記事執筆依頼、取材依頼もドシドシとお待ちしております!. ID: 8eVSsVZJts, 2020/05/18(月) 21:07:27 ID: +d5szPe8Nf, 2019/11/22(金) 19:40:05 近畿日本鉄道株式会社(きんきにっぽんてつどう、英: Kintetsu Railway Co., Ltd. )は、大阪府・奈良県・京都府・三重県・愛知県の2府3県 で鉄道事業を行う会社である。 日本の大手私鉄の一つであり、JRグループを除く日本の鉄道事業者(民営鉄道)の中では最長の路線網を持つ。 "「まもなく、丹波橋、丹波橋です。」"We will soon make a stop at Tambabashi: station number B7. 翌年も西武、オリックスと三つ巴の熾烈極まりない優勝争いを繰り広げ、ラルフ・ブライアントの4打数連続本塁打などで西武を打ち砕き129試合目(全130試合)で3度目の優勝を決めた。 NLPプラクティショナーという心理学系の資格を持つおっさんブロガー。ワインとサッカーと下世話な話が三度の飯より大好物。 ", 方向幕 … 旧国名のみ小さく表記したものに順次置き換わっているが、旧来の省略したままのものも多く見られる。会社名は省略する。英語表示も旧国名をそのまま表示。, 駅名標、駅舎看板、方向幕の一部には3通りの「河内○○」の表記が存在するので、その区別を例を挙げて説明する。, 2 のパターンについては旧・天王寺営業局管内特有の表記であったが、同営業局が上本町営業局と統合され大阪輸送統括部となったこともあり、徐々に 3 のパターンへの移行が進められている。, 車内放送に関しては、上記 1 に限り「次は、河内長野、河内長野です」、到着前は「ご乗車ありがとうございました。河内長野、河内長野、終点です」となるが、2と3に関しては「次は、河内○○、○○です」となる。, 小阪車庫(奈良線、1914年 - 1950年、八戸ノ里車庫に移転。跡地は小阪近鉄ビルに), 八戸ノ里車庫(奈良線、1950年 - 1967年、東花園車庫に移転。跡地はマンションに), 宝山寺線(鳥居前駅 - 宝山寺駅)または山上線(宝山寺駅 - 生駒山上駅)のみ 290円, 例:大和八木駅 - 箸尾駅間を「大和八木駅 - 田原本駅(徒歩連絡)西田原本駅 - 箸尾駅」と乗車する場合, 例:五位堂駅 - 道明寺駅間を「五位堂駅 - 安堂駅(徒歩連絡)柏原南口駅 - 道明寺駅」と乗車する場合, 例:河内小阪駅 - 河内天美駅間を「河内小阪駅 - 鶴橋駅(JR大阪環状線)天王寺駅(徒歩連絡)大阪阿部野橋駅 - 河内天美駅」と乗車する場合, 例:奈良線生駒駅 - 大阪線弥刀駅間を「生駒駅 - (快速急行) - 鶴橋 - (普通) - 弥刀」と乗車する場合、本来であれば「生駒駅 - 鶴橋駅(布施駅)」と「布施駅(鶴橋駅) - 弥刀駅」の2枚の定期券が必要であるが、上記特例により生駒駅 - 鶴橋駅・鶴橋駅 - 弥刀間のキロ程を通算して算出した運賃で定期券を購入できる。この場合、定期券の発着駅名は「生駒 - 弥刀」で経由地に「鶴橋」と記載される。また、布施駅 - 鶴橋駅間での途中下車もできる。, 例:桜井駅 - 石切駅間を乗車する場合、大和西大寺駅を経由しても布施駅を経由しても最短経路の大和西大寺駅経由で計算した運賃で乗車できる。ただし、田原本線・生駒線を経由する「桜井駅 - 大和八木駅 - 田原本駅(徒歩)西田原本駅 - 新王寺駅(徒歩)王寺駅 - 生駒駅 - 石切駅」という経路の乗車は選択できない。, 例:奈良線生駒駅 - 大阪線弥刀駅間を「生駒駅 - (快速急行) - 鶴橋駅 - (普通) - 弥刀駅」と乗車する場合、上記特例により生駒駅 - 布施駅 - 弥刀駅の運賃で乗車できる。, 例:布施駅 - 名古屋線近鉄名古屋駅間を「布施駅 - (準急) - 鶴橋駅 - (特急) - 近鉄名古屋駅」と乗車する場合、上記特例により布施駅 - 近鉄名古屋駅の運賃で乗車できる。, 利用可能時間帯・利用可能日に制限がある代わりに割引率が大きくなるオフピークチケット・サンキューチケットもある(「パールカード11」の項を参照)。, 2012年7月発売の「夏の関西1デイパス」より、JR西日本との共同企画商品として、JR西日本の, 毎年12月30日から1月31日までの連続3日間有効。乗車開始日の前日までに購入する必要がある。, 金森乾次(1951年12月24日 - 1954年12月8日) - 金森又一郎の二男・金森茂一郎の父, 日本全国向けに発刊される新聞・雑誌では伊勢志摩・奈良大和路に関する広告を出稿する。雑誌では. 「たまてBOX」では、おっさんが今より素敵になれる耳よりな情報から、サラリーマンにオススメの情報、更には「どーでもいい」話題まで幅広く深く掘り下げて紹介しています! 書籍への掲載、他メディアでも紹介多数。 昔は近鉄南大阪線沿線にある藤井寺球場を本拠地とした近鉄バファローズという野球チームを保有していました。 (ホリエモンやなんとかファンドが騒いだので身売りしてしまいました) 「阪神電車」の特徴. 近畿日本鉄道株式会社(きんきにっぽんてつどう、英: Kintetsu Railway Co., Ltd.)は、大阪府・奈良県・京都府・三重県・愛知県の2府3県[注釈 1]で鉄道事業を行う会社である。日本の大手私鉄の一つであり、JRグループを除く日本の鉄道事業者(民営鉄道)の中では最長の路線網を持つ。近鉄グループホールディングスの子会社である。, 一般的には略して近鉄(きんてつ、Kintetsu)と呼ばれている(「社名」の節も参照)。, 近畿日本鉄道の母体ともいえる大阪電気軌道(大軌)は、1910年(明治43年)9月16日に大阪と奈良を結ぶ路線を敷設すべく奈良軌道として設立され、同年10月に大阪電気軌道へ改称した。そして生駒トンネルを難工事の末に完成させ、1914年(大正3年)に最初の路線である上本町 - 奈良間を開業させた(現在の奈良線)。, その後、1927年(昭和2年)には天理・橿原神宮方面への路線網を確立した。同年に伊勢を目指すため参宮急行電鉄(参急)を設立し、1931年(昭和6年)に宇治山田まで開通、大阪から伊勢神宮への日帰り参拝を可能とした(現在の大阪線・山田線)。さらに、伊勢電気鉄道(伊勢電)の合併、関西急行電鉄(関急電)の設立により、1938年(昭和13年)には名古屋へのルートを確立した(現在の名古屋線)。, 戦時中の陸上交通事業調整法により周辺の鉄道会社と次々に合併し、さらに、大阪電気軌道は参宮急行電鉄や関西急行電鉄などと統合して、1940年(昭和15年)に関西急行鉄道(関急)へ再編され、1府4県に総延長437kmの路線を有する一大私鉄となった。1943年(昭和18年)には現在の近鉄南大阪線などを経営していて、既に関急の資本下に置かれていた大阪鉄道(大鉄)を合併し、この時点で現在の近畿日本鉄道の原型となる路線網が確立された。, 1944年(昭和19年)には国からの強い要請を受け、長い歴史を有する南海鉄道(南海)と新設合併する形で今に至る近畿日本鉄道(近鉄)が発足、資本金2億3147万円、総延長約630kmの路線を有する日本最大の民営鉄道会社となった。この時点では上本町・名古屋・天王寺・難波の4営業局体制であった。, だが、こうして国からの要請に応える形で発足した近畿日本鉄道であるが、その天王寺営業局は元大阪鉄道の社員、難波営業局は元南海鉄道の社員をそのまま引き継いだような形となった[注釈 2] ため、いかにも無理矢理まとめたという印象が当初から強く、特に南海は関急との資本上・沿革上の接点がほとんどなかったのを、強引に戦時体制の名でつないだようなものであり、戦後の労働運動の高まりとともに、難波営業局では分離運動が盛り上がった。なお大鉄は、昭和初期には既に大軌の傘下となっていて、大軌の路線との直通運転も行っていた。, そのため、会社発足4年目の1947年(昭和22年)に難波・天王寺営業局管轄の旧・南海鉄道の路線を、旧・南海の系列会社で現在の南海高野線高野下 - 極楽橋間と鋼索線極楽橋 - 高野山間を運営していた高野山電気鉄道が改称した南海電気鉄道へ譲渡し、関西急行鉄道時代の路線網に復することになった。, その後、奈良電気鉄道(奈良電)や信貴生駒電鉄、三重交通の鉄道線を承継した三重電気鉄道(三重電)などの合併により[注釈 3]、1965年(昭和40年)には現在の路線網がほぼ完成した。, 第二次世界大戦の終戦3年目に当たる1947年(昭和22年)10月には、早くも上本町 - 近鉄名古屋間に有料特急の運転を開始している。これは日本における有料特急列車の戦後初の復活であり、現在の近鉄特急の元となった。翌1948年(昭和23年)には特急の山田線直通運転を再開し、1958年(昭和33年)には2階建て車両を連結した10000系「ビスタカー」が登場した。, 元伊勢電気鉄道・関西急行電鉄の路線により成立した名古屋線は軌間1,067mmの狭軌であり、近畿日本鉄道の主流となる元大阪電気軌道・参宮急行電鉄によって建設された大阪線・山田線などといった路線群は軌間1,435mmの標準軌であって線路幅が異なっていたため、名阪間の直通客は途中の伊勢中川駅で乗り換えを強いられていた。この問題については、第2次世界大戦後に名古屋線の改軌が計画され、橋梁架け替えに伴う線路移設などと併せて準備工事が徐々に進められていたが、1959年(昭和34年)9月の伊勢湾台風による被災を機に、当時の社長であった佐伯勇の判断で改軌工事が復旧工事と同時進行で当初の計画を前倒しして実施されることになった[注釈 4]。この復旧・改軌工事は、最も手間の掛かる枕木の交換作業などの準備が前もってかなりの規模で進められていて、かつ架け替え工事中であった揖斐川・長良川・木曽川の各新橋梁は当日落成した上、台風で致命的な被害を受けずに済んだ、という幸運も手伝って、被災からわずか2か月後の同年11月27日に名古屋線および神戸線(現在の鈴鹿線)の工事が完了し、さらに同年12月には新造の10100系ビスタカー2世による名阪間直通特急の運転が開始された。, 1970年(昭和45年)に大阪の千里丘陵で日本万国博覧会(大阪万博)が開催されることになり、万博来場者を奈良や伊勢志摩など沿線観光地へ誘致する計画を立て、孤立路線だった志摩線の改良と鳥羽線建設による直通化に取り組み、同年3月に完成させた[注釈 5]。さらに同月には、難波線も完成し、1947年(昭和22年)6月1日の南海分離以来となる悲願の難波乗り入れを自力で果たした。, 特急列車網も整備され、1988年(昭和63年)には「アーバンライナー」、1990年(平成2年)には「さくらライナー」、1994年(平成6年)「伊勢志摩ライナー」、2013年(平成25年)「しまかぜ」などといった、特色・個性あふれる車両を登場させている(その他の車両の登場年は年表参照)。, 2009年(平成21年)3月20日には大阪難波まで延伸開業した阪神なんば線との相互直通運転により、奈良方面から西宮・神戸方面への乗り入れを開始した(当該路線の記事および「他社線との直通運転」の節も参照)。, 2010年(平成22年)9月16日に、創業100周年を迎えた。また、2014年(平成26年)4月30日に最初の営業区間である上本町 - 奈良間の開業から100周年を迎えた。, 2015年(平成27年)4月1日に、これまでの(旧)近畿日本鉄道を近鉄グループホールディングスに社名変更した上で、会社分割により鉄軌道事業を近畿日本鉄道分割準備(2014年4月20日設立)に、不動産事業を近鉄不動産に、ホテル・旅館事業を近鉄ホテルシステムズ、流通事業を近鉄リテールサービスにそれぞれ継承させ、持株会社制に移行した[5][6]。鉄軌道事業を継承した近畿日本鉄道分割準備は(新)近畿日本鉄道に社名変更し[5]、近鉄グループホールディングス傘下の事業会社となった。, 本表では現在の近畿日本鉄道の母体会社である大阪電気軌道の創業より記述する。阪堺鉄道(南海鉄道)・河陽鉄道(大阪鉄道)などの創業についてはそれぞれの記事を参照のこと。, また、特急列車の歴史は「近鉄特急史」を、第二次世界大戦後のダイヤの変遷は「近畿日本鉄道のダイヤ変更」を、各路線の歴史は各路線ごとの項目を参照のこと。公式サイトの「近鉄ストーリー」も参照のこと。, 営業している路線のほとんどが近畿地方にあり、近畿日本鉄道を社名としているが、近畿地方ではない愛知県にまで(2017年までは岐阜県にも)及ぶ路線網を有している。, 近畿日本鉄道が発足した当時の社長種田虎雄は、「ゆくゆくは、民営の日本鉄道をつくりたいと思っていた。そのためには、小田急と静岡電鉄[注釈 7]とを結び、この両線を延長して名古屋鉄道に連絡し、さらに、これと近畿日本鉄道を結ぶという構想を持っていた。」[35]という、近畿地方の範囲を超えた日本の私鉄経営に関する雄大な構想を持っていた。, 近畿日本鉄道が発足した直後の略称は「近鉄」と呼ばず「日本鉄道」[注釈 8]、「近畿日本」や「近日」と称し、社名を冠した駅名も1944年6月の発足後1970年2月までは「近鉄○○」でなく「近畿日本○○」となっていた[注釈 9]。これは、元々滋賀県の近江鉄道が「近鉄」(おうてつ・きんてつ)の略称を使用していたため、誤解を防ぐ観点から使用しにくかったからではないかといわれている。しかし「近鉄」の愛称も早くから使われ、1948年には「近畿日本鉄道百貨店」を「近鉄百貨店」と改称し、1949年に発足した近畿日本鉄道出資のプロ野球球団は「近鉄パールス」を名乗った。1950年には近畿日本鉄道自身の略称も「近鉄」とした[注釈 8]。なお、傍系の旅行会社近畿日本ツーリストには、近畿日本航空観光と日本ツーリストの合併によるため「近畿日本」の名が残っている。また、近鉄レンタリースは2017年12月20日まで近畿ニッポンレンタカーという商号であった[36]が、この場合は近畿日本鉄道の「近畿」とニッポンレンタカーの「ニッポン」である[注釈 10]。一方、近畿車輛や、南海軍を前身とするプロ野球球団グレートリング(略称:近畿。現:福岡ソフトバンクホークス)[注釈 11]は「近畿日本」とはしなかった事例である。, 在阪私鉄では「○○電車」の呼び名が浸透しており、近鉄でも大阪周辺では「近鉄電車」と呼称することもある。他社線からの乗換案内では、JR西日本では「近鉄電車」、JR東海では「近鉄線」と呼称される。, 近鉄本社や近鉄百貨店などに書かれていた「近鉄」の文字は、1967年3月まで「鉄」を「金」編に「失」でなく「矢」にした物(「鉃」、元は「鏃」を意味する字)にしていた。「金を失う」が「金が矢のように集まる」になるという縁起担ぎが理由であったが、後にその看板を見た小学生が「鉄」の字を間違って覚えてしまうと沿線住民などから指摘され、正式な表記に直している。なお、現在の四国旅客鉄道(JR四国)を除いたJR各社も同じような理由により、ロゴでは「鉄」の字を「鉃」にしている。, 英文社名は以前は Kinki Nippon Railway Co., Ltd. であったが、2003年6月28日から Kintetsu Corporation に変更した。同時期に和文・英文の会社名ロゴのデザインも変更された[37]。2015年4月1日の近鉄グループホールディングス発足を機に再度英文社名が変更され、Kintetsu Railway Co., Ltd.となった。この表記は、乗務員の制帽及び駅員の制帽及び職帽の帽章にも用いられている。駅員は一時期「近鉄ステーションサービス」に分社化していたときは「Kintetsu Station Service」の表記だった。, 大阪電気軌道時代には大阪を象徴する澪標と奈良の「奈」を組み合わせた社章を使用していたが、名古屋などへの延伸や会社の合併で路線網が拡大した関西急行鉄道時代には新体制への節目として関西の「関」を図案化した社章に変更した。現社章への変更も南海鉄道との合併で近畿日本鉄道が発足した際に検討され、社内外から提案された200もの候補から選定されたものである[38]。全体の図形がコロナを発する日輪と転動驀進する車輪をかたどり、内側の図形が社名の頭文字「近」と「人」の文字を図案化して「人の和」を表現している[39]。近鉄タクシー、養老鉄道、伊賀鉄道など、一部のグループ会社ではこの社章をベースに変更を加えた社章を使用している[38]。, この社章は鉄軌道事業を継承した(新)近畿日本鉄道に引き継がれ、持株会社となった近鉄グループホールディングスには新たなシンボルマークが制定されている。傾きの異なる2つの図形によって会社の理念である「静と動」を具現化し、またその形状から近鉄の「K」をも表現している[38]。, 大阪府東南部から愛知県西部に至る紀伊半島の付け根を横断して、大阪市・京都市・名古屋市といった政令指定都市を始め、近畿地方の大阪府東南部・奈良県・京都府南部、東海・中部地方の愛知県西部・三重県の各都市・観光地を結ぶ路線網を持つ[注釈 1]。関西の他に大手私鉄が発達している他都市圏(この場合、中京圏)にまでまだがる大手私鉄は近鉄が唯一である[注釈 12]。, 総営業キロ程は、JRを除く日本の鉄道事業者中最長の501.1km[40][41]におよび、続く463.3kmの東武鉄道(東武)[42]、444.2kmの名古屋鉄道(名鉄)[43]とともに400km以上の路線網を擁する日本の大手私鉄の一つとなっている(各キロ程は2017年4月1日現在)[注釈 13]。, 近鉄の保有路線は、線路の幅では標準軌(1,435mm軌間[注釈 14])、狭軌(1,067mm軌間)の2つに分けられる。かつては特殊狭軌(762mm軌間)も有していた。, 近鉄の直系母体である大軌は、路面電車と同じ軌道線扱いで開業したため、同様の形で先行して開業していた阪神電気鉄道・箕面有馬電気軌道(現:阪急電鉄)・京阪電気鉄道などと同じ標準軌を採用したが、同社が他社を買収して組み込んだ路線の多くは、国有鉄道(内閣鉄道院→鉄道省→日本国有鉄道〈国鉄〉)線と貨車の直通運転を行っていた関係で、国鉄と同じ狭軌を採用した(名古屋線系統各線や田原本線のように、標準軌化した路線もある)。かつて有していた762mm軌間の特殊狭軌線は軽便鉄道の流れを受け継いだものであるが、下津井電鉄線が廃止された1991年以降、日本では近鉄が三重県の三岐鉄道に譲渡した北勢線、四日市あすなろう鉄道に移管した内部・八王子線、それに専用鉄道を一般営業路線にした黒部峡谷鉄道本線程度しか存在していない。, 電化方式は基本的に1500V直流電化の架空電車線方式となっているが、けいはんな線はOsaka Metro中央線と相互直通運転を行う関係で750Vの第三軌条方式、かつて有していた特殊狭軌各線は三重交通時代の流れを受け継いで750Vの架空電車線方式となっている。, なお、田原本線や生駒鋼索線のように他の近鉄各線とは徒歩連絡となる路線はあるが、他の近鉄線と互いに乗り継ぐ際、徒歩連絡ではなく他社の鉄道線やバス路線を介さなければならないほどの孤立路線[注釈 15]は、葛城索道線を除き存在しない。ただし過去には、鳥羽線開業以前の志摩線が他の近鉄の路線群と離れ、国鉄参宮線を介さなければ乗り継ぐことができない孤立路線となっていた。, 近畿・中部エリアの大手私鉄では唯一、JRグループ旅客2社(JR西日本・JR東海)の在来線管内を直接結んでいる[注釈 16]。それと関連して、近鉄名古屋駅と京都駅はともに東海道新幹線の乗換駅であり、前者はリニア中央新幹線、後者は北陸新幹線[48] の乗換駅になる予定である。なお、近畿地方の大手私鉄で新幹線駅と接続する私鉄は近鉄のみとなっている[注釈 17]。, ただし、近畿日本鉄道では「鉄軌道事業」ではなく、「付帯事業」のうちの「その他の事業」に分類している。奈良県に所在。, 近畿日本鉄道における廃止路線は、すべて他社を合併したことにより生まれた路線で、その廃止理由も既存路線と並行していることなどから、乗客・貨物が減少していたことによるものが大半である。なお、近畿日本鉄道の直系前身である大阪電気軌道(大軌)および関西急行鉄道(関急)時代に廃線になったものも含める。, 近畿日本鉄道発足時に旧南海鉄道から継承した路線。ただし松江線は近畿日本鉄道発足後に開業した。いずれも、旧関西急行鉄道と旧南海鉄道の路線を分離するため、高野山電気鉄道を改めた南海電気鉄道へ1947年6月1日に譲渡された。詳しくは「南海電気鉄道#路線」を参照。, 列車運行管理システムとして、難波線・奈良線・京都線・橿原線・大阪線(大阪上本町 - 西青山間)・天理線・信貴線・生駒線・田原本線・南大阪線・道明寺線・長野線・御所線と阪神電気鉄道の阪神なんば線(桜川 - 大阪難波間)にはKOSMOSを、名古屋線・大阪線(一部除く)・山田線・鳥羽線・志摩線・湯の山線・鈴鹿線と養老鉄道の養老線(桑名 - 播磨・下深谷間)にはKRONOSを供用している。このほか、けいはんな線にも列車運行管理システムが導入されている(名称不明)[66][67]。, 近鉄の路線には各駅に停車する普通のほかに、速達を目的とした列車種別が設定されている。, 特急は近鉄の列車種別のうちで最上位の列車である。会社の看板列車であり、特に近鉄特急と呼称される。, 近鉄の特急は走行路線・停車駅区別のための列車愛称を持たない。例えば、2012年3月19日まで運転されていた近鉄名古屋駅 - 大阪難波駅間のうち近鉄名古屋駅 - 鶴橋駅間を途中ノンストップで運行する特急は「名阪ノンストップ特急」と系統の通称で呼ばれていた。, 対して、特急に使用される車両は「ひのとり」「アーバンライナー」「ビスタカー」「伊勢志摩ライナー」「しまかぜ」「さくらライナー」などの愛称を持つ。, 特急は全車座席指定席であり、利用するには運賃とは別に特急料金が必要である。近鉄の特急料金には指定席の料金が含まれる。特急料金は特別急行券の購入によって支払う。なお、近鉄特急の中でも、「しまかぜ」には通常の特別急行券のほかにしまかぜ車両券が、「ひのとり」にはひのとり特別車両券が必要となる。また、「青の交響曲」(青のシンフォニー)も特別車両券が必要となる。ビスタEXやしまかぜなどに連結されている個室には通常の特別急行券のほかに個室券が必要となる。すなわち、しまかぜの個室に乗車する際は、乗車区間の普通運賃に加え、特別急行券、しまかぜ車両券、個室券が必要となる。, 種別カラーは快速急行と同じ赤だが、駅のLCD・LEDタイプの発車標では特急の種別表示に白い縁取りをすることで快速急行と区別している。, 駅到着時の車内自動放送で流すチャイムは「汎用チャイム」と「駅別チャイム」の2種類に大別される。「駅別チャイム」は主な駅に設定されている。「近鉄特急#車内チャイム」を参照。, 近鉄は、特急料金の必要な列車のほかに、運賃のみで利用可能な速達列車を以下の線区に設定している[注釈 20]。設定されている列車種別は次の通りである。, なお、上記列車種別のほかに一般客は利用ができない魚介類行商人のための団体専用列車として「鮮魚列車」が宇治山田駅 - 大阪上本町駅(復路は松阪駅まで)間に設定されていたが、2020年3月13日で運転を終了した[69]。同年3月16日以降は通常の快速急行に鮮魚運搬専用車両としてラッピング車両「伊勢志摩お魚図鑑」を連結して運行する[70]。, 京都線では1998年3月に快速急行の運転が開始されたが、利用者数が乏しく急行と誤乗するケースが多かったため、2003年3月のダイヤ変更を機に廃止された。, 2012年3月19日までは大阪線・山田線の大阪上本町駅 - 松阪駅間で「区間快速急行」(SUBURBAN RAPID EXPRESS) という種別が運転されていた。, また、1980年代の一時期に、「高速」という種別が上本町駅 - 鳥羽駅間に存在していた。「伊勢志摩号」という愛称名が付いている臨時列車で、長距離用通勤車(2600系など)か団体専用車20100系を使って運行されていた。乙特急よりも停車駅が少ない(ただし甲特急よりは多い)にもかかわらず、特急料金は不要であった。しかし、停車駅が少ないため近距離・中距離客が利用できず、長距離客は特急料金を払ってでも乗り心地の良い特急を利用するため、利用者数が伸びず数年で廃止された。, 列車種別は先頭車両前面の通過標識灯や種別表示器(方向幕)で識別できる。かつては行先標や車側の種別表示灯(けいはんな線を除く)が使用されていたが、1990年代までに種別表示器に置き換えられた。, 通過標識灯の点灯パターンは以下の通りである。阪神線直通列車の場合は阪神桜川駅を境に切り替わる。, JRを除く関西の私鉄としては、ダイヤ変更(ダイヤ改正)の頻度が比較的多く、おおむね毎年3月に規模の大小関係なしにダイヤ変更が実施される(時刻表も同時期に刊行される)。1993年には、京都線近鉄宮津駅の開業・志摩線複線化工事の進捗・同年10月の伊勢神宮式年遷宮における輸送対応に伴って9月にもダイヤ変更が実施された。なお、近鉄では長年「ダイヤ改正」ではなく「ダイヤ変更」という言い方を使用していたが、2007年以降2009年まで毎年3月に実施したものには「ダイヤ改正」という言葉を用いている(同年7月に伊賀線が再度ダイヤを変えた時のみ従来どおり「ダイヤ変更」を用いた)。, 阪神なんば線の開業にともない行われた2009年3月のダイヤ改正では、近鉄奈良線以外の近鉄線内では小規模な改正に留まったもの、実際は阪神なんば線の直通運転が開始された関係上、阪神電気鉄道・山陽電気鉄道・阪急電鉄(神戸線・今津線系統のみ)・神戸電鉄でも同時にダイヤ改正を行うなど、かなり大規模なものになっている。, 2012年3月のダイヤ変更では、ゼロベース=白紙から需要に合わせたダイヤに見直し、運転本数の大幅な削減を主な柱とした合理化によって50億円程度のコストダウンを行った。2010年10月16日には、急行の停車駅を増やすなどして準急を廃止[71]、準急を中心に運転本数を減らす[72] などという報道があったが、この時点では近鉄からは新しいダイヤについての正式な発表はなく、準急の廃止・削減については決定事項ではないことが発表されていた[73]。特急列車関係では時間帯や季節に応じて料金を割り引くサービスを導入する予定としている[72]。ダイヤについては2012年1月にこの白紙変更の正式な内容が発表され、大阪線における快速急行と区間快速急行の種別統合や特急の名阪間ノンストップ運転の中止(名阪甲特急全列車が津駅に停車)、その他の路線でも昼間時間帯の一般列車を中心に大幅な減便を行った。, 2014年は3月にダイヤ変更が実施されず[74]、同年9月21日に奈良線の八戸ノ里駅 - 瓢箪山駅間の上り線の高架化が完成したのに合わせて、例年より半年遅れでダイヤ変更が実施された[75]。2016年以降は1年半 - 2年間隔でのダイヤ変更が行われている。, 大晦日から正月にかけては、毎年終夜運転(越年ダイヤ)が実施されている。特に近鉄大阪線や名古屋線に関しては宇治山田駅(一部五十鈴川駅・鳥羽駅・賢島駅)発着の特急が大幅に増発されるが、1990年代後半以降は以前と比較して縮小傾向になっている。また、南大阪線に関しても大阪阿部野橋駅 - 橿原神宮前駅間の特急が大幅に増発される。これらを総じて「越年特急」とPRしていることが多い[76]。特急の本数が通常時より多くなり、通常ダイヤでは停車しない桜井駅にも停車する。この越年特急のPRとして、過去には近鉄にまつわる著名人をCMで出演させた時期もあった。1999年(平成11年)の初詣PRでは、近鉄バファローズ投手(当時)の大塚晶則が「背番号11」にちなんで登場した。, 近鉄は近畿・東海地方に広大な路線を保有しているが、その中には不採算路線も保有している。このため、大手私鉄の中では比較的早くからワンマン運転を行って経費削減を図ってきた。1990年代頃から長期不況による乗客の減少が目立ち、支線のほとんどがワンマン化されたほか、南大阪線や山田線のような幹線でも、普通列車に関しては輸送量が少なく2両編成の列車も多いため、ワンマン運転が行われつつある。このような現象は近鉄に限らず、近年の大手私鉄や神戸電鉄・能勢電鉄といった大都市近郊の私鉄にも共通して見られるものである。さらに採算性の厳しい路線(伊賀線や養老線)においては、上下分離方式(経営は近鉄グループホールディングス子会社の伊賀鉄道・養老鉄道、施設はそれぞれ伊賀市、養老線管理機構が保有)の形式を採っている。, ワンマン運転を行う路線のうち、名古屋線 - 山田線 - 鳥羽線 - 志摩線の系統のみは、無人駅においてドアカット(1両目後乗り・前降り)を実施した上で、運転士が運賃精算を行う(駅員配置駅のみすべてのドアが開く)方式が採用されていた。しかし、ICカードの導入にあわせてドアカットは廃止され、無人駅でも、すべてのドアが開くようになった。それ以外の路線では、ワンマン運転開始後も無人駅においてすべてのドアを開けており、運転士は運賃精算などに一切関わらず、完全に利用者の良心に任せる姿勢(信用乗車方式)であるが、時々不正乗車対策として無人駅のホーム上に臨時で係員を配備し、有人駅同様の集札・発券対応を行うこともある。, 2009年3月20日の阪神なんば線開通により、正式駅名が「大阪難波」「大阪上本町」に変更されるまで、名古屋輸送統括部(大阪線の西青山駅以東)では難波行きと上本町行きの場合は、「大阪難波行き」などと「大阪」を強調する意味で用いられていた(大阪輸送統括部の管轄路線では「大阪」の冠名を用いることはほとんどなかった)。大阪阿部野橋行きは正式駅名が「大阪阿部野橋」のため、すべての場合において「大阪阿部野橋行き」と案内される。, 大手私鉄だけではなく在阪私鉄では珍しく、車掌は終着駅に着く際は「終点」や「終着」ではなく「この電車はこの駅までです」とアナウンスする。これは終端駅到着時にも使われていたが、名古屋輸送統括部管内や南大阪線系統(旧・天王寺営業局管内)では、終端駅到着時に限りこのフレーズが省かれることや稀に奈良線系統で「終点」とアナウンスすることもあった。2010年代以降は、大阪阿部野橋駅や京都駅などの終端駅に到着する前に「大阪阿部野橋、阿部野橋、終点です」もしくは「まもなく、京都、京都、終点です」とアナウンスする(車掌による放送および、日本語による車内自動放送)。英語による車内自動放送でも、"This is the final stop for this train. ID: u4dEvjl1ac, 2020/05/27(水) 14:13:54 ID: IZ3PjDM2FR, 2017/06/30(金) 16:53:09 Twitter 九州、伊勢志摩」の旅行商品の販売キャンペーンも行われている[113]。, 近鉄でのIC定期は、京阪電気鉄道同様にPiTaPaではなく、JR西日本のICOCAで発行されることになった。2012年12月1日に発売を開始し、JR西日本・京阪・阪神各社との連絡定期券も同時に発売開始した[92][94](阪神ではPiTaPa連絡定期券として発売)。さらに2013年3月23日からは、JR東海とのICOCA連絡定期券も発売開始し(JR東海ではTOICA連絡定期券として発売)、2014年3月14日には南海電気鉄道とのICOCA連絡定期券も発売を開始している(南海ではPiTaPa連絡定期券として発売)[96] ほか、9月21日には名古屋鉄道とのICOCA連絡定期券も発売を開始した[97]。, 後にJR東海が展開する「うましうるわし奈良」キャンペーンにも協力しており、近鉄の駅構内や車内において、同キャンペーンの広告を2社共同で出稿しているものもある。, 2013年10月には、近鉄・JR西日本と南海の3社共同企画として、「高野(紀北)・熊野&伊勢志摩 ぐるり旅」キャンペーンが、各社の沿線情報タブロイド紙(「近鉄ニュース」「西Navi」「NATTS」)に掲載された[114]。, 近鉄がJR西日本と共同発行しているKIPS ICOCAカード。近鉄とJR西日本の関係性を示す物の一つである, 他社線との直通運転の過去の事例で前述したように、名古屋鉄道(名鉄)との間では、かつて名古屋線が狭軌であった時代に、新名古屋駅と近畿日本名古屋駅(いずれも当時の駅名)とを結ぶ地下連絡線を通り、名鉄 - 近鉄間両社直通の臨時観光列車の相互乗り入れをしていたこともあった。その後、相互乗り入れは中止したが、現在も近鉄名古屋駅の地下コンコース内には、名鉄名古屋駅への連絡改札口が設けられている。, しかしその一方、名鉄との間では、一時期激しく対立したこともあった。戦前では伊勢電を巡る争いが最も大きなものであったが、戦後の高度経済成長期には石川県における北陸鉄道支援を名鉄が行った際に、近鉄では北陸鉄道に対抗するバス路線の敷設を目論んで北陸日本交通との名義で会社を設立しようとしたり(これは後に同社を合併して近鉄の子会社化した北日本観光自動車のバス路線網拡大へ方針転換するが、当時の運輸省の方針で却下された)、近鉄が大垣から岐阜・羽島への新線敷設を計画した(「養老鉄道養老線」を参照)のに対抗して、名鉄が岐阜から養老・羽島に至るモノレール建設を発表(後に羽島線の建設へ変更)したという事例がある。, また、伊勢湾にフェリー航路を新設するに当たっては、営業免許を巡って両社共激しく競合したが(当時の新聞紙上では「伊勢湾海戦」と報道された)、これも当時の運輸省の仲裁により、伊勢湾フェリーが両社折半で設立されることになった(現在は両社の手を離れて第三セクターとして運営)。, さらには、1964年に開通した名神高速道路を走る高速バス路線である名神ハイウェイバスにおいて、国鉄バス(現在はJRバスとしてジェイアール東海バス・西日本ジェイアールバスが共同運行)以外に多数の民間会社による運行計画が乱立したため、運輸省の調整により、近鉄を中心とした日本高速自動車(現在の名阪近鉄バス、当時は阪神・南海も出資)と、名鉄を中心とした日本急行バス(当時は京阪・阪急・近江鉄道なども出資、その後名古屋観光日急から名鉄観光バスを経て、現在は名鉄バスへ移管)の2社が設立される事態となった。, これらの対立・競合状態が解消して、協力関係に入ったのは安定成長期の中頃に入った1980年代のことだった。近鉄の駅構内や車内広告、および「近鉄時刻表」などにおいて、主に博物館明治村・リトルワールドや、中部国際空港行き空港特急「ミュースカイ」など名鉄グループの広告が、また名鉄の駅構内や車内広告、および「名鉄時刻表」などにおいては、主に志摩スペイン村など伊勢志摩地区の観光広告や、近鉄名阪特急「アーバンライナー」など、近鉄グループの広告が相互に掲載されるようになるなど、名鉄と完全に相互協力関係にある。, その後1997年から2006年までの間、南海電気鉄道と共に3社の鉄道路線・およびグループ各社の交通機関も利用可能であった、乗り放題切符「3・3・SUNフリーきっぷ」も発売されていた。2013年3月23日には「交通系ICカード全国相互利用サービス」開始により、近鉄で発行しているICカード乗車券「PiTaPa」「ICOCA」を名鉄線で、名鉄で発行しているICカード乗車券「manaca」を近鉄線で、それぞれ利用することが可能となった。また、2014年9月21日には両社のIC連絡定期券も発行を開始した[97][98]。, 2012年6月にはリニア開業に向けての名古屋駅周辺の再整備により、近鉄名古屋駅と名鉄名古屋駅の統合化を検討していることが明らかになった[115]。, 近鉄のプロ野球事業は、公式には1949年結成の「近鉄パールス(後の大阪近鉄バファローズ)」からとされているが、既述の通り1944年の発足から1947年までは旧・南海鉄道を合併していたため、南海軍(1938年発足。のちの南海ホークス・福岡ダイエーホークス、現在の福岡ソフトバンクホークス)を改めた「近畿日本軍」が近鉄の球団経営史の嚆矢となる。, 戦後、近畿日本軍は社章「大いなる和」にちなみ「グレートリング」と改称。1947年6月のシーズン途中、近鉄から南海電気鉄道の分離発足(歴史の節参照)に伴い、同球団は近鉄から南海の傘下に移り、同社の社章「羽車」にちなみ、「南海ホークス」と改称した[注釈 31][注釈 32]。, 1949年、グレートリングを所有したこととプロ野球人気がきっかけとなり、近鉄は再び球団経営を検討し、今度は自力で新たにパールスを発足させた。その球団経営も当時の山口昌紀社長の手により「球団は回収の見込みがない経営資源」と見なされ、2004年のオリックス・ブルーウェーブ(大手リース会社オリックス傘下)との統合により55年の歴史に幕を下ろし、統合球団「オリックス・バファローズ」への出資・スポンサー協力も2007年シーズンをもって終了、名実ともにプロ野球事業から撤退した(「プロ野球再編問題 (2004年)」も参照)。, なお、かつて近鉄が運営していた球団である近畿グレートリング(近畿日本ホークス[注釈 31])と近鉄バファローズは、球団経営母体がそれぞれソフトバンクグループとオリックスとなった現在でも、パシフィック・リーグのオリックス主管の公式戦のイベント試合「OSAKAクラシック」として、京セラドーム大阪において年間1カード3試合程度、近鉄、南海時代の復刻ユニフォーム着用試合を行っている。, 1929年に設立された大軌ラグビー部を源流とする社会人ラグビーチーム「近鉄ライナーズ」は、昭和40年代に日本選手権で3度優勝するなど古豪として知られる。, かつてはラグビーの聖地とも称される近鉄花園ラグビー場を所有しており、プロ野球事業からの撤退後はラグビー部の運営に力を入れるようになった。花園ラグビー場は2019年ラグビーワールドカップ開催に備えて、2015年に施設を東大阪市に譲渡[注釈 33] して「東大阪市花園ラグビー場」として運営されているが、引き続き近鉄はライナーズの本拠地としての使用、並びに東大阪市のラグビーの普及・啓蒙のための支援活動を実施している。これについては「東大阪市花園ラグビー場#市営化を巡って」の項を参照。, バス事業、旅行業など多くは子会社化していたが、2015年4月の会社再編まで直営していたものとして、高速道路のサービスエリアにおけるレストラン事業があった。下記の各サービスエリア(6箇所7店舗)で運営していたが、会社再編後は近鉄リテールサービス(近鉄リテーリングに社名変更)に移管された[5]。, 第108期有価証券報告書によると、近畿日本鉄道労働組合が組織されており、日本私鉄労働組合総連合会に加盟している。, 小田急電鉄・京浜急行電鉄・西武鉄道などと同様に、原則労働組合は列車運行のストライキを行わない方針を採っている(集改札ストライキはあり)。1980年代後半当時のテレビニュースやストライキ情報では、ストライキを予定していた近鉄が集改札スト(鉄道の営業は行うが駅での改札や乗車券類の発売などの業務を一切行わない戦術。なお、ストライキ中の乗車券は車掌が車内で発売する体制を採っていた)に変更すると「戦術ダウン」と報道されることもあった。また、名阪ノンストップ特急の利用者が低迷した時代は、それに関してのみ例外として運休とされていたことがあった[注釈 34]。, ただし、戦後に組合が発足した当初は争議に積極的で、他社が収束した後も独自にストを行ったこともあった。特に1958年の春闘では激しく対立し、全面ストを含む41日に及ぶ争議となったが、並行する他社の路線がほとんどないなどの理由で、利用者からは強い反発を受け「沿線住民を無視できない」という理由でストを中止した。翌1959年、組合は対話を尊重する方針を打ち出し、秋の伊勢湾台風被害から労使一体で再建に取り組む過程でこの路線がさらに固まった。その後十年間にこの方針が組合の基調となり今日に至っている[116]。, 近鉄百貨店や近畿日本ツーリスト・近鉄エクスプレスなど近鉄グループ企業各社については、「近鉄グループ」を参照のこと。, 近鉄はJRと並ぶ大規模な鉄道事業者ではあるが、テレビやラジオの番組スポンサーになった経験は少ない方である。近鉄が提供する番組は、かつて全国ネットでも放送された一社提供の紀行番組「真珠の小箱」が代表的で、この番組に関しては45年間の長きに亘り放送されたが、この番組も2004年に終了した(ただし2009年度に、サンテレビにて、近鉄提供で「真珠の小箱」が再放送された)。なお「真珠の小箱」やバファローズ関連の番組が放送されていた頃は、近鉄車内の吊り広告で「今月の近鉄提供番組案内」が紹介されていた。, ほかに独立U局の奈良テレビ放送や三重テレビ放送が製作し、TXN系列のテレビ大阪やテレビ愛知などで放送された、近鉄沿線の奈良大和路・伊勢志摩を取り上げた、単発の旅番組を提供したことがあった。, 2011年10月現在、同社の提供番組は、テレビ大阪の水曜日22:54からの「天気予報」や、奈良テレビ放送で毎晩放送されている「天気予報」(平日と土日では放送時間が異なる)など、またラジオではラジオ大阪の金曜日15:00頃(2016年10月現在、木曜日13:05頃)からの「ほんまもん!原田年晴です」内の「ぐるり近鉄沿線情報」のコーナー枠のみであり、あとはスポットCMの放映が中心である。同様に近鉄グループの各企業も、テレビCMにはあまり積極的ではない。なお阪神なんば線の開業前後からは、サンテレビでもスポットCMが放映された。, 以下に掲載するすべてのテレビ・ラジオ番組は、「ほんまもん!原田年晴です」以外はすでに終了している番組である。, 近鉄に関係する事物が登場する作品(近鉄提供番組については前節参照)、近鉄が撮影協力やタイアップして宣伝に関わったテレビ番組、映画作品は以下のようなものがある。, 南海線の支線であった天王寺支線も含めて元南海鉄道の鉄道路線は難波営業局の管轄となったが、現在, それらの私鉄のうち、京阪との資本関係もあった奈良電以外は合併されるかなり前から既に近鉄の傘下に入っていた。, 鳥羽線や志摩線は一部で賢島線と呼ばれた。例えば、1971年(昭和46年)11月5日の, Kinkiの発音がkinky(英語で「変態の」の意)に聞こえてしまうのも英文社名の変更の理由とされている。後に, 近畿日本鉄道『近畿日本鉄道100年のあゆみ』p.202 によると、会社の略称は当初「日本鉄道」とされていたが、1950年9月12日に「近鉄」に変更とある。, 元来は南海鉄道をオーナーとする「南海軍」で、1944年の関急との戦時統合による近鉄発足時に一旦「近畿日本軍」と改名したが、1946年のプロ野球再開時に再改名したものだった。旧南海鉄道の分離を前とした1947年5月3日に「近畿日本ホークス」に、分離した6月1日に「南海ホークス」に改称した。, 近鉄名古屋駅で中京圏大手私鉄の名古屋鉄道(名鉄)と接続している。他都市圏の大手私鉄同士の接続はこの名古屋駅が唯一である。, 近鉄では過去には「広軌」と称し、名古屋線軌間拡幅工事においても「広軌化」とする史料もあったが, 列車の下り方向は近鉄名古屋駅から伊勢中川駅に向かってであるが、正式な起点は伊勢中川駅、終点は近鉄名古屋駅である。, 有料特急については、いずれの路線も近鉄合併後に運転が開始された。当初、湯の山線は名古屋発着の準急列車が直通していた。, 近鉄では特急以外の速達列車には優等列車という表現を用いず、一般列車と表現しているが, ただし、アーバンライナーplus・アーバンライナーnextの車内液晶モニター、および阪神車・けいはんな線使用車両のLED式, ソラリーでは2015年8月以降に追加されたコマでもローマ字表記はすべて大文字表記になっている。, 大阪難波駅、近鉄日本橋駅、大阪上本町駅、鶴橋駅、生駒駅、大和西大寺駅、近鉄奈良駅、京都駅、近鉄丹波橋駅、西ノ京駅、大和八木駅、橿原神宮前駅、大阪阿部野橋駅、名張駅、伊賀神戸駅、近鉄名古屋駅、近鉄四日市駅、津駅、久居駅、伊勢中川駅、松阪駅、伊勢市駅、宇治山田駅、鳥羽駅、賢島駅, 関西本線の奈良県内区間は比較的早い時期に複線化されたが(戦時中の一時期に単線に戻されたが、後年再複線化されている)、三重県内区間の複線化は昭和50年代半ばに着手されたものの、全面複線化には至らず複線区間と単線区間が混在している。また、奈良県・三重県共に県内の国鉄線の電化は遅く、奈良県内では1973年(昭和48年)に関西本線湊町駅 - 奈良駅間が電化、三重県内では1982年(昭和57年)に関西本線名古屋駅 - 亀山駅間が電化されるまで国鉄線の電化区間が存在しなかった。なお、1980年(昭和55年)に和歌山線王寺駅 - 五条駅間と桜井線が、1984年(昭和59年)に関西本線奈良駅 - 木津駅間と和歌山線五条駅以西が電化されて奈良県内の国鉄線は全線電化されたが、三重県内では関西本線亀山駅以東以外は電化されず現在に至る。, ただし、戦前の1932年(昭和7年、当時は大阪電気軌道)を最後に、戦後しばらく近鉄にはお召し列車は運行されておらず、再開されたのは1971年(昭和46年)のことである。『鉄道ピクトリアル』電気車研究会編、1981年12月臨時増刊号(近畿日本鉄道特集)、p16, 『近畿日本鉄道100年のあゆみ』(2010年12月、近畿日本鉄道発行)p.216によれば球団名は1947年6月の南海電鉄への分離に先駆けて同年5月3日に「近畿グレートリング」から「近畿日本ホークス」に改称している。, 一例として、1975年5月に実施された交通ゼネストの際の新聞記事に「近鉄は主要駅での出改札ストのほか名古屋-大阪間のノンストップ特急が運休」(朝日新聞1975年5月9日1頁)と記載されている。, 「電車内に「かん」爆弾 近鉄線爆発」『朝日新聞』昭和47年(1972年)8月3日、13版、1面, 国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成28年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、pp.151,189,226 から伊賀線と養老線除外, 国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成28年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、p.99, 国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成28年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、pp.131,221, 近鉄の営業キロ推移 - 近畿日本鉄道(編)『近畿日本鉄道100年のあゆみ』、近畿日本鉄道、2010年、pp.201, 673-674, 『近畿日本鉄道100年のあゆみ』2010年12月、近畿日本鉄道、pp.620-629.(同年時点の社長・会長まで), 平成22年3月期第3四半期連結決算に係る損失処理等の再検討、平成22年3月期第3四半期の四半期報告書の提出遅延および監理銘柄(確認中)指定の見込みに関するお知らせ.