合理化を進めた。1348年にはモラヴィア、シレジア、ルーサティアを含んだボヘミア王冠領を成立させ、王領の不可分性を規定した[15]。, 1355年、カレル1世はカール4世として神聖ローマ皇帝に即位した。翌1356年に金印勅書を発し、皇帝選出の手続きを整備した。この後、1473年にカレル1世はバイエルン公オットー5世よりブランデンブルク辺境伯領を購入し[16][17]、皇帝選挙の際にルクセンブルク家で2票を確保できる体制を作った。カレル1世は、ボヘミア王国の首都プラハを帝国の首都に定めた。, 彼の元で、プラハでは旧市街の南東に新市街を建設する一大事業が勧められた。またロマネスク様式の宮殿だったプラハ城もゴシック様式に改築され、城塞としての機能が強化されたうえで皇帝の在所に定められた。カレル1世は1348年にプラハ・カレル大学を創設し[15]、プラハを学問の中心地としようと試みた。大学内はチェコ、ポーランド、ザクセン、バイエルンという4つの「ネーション(英語版)」に分けられ、それぞれが投票権を持つ体制が作られた。しかしながら、時がたつにつれてプラハ・カレル大学はチェコ人中心主義の中核になっていった。, 1378年にカレル1世が死去すると、王位は息子のヴァーツラフ4世(ヴェンツェル)に移った。既に彼は1376年にローマ王に選出されていた。しかし皇帝としての戴冠を果たせぬまま失政を重ね、1400年にはローマ王を廃位された。何とかボヘミア王位は保ったものの、彼の時代のボヘミアは不況に陥り、盗賊や私闘が横行したうえ、黒死病の流行にも見舞われた[18]。弟のジクムント(ジギスムント)は1410年にローマ王に選出され[19]、1433年にローマで皇帝に即位した[20]。彼の代で、ルクセンブルク家は断絶した。, 1402年から1485年にかけてのフス派の活動は、宗教改革運動に留まらないチェコ民族運動の走りでもあった。ボヘミア宗教改革と呼ばれる一連の宗教改革運動は、教皇の権威に挑戦し、ボヘミア地域の教会の独立を試みるものだった。フス派と帝国・教皇の間でフス戦争が勃発、フス派は4度にわたってフス派十字軍を撃退し、後のプロテスタントの走りとみなされている。十字軍兵士の多くがドイツ人であったことから、フス派はチェコのナショナリズムの始まりとみなされることがある。ただし、十字軍には多くのハンガリー人やチェコ人カトリック教徒も参加していた。現代のチェコ史学上では、フス派は反帝国、反ドイツ運動の端緒という地位を与えられ、さらには長期的なチェコ・ドイツ民族対立の一部とみなされることすらある。, フス派はヴァーツラフ4世の治世下で勃興した。この頃カトリック教会は大シスマ状態にあって教皇の権威が著しく減退しており、帝国でも皇帝の失政のために秩序が失われていた。1403年にプラハ・カレル大学の教授となったヤン・フスは、イングランドのジョン・ウィクリフの反教皇・反ヒエラルキー主義(ロラード派)に共鳴し、教会改革を求める説教師として活躍するようになった。フスは富、汚職、カトリック教会のヒエラルキーを否定し、ウィクリフの教義に従って聖職者に清貧を求めるとともに、聖餐において平信徒もパンとワイン両方を受ける二種聖餐を提唱した[21]。またフスは聖書をチェコ語に翻訳し、チェコ語はギリシア語、英語に次いで、現代も一般に話されている言語の中では3番目に聖書の全文翻訳がなされた言語となった[22]。, ドイツ人の神学教授たちはフスにウィクリフ批判を強要したが、フスは大学内のチェコ人派閥の後押しを受けてこれを拒絶した。大学の方針を定める評議会はドイツ人3票に対してチェコ人は1票しかもっていなかったためチェコ人派閥は敗れ[要出典]、プラハ・カレル大学は正統カトリックを軸とし続けることになった。その後数年間にわたり、地元民であるチェコ人は自分たちの権利を拡大するよう大学憲章の改訂を要求した。ヴァーツラフ4世がこの論争に対し曖昧な態度をとったこともあり、対立は激化する一方だった。当初彼はドイツ人を要職につけようとしてチェコ人貴族の反感を買い、逆にフスの後援者を増やしてしまった。ドイツ人派閥は、プラハ大司教ズビニェク・ザイーツや、国内のドイツ人聖職者の支持を得ていた。しかし政治的に追い詰められたヴァーツラフ4世は、変心してドイツ派からチェコ派に鞍替えし、今度は宗教改革派と手を組んだ。1409年1月18日、ヴァーツラフ4世はクトナー・ホラ勅令を発し[23]、大学内のチェコ人に3票の投票権を与え、他の国民は1票と改めた。これによりフスは大学の主導権を握り、対してドイツ人の教授や生徒数千人がプラハ・カレル大学を離れ[18]、彼らの多くはマイセン辺境伯フリードリヒ4世を頼ってライプツィヒ大学を創立した。, 大学内の闘争に勝利したフスだったが、カトリック教会の贖宥状販売を批判したことで、売り上げの一部を受け取っていた王の支持を失った[18]。教皇庁はプラハの聖務停止を宣告して圧力をかけ[18]、結果として1412年、フスと支持者たちは、大学の職を解かれプラハからも追放された。その後約2年の間、フスは巡回説教師としてボヘミア中をまわり、自身の改革教義を広めていった。1414年、フスはコンスタンツ公会議に召還され、到着後すぐに投獄された。彼は自説を曲げないまま異端宣告を受け、生命を保証されていたにもかかわらず[24]1415年7月6日に火刑に処された[18]。現在、この日はチェコ共和国の祝日となっている[18]。, フスの処刑により、数十年に及ぶフス戦争が勃発した。1419年に説教師ヤン・ジェリフスキー率いるフス派市民が第一次プラハ窓外投擲事件を起こし、ドイツ人市長と評議員を殺害した[18]。その報を受けたヴァーツラフ4世は卒倒、半月後に死んでしまった。その後を継いでボヘミア王に即位した弟のジクムント(ハンガリー王ジグモンド、後に神聖ローマ皇帝ジギスムント)は、コンスタンツ公会議の際にハンガリー王としてフスの処刑を主導した人物だった。しかしジクムントはハンガリー人とドイツ人の軍を率いていながら、ボヘミア王国での支配確立に失敗した。プラハでは暴動が起き、南部では傭兵隊長ヤン・ジシュカが蜂起した。宗教闘争は瞬く間にボヘミア全土に広まり、特にドイツ人が支配していた諸都市では激しい抗争が起きた。フス派のチェコ人とカトリックのドイツ人は互いに虐殺しあい、敗れたドイツ人たちはボヘミア以外の神聖ローマ帝国領に逃れた。ジクムントはボヘミアやドイツ、ハンガリーのカトリック教徒を率いて何度もフス派十字軍を組織したが、ヤン・ジシュカは農民や傭兵を主体とする少数の軍勢にウォーワゴンで騎士の突撃を止め、銃火器で殺害する戦術を導入し、何度も皇帝や有力諸侯の軍を撃破した[18]。, この頃既に、フス派内では次々と分派が誕生していた。ウトラキスト(両形式主義者)を名乗り、カトリック教会との妥協も視野に入れるボヘミア貴族ら穏健派がある一方で、南ボヘミアの要害にターボル市を建設してターボル派と名乗った過激派は、教会を完全に否定し、聖書を唯一の宗教権威とした[18]。ヤン・ジシュカはターボル派の軍事指導者だった。フス戦争では、同じような構図の流れが繰り返された。まずジクムントらが十字軍をボヘミアに侵攻させると、フス派は穏健派と過激派が手を結び、共同して十字軍を撃退する。しかしひとたび脅威が去れば、フス派軍はカトリック教徒の地域に繰り出して略奪と虐殺を繰り広げた。多くの歴史家たちは、フス派を狂信者として描いている。一方で、彼らはフス派の権利や存在そのものを否定する王や教皇と戦い、自らの土地を死守するナショナリストの萌芽ともいえる顔も持っていた。ジシュカは途中でオレープ派を結成してターボル派と距離をとりつつ、カトリック軍と戦いながら城塞や修道院、村を襲い、カトリックの聖職者を追い出して教会領を接収するとともに、カトリック教徒のフス派への改宗を進めていった。しかし彼は1424年に黒死病に倒れ、ターボル派の大プロコプと小プロコプが跡を継ぎ、積極的にドイツに侵攻して勢力を拡大した[18]。, 一方で1433年、ウトラキストはバーゼル公会議に代表団を派遣し、カトリック教会との和解を図った[18]。1434年、カトリック軍とウトラキスト軍は共同して過激派を攻撃し、リパニの戦いで大小プロコプを討ち取って過激派のフス派軍を壊滅させた[18]。1436年バーゼルの誓約が締結され、フス派説教の自由、二種聖餐、聖職者の不正排除、各階級による裁判と処罰といったプラハ四か条[25]で示されたフス派の基本事項がすべてカトリック教会に認められた[18]。しかし教皇エウゲニウス4世がバーゼルの誓約の承認を拒否したため、ボヘミアのカトリックとウトラキストの間には溝が残った。ウトラキストがボヘミアの政権を握ったことで、都市からはドイツ人の裕福な市民が姿を消した[18]。聖職者はその信条にかかわらず財産を貴族や都市に没収され、影響力が弱まった[18]。, ジクムントと戦う過程で、ターボル派はボヘミア王国の領域を飛び出し、モラヴィア、シレジア、ルーサティア、さらには現在のスロバキアにあたる上ハンガリーにも進出した[18]。リパニの戦いの後、カトリック軍に追われたチェコ人宗教難民が大勢ここに流れ込み、1438年から1453年にかけてフス派の残党であるチェコ人貴族ヤン・イスクラが南スロバキアからゾーヨン(現ズヴォレン)、カッサ(現コシツェ)に至る地域を支配した。フス派の軍事的影響とチェコ語聖書の普及は、後のスロバキアとチェコの強い繋がりの端緒となった。また一時期ポーランド王ヴワディスワフ2世の援助を受けていた関係でポーランド軍にもフス派が参加しており、彼らはバルト海にまで到達した[18]。, 1437年にジクムントが死去すると、ボヘミアの諸階級はその遺志に沿ってハプスブルク家のアルブレヒト(オーストリア公アルブレヒト5世、神聖ローマ皇帝アルブレヒト2世)をボヘミア王とした。その死後は遺児ラジスラフ・ポフロベク(ラディスラウス・ポストゥムス)が跡を継いだが、幼少だったためウトラキストの流れをくむ改革派貴族が摂政となった。しかし貴族の中にはカトリックに留まり教皇に忠誠を誓う者も残っており、内紛が絶えなかった。, ラジスラフ・ポフロベクはオーストリアで後見人フリードリヒ(後のオーストリア大公フリードリヒ5世、皇帝フリードリヒ3世)に幽閉されており、ボヘミアでは1452年以降、穏健フス派の指導者イジー・ス・ポジェブラトが摂政として政権を握った[18]。彼は同じウトラキストのヤン・ロキツァナをプラハ大司教として、さらに過激派のターボル派の残党をチェコ改革教会に取り込むことに成功した。カトリック派はプラハを追い出された。1457年にラジスラフ・ポフロベクが白血病で死去すると、ハンガリー議会はマーチャーシュ1世(ボヘミア名マティアス1世・コルヴィン)をハンガリー王に[26]、ボヘミア諸階級はイジーをボヘミア王に選出した[27][18]。彼は大貴族ではあったが王家の血筋ではなく、この国王選出は教皇や他の王侯に承認されなかった。, 異端の烙印を押されてヨーロッパ・カトリック世界の中で孤立していたイジーは、ヨーロッパのキリスト教諸国が巨大な連合体を形成し、抗争を止めるとともに団結してオスマン帝国に対抗するという壮大な構想を立てた[18]。その中では各邦が1票を握り、フランスが主導的な立場につくとされており、教皇には特別な地位を与えなかった。[要出典]イジーは1464年から1467年にかけて各国宮廷をめぐり自らの構想を訴えたが、失敗に終わった[18]。, 1465年、カトリックのボヘミア貴族はゼレナー・ホラ同盟を結び、イジーへの抵抗を表した[18]。翌年、教皇パウルス2世はイジーを破門し、ボヘミア臣民のイジーへの服従義務を解いた。これを受けて1468年にボヘミア戦争が勃発し、ハンガリー王マーチャーシュ1世[18]や神聖ローマ皇帝となっていたオーストリア大公フリードリヒ3世の侵攻を受けた。イジーはマーチャーシュ1世にモラヴィアの大部分を奪われたが、周囲の反対を押し切り1470年に和平を結び、ヤギェウォ朝の王子を後継に定めて翌1471年に没した[18]。, フス派王イジーの死を受けて、ボヘミア諸階級はヤギェウォ朝(ボヘミアではヤゲロンキ朝)のポーランド王子ヴラジスラフ・ヤゲロンスキーをボヘミア王に選出した[28]。一方マティアス1世・コルヴィンもボヘミア王位の請求を取り下げず侵攻を続けていた。1479年に両者はオロモウツの和約を結び、ヴラジスラフはシレジア、モラヴィア、ラウジッツとボヘミア王位をマティアス1世に譲渡、わずかにボヘミアを残すのみとなった。ヴラジスラフは国内のカトリックとフス派の対立にも悩まされたが、1485年にカトリック派がバーゼルの誓約を受け入れ、両者の和解が成った。1490年にマティアス1世が嗣子なくして死去したため、ヴラジスラフは彼の跡を継ぐことで旧領を回復、さらにハンガリー王位をも獲得した[29][出典無効][30]。ヴラジスラフがブダに移ってハンガリー統治に専念したため[31]、ボヘミアではほとんど各地の貴族が自治を行う状況になり、1500年にボヘミア貴族が王権を制限する法を制定するとヴラジスラフも1502年に承認した[32]。ハンガリーと同君連合を結んだボヘミアは神聖ローマ帝国から浮いた存在になり、1500年に帝国クライスが成立した際もボヘミア王冠領は除外された。, 1515年、ヴラジスラフは神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世や弟のポーランド王ジグムント1世と会談、ウィーン二重結婚を取り決めた。1516年、ヴラジスラフの息子ルドヴィーク幼王[33]がボヘミア王・ハンガリー王を継いだが、彼は1526年にモハーチの戦いでオスマン帝国と争い敗死した。ここにヤゲロンキ朝が断絶したため、二重結婚でルドヴィークと強い縁戚関係にあったオーストリア大公フェルディナント1世がボヘミア王位・ハンガリー王位を請求した。彼はボヘミア王に選出され(フェルディナンド1世)、上ハンガリー(現在のスロバキアと大まかに重なる地域)を含むハンガリー北西部を支配下に入れた。これ以降、4世紀にわたってハプスブルク家(ハプスブルコヴェ朝)がボヘミアとスロバキアを支配することになった。1583年、ルドルフ2世はウィーンからプラハに遷都し、プラハは芸術の都として再び繁栄期に入った。, 17世紀になると、ボヘミアはプロテスタントの拠点としてハプスブルク皇帝への抵抗の兆しを見せるようになる。1618年にプラハ市民が第二次プラハ窓外投擲事件を起こし、ヨーロッパ中を巻き込む三十年戦争が勃発した。ただし、ボヘミア諸侯は1620年の白山の戦いで皇帝軍に敗れて早期に鎮圧され、ボヘミアの自治要求運動は終わりを迎えた。1648年のプラハの戦いではスウェーデンがプラハを包囲、略奪し[34]、終戦後は神聖ローマ皇帝もウィーンへ再遷都してしまった。, 1740年、フリードリヒ2世率いるプロイセンがシュレージエン戦争でボヘミア北西部のシュレージエンを占領し、女王マリエ・テレジエは1742年に南部を除くシュレージエンの大部分の割譲を余儀なくされた。1756年、マリエ・テレジエはフランスやロシアと共にプロイセンに対する包囲網を結成して七年戦争を起こし、シュレージエン奪回を試みた。対するプロイセン軍はザクセンを占領した後1757年にボヘミアに侵攻、プラハの戦いでハプスブルク帝国軍を破り、一時プラハを占領した。プラハ市街の4分の1以上が破壊され、聖ヴィート大聖堂も大きな被害を受けた。コリンの戦いではハプスブルク帝国が勝利し、プロイセン軍をプラハおよびボヘミアから追い出したものの、シュレージエンの大部分は回復できなかった。, 1806年にナポレオン戦争により、神聖ローマ帝国が完全に解体されると、ボヘミア王国はオーストリア帝国に吸収され、ボヘミア王号はオーストリア皇帝の付加称号となった。1867年のアウスグライヒでオーストリア=ハンガリー帝国への改編がなされた際には、ボヘミア、モラヴィア、オーストリア領シュレージエンはオーストリア帝冠領(ツィスライタニエン)の一部となった。名目的にはボヘミア王国は1918年のオーストリア帝国崩壊まで存続し、その後チェコスロバキア共和国に改編された。, 現在のチェコ共和国はボヘミア、モラヴィア、チェコ領スレスコ(シレジア)といった地域で形成されており、現代でもボヘミア王国をシンボルとしている。共和国の国章には2尾の獅子があしらわれており、ボヘミア王国の赤白二色旗はチェコの国旗やプラハ城(現在は大統領府)にも見ることができる。, もともと公国だったボヘミア(Čechy)およびクラツコ伯領(Hrabství kladské)がボヘミア王国の中心である。イーガーラント(Chebsko)は1322年にボヘミア王ヤン・ルケンブルスキーが皇帝ルートヴィヒ4世を支援する見返りとして正式に獲得した。1348年、ローマ王を兼ねたカレル1世(カール4世)によって、以下の領邦を含むボヘミア王冠(Koruna česká)領が成立した。, カレル1世以前の13世紀、オタカル2世が以下の領邦をボヘミア王国に統合したが、その晩年にすべてハプスブルク家のルドルフ1世に奪われている。, ボヘミアは、ヨーロッパの中でも最初に工業化を果たした地域だった。12世紀初頭には、エルツ山地でスズや銀の採掘が始まっていた。, 1298年、クトナー・ホラ近郊にあったシトー会の修道院領内で銀が発見された[5][37][38]。ヴァーツラフ2世はこの銀山を国王の管理下に置き、1300年に王立造幣局を設置し、イタリア人技師の指導の下でプラハ・グロシュ銀貨を発行した[5][39]。また同年、ヴァーツラフ2世は鉱山法(イウス・レガーレ・モンタノールム)を制定した[23]。これは銀山管理の上での技術的問題や運営上の問題に特化した法律で[40]、ヨーロッパ最古の鉱山法の1つである[41]。クトナー・ホラはヨーロッパにおいては特に豊かな銀山の1つとなり、1300年から1340年の間には毎年20トンの銀が採掘された。この銀は王国の重要な財源となり[37]、クトナー・ホラには鉱夫と技術者以外に利潤を求める商人や職人も集まり、13世紀当時のクトナー・ホラで採掘された銀は、ヨーロッパで産出された銀のうちおよそ3分の1を占めていた[42]。, ボヘミア文化の発展は全体的に西欧に後れを取っていたが、13世紀に入ってボヘミア王国が国家として安定すると、ボヘミアの政治的・経済的な隆盛が芸術にも影響し始めた。この時代、数多くの修道院や都市、村が成立し、人が住んでいなかった地域への入植が進んだ。貴族が騎士文化を受容すると、ボヘミアにドイツのミンネザングや馬上槍試合、紋章や石造りの城塞といった新たな文化が流入した。またイフラヴァやストジーブロ、クトナー・ホラで銀山が発見されたことも文化の振興を後押しした[43]。.