先週の火曜日、ある高校へ取材に行ってきました。 その高校とは埼玉県にある昌平高校。 先日まで行われていた第93回高校サッカー選手権で初めて全国大会へと勝ち上がってきた新鋭校です。 実はこの昌平高校のサッカー部が本格的な強化へ着手したのは2007年とごく最近の事。 Copyright© 2003 - 2018 J SPORTS Corporation All Rights Reserved.   最初はサッカー部員も30人前後であり、 習志野高校時代に玉田圭司らとプレー。大学卒業後は青森山田中学校で教員になり、柴崎岳らを指導したのち昌平高校へ就任し、サッカー部を躍進させた藤島崇之監督に聞いた指導理念や選手を伸ばすため … 同期には今シーズンからセレッソ大阪へと新天地を求めた玉田圭司やガイナーレ鳥取などで活躍した吉野智行、 全国では初戦敗退となってしまったものの、そんなチームの中からただ1人大会優秀選手に選出され、 藤島監督は不動のボランチとして3年時には選手権にも出場。 藤島崇之監督が2007年に就任してから13年で昌平高校が飛躍的成長を遂げたことは、前回の記事で書きました。 短期間で右肩上がりの軌跡を描いた要因の1つになっているのが、2012年に発足した下部組織「FC LAVIDA(以下ラヴィーダ)」の存在です。 実はこの昌平高校のサッカー部が本格的な強化へ着手したのは2007年とごく最近の事。 転職の際、習志野高校時代の恩師である本田裕一郎監督(国士舘高校テクニカルアドバイザー)から送られてきたハガキにしたためられていた「できない理由を探さない」という言葉が琴線に触れ、それを肝に銘じながら現チームの指導に当たっているという藤島監督。 輩出ob   転職の際、習志野高校時代の恩師である本田裕一郎監督(国士舘高校テクニカルアドバイザー)から送られてきたハガキにしたためられていた「できない理由を探さない」という言葉が琴線に触れ、それを肝に銘じながら現チームの指導に当たっているという藤島監督。 そこにはサッカーへのLOVEがある!溢れる知識と独自のサッカー観であなたの「観るサッカー」に彩りをそえちゃいます!.       名前を連ねている柴崎岳も指導するなど、その手腕は高く評価されていた中で、   サッカー部の本格強化と同時に同校へ招き入れられ、チームを一気に県内有数の強豪へと成長させた指揮官は まだ金曜の深夜と土曜の朝に再放送がありますので、お時間ある方は是非ご覧ください!   スタジアムから土のグラウンドのピッチ横までジャンルを問わないサッカー観戦と、テレビ前でのサッカーウォッチングツアーはお勤めの会社への忠誠心だけではないはず!   No reproduction or republication without written permission. 70年代の国内を代表する名MFで、正直かなりの有名人です。   所属リーグ 関東プリンスリーグ、埼玉県1部リーグ. 国内外問わずのサッカー全般に関する知識はハンパなく、gol.界隈では「博士」の称号を得ている知識人。 キーワード:判断力吉野智行昌平高校本田裕一郎柴崎岳玉田圭司習志野高校考える習慣自律心藤島崇之青森山田高校サッカー選手権, 今冬の高校サッカー選手権で初の8強入りを果たした埼玉の強豪・昌平高校サッカー部。この10年ほどで一気に力をつけ、今や埼玉県内だけでなく全国でもその名を轟かせる強豪校に飛躍しました。, そんな昌平高校サッカー部を躍進させた藤島崇之監督に、指導理念や選手を伸ばすための取り組みについて考えを伺いました。(取材・文:元川悦子), 後編:昌平高校を全国レベルに引き上げた藤島崇之監督が行う技術と思考力ある選手育成の裏にある「組織」の存在 >>, 2020年1月の全国高校サッカー選手権大会で初のベスト8入りを果たした埼玉県の昌平高校。チームを率いる藤島崇之監督(40)は2007年の就任からわずか13年で同校を全国屈指の強豪校へと引き上げました。近年は東京五輪代表候補のボランチ・松本泰志(福岡)、彼と同期のテクニシャン・針谷岳晃(磐田)らJリーガーを続々と輩出。急激な躍進ぶりは全国からも注目を集めています。, 日本鋼管で活躍した元日本代表の信雄氏を父に持つ藤島監督は、習志野高校時代に玉田圭司(長崎)や吉野智行(鳥取強化部長)ら同学年のタレントとともにプレーしていました。順天堂大学卒業後は青森山田中学校で教員になり、柴崎岳(ラコルーニャ)らを指導。4年後に昌平へと赴いています。, 転職の際、習志野高校時代の恩師である本田裕一郎監督(国士舘高校テクニカルアドバイザー)から送られてきたハガキにしたためられていた「できない理由を探さない」という言葉が琴線に触れ、それを肝に銘じながら現チームの指導に当たっているという藤島監督。, 「僕が赴任して最初に掲げたのは『日本一』。当時は部員も20人程度しかいなくて、東部支部予選敗退くらいのレベルでしたが、日本一に相応しいチームになるために何ができるかを第一に考えました。学校や先生、仲間や地域に愛され、応援されるのがいいチーム。『挨拶や礼儀正しい言動や振る舞いといった基本的なことをしっかりやって、サッカーしかできない人間にならないようにしよう』と選手には伝えました」, 同時に高校生の本分である学習面も重視しており、文武両道も目指す姿勢も明確にしました。, 「勉強とサッカーの2つをやろうとすれば、効率よく物事を進めたり、時間を管理する力が求められます。課外学習や趣味などやるべきことが3つ4つと増えていけば、自分をマネージメントする能力がより一層、問われます。そのために自分なりに工夫し、的確な判断をしていくことが非常に重要。学生時代は学校側がカリキュラムを決めてくれるし、練習メニューも監督が与えてくれますけど、社会に出れば全てが自分の判断になる。高校時代をその準備期間と捉えてもらえるように、僕はアプローチをしてきたつもりです」, こういった方針の下、チーム強化に取り組み始めましたが、藤島監督は選手に口うるさく指示することはせず、できるだけ自主性や自律心に任せるスタンスを取っています。試合ではあえて戦い方を決めずに入り、選手自身の状況判断に委ね、積極的なトライやチャレンジを力強く後押ししたと教えてくれました。, 「ユース年代はチャレンジの場。ジュニアユース時代の所属先で『なぜパスをしないんだ』と怒られてウチに来たというドリブラーの選手がいましたが、僕は長所を生かそうとするチャレンジは大いに歓迎。むしろ『なぜ積極的に仕掛けないんだ』と言いますし、失敗しても大丈夫だと思わせる環境を作ろうと心掛けてやってきました。, 習志野時代に玉田のスーパーな左足のドリブル突破を見て『ファウルして止めるしかない』と思いましたけど、ああいう尖ったストロングを持つ選手の集合体がサッカー。『昌平の選手はうまい』とよく言ってもらいますが、みんなで助け合い、サポートし合うから、そう見えるんだと思います。やはり長所を伸ばしてあげる方が選手は大きく成長する。僕はそう確信しています」, 遠征や大会での行動についても、起床時間・消灯時間などを事細かく定めず、自らの判断に任せているといいます。その方が選手のベストパフォーマンス発揮につながるという藤島監督の考えがあるからです。, 「2年前の選手権埼玉県準決勝の時、2時間半前に会場入りしたら、ミーティングが始まるまで教科書を開いて勉強をしていた選手がいましたね。それも彼のルーティン。一番いい状態になれるサイクルを自ら見つけてくれればいいと僕は思っています。, 寮も外出時間や門限など多少の規律は作っていますが、オフの日にモラルの範囲内でどこへ行くのも自由。ガールフレンドを作ることも規制していません。それでパフォーマンスが下がるなら苦言を呈しますが、自分の行動に責任を持ってもらえるなら問題ない。何事も判断ですから、考える習慣を身に着けてもらうことがピッチ上の一挙手一投足にもプラスに働く。それが僕の目指すところなんです」, 藤島監督は今回のコロナ禍でよりそういう気持ちが強くなったといいます。3月2日から全国一斉休校になってから、昌平高校は部活動を全面的に休止。6月15日の再開まで3か月以上を要することになりました。その間、オンライントレーニングなども実施したそうですが、基本的な練習は選手自身に任せざるを得なかったと振り返ります。, 「『自覚ある行動を取りなさい』と声掛けはしましたが、指導者としてやれることに限界がある。だからこそ、より選手たちの自律心や判断力を伸ばすように仕向けなければいけないと痛感しました」と藤島監督は語ります。, 「この3か月間で選手たちは社会人になったような感覚を持ったと思います。彼らなりに勉強やサッカー、将来の進路などいろんなことに思いを巡らせて、グラウンドに戻ってきたはず。以降は通常通りの活動をしていますし、僕からは『どうだった?』『何してた?』くらいしか聞きませんけど、意識の変化は少なからず感じ取れます。, こうした中で再認識したのは、選手は大人と話すことで人間的に成長するということ。口に出すことで考えを整理することもできます。選手権などの大会の際、取材に来られた記者のみなさんに『選手の考えを引き出してください』とよく声をかけていますが、短期間で彼らの自己表現力はグングン上がります。実際にそういう選手を数多く見てきました。, 言葉での説明は社会に出てからもつねに求められる。その重要性も踏まえながら、選手と向き合っていこうと思います。彼らをサッカー選手として、高校生としてさらに一段階飛躍させられるように頑張ります」, 2020年前半戦の公式戦がなくなった彼らにとって、ここからが本当の戦いです。9月から始まる高円宮杯JFA・Uー18サッカープレミアリーグ2020関東、その後の選手権に向けて、彼らのチャレンジは続いていくのです。, 昌平中学・高等学校サッカー部監督習志野高校時代は世代を代表する名選手として活躍。元日本代表FW玉田圭司と同期で、高校3年生時の選手権では全国大会まで勝ち進んだ。順天堂大卒業後は青森山田中学で指導者としてのキャリアをスタートさせ柴崎岳らを指導。2007年に昌平高校に着任。14年に選手権に初出場。第98回(2019年度)大会では準々決勝まで勝ち進んだ。16年には18年にはインターハイで全国ベスト4入りなど昌平高校を強豪校に成長させた。. そんな藤島監督に密着する形でJ SPORTSの「Foot!」が昌平高校特集を放送しました。   その高校とは埼玉県にある昌平高校。 新たなチャレンジを求めて縁もゆかりもない埼玉の地へ。 まず、現在同校のコーチを務める父親の藤島信雄氏は60を超える国際Aマッチ出場を経験している元日本代表選手。 そのダイエット話や剣道話が飛び出した当時を笑って話すのは昌平高校を率いる藤島崇之監督。 copyright(c) 2010-2020 E-3 Inc. all rights reserved.   「青春の挑戦者」4年に1度のシーズンがやってきた!2017-2018ウインタースポーツ編, Pre-match Words ~名古屋グランパス・田口泰士編~(2016年10月21日掲載), Pre-match Words ~名古屋グランパス・小川佳純編~(2016年9月30日掲載), Pre-match Words ~柏レイソル・栗澤僚一編~(2016年9月23日掲載), Pre-match Words ~サガン鳥栖・早坂良太編~(2016年9月16日掲載), Pre-match Words ~川崎フロンターレ・谷口彰悟編~(2016年9月9日掲載). なかなか興味深いキャリアを誇っています。       藤島崇之監督が2007年に就任してから13年で昌平高校が飛躍的成長を遂げたことは、前回の記事で書きました。 短期間で右肩上がりの軌跡を描いた要因の1つになっているのが、2012年に発足した下部組織「FC LAVIDA(以下ラヴィーダ)」の存在です。   欧州遠征にも参加するなど、相当なプレーヤーだったようです。 順天堂大卒業後は青森山田中学に赴任し、今回のアジアカップを戦う日本代表に a :藤島くん(藤島崇之・昌平高校監督)もいましたね。 q:藤島監督には番組で一度密着したんですよ。 a :村松くん(村松明人・昌平高校コーチ=藤島監督の習志野時代の同級生)もやっています? q:コーチでやっています。関さんもコーチですね。   J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。, Q:ここからはキャリアのお話を聞かせて下さい。まず、Wikipediaには「6歳からサッカーを始められた」という記述がありますが、小学1年からサッカーを始められたんですね。, A:たぶんそうですね。幼稚園でもやっていたと思うんですけど、チームに入ってとかではなくて、幼稚園で遊びでやっていただけなので、小学校1年生で柏イーグルスに入ったのが6歳ということだと思うんですよね。2つ上に兄がいて、兄も既にサッカーをしていたので、「僕もやりたい」ということで始めました。幼稚園の時にイーグルスの人が、スクールみたいな感じで教えに来るようなことがあったんですよ。それで、その人の影響でイーグルスに入ったんだと思います。住んでいたのは松戸だったんですけど、わざわざ北柏まで通っていましたからね。, A:そうですね。北柏からバスが送迎してくれていたんですけど、やっぱりちょっと遠かったので(笑)、小学4年の時に地元の新松戸SCというチームに移ったんです。それが僕にとっては良かったと思うんですよね。新松戸SCのチームメイトもみんな上手かったですし、松戸選抜にはヴェルディにスカウトされるような人がいたりとか、レベルが高かったんですよ。, それで松戸選抜に行った時に、元々いた選手がレギュラーで、自分はレギュラーになれなくて、その選手から「ポジションを奪おう」という所から自分の本当のサッカーがスタートしたと僕は思っていて、それまではちょっと遊び感覚でサッカーをやっていた所があった中で、「コイツに負けられない」とか「コイツからポジションを奪ってやろう」なんて思ったのは初めてだったと思うんですよね。サブから這い上がって行くというような、そういう気持ちがあの時点で経験できたのは良かったですね。, A:僕らの代にはいないですね。みんな結構良い所までは行ったんですけど。その下の代には結構いるんですよ。原一樹(北九州)とか大久保裕樹(千葉)とか、市船(市立船橋)には松戸出身が多かったですね。, A:そうですね。今でもそうだと思いますけど、中学の時の松戸選抜はレイソルのジュニアユースに普通に勝ってましたからね。まだ高体連がちょっと強い頃で、市船に行った選手もいますし、僕みたいに習志野に行った選手もいますし、割と良い所に行ってサッカーをやっていた選手がたくさんいたので、レベルは低くなかったと思います。, A:何回かは行ったと思うんですけど、県選抜というかトレセンみたいな感じで、自分の中では「サッカーをやった」という感じがあまりなかったんですよね。「真剣になってやるという感じではないな」と感じていて、自分の中では松戸でやっていた時期というのが大きく残っていますね。, Q:栗澤選手の代の千葉県は結構Jリーガーを輩出していると思いますが、小学校の頃のスーパースターは誰だったんですか?, A:永井俊太(現・柏U-18監督)は有名でしたよ。あとは誰だろうなあ... 中学校の頃はジェフも結構強かったですよね。阿部(勇樹・浦和)さんが1個上にいて。だから、高校の頃も国体は強かったですよ。でも、全国で2連覇ぐらいしていたのに、僕らの代は全国に出られなくて(笑), A:市船がオランダ遠征から帰ってきたばかりで、周りとのコンビネーションが合わなかったんだったと思います。市船以外組はこっちで練習をやっていて、市船組が帰ってきて一緒にやったんですけどダメでした。中澤聡太(C大阪)もいましたけど、その時のチームは市船メインでしたよね。, Q:中学時代は新松戸北中学校サッカー部ですよね。当時の千葉にもクラブチームはいくつかあったと思いますけど、普通にサッカー部に入った感じですか?, A:でも、当時の松戸選抜の監督が「中学校のサッカー部でも成長できる」みたいなことを言っていた覚えがあるんですよね。今でも覚えているんですけど、みんな呼ばれて「別にオマエら次第で成長できるだろう」みたいに言われた記憶があるんです。だから、中学がバラバラになっても選抜で集まったりとか対戦したりとかして、そこで「仲間と対戦できる」という喜びもありましたね。まあ自分が落ちちゃっただけなんですけど(笑), A:いやあ、そんな感じではなかったと思うんですよね。親同士の話し合いとかで受けたんですけど、お金だけ取られたのかもしれないです(笑) 結構受けに来ている人がいましたからね。1次、2次とかあって。, A:人数は今よりももっといたんじゃないですかね。今はもうそんなに受けないですよね。仕組みもみんなわかっているでしょうし。当時はそこまでレイソルのジュニアユースも有名ではなかったですから。でも、その中学校時代はキャプテンをやらせてもらっていたので、自分が練習メニューを考えたりもしていました。そういう中での"なにくそ精神"が今の自分を創っているというか、決してエリート街道を歩んできた訳ではないので、高校も全国大会とかも出ていないですし、当時は嫌でしたけど、そういう経験も今から考えると凄く良い経験だったのかなと思いますね。中学校も頑張っていたからこそ、習志野高校への推薦ももらえましたしね。実際は「市船に行ったらどうだったかな」とか思ったこともありますけど、たぶん「走りたくない」みたいな感じで習志野に行ったと思うんですよね。, A:本田先生がテクニックを重視するというのはわかっていたので、それで行ったんですけど、行ったら行ったで中学の時よりレベルが一気に上がるというか、2学年上の人たちにはプロに行く人たちもいましたし、玉田(圭司・C大阪)くんなんてスーパースターでしたし、やっぱりそこで挫折とは言わないですけど、さらに高い壁を見せ付けられましたよね。, Q:習志野と市船のお話が出ましたけど、高校に進学する時にはいくつも選択肢があったんですね?, A:そうですね。千葉県でもその時は専修大松戸とか、市船とか習志野には声を掛けていただきました。たぶん「松戸の中で何人か良い選手がいたら」という感じで、市船にも3人ぐらい行きましたし、習志野には2人で行きました。, A:たぶんそうですね。でも、どこが良いかは行ってみないとわからないですよね。実際僕は習志野を選んで正解でしたから。, Q:先ほどもちょっとおっしゃいましたけど、実際に入学した習志野はどうだったんですか?「コレはちょっとヤバいな。レベル高過ぎだな」という感じでしたか?, A:ヤバかったですけど、同年代の中では凄いヤツもいた中で全然やって行けるという感じはありました。ただ、その上を目指すということになれば、「このレベルまでやらなきゃいけないんだ」という先輩たちがいたので、それは衝撃的ではありましたよね。目の前で見たことがないレベルというか。そういう中でもがき苦しんだことで「自分も成長できる」と思っていたので、「ここでの3年間は凄い大事だな」と思っていました。, Q:玉田、吉野智行(現・鳥取強化部)、関倫孝(水戸、札幌ほか)、菅野拓真(甲府、湘南ほか)が2個上ですよね。, A:村松くん(村松明人・昌平高校コーチ=藤島監督の習志野時代の同級生)もやっています?, Q:コーチでやっています。関さんもコーチですね。今年はインターハイ全国ベスト4ですから。, A:藤島くんは唯一本田先生に意見をできていた人ですからね。確か何かあった時に「みんな必要な選手だから、試合に出してやってくれ」みたいに、頭を下げに行ったんだと思うんですよね。, A:そうなんですよ。凄いんですよ。なかなか高校生が監督に意見なんてできないじゃないですか。でも、何か言われて自分の意見を言えるというのは凄いなあと。やっぱりそういう人が良い監督になるんですね(笑) 相当自分を持っているというか、ボランチをやっていたので頭も良いと思いますし、上手かったですし、その思い出は強烈ですね。, Q:1年生の時は選手権で全国に出ましたけど、試合にも出ているじゃないですか。それって結構凄くないですか?.   A:なぜかメンバーに入れてもらえたんです(笑) たぶん練習試合とかの調子が良かったんだと思うんですよ。凄く良い経験をさせてもらえました。ただ、1回戦負けという... A:そうですね。全然ゲームに入れていなかったですよね。だって、トップチームの試合になんて出ていなかったですから。, A:出ていないんですよ。遠征にも帯同していなかったですし、システムの形とかもよくわかっていないですよね。「全部個人技だろ」みたいな(笑) だから、試合に出たことは覚えているんですけど、何をやったかまではいっぱいいっぱいで全然覚えていないんです。, A:はい。ただ単に「出たな」いう感じです(笑) でも、あの雰囲気というのは覚えていますし、あそこで試合に出られたというのは2年生や3年生になった時に、自分の中で自信になっていたと思うんですよね。それは大きかったです。, A:そうですね。左サイドハーフだったと思います。その時も本間(勲・栃木)くんがいたり、町田(忠道・柏、京都ほか)くんがいたり、そういう先輩がいたのでレベルは高かったですけど、やっぱり勝てるチームではなかったですよね。選手個人としては良いかもしれないですけど、今から考えるとチームとしての勝負弱さはありましたよね。強いのは市船みたいな。ああいう強さはなかったですよね。, A:たぶん西野(朗・元柏監督)さんは町田くんを見に来ていて、そこで「あのキーパーいいじゃん。誰なんだ?」ってなったらしくて。「オレらのおかげか」みたいな感じですよ(笑) それでシミケンさんがプロになったって聞きました。, A:PK戦に行くまでにウチにはチャンスがありましたし、それも何本も止めていますしね。実はその年はインターハイ予選で早めに市船と当たったんですよ。ベスト8ぐらいで。その冬に全国優勝する市船だったので、羽田(憲司・鹿島コーチ)さんとか原竜太さん(名古屋、湘南ほか)とか、藤沼(清登)さんとかいたチームで、その市船ともPK戦まで行ったんですけど、その時にスペインからコーチが来たんですよ。幸谷(秀巳・元アルテ高崎監督)さんって人が。, A:スペイン式なのかわからないですけど、「奪ったらすぐサイドチェンジだ」とか、「クロスは速いボールを上げろ」とか徹底してやっていたら、そのインターハイ予選で市船とPK戦まで行ったんですよ。理論派というか、自分の中でのサッカー観がしっかりしている方だったのでうまくハマったんです。, Q:でも、確かに高校生で"スペイン帰りの指導者"とか聞いたら、ちょっと変な説得力はありそうですね(笑), A:あるんですよ。それでちょっとずつ良い感触は感じていて。でも、そんなに長くはいなかったですけど(笑)、そんな経験もありましたね。3年生の時の選手権予選は闘莉王(名古屋)にFKを決められて。, A:決勝です。市船が推薦で全国出場が決まっていた年です。だから、高校時代はそんなに良い所まで行けなかったんですよね。1年の時の選手権が唯一の全国で。それ以外は「うーん...」って感じですかね。, Q:本田先生ですから当然技術を大切にする練習が多かったと思いますけど、習志野での3年間というのはご自身のベースを創る上でも、大切な3年間という感じなんですよね。, A:もちろんそうですね。朝練からボールを使ったドリブルやリフティング系が多かったので、トラップも含めてボールタッチが上手くなるというか、そういう所はだいぶ鍛えられたなという印象はありますよね。"走力"というより、"足下"というのが一番身に付いた時期なのかなと思います。, Q:習志野の中心選手と言えば、当然千葉の中でもかなりのステータスがあったと思うんですけど、大学は流通経済大に行く訳じゃないですか。そのあたりの経緯を教えていただけますか?, A:本田先生が順天堂大なので、僕も順天堂大(以下、順大)を受けたんですけど、セレクションで落ちてしまったんです。ウチらは全国大会での実績がないので推薦枠が取れなくて、そこから急に「勉強しろ」って言われてもという感じで。ちょっとしましたけど(笑), A:ちょっとしたんですよ(笑) でも、やっぱりちょっとそれは難しくて、そんな時に本田先生が中野監督(中野雄二・流通経済大監督)を紹介して下さったんです。でも、「『行きます』とかそういうことは言わなくていいから、とりあえず見てこい」という感じだったので、見学へ行くことにしたんですけど、まず「どこにある学校なんだろう?」と。「佐貫ってどこ?取手から先も電車が走ってたんだ」みたいな感じだったんですよ(笑), それで流通経済大に行って、中野監督と話している内に、その場で「もう行きます」という感じになったんですよね。しかも当時、同じ代に順大を落ちたヤツがいたんですよ。中島俊一って帝京から来ていて、今はJFLの流通経済大FCの監督をやっているんですけど、もう1人前橋育英から来ていたヤツも順大を落ちていて、たぶん"落ちた組"で練習を見に行ったんですよ。それで話を聞いている中で、大学は自分次第というか、言ってしまえばもう大人になる時期な訳じゃないですか。だから「ここでやれれば上手くなるし、サボろうと思えばいくらでもサボれる」ということを考えたと思うんですよね。中野さんも「これから強くしていきたい」という想いを持ってらっしゃいましたし、そういう熱意を聞いて「ああ、これは自分次第だな」と思って即決したんだと思うんですよね。「自分がここで努力さえすれば、この監督とだったら絶対にプロを目指せるんじゃないか」と、「流経を強くして行ったら注目されるんじゃないか」と、そういう風に考えて「行きます」と即決しました。, これは一番大きな出会いですね。順大に落ちて、そこでまた新しい方と出会ってという所ですから。でも、即決して帰ってきたら、習志野のコーチの方から電話が掛かってきて、「日大(日本大)に行けるよ」と(笑) 「日大に行けるけどどうする?」と言われたんですけど、「もう返事してきたので断って下さい」と。だから、あの場で返事をしていなかったら、たぶん日大に行っていたと思うんですよ。日大は当時関東2部でしたし、流経は都県リーグでしたから。, A:そうですね。でも、だいたいそれまでも自分が直感で動いてきた時には「ハズレがない」と思っていたので、そういった自分の閃きや直感は「大事にしていきたいな」というのは、その時から思っていましたね。, Q:ちなみに流経に決める前までの"直観"でいうと、大きなものはどういうものがあったんですか?, A:習志野に決めた時もそうですね。結局は自分で決めたので。あとはサッカーを続けるか、続けないかというのもそうです。順大に落ちた時に「続けるか、続けないか」というのもそうですし、そこで諦めるのが嫌だったから「続ける」と決めて。親とも「どうするのか」という話をしたと思うんですよね。自分に嘘をつきながら続けるのも嫌ですし、そういう気持ちでまた流経で中野さんと出会えたというのは大きなことですよね。, A:"つぼ八"では食べてません(笑) まだ、部員も80人くらいでしたけど、食堂でちゃんと食べてました。食事当番もいましたね。, Q:このインタビューシリーズで大宮の塩田(仁史)選手に流経時代のお話を聞いた時に、当時は中野監督が"つぼ八"の事務所で奥様と一緒に朝ご飯を作ってくれて、みんなで山の上にある学校にあった寮から下りて行って、それを食べてから学校に行っていた、みたいなことをおっしゃっていたんですよね。, A:まだ僕らが入ったような寮ができていなかったんじゃないですか。でも、全寮制になったことでサッカー部を辞めた人も結構いたんですよ。「寮生活はキツイな」みたいな。1年生の時はそういう感じでしたね。それでも阿部吉朗さん(FC東京、湘南ほか)は黙々と練習していましたし、阿部さんがいたというのは一番大きかったんじゃないですか。流経のプロ第1号ですし、「ああいう風にやればプロに行ける」というのを僕らに示した人なので。"阿部ロード"っていうのがあったんですよ。黙々と練習後に走るので(笑), A:あそこまで居残り練習をするとか、ああいう風に純粋にサッカーを楽しんで、サッカーを考えてということをしている先輩だったので、本当にああいう人が身近にいてくれて良かったなと思います。だから、しょっちゅうつるんでいましたよ。部屋に行って「どっか行きましょうよ」とか。それで特別指定選手としてFC東京の試合で点を取りましたし、そういうことは自分の中でも凄く励みになりましたよね。, 1年生の時は都県リーグを勝ち抜いて関東2部に上がったんですけど、その時の都県リーグには早稲田とか専修もいて、早稲田には千葉のGMの(高橋)悠太くんとか、同い年の植草(裕樹・清水)とかいたんですよね。1年の時は天皇杯にも出ましたし、プロのチームとも練習試合とかやるじゃないですか。そういう所で高校とは違う感覚というか、高校時代には感じられなかったポジティブな要素もあって、体を当てられてもよろけないとか、「あ、プロのスピードに追い付いてきたな」とか、そういう所で感触は得ていきましたよね。, A:そうですね。当時の2部には中央大の中村憲剛さん(川崎)がいたんですよ。明治大には戸川健太さん(福島)もいてレベルも高かったので、1部には上がれなかったですけど、3年の時に優勝して上がったんです。だから、今から考えると凄いですよね(笑), A:初めてお会いしたあの時に、中野さんと「関東1部まで上がって、1部で優勝したい」と話をしていた、その"1部"という土俵までは行ったので、単純にそれはやっぱり嬉しかったですね。でも、本当に遊ばなかったですから。実家に帰るとき以外は龍ケ崎から出ないんじゃないかというぐらい。学校も1,2年生の時に頑張れば、授業数も少なくなってくるので。, A:一応そうです。僕の代からできたんですよ。だから、ちょっと卒業しやすいんじゃないかということで(笑) 初めて作った学部だから、学校側もちゃんと卒業させたいはずじゃないですか。それで選んだんですけどね(笑) 阿部さんなんて、1回授業に出ていたら「アレ、凄い珍しい人がいる」みたいになったらしいんですけど、結局授業を受けに行ったんじゃなくて、先生に単位のお願いをしに行っただけだったという(笑) そういう学校生活というか、寮生活も面白かったですね。, A:レイソルが大好きで、今もゴール裏で先頭に立って応援している1個上の先輩で、僕の28番のユニフォームを着てくれているサポーターの人がいるんですけど、親の何かの都合だとか言って練習を休んだんです。それで練習が終わって、僕らがレイソルの札幌でのアウェイゲームを見ていたんですよ。13時ぐらいにキックオフされた試合で。そうしたらその人が先頭に立って応援している姿が、テレビに映っていたんですよ(笑) 「ほらな」「アイツ絶対コレだと思ったよ」って。先輩たちも「はい、アイツぶっ飛ばす」みたいな(笑) 電話しても全然出ないですし、「何サボってんだよ、アイツ」って。テレビに映っちゃったんですよね(笑), Q:ガチのサポーターなんですね(笑) でも、そこまでガチのサポーターの人が体育会でサッカーをやるって珍しくないですか?, A:岡部さんも1個上で、あの人もサッカー部で練習もやっていたんですけど、練習試合で審判をやっている中で、審判としてどこかの試合に派遣されるような機会ってあるじゃないですか。そういうのもずっとやっていた方で、いつの間にか審判の方に進んでいくような感じで、そのサポーターの人もそっち系だったんですよね。ゴールキーパーだったんですけど、全然才能なかったんで(笑), A:まあまあ(笑) 面白いキャラの人だったので。でも、寮生活は本当に面白いんですよ。書けないことばっかだと思いますけど(笑) まだその時は自由な方だったので、最近の話を聞くと逆に「信じられないな」と思いますけどね。やっぱりもう注目されるチームですし、ちゃんと"点呼"とかも取るみたいですし。, Q:この間、日立台で熊本がホームゲームをやった時に、流経の子たちがボランティアで来ていましたけど、本当に振る舞いが素晴らしかったですよ。, A:それは凄いことですよね。でも、もちろん僕も流経に行ったからこそプロになれたというか、その想いは強いので、「人生何があるかわからないな」と思いますよね。同期でも中島は名古屋に行きましたし、杉本(恵太)も名古屋に行って、冨山(達行)も湘南に行きましたからね。だから、高校生も諦めないことが大事だなと思いますよ。大学に行ったら、大学でやったことの強みというのが見つかると思いますし、大学に行って自分を磨くというのはアリだと思います。「大学に行ってもさらにレベルアップできる」と思って欲しいですよね。, Q:チームが上昇気流に乗っているタイミングというのはあったと思うんですけど、それでも都県リーグからスタートした大学生活で、4年間頑張ってJリーガーになるというのは、相当な意志の強さがないとできないことだと思いますけどね。, A:そうですね。でも、周りの人のおかげです。中野さんにも「そんなんじゃプロにいけないぞ」とか色々と厳しく言ってもらえましたし、常に周りの人に恵まれたというか、阿部さんみたいな人やシオさん(塩田仁史)みたいな存在の人もいましたし、やっぱり流経の周りの仲間が諦めさせないでいてくれたというのは大きいかもしれないですね。また仲間と一緒に何かを達成する喜びだとか、そういうことで日々成長していくというか、そういう4年間だったと思いますね。, A:強いですよ。やっぱり今でも湯澤(聖人)みたいなヤツでも、流経出身だと言われたらかわいく見えちゃいますし(笑), A:あんなヤツでもね(笑) でも、本当に常に気にはなりますね。調子が悪いと大平さん(大平正軌コーチ)に「練習がダメなんじゃないですか?」とか「厳しくないんじゃないですか?」とか言っちゃいますし(笑) だから、今の流経には大学サッカーを引っ張っていって欲しいというか、常に上位にいて欲しいですし、それでOBたちも頑張れるというか、良い刺激を与え合っていますよね。宇賀神(友弥・浦和)とか武藤(雄樹・浦和)とか頑張っていますし、今はシオさんも試合に出ていますし、そういうのも自分の刺激になりますよね。, この間"流経会"をやったんですよ。宇賀神やシオさんが主催という感じで、(鎌田)次郎も湯澤も行きましたし、江坂(任・大宮)も来ましたし。そういうのも刺激になりましたね。だから、"流経"って名前を聞くと今なら「ああ、サッカーの」となりますけど、当時はそういう感じではなかったので、やっぱり本当に流通経済大学には頑張ってほしいですね。サッカー部は特にですけど。, A:夢ですか?夢はずっとサッカーに関わっていきたいですね。自分の中では指導者をやりたいと思っているので、選手としてはもちろん「優勝したい」という想いは常にありますけど、指導者として「もっと選手を上手くさせたい」とか「こういうアプローチでもっと上手くなるのかな」というのは、現役として練習をやりながらでも「何かの助けになるのかな」と思っています。, 指導者としてさらに頂点を目指したいというか、だからそれが「ずっとサッカーに携わっていきたい」という想いに繋がると思うので、自分もそろそろそういうことを考えないといけない年齢でもありますし、そうなった時に今の内から考えておけばスムーズに移行できると思うので、そういった視点でも練習をやりながら感じた雰囲気を大事にしていきたいなと思っています。, Q:本田先生も中野監督も、それこそプロになってからの監督も含めて、結構インパクトのある監督ばかりに指導されていますよね(笑), A:ああ(笑) でも、本当に1人1人違う考えを持っていて、それは「本当に面白いな」と思っていて、色々な監督を照らし合わせて「あの時はこうだったけど、こういう考えもあるんだな」という所で、これが今後の自分に相当生きてくるというか、また色々な人と出会って接していくことは、本当に凄く大事だなと思っています。それをどう生かせるのかはまだわからないですけど、そこに一緒にいて、そこで一緒にやったという時間は絶対にプラスになりますから、そこで感じたことというのは大事にしていきたいですね。, 流通経済大では県リーグから関東1部までの昇格を経験し、4年時に特別指定選手としてJリーグデビューを果たしたFC東京へ2005年に正式加入。2008年途中からプレーしている柏では、J1を筆頭に数々のタイトル獲得に貢献。現在もチーム最年長として活躍中。, J SPORTS フットボール公式Twitterをフォローしてフットボールの最新情報をチェック!. 先週の火曜日、ある高校へ取材に行ってきました。 第98回全国高校サッカー選手権の出場校も全て決まり、冬の選手権が始まろうとしています。2019年12月30日より開幕し、2020年1月13日に決勝戦が行われるわけですが…出場48校の詳細を調べてみましたよ!今回は埼玉県代表の昌平高校です。出 それからわずか8年で埼玉県を制し、全国大会へ進出するまでに劇的な変貌を遂げたのです。   入試情報 詳細はこちら.   『中学時代は剣道部でした』という生徒もいました」と監督。   女の衝撃の一言。その理由は…, 辛かった日々…しつけと称して暴力も当たり前な毒親に育てられて, 「えっ!?」ご近所さんからの出産祝いにびっくり! その中身はなんと…, 昌平高校を全国レベルに引き上げた藤島崇之監督が行う技術と思….       「当時は『なんでサッカー部に入ったの?』と聞いたら『ダイエットです』と答える生徒や、 先日まで行われていた第93回高校サッカー選手権で初めて全国大会へと勝ち上がってきた新鋭校です。 藤島崇之(ふじしま・たかゆき)1980年4月12日生まれ。 高校時代は習志野でプレーし、玉田圭司(長崎)らと高校サッカー選手権に出場。 順天堂大に進み、卒業後は青森山田中などで監督を歴任した。 2007年に昌平高の監督に就任し、14年に選手権に初出場。 そこでほとんどゼロに近い状態から、チームをここまでにしたという力は多くの人の認める所となっています。           監督:藤島 崇之 コーチングスタッフ 藤島 信雄 森田 光哉 鈴木琢朗 村松 明人 秋丸 和仁 加藤 大地 日野口 廉 関 隆倫 河合 拓人 石橋 直希 持山 勉. ただ、藤島監督自体も出身は千葉の名門・習志野高校。 写真は昌平高校の練習風景です。, サッカー界のオモシロご長寿番組「Foot!」でディレクターを務めた後、制作部プロデューサーへ(昇進か?)。 「コントロール・オリエンタード」を身につけるトレーニング【グローバル・メソッドの指導実践④】, 「1人1人が自分を成長させるプロデューサー」U-16日本代表・森山佳郎監督が語る伸びる選手と伸びない選手の違い, 自ら要求できる槙野智章・久保建英のような選手を育てるために、指導者や保護者に求められること U-16日本代表・森山佳郎監督インタビュー, 昌平高校を全国レベルに引き上げた藤島崇之監督が行う技術と思考力ある選手育成の裏にある「組織」の存在, プロになれるのはほんの一握り。だからこそ学生時代に身につけておくべきこと 柴崎岳選手インタビュー, 「両親は自分の取り組みや考え方を尊重してくれた」日本代表 柴崎岳選手が振り返る両親のかかわり方, 保護者のキャラも見られている! 川崎フロンターレのスカウト担当が語る「いい選手」の保護者の特徴, ボールホルダーの選択肢を狭めるプレスのかけ方/ジュニア年代から理解しておきたい守備の基本トレーニング, パフォーマンスを上げる時に気を付けたい「悪い癖をつけるトレーニング」になっていませんか?, Jクラブのスカウトが見るポイントは? 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