西本 幸雄(にしもと ゆきお、1920年4月25日 - 2011年11月25日)は、和歌山県和歌山市出身のプロ野球選手(内野手)、コーチ・監督、野球解説者、野球評論家。, 父親は日本勧業銀行和歌山支店の支店長であり[1]、裕福な家庭に育つ。1933年に野球の名門校だった旧制和歌山県立和歌山中学校へ進学するが、当時は野球部に入れば「勉学をあきらめる覚悟が必要」だったため入部を諦め、3年時にはラグビー部に所属していた[2]。しかし、4年生の秋、5年生7人が引退して5人だけになった野球部に入部し、二塁手と一塁手を務め、時にはリリーフ投手としてマウンドにも立った[3]。, 1937年夏の甲子園の紀和大会予選決勝では、旧制和歌山県立海草中学校と対戦。当時3年生の嶋清一の前に敗れて甲子園出場はならなかった[4]。, 1938年に旧制立教大学へ進学。当時の野球部には監督がおらず、後には実質的な監督役を務めている。文部省の命令でリーグ戦が中止となった1943年5月には、自ら申し入れて旧制明治大学との対外試合をおこなった[5]。学徒出陣により同年秋に応召。陸軍中尉にまで昇進し、温情に満ちた隊長として部下に尊敬されていた。中国で終戦を迎え、復員後は東洋金属、八幡製鐵、全京都を経て、立教の後輩の永利勇吉の誘いで星野組に移籍。星野組時代の1949年には監督・一塁手・3番打者として第20回都市対抗野球大会に出場し、チームを優勝に導いた。当時、西本は進駐軍から入手した中古のファーストミットを使用していた[6]。電気コードを紐の代用にしたところ、強振すると捕球網の部分が伸びる効果を生み、少し離れた打球や送球でも捕球できたという[6]。, 有力社会人チームの星野組に、プロ野球参入を目指す毎日新聞社は選手の供給源として着目し、西本によると都市対抗野球大会優勝直後からチームに勧誘がなされた[7]。西本は毎日新聞との交渉役となり、ここでも統率力を発揮して「選手全員の受け入れ」を毎日側に要請、最終的に西本を含む7人が毎日オリオンズに入団する[7]。入団直後の1949年11月26日には、「毎日のホープ西本」というキャプションでスポーツニッポンの1面を写真が飾った[6]。, 1950年、毎日の選手として公式戦に出場する。プロ入り時には既に30歳であり、選手としてのピークは過ぎていたが、1番(または2番)・一塁手の定位置を確保し、毎日のパ・リーグ優勝と日本一(日本シリーズ優勝)に貢献した。1952年には主将となり、1954年からはコーチを兼任。1955年引退[8]。, その後も毎日・大毎に残留し、1956年から1958年まで二軍監督、1959年はヘッドコーチを務めた。1959年11月14日に同年限りで退任した別当薫に代わって監督に就任。永田雅一オーナーは別当の後任に他球団からスターの監督を迎えようしたが上手くいかず[9]、そんな時に相談したのが南海の監督の鶴岡一人で鶴岡は「外で探さなくとも、チーム内に適任がいるではないか」と名前を挙げたのが西本であった[9]。永田は鶴岡の助言に渋々承諾した[9]。1年目にしてチームをリーグ優勝に導いたが、日本シリーズ第2戦での戦術(1死満塁のチャンスにスクイズプレイを仕掛けたがダブルプレー)を巡り永田オーナーと対立し、責任を取る形で辞任した(辞任の経緯については後述)。1961年は日本短波放送「プロ野球ナイトゲーム中継」解説者[1]、スポーツニッポン評論家[10] を務めた。, 1961年11月21日、阪急ブレーブス一軍コーチに就任。1962年11月6日からは監督に昇格。就任当時は弱小球団だったブレーブスを基本から厳しくたたき上げ、1年目のキャンプではキャッチボールから教えた。1967年に初優勝を飾ると、1973年までの7年間で5度のリーグ優勝に導き、常勝球団へと育て上げた。日本シリーズでは5度いずれも川上哲治率いるV9時代の読売ジャイアンツに敗れた。パ・リーグに2シーズン制が導入された1973年には、後期優勝しながらプレーオフで前期優勝の南海ホークスに敗れて優勝を逃すと10月25日に退任した。, 11月16日に翌1974年シーズンより近鉄バファローズ監督を務めることが発表された。ここでも弱小だったチームを一から鍛えあげ、1979年に球団初のリーグ優勝を果たした(2シーズン制時代の1975年に後期優勝)。日本シリーズでは広島東洋カープの前に敗れまたしても日本一を逃す。1980年もリーグ優勝するが再度、日本シリーズでカープに敗れた。1981年10月2日勇退を表明した。その後は1982年から2003年まで関西テレビ、1982年から1990年までニッポン放送の解説者、1982年から2011年までおよびスポーツニッポンで評論家として活動していた。, 監督勇退後は長らくプロ野球ニュース(フジテレビ系)の解説者を務めたが、東京(フジテレビ)のスタジオに出向くことは比較的少なく、特に高齢となった1990年代後半からは大阪・関西テレビからの中継が多かった。この他、1984年オフに大洋[11]、同年限りで辞任した安藤統男の後任監督として阪神から10月16日に球団社長自ら西本の自宅を訪問し直接監督就任要請を受けるも、表向きは高齢であることを理由に10月18日辞退を表明している[12]。阪神からは1996年オフにも藤田平監督の後任として声が掛かったが、やはり断っている[13]。2003年9月15日には、阪神タイガースがセ・リーグ優勝を決めた阪神対広島戦を最後に、高齢ということもあり同局の解説業から勇退した。, 晩年はめったに公の場に登場する機会はなく、兵庫県宝塚市にて隠居生活を送っていた。また2008年7月8日に夫人を亡くしたことを、2011年元日よりスポーツニッポン紙上で連載を始めた自身の回想録『我が道』にて明らかにした。, 2011年11月25日午後8時40分、隠棲していた兵庫県宝塚市の自邸に於いて心不全のため死去[14][15]。91歳没。その葬儀は同29日に自らが采配を揮った阪急西宮スタジアムの跡地(現在の阪急西宮ガーデンズ)にほど近いエテルノ西宮にて執り行われた[16]。法名は「慈徳院釋将幸」(じとくいんしゃくしょうこう)[17]。弔辞は梨田昌孝が読んだ[18]。, 20年間の監督生活で8度のリーグ優勝を果たしながら、日本シリーズでは1度も日本一に就けず、「悲運の名将」と言われた。ただし西本当人は自分が「悲運の名将」と言われることには否定的で、「もし、私が本当に悲運なら戦争で死んでいるし、復員してからも野球に再会できたり、大毎・阪急・ここ(近鉄)の3チームで素晴らしい選手に巡り合えて、8度も日本シリーズに出場などできない。“悲運の名将”なんておこがましい。敢えて言うなら“幸運な凡将”ですね(笑)」と語っている[19]。3つのチームを優勝に導いた監督は、プロ野球史上で西本、三原脩、星野仙一のみである(2019年現在)。三原が指揮したのが1リーグ時代の巨人とセ・パ両リーグから1チームずつ(西鉄・大洋)、星野がセ・リーグの中日・阪神とパ・リーグの楽天だったのに対し、西本が指揮したチームはすべてパ・リーグであり、現役時代も含めてパ・リーグ一筋の野球人生だった。, 阪急・近鉄時代には時間をかけて選手を育て、チームを作り変え、弱小球団を常勝軍団へと導いた。2球団を優勝に導いた監督は前記の三原・星野以外にも複数いるが[20]、西本のように、2チームで自らチームの土台を作り上げて優勝させた監督は少ないとされる[21]。, 1960年の大毎監督辞任、1966年の信任投票事件、1975年の羽田殴打事件などに見られるように、チームの強化と見込んだ選手の育成のためにはあえて鉄拳制裁や自身の首をかけることも辞さなかった。1978年オフには監督辞任を表明したが、「俺たちを見捨てないでくれ!」と選手に引き止められて辞任を撤回し、1979年・1980年とリーグ二連覇を達成。選手にこれほど慕われた監督は珍しく[22]、勇退表明後、最後の試合となった1981年10月4日の近鉄対阪急最終戦(日生球場)では試合終了後に両チームの選手から胴上げされた。, 阪急の監督を勇退した次のシーズンから同一リーグである近鉄の指揮を執ったが、このときは近鉄側から阪急の森薫オーナーに対して近鉄の監督に迎えたいという要請があり、森オーナーも本人の意向に任せるとしてこれを承諾した。近鉄との契約の席には森と近鉄社長の今里英三が同席する異例の形となった。このため、後に野村克也や星野が阪神の監督に就任したときのような非難めいた議論は当時起きなかった(また、野村や星野の阪神監督就任時にこの西本の前例にはほとんど言及されなかった)。西本は戦前・戦後の野球界の実情を知る数少ない人物でもあっただけでなく、鶴岡一人、千葉茂亡き後、日本プロ野球界において川上哲治に次ぐ重鎮中の重鎮として多大な影響力を持ち、西のドンとも呼ばれた人物であった。, 西本の教え子には阪急時代には米田哲也、梶本隆夫、足立光宏、森本潔、長池徳士、福本豊・山田久志・加藤秀司の「花の44年トリオ」、近鉄では鈴木啓示、佐々木恭介[23]、梨田昌孝、羽田耕一、平野光泰、井本隆、栗橋茂、柳田豊などが挙げられる。指導者について厳しい評価をすることで知られている広岡達朗は自著『意識革命のすすめ』で、西本をその育成能力の高さから、「プロ野球史上最高の監督」として評価している。吉田義男は「西本さんは名将であり、名コーチでありました」と話している[24]。, 上田利治は「阪急では改めて西本さんのすごさを感じました。本当に野球が好きで、チームを強くしたいという熱い気持ちがある。その分、選手にもなかなか妥協しない。でも、ただ怒るんじゃなくて、俺がここまでやるんだからお前もと引っ張る感じですね。厳しさと優しさがあった」[25]、「あの情熱と責任感、忍耐力。決して自分が表に出るわけじゃなく、しゃべる人でもなかったけど、ひとつひとつの言葉が重かった。戦争体験も大きく関係してると思うけど、もうああいう監督、リーダーは出てこんでしょうね」と西本について語っている[26]。西本の近鉄監督時にコーチを務めていた仰木彬は、近鉄監督就任時の会見で「目標は将来につなぐ為に若い選手を育成し、勝つこと。私は三原さんから知を学び、西本さんから情熱を学んだ。お二人の足したような野球がやりたい」と抱負を語っていた[27]。, 阪急監督時代、「良い外野手を作るには良いノッカーを作らなければならない」という考えから、当時打撃コーチだった中田昌宏に速く伸びる打球を打つように練習させた[28]。福本豊は「ノックを受けた阪急の外野手は、そりゃうまくなりましたね」と振り返っている[28]。, 後述にもあるが、「殴る監督」として有名であった。試合中は常にピリピリとした雰囲気があり、手抜きや怠慢と見られる自軍のプレーに対しては容赦なく拳を振るった。ただし、あくまでも「厳しいのはグラウンドの中だけ」というのが基本で、余程のことでなければグラウンド外に怒りを持ちだすことはしなかったという。, 佐々木信也(スポーツ評論家)がNHK教育テレビジョン「知るを楽しむ」で語ったところによると、1960年の日本シリーズ開幕を翌日に控え、西本と大洋ホエールズの三原脩監督の直前対談(佐々木司会)が日本教育テレビ(NETテレビ。現・テレビ朝日)の生放送で行われることになっていた。, ところが生放送のスタジオに三原がなかなか現れず、18時の放送開始当初から佐々木と西本による2人での座談会に終始した。これに西本は激昂し退席しようとしたが、佐々木が引き止めて何とか30分の対談は行われた。しかし三原はとうとう出演せず、本番終了後も西本の怒りは収まらず、NETからの出演ギャラも受け取らずに早々に自宅に引き上げた。, チームをリーグ優勝に導いた1960年の日本シリーズ終了後、在任わずか1年で西本は大毎監督を辞任する。その原因は、日本シリーズの采配にあった。三原脩監督率いる大洋の先勝で迎えた第2戦(10月12日、川崎球場)の8回表、大毎は、まず先頭打者の坂本文次郎がセーフティ・バントで出塁、続く田宮謙次郎の時に土井淳のパスボールで坂本が進塁、田宮も四球を選ぶ。さらにこの試合で本塁打を放っていた榎本喜八にバントを命じてランナーを送らせ、1死二・三塁のチャンスを作った。ここで大洋は先発・権藤正利をあきらめ、アンダーハンドのエース秋山登を投入し、山内一弘を敬遠させ、次の谷本稔と勝負する作戦に出た。谷本の第1打のファウルの後、西本はスクイズプレイのサインを送った。第2打で、谷本はサイン通りスクイズを仕掛けたが、打球はグラウンドでバウンドして捕手・土井の方向に転がった。土井は即座にボールをつかむと、本塁に駆け込んできた坂本にタッチした後、一塁に送球して打者走者の谷本を刺しダブルプレーとした。結局大毎はこの試合を落とし、2連敗を喫した。, 大毎のオーナー・永田雅一は試合をプロ野球関係者と一緒に観戦していたが、このスクイズを「今のはどうなの?」と聞くと、その関係者は今の場面でスクイズはありえない、と説明したため、試合後、永田は西本に電話を入れ、「ミサイル打線を誇る大毎が、好機にバントなどというアホらしい作戦を採るとは何事か! !」とスクイズの件を非難した。しかし西本も「打線の状態は私が一番熟知しているので、ご安心下さい」と主張して退かなかった。このシーズン、大毎は18連勝(1引き分け挟む)するなど快調に飛ばしていたが、終盤失速し、優勝を決めたのは最終戦の2試合前だった。, その後、永田の「あのバントはない。評論家もみなそう言っている」という言葉に、西本が「作戦は監督が決めるものです。だからこそ責任もとる。しかし、無責任な評論家が事後にいうことによって何かを言われるのは心外です」と反論したため、永田は激怒。「馬鹿野郎! ブログを報告する, [https://www.instagram.com/p/BiW24bvhMGW/:title=「67年秋、…, 「佐藤荒巻ライン」と呼ばれた継投策、 足を使った攻撃など当時としてはモダンな戦法の采配をつぶさに観察した。引退後西本さんは2軍監督に就き、厳しい環境のなかでひとのやる気を伸ばし、育てる難しさを体験する。途中球団合併で「毎日」が「大毎」と変わり、1軍コーチを経て1960年に1軍監督の座についた。そして1年目で, My Favorite Things:浜田昭八『監督たちの戦い』【我が野球のバイブル】, 10/17(土)外山雄三指揮、新日本フィル、上野耕平(sax)【俊英の躍動と重鎮の愉悦】, フェスタサマーミューザ2020【生誕250年ベートーヴェンから阿川泰子のジャズまで】】. 西本 幸雄(にしもと ゆきお、1920年4月25日 - 2011年11月25日)は、和歌山県和歌山市出身のプロ野球選手(内野手)、コーチ・監督、野球解説者、野球評論家。 そして翌年から同一リーグの近鉄の監督に就任した。この時、西本さんは自ら近鉄のフロントに電話して監督就任を打診していた。『監督たちの戦い・決定版』によれば. !」と西本を罵り、西本は「馬鹿野郎とはなんですか、撤回していただきたい」と取り消しを求めた。しかし永田は応じず、そのまま電話を切ってしまい、会話は終わった。結局、日本シリーズは大毎のストレート負けで終わり、西本は現役時代から所属した大毎を実質的な解任で去った。伊集院光によると、TBSに入社した永田の孫の守は「もし横浜(TBSは大洋の後身である横浜を2002年に買収)が優勝を狙えるチームになったら、西本さんを監督に招いて、『これで亡き祖父を許してくれないか』と伝えたい」と語ったという。, 当時大毎のスカウトを務め、永田雅一のもとにいた青木一三は、西本の監督退任について以下のように記している(要約)。「永田はシリーズ終了後に一応西本が挨拶に来るのを待っていたが、毎日新聞系の球団幹部が西本を温泉に「隔離」して会わせなかった。これを大映と毎日の「二頭政治」の弊害だと考えた永田は経営を大映に一本化して毎日側の役員を退任させ、同時に毎日側の役員が就任させた西本も合わせて退任した[29]。」, これに対して西本は1967年の座談会で、シリーズ終了後2日ほど自宅に帰る気になれず「雲隠れ」したものの、青木が言うようなことはなかったと発言[30]。戻ったあとに後援者などによる「残念会」の席で「4連敗についてはおわびせにゃいかんな」と電話のダイヤルを回しかけたが、「もうやめたらどうか」という声が参加者からあがったため、かけずにそのままになり、足を運んでお詫びをする気にもならないでいたところ、監督やスタッフが決まっていたと述べている[30]。西本はその後永田のもとに出向いて「お世話になりました」とだけ挨拶したという[30]。西本は2001年のインタビューでは「解任されたのか自分から辞めたのか、どちらかよくわからない」と語っている[31]。, 沢木耕太郎は、西本が監督を辞めたことにより、「(永田は)オリオンズの黄金時代を築ける芽を潰してしまった」と指摘している。西本の次になった監督は、同年にセ・リーグで国鉄を最下位にしてクビになっていた宇野光雄であり、永田が宇野を選んだ理由は「元巨人の選手(知名度がある)」だったからであった。しかし宇野の指揮能力はお世辞にも高いとはいえず、1961年7月25日の東映戦では代打に須藤豊を送ろうとした際に配慮のない言葉を掛けて須藤に怒鳴り返されるなどそれまでの上位チームらしい緊張感に満ちた雰囲気が弛んでしまい2年連続4位に終わって辞任。これ以降オリオンズは低迷するようになり、永田は監督に苦労し、後の山内一弘のトレード放出などによる「ミサイル打線」の解体に繋がった。西本は後年に「公平に見て、本来なら3・4年はミサイル打線をもつオリオンズの天下が続いたはずや」と述べている[32]。, 第2戦のスクイズの采配は波紋を呼び、更に大毎は第3戦・第4戦と続けて1点差で敗れた。これによって敵将の三原監督は、このシリーズを観戦していた石原慎太郎に「三原はおそらく当代のヒーローだろう」と賞賛されるなど、声価を高めた。一方、シリーズ終了後に西本は三原と比較され、特に第2戦のスクイズの采配に批判が集中した。監督1年目にしてリーグ優勝という功績は忘れ去られ、多くの評論家が西本にクレームをつけた。西本は後年、「今でもあのスクイズが誤りとは思っていない」と語っている[32]。, 1962年、西本は阪急のコーチに就任する。この当時の阪急は「灰色の時代」と揶揄されるほどの弱小球団であった。オーナーの小林米三から「道楽で野球をやっているのではありません。どうか、ブレーブスから灰色のイメージを取り払ってください」と懇願されての就任だった[33]。翌1963年に西本は監督に昇格し、弱小チームを立て直すためキャッチボールのやり方からやり直させるという厳しい練習姿勢で臨んだ。就任1年目は最下位だったが小林からは「小言の一つもなかった」とされ、以後2位、4位、5位の成績で、若手選手の成長が見られながらも結果が伴わなかった[33]。5位に終わった1966年、西本は球団社長の岡野祐(のちにパシフィック・リーグ会長)に「これだけ負けたらもう辞めた方がいいですかね?」と尋ねて慰留を受けた[33]。しかし、岡野は一方で河野旭輝を中心とする有力選手をたびたび自宅に招いて宴席を設けていた[33]。福本豊は伝聞として、岡野がヘッドコーチの青田昇に監督を替えて河野をヘッドコーチとする方針を決めていたと記している[33]。, 西本は、その年の秋季キャンプ直前の10月14日、来季も残留する選手に信任投票を義務付けるという思い切った策に出た[33]。西宮球場の会議室に選手を集め「次のシーズンも引き続き、一緒に戦ってくれる覚悟のある者は○印を、そうでない者は×印」を無記名で記載するというものだった[33]。一軍・二軍のマネージャー(矢形勝洋と白井半二)によって開票された結果、45票中「×」が7票、白紙が4票だった[33]。「×」と白紙の合計が11票という結果を西本は重く受け止め、岡野に辞任を申し出た[33]。, この結果には「主力・若手とも分け隔てなく鍛える」という西本の育成法に、当時の主力選手が辟易していたという事情があった。当時のエース米田哲也は「西本さんはとても困った監督で、練習態度が悪かったり試合前に飲んで二日酔いでゲームに出れば、たとえ主力でも使ってもらえなかった。試合での活躍が月給にはね返る我々としては、たとえふらついていようが試合に使ってもらいたい…と考えていた。でないと、勝てない。これを考えると西本さんの厳格さは困ったものだ」と引退後に述懐している。[要出典]一方、「×」を記した一人の梶本隆夫は、「監督が辞めるかどうかを決める投票だったとは思いませんでした。僕はそんなつもりで書いたのではありません」と直後に矢形勝洋に電話したという[33]。, 岡野は西本の辞意を小林に伝えたが、小林は「うちの監督は西本君しかいない」とそれを認めず、続投が決まった[33]。小林のもとには「西本を辞めさせるな」という手紙がシーズン中よりいくつも届いていた[33]。西本は後年「あんな馬鹿なことをやった私を、オーナーはそれでも信頼してくれた」と語ったという[33]。秋季練習の最終日に偶然から始まった西本と選手のマンツーマンによる打撃練習には、やがて主力選手も参加するようになり「西本道場」と呼ばれた[33]。この練習も功を奏して、翌1967年、阪急は球団創設32年目にして悲願のリーグ優勝を果たした。, 当時の大毎には前監督の別当薫を慕う「別当派」と呼ばれる選手がおり、九州でのオープン戦では球場に来ないなどして西本に反抗していた。西本はチーム分裂を憂い、後日のミーティングで「監督として俺を信任するかしないか、投票を行ってくれ」と言い残して部屋を去った。, それから選手だけによる話し合いが行われたが、山内一弘の「俺は野球さえやれればそれでいい。だから監督が別当さんだろうが西本さんだろうがかまわない」という言葉に榎本喜八が同調したことから、事態は収拾。結局、信任投票は行われなかった。, 西本はリーグ優勝によって選手の信頼を勝ち得ることができ、監督を辞任する時には選手たちから時計を贈られたという。, 1975年5月30日、阪急西宮球場での対阪急戦の試合中に西本が羽田耕一を殴打した事件である[34]。, この年、話題を集めた阪急のルーキー・山口高志に対して、近鉄は打撃投手を前から投げさせるなどの対策を練り、9日前の初対戦では勝利した[34]。この日は先発した山口に4回を終わって0-1の状況で、5回表の攻撃前に西本監督は円陣を組ませ、「ワンストライクを待て。高めのボールは絶対に手を出すな」と注意した[34]。しかしこの回の先頭打者だった羽田は、2球続けて高めのボール球をファウルした後、ショートゴロに打ち取られる[34]。怒った西本は、ベンチに戻ってきた羽田の頬を平手打ちした[34]。オフのためネット裏から目撃した鈴木啓示は「びっくりした」と述べた[34]。, 実は羽田は、試合の円滑な進行のための先頭打者の慣習としてウエイティングサークルに入っており、西本の指示は聞きようがなかった。当の羽田自身は、引退後に「最初は悔しかったけど、時間が経つにつれてしょうがないと思った。僕は怒られることは多かったが監督に対して絶対的な信頼があったので反抗したことはなかった」と語っている[要出典]。なお、5回の攻撃で羽田が凡退した後に近鉄は3点を挙げて逆転、最終的には6-2で勝利している[34]。, 西本は後日、羽田が円陣に加われなかったことを梨田昌崇から「羽田はあの時監督の指示を聞いてません」と指摘され、「しまった!」と感じたものの、羽田に対しての謝罪は行っていない。これは近鉄が球団合併によって消滅する際に出された刊行物の中での西本のインタビュー、羽田と栗橋茂の対談で明かされている[要文献特定詳細情報]。, 2015年2月2日に行われた三田学園高校の監督就任会見の際羽田は理想とする指導者として西本の名前を挙げて「本当に厳しい方で、今ではやってはダメだけど、手を出す方。でもグラウンドから一歩出ると優しくて、面倒見のいい監督だった。当時の選手は誰一人、悪口を言わなかった。そういう選手から慕われる監督でありたい」と述べていた[35]。, 1979年、ヤクルトから移籍したチャーリー・マニエルを擁して球団創設以来の初優勝を果たした直後の大阪スタヂアムで行われた広島東洋カープとの日本シリーズ第7戦。1点ビハインドの9回裏1アウト満塁で打者石渡茂にスクイズのサインを送るが、江夏豊投手に見破られ、三塁走者が挟殺。その後石渡も三振に終わり、ゲームセットとなる。この場面は山際淳司がSports Graphic Number創刊号にて「江夏の21球」として活写したことでも知られる。, なお、西本が采配をとった翌年のオールスター第3戦において、1点ビハインドの9回表無死満塁で全セのマウンドに江夏が登板、16球でゲームセットとなり「またも満塁で江夏に抑えられた」と言われた。2死になったとき打順はピッチャーだったが、すでに野手をすべて使ってしまっていたため、南海の投手である山内新一を代打として送り込んだもののあえなく三振に終わる。山内を起用したのは「彼が打撃がうまいという話だったから」と西本はコメントしている。その時、三塁走者だった福本豊は、「素人(山内)が、江夏を打てるわけないから」と本盗をしようとベンチを見たところ、「オヤジ(西本)に睨みつけられたため止めた。」と語っている。また、山内は他の南海選手のヘルメットが合わなかったため、近鉄のヘルメットをかぶっていた。, 左投げの選手は一般に、捕球して一塁に投げる時、「蟹の横這い」のような形になってしまうため、一塁手を除く内野手に不向きと言われている。左投げでありながらプロ野球で二塁手を経験したのは、西本と大東京の鬼頭数雄、阪急の山田伝の3人だけである。, 1951年8月16日、対西鉄戦、試合は毎日が選手を総動員する展開になり、9回の守りに入った時には、使える内野手が、一塁しか守れない三宅宅三だけになった。そこで西本は湯浅禎夫総監督に「三宅を入れましょう。自分は二塁に回ります。二塁は中学時代に経験があります」と進言。湯浅は背に腹は代えられないとして西本を二塁に回したが、守備機会はなかった。, 初の日本シリーズで対決して(試合前も含めて)苦杯をなめた三原脩とはその後も縁が続いた。三原が近鉄を率いてチーム初優勝に挑んだ1969年に、阪急の監督としてそれを阻んだのが西本だった。そしてそれから10年後に、西本が近鉄の指揮をとり、三原のなしとげられなかった近鉄の初優勝が実現した。, また、当時三原が相談役を務めていた日本ハムが、球団譲渡以来の初優勝(1980年後期)に“マジック1”と迫ったシーズン最終戦に西本率いる近鉄に大敗し、後期及びシーズンの優勝を近鉄に譲った。2012年までは3チームで胴上げ監督になったのは西本と三原だけであった[36]。, 2004年12月1日にオリックス・バファローズに吸収合併され球団消滅。合併先の歴代監督についてはTemplate:オリックス・バファローズ歴代監督を参照。, この結果には「主力・若手とも分け隔てなく鍛える」という西本の育成法に、当時の主力選手が辟易していたという事情があった。当時のエース, 阪急ブレーブス黄金の歴史 [永久保存版] よみがえる勇者の記憶 1936-1988、, 『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』P40 - 41。西本は嶋について「球が見えないんや。とにかくかすらない。それぐらい速かった」と述べている。記録ではこの試合で西本は1安打を放っているが、自身は記憶になく「どうせ当たりそこないや。まともなヒットなら嬉しくて印象に残っているはずだから」と話している。, 『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』P205。明治大学のマウンドには嶋清一が立ったが西本によると「球は海草時代ほどではなかった」という。, [完全保存版] 草創期から支え続けた147人の監督列伝 日本プロ野球昭和の名将、ベースボール・マガジン社、2012年、P10, 他の複数球団優勝監督のうち、就任前年の成績がいずれもBクラスだったのは広岡達朗・野村克也・星野仙一の3人。, 野球殿堂2012 The Baseball Hall of Fame 野球体育博物館 (編集)、ベースボールマガジン社、2012年、P88, 阪急ブレーブス黄金の歴史 [永久保存版] よみがえる勇者の記憶 1936-1988、ベースボール・マガジン社、2011年、P28, 近鉄バファローズ球団史1950-2004、ベースボール・マガジン社、2012年、P67, [完全保存版] 草創期から支え続けた147人の監督列伝 日本プロ野球昭和の名将、ベースボール・マガジン社、2012年、P12, 青木一三『ここだけの話 プロ野球どいつも、こいつも…』ブックマン社、1989年、P128 - 130。青木はそれ以前にも同趣旨の発言をおこなっていた。, 関三穂『プロ野球史再発掘(6)』ベースボール・マガジン社、1987年、P30 - 32。元の座談会は1967年に『, https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20111125-868609.html, http://web.archive.org/web/20111126234035/http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20111126-OHT1T00020.htm, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/11/25/kiji/K20111125002110610.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=西本幸雄&oldid=80128201, ※4 1973年から1982年までは前後期制のため、ゲーム差欄は前期順位、後期順位の順に表示. | 2020年4月25日、本来なら元プロ野球監督(大毎/阪急/近鉄)の西本幸雄さん(1920年4月25日~2011年11月25日)の生誕100年記念試合が開催予定だった。残念ながらプロ野球の開幕延期により中止となったがこの記念日に寄せて生前日本経済新聞の名物コーナー「私の履歴書」で残した半生記の内容を中心にその人生と業績を振り返りたい。, Tadashi Nakagawa on Instagram: “野球を深掘りする楽しみは人間集団の心の問題の不可思議さが感じられること。3冊はそれをリアルに検証したもの。男同士の関係が一度壊れるといかに厄介かを教えてくれる。 #プロ野球 #王貞治 #長嶋茂雄 #監督 #嫉妬 #読書 #人間関係 #日経ビジネス人文庫 #野球のバイブル…”, 西本幸雄さんが「私の履歴書」に登場したのは1992年8月。当時71歳、ユニフォームを脱いで10年余りたち、関西テレビの解説者を務めていた。1988年には野球殿堂入りを果たし、いわば功成り名遂げた身として人生を振り返った内容と言える。, 私は和歌山中学で1年間だけラグビー部に所属し、体をぶつけ合うこの競技のおもしろさを知った。ラグビー部を退部して、中学4年の時から、野球と本格的に取り組んだ。野球は間のあるスポーツだ。息つく間もなく展開するラグビーと違って、1プレーごと、1球ごとに間が生じる。, だから退屈で、おもしろくないかというと、これが決してそうではない。間があるから考えるし、邪念が入る事もある。そこに野球の難しさがあるし、おもしろさもある。, 中学、大学、ノンプロ、プロ野球を通じて、このスポーツの魅力にとりつかれてきた。(中略)野球は自分がプレーをしてもおもしろいが、コーチ、監督として参加しても、奥が深い。チームという人間の集合体が、苦しい鍛錬の時期を乗り越えると、上昇の機運といったものが肌で感じられるようになる。この時の楽しさは、何物にも代えがたい。, 野球に限らず、鍛錬は時間をかけて、同じ事を繰り返してやらねばならない。どれだけ熱心にやっても、思うように成果が上がらぬ事がある。どうしてこんな事をやらなければいけないのかと、くじけそうになる。, 私はあまりいい選手ではなかった。この程度の事しかできないかと、力の限界を何度も感じた。しかし、チームをあずかっている時は、限界というものを感じなかった。壁に突き当たっても、人と人との組み合わせを変えたりする事で、抜け出す道はあると思った。, 野球の魅力と難しさを端的に表現していると思う。野村克也さんの書くものより血と汗のにおいがするのは「熱血手作り野球」と呼ばれた西本さんらしい。その特徴を3つの視点からひも解いてみる。, 西本さんは立教大学、兵役を挟んでノンプロの別府星野組などを経て30歳で毎日オリオンズの内野手としてプロ入り、1950年から1955年まで6シーズンプレーした。そのため選手時代の実績に特筆するものはない。しかしアマチュアでの豊かな経験が評価され、指導者の道が開けた。例えば立教大学時代から既に後の名将の片鱗が覗える。, 主将で監督になった私は、練習にアクセントをつけるようにした。悲壮感をただよわせて、体力を消耗するだけではなく、やるからには効果が上がるような練習をしたかった。基礎体力をつける時期と、リーグ戦が近づいたときとでは、おのずから練習内容は違った。1週間の中でも、練習に強弱の差をつけた。, 別府星野組で選手兼監督をした時には選手の給料のやりくり、興行師と招待試合のギャラの交渉まで担った。また毎日選手時代は1950年の初代パ・リーグ優勝・日本一に輝いた湯浅禎夫監督の「佐藤荒巻ライン」と呼ばれた継投策、 足を使った攻撃など当時としてはモダンな戦法の采配をつぶさに観察した。引退後西本さんは2軍監督に就き、厳しい環境のなかでひとのやる気を伸ばし、育てる難しさを体験する。途中球団合併で「毎日」が「大毎」と変わり、1軍コーチを経て1960年に1軍監督の座についた。そして1年目でパ・リーグ優勝するが三原脩監督率いる大洋と対戦した日本シリーズは第2戦のスクイズ失敗が響いて流れをつかめないままストレート負けし、更迭されてしまう。この「短期決戦に弱い」一面は後々まで西本さんについて回った。, さて1年間の解説者生活を経て西本さんは1962年、阪急の2軍コーチに迎えられ、翌1963年には早くも1軍監督となった。その年は最下位、選手の体力不足を痛感したことから翌年のキャンプで筋力トレーニングを取り入れる。, (最下位は)やむを得ないと思った。 選手に1年間をフルに戦う体力がないのだ。まず根本的に、体力から鍛えなければならないと感じた。, 今でこそ各球団の間で、筋力トレーニングをするのは常識となっている。だが、当時は器具を使ったサーキットトレーニングをしている球団は、どこにもなかった。昭和39年の高知キャンプでは、高知市教委体育課長で陸連強化委員だった中川善介さんに、筋力トレの指導をお願いした。, 器具といっても、最近の何千万円もするものではない。鉄アレイ、バーベルなど、簡単なものだった。ところが選手は「ボディービルをやりにきたのではない。野球の練習をしにきたのだ」と、拒絶反応を示した。特に、投手たちは、肩に余計な筋肉がつくからと、頑強に拒否した。, サーキットは何クール化のセットになっていて、一定の時間内にやらないと、効果がない。ところが、気乗りせずにやると、時間がかかるばかり。背筋を真っすぐに立てて上げなければならない器具を、いい加減な格好で扱う。やむなくコーチ陣がつきっきりで、およそプロらしからぬ、強制という形をとってやらせた。, 1ヶ月もやると、体力はついてきた。きつく感じていた練習に耐えられるようになってきた。やっと選手が、筋力トレの効果を認めるようになった。それと同時に、練習というものは、つらくて苦しいものばかりでないと、かなりの選手が感じるようになってきた。, 基礎体力重視、強弱のアクセント、単に身体を痛めつけるより実効性を重んじる・・・立教時代からの一貫した姿勢が反映されている。こうした取り組みが功を奏し、1964年は「本当に強くなって得た成績だとは思わない」(西本さん)が阪急は2位に浮上した。, また1966年の冬には野手強化のため当時例のなかった少人数での練習を行い、後に主力となる森本潔、阪本敏三、長池徳二の成長に繋げた。, 一方で激しい一面もある。1965年以降成績が伸び悩み、フロントが一部選手まで取り込んで更迭を画策していると察知した西本さんは1966年の秋季練習前に選手を集め、何と無記名の信任投票を行った。, 辞めるという事については、悔いを残さぬつもりだった。ただ、選手が次第に力をつけ、これからという時期にさしかかっているのに、予想もしない形で、違った方へ曲がるのは無念だった。かといって、チェーンのはずれた自転車はこぎたくない。, その一方で、選手は酒の席で球団代表に迎合して、「あんな監督とは一緒にやれない」といっているだけではないかとも思った。「お前らの本心はどうなんだ」と聞きたくなった。(中略), 私と引き続き一緒にやる気のある者は〇、やりたくない者は✕印。退団が確定的な選手は加わっていないから、投票数は45票ほどだった。結果は✕印が4票、白票が3票。一般的には信任されたという事になるだろうが、私はそうとは受け止めなかった。, チームを動かして行く上で、これとこれをつかんでおけばいいという存在の選手が、5人ほどいる。100パーセント当たっているわけではないが、この時の阪急の「これとこれ」に該当する5人ほどが、✕印と白票を投じた。無記名でも、私にはそれがわかった。, 「非常なショックを受けた」西本さんはすぐ球団代表に監督辞任を申し出た。事態はどうなったのか、元日経運動部長の浜田昭八氏の『監督たちの戦い 決定版』(日経ビジネス人文庫;2001年)にはこう記されている。, 西本は球団に辞意を伝えて、引きこもった。渡りに舟と、球団は次期監督の選定に動き出そうとした。ところが、小林米三オーナーが西本支持を強く表明、球団に慰留を指示した。ほどなく、なにごともなかったように、西本はもとのサヤに収まった。, 心おきなく練習を指揮したいという純粋な気持ちが、信任投票、辞意表明という過激な行動をとらせたのか、しかし、アンチ西本派は「違う。監督交代に動くフロントに反撃したパフォーマンス。もちろん、オーナーの支持を当て込んでいた」と屈折していた。, 結局留任した西本氏。翌年の1967年、シフトや配球の分析で日本の野球を変えたと言われるスペンサーの活躍、前述した冬の少人数練習の成果などにより、阪急は球団創立以来初のパ・リーグ優勝を果たした。浜田氏はこう結んでいる。, 白票を入れたことを明かした選手が、のちに西本に「話が唐突だったので、わけがわからないまま投票した」と言った。✕はだれとだれ、笑い飛ばせるようになったのも、時間が互いの不信感を洗い流してくれたから。翌67年から阪急が3連覇したのも、怒りや憎しみを消し去る大きな要因となった。, 選手に直接、信を問うことが、監督の行動して望ましいとは言えないだろう。ただ、ことの善しあしは別として、12球団で選手による監督の信任投票をすると、どんな結果が出るのかと、興味がわく。ファンによる人気投票とは、かなり違った結果が出るような気がしてならない。, 「信任投票事件」を乗り越えた西本さんは阪急を1967年~1969年、1970年と1971年の計5回、パ・リーグ優勝に導く。, 阪急は1968年ドラフト会議でノンプロ勢に狙いをつけ1位山田久志(新日鉄釜石)、2位加藤秀司(英司)、7位福本豊(以上松下電器)を指名。なんと3人とも後に名球会入りし、ドラフト史上最大のヒット指名とされた。言うまでもないが取ってから育て、チームの強化に繋げた点が西本さんの非凡さ。「私の履歴書」からは3者3様の接し方をしたことがわかる。, 福本があれほどの選手になるとは思わなかった。阪急には山本公士という、素晴らしい足を持ち、守備もいい外野手がいた。その後継者になればと期待されたものの、ドラフト指名順位は7位だった。, 入団の決まった福本が、同じ松下電器から入った加藤と一緒に、自主トレに参加した。屋内練習場でガンガンと打つ阪急の主力打者のスイングを見て、2人は「えらい所へ入ったなあ」と話していた。その日、打たせてみたが、主力とのスイングの差は歴然。それは仕方ないとしても、2人が運動靴のままで打った心掛けの悪さに失望して、いきなり説教をしたものだった。, 『監督たちの戦い・決定版』によれば2人のリアクションを聞いた西本さんは心の中でニンマリしたらしい。「攻撃も叱責も先制が効果的」だと。その後の2人の努力を西本さんはこう綴る。まず福本。, 福本は1年目から代走で使ったが、盗塁のサインを出しても、全く走れなかった。「足が動かない」と言うのだ。そこでファームへ落とし、試合状況がどうであれ、走らせるようにした。するとスタートのコツをしっかりとつかみ、盗塁王への道を開いた。, 小柄だが、体作りには大変な努力をしていた。パワーがつき、2年目からは打者としても使える見通しが立った。ところがある時、左打ちの福本が、左方向に流す練習ばかりしていた。左へ転がすと、お前の足なら全部ヒットになると、南海のブレイザー・コーチに言われて、その気になっていたのだ。それでは小ぢんまりとまとまって、すぐに行き詰まると、私は反対した。福本は盗塁で名をはせると同時に、トップ打者としては最多の208本の本塁打を打つ打者になった。私のアドバイスは間違っていなかったと思う。, 加藤はファームでじっくりと育てる方針だった。加藤の打力を早急に必要とするチーム構成でなかったからだ。ところが、ドラフト2位の加藤は、7位の福本の一軍入りに焦った。そして、事もあろうに片岡博国二軍監督とケンカをしてしまった。片岡さんは「秩序を乱すあんなヤツはクビにしてくれ」と怒った。やむなく私が一軍で預かる形となった。, 当時はスペンサーが打線から抜け、3番にだれをすえるかが問題だった。記者たちの質問に「それは加藤」と答えたところ、各氏が大きく取り上げてくれた。加藤はそれを見て、各コーチに「本当か」と、たずね回ったそうだが、私の所へは聞きにこなかった。, 一本気な男で、もともと練習はよくやっていた。それ以後は、文字通り死にもの狂いの練習ぶりだった。左打者なのに、右へ引っ張るのが不得手だったが、右腕をたたみ振り切る打法を、短期間でマスターした。ケンカがきっかけとなり、マスコミが後押しした3番打者の誕生だった。, 山田は富士鉄釜石(新日鉄)の時、腰を痛め、入団が半年遅れた。故障が治っている事がわかったので、入団2年目の昭和45年には、どんどん投げさせた。打たれても、負けても山田で押し、この年の山田は52試合登板、10勝17敗という成績だった。, 試合を犠牲にしてまで投げさせたのも、山田を一目見た時から、これは阪急の将来を託す投手だと感じたからだ。打者は作れるが、投手は足腰のバネ、肩の強さなど、素質がものをいう。山田にあと必要なのは、実戦での経験だけと思った。打たれてもくじけず、山田はよく耐えてエースになった。, 獲得した戦力を生かすにはコーチの手腕が欠かせない。せっかく逸材がおかしなコーチの助言で潰れたなんて話は球界の歴史でいくらでもある。西本さんのコーチ人事ではそれまで接点のなかった青田昇を起用してチーム強化に繋げたことが有名だが「コーチを育てる」点においても非凡だった。, 選手が輝き始める背後には、コーチの努力も隠されている。福本は足は速いが、守備はお粗末だった。これを一級品にしたのが、中田昌宏コーチのノックだった。中田のノックは初めのころ、しゃくり上げて打つだけだった。これだと、ノックの打球は高く、ゆっくりと弧を描くか、ドライブがかかって失速するかだ。, 打者が放つような、伸びるノックの打球を飛ばさないと、いい外野手は育たないと厳しく注文をつけた。中田は現役時代に本塁打王になったほどの選手だ。懸命にノックの勉強をして、素晴らしく伸びる打球を打つようになった。中田自身も、そんなノックをして、選手がファインプレーをするようになる喜びを味わえたと思う。, 中田昌宏は以後阪急、オリックスでコーチやフロントとして長く貢献するがそれ以上に大きな「遺産」となったのは上田利治、仰木彬。, 上田利治(1937~2017)はアマチュア時代、村山実とバッテリーを組んだ野球エリートで即戦力捕手と期待されてカープ入りしたがポジション争いに敗れ、実働わずか3年だった。しかし真面目な姿勢が買われて指導者の道を歩み、カープのコーチや大リーグ見学で力をつけた。西本幸雄さんとの出会いは意外なきっかけだった。, 西本幸雄がほんの2、3日早く山内一弘に声をかけていたら、上田の人生も、球史も大きく違った展開を見せたことだろう。, 阪急の監督だった西本は70年秋、広島の選手で現役生活にピリオドを打つ山内に、コーチ就任を求めた。西本が大毎の監督だった時の主砲。気心は知れているし、打撃理論も高く買っていた。ところが、山内にはひと足早く巨人監督の川上哲治からコーチ就任の声がかかり、入団を決めていた。そこで自分の代わりに、上田を紹介した。, 山内は広島で3年間、この5歳年下の打撃コーチと接して、ほとばしるような情熱と優れた打撃理論に注目していた。西本はそれまで上田と面識はなかったが、勉強家であるといううわさは耳に届いていた。元捕手ということで、バッテリーを中心としたディフェンスを担当させようとすると、上田は打撃を担当したいと言った。打者育成にかけては第一人者の西本に申し出るのだから、相当の自信である。, 阪急にとっては、入団3年目を迎える加藤秀司、福本豊のバットに磨きをかけなければならぬ大事な時期だった。まかり間違うと、チーム作りのプランは根底から狂う。だが、西本は上田の熱意にかけた。紹介者山内の眼力を信用したことは、言うまでもない。, (中略)阪急での上田は”代役”であるをみじんも感じさせなかった。10年も前からチームに居着いているかのように、精力的に動き回った。広島でもそうだったが、監督にも臆せずに意見を述べた。これまでの阪急になかったタイプのコーチの登場を西本は歓迎し、チームは活気づいた。, 上田利治にとっても強豪阪急で働くことで各選手の役割分担や強さを保つためのテコ入れの重要性など多くを学んだ。そして1974年、西本さんの後任として阪急監督に就くと「西本の遺産」を巧みに殖やし、1975年~1978年までパ・リーグ4連覇(最初の3年は日本一)を達成、2003年に野球殿堂入りする名将となった。西本さんと上田利治の成功により現役時代の実績や生え抜き、外様にとらわれない「適材適所」の人事の重要性が球界で広く認識された。, もうひとりの仰木彬(1935~2005)とは1974年に就任した近鉄監督時代に巡り合う。三原脩が率いた全盛期の西鉄のセカンドだった仰木は1970年に三原が監督を務める近鉄でコーチとなり、三原の離任後もとどまっていた。『監督たちの戦い・決定版』によれば西本さんは当初仰木を遠ざけたようだが次第に力量を認識していく。, オリックス監督の仰木彬は、西鉄で三原脩に育てられた。三原の野球観、人生観に大きな影響を受けたが、監督-コーチの関係は、70年の近鉄で1シーズンあっただけ。コーチとして最も長く仕えた監督は、近鉄の西本だった。74年から81年まで8年間。コーチを務めながら、監督術をしっかりと学んできた。, 近鉄での仰木はコーチ陣の手直しをするたびに、球団の解雇リストに名が挙がった。三原とその直系の岩本堯が退陣したあとはお役御免と見られたのだ。西本はコーチ陣編成については、いつも球団案を受け入れた。ただこのときの、仰木を切る方針には、妙にひっかかりを感じた。まじめなコーチぶりで、はずす理由はどこにもない。球団の方針に初めて背き、三塁ベース・コーチに登用したら、実にいい仕事ぶりだった。「サインの受け方、出し方、ゴー、ストップの判断は完ぺきだった。敵味方の選手の状態と戦況を的確に把握して、ただの一度もミスしなかった」と、西本が珍しく褒めちぎった。, 当時から、指導者としてなにかを内蔵している感じだったが、表に出さなかった。「仰木マジックとやらで、今は色々とアイデアを出しているが、当時は提言しないコーチだった。それがいい、悪いの問題ではなく、監督からすれば、方針に沿って忠実に行動してくれる。ありがたいコーチだった」と言っていた。, 仰木は長いコーチ生活を経て1988年、近鉄監督に就任。1年目からいわゆる「10.19」と語り継がれるライオンズとの熾烈な優勝争いを演じて2位、翌89年はライオンズを撃破してパ・リーグ優勝した。1994年からオリックス監督に就くとイチローを売り出し、1995年、1996年にパ・リーグ優勝。1996年は日本シリーズで長嶋茂雄率いるジャイアンツを破って日本一。2004年に野球殿堂入りを果たした。, 西本さんはコーチ人事に関して「一族」を引き連れるタイプではなく上記のように球団が揃える陣容を基本的に受け入れた。「最近は新監督が息のかかったコーチをごっそり連れていく。私の場合は、このコーチでなければやれない、ということはなかった」とした上で「その代わりに私の方針を話して、それを守ってもらう。グチは別として、コーチには相談せずに、押し付けたといった方が当たっている」と述懐している(『監督たちの戦い・決定版』より)。原則を貫きつつ、幅広い視野で選んだ熱意あるコーチによるチーム活性化を図る姿勢は、結果的に将来の名将まで育てることになった。, しゃにむに選手を鍛え、ドラフトの運もあって強い阪急を作り上げた西本さんだったが日本シリーズでは同じ1920年生まれの川上哲治監督率いるジャイアンツに5回とも敗れた。通算で8勝20敗と文字通りの完敗。その理由を西本さんはこう見ていた。, 巨人の長嶋茂雄、王貞治の2人は、素質のままで通用する力があった。2人以外の選手は、訓練された力を、組織的に発揮して、相手を苦しめた。それを象徴するのが「ボールを打たぬ」という、ごく基本的な事だった。, 選球だけではなく、当時の巨人の選手は、野球の上での役目を心得ていた。やっていい事と、いけない事とを、ちゃんと区別していた。それほど強固な巨人も、川上哲治監督から長嶋監督になったとたんに、大きく変わった。川上時代のわき役たちは、ボールカウント2ボールノーストライクでは、まず待球だった。それなのに、平気でボールくさい球に手を出した。こうあってはいけない事も、散見されるようになった。, V9巨人は日本プロ野球史上で、最も完成されたチームだったと思う。そのチームでも、ちょっとネジが緩むと大きく変わるという、人間集団の恐ろしさを感じた。, 5度の対戦の中で「忘れられない」と西本さんが記すのは1969年第4戦と1971年第3戦。, 前者は4回裏にホーム上のクロスプレーを巡って阪急捕手の岡村浩二が球審の岡田功に暴行して退場。さらに代わった捕手は投球を捕球せず、岡田球審に直撃させる「報復」をした。阪急はリードしていたのに我を失って自滅、逆転負けしたばかりか品位を欠くという汚名まで被った。, 後者は9回裏まで1-0とリードしたがエース山田久志が王貞治に逆転サヨナラスリーランを被弾。山田はマウンド上に崩れ折れた。西本さんが問題にしたのはその前の2アウト1塁で長嶋茂雄が打った当たり。ショートゴロと思われたが阪急のショート阪本敏三が一瞬打球方向と逆に動き(そのように西本さんには見えた。阪本は否定)、センター前へ抜ける安打になったのだ。, 『監督たちの戦い・決定版』ではこの2試合を「痛恨の2敗」としている。そして1971年日本シリーズの終了後、西本さんは行動に出た。捕手岡村、遊撃手阪本を東映の捕手種茂、遊撃手大橋とトレードしたのだ。同一リーグのチーム同士で同一ポジションの選手同士の異例のトレード、「熱血手作り」でも感傷的にならないのが西本さんだった。, 1973年、パ・リーグは前後期制が導入され、後期優勝の阪急は野村克也選手兼任監督率いる前期優勝の南海ホークスとのプレーオフで敗れ、西本さんは阪急監督を退いた。そして翌年から同一リーグの近鉄の監督に就任した。この時、西本さんは自ら近鉄のフロントに電話して監督就任を打診していた。『監督たちの戦い・決定版』によれば, 73年に阪急の監督を辞任した西本については、「阪急のフロント入りするはずだったが、近鉄が同年秋、礼を尽くして監督に迎えた。阪急はリーグ発展のために、貴重な人材を譲った」と、表向きには言われていた。だが、西本自身が明かした事実は、堂々とした「売り込み」だった。, 「阪急は2年後ならどこへ行ってもいいという条件をつけて、フロントに席を用意してくれた。だが、特別な仕事があったわけではない。まだ体力も気力もある。このとき53歳。ここでの2年は貴重だ。そこで近鉄の中島に連絡して、《オレをいらないか》と伝えた。」, 近鉄の中島正明編成部長は、西本が立大野球部の主将だったときのマネジャーだった。岩本堯監督が辞任した近鉄は、後任を探していた。若い選手が多い近鉄にとって、西本の申し出は願ってもないものだった。近鉄と阪急の上層部の間で、ごく儀礼的な交渉はあった。しかし、この大物の移籍は、学生時代の仲間が話し合った時点で、実質的に決まっていた。, ちなみにセ・リーグの指揮を頭に浮かべたこともあったが「ここで改めて、セの野球を勉強するには、時間が足りないと思った」そうだ。フロントやネット裏で充電しながらセ・リーグの野球を勉強しよう、という発想は西本さんにはなかったらしい。, なお西本さんは後任監督の調整に手間取っていた阪急の森薫オーナーから相談され、前述の通り、上田利治コーチを推薦する。上田監督率いる阪急は1975年~1977年までパ・リーグ優勝と日本一を成し遂げ、1976年と1977年は先に西本さんが触れた長嶋監督率いるジャイアンツを破っている。あえて「長嶋ジャイアンツ」に言及したところに「上田阪急」を称える意図と「川上相手だから負けたんだ」という悔しさがにじむ。, さて1974年、近鉄監督に就いた西本さんはさっそく自主トレを視察。直ちにランニング中の梨田昌崇(昌孝)、佐々木恭介などの3年目グループを厳しく叱責した。, 近鉄ナインは人間的な面では、外から見ていた通りに、いい連中がそろっていた。だが、勝つという事に関しては、なにかにつけて、ポイントが少々狂っていた。その1つの例が、練習に取り組む姿勢だった。昭和49年に近鉄の監督に就任した私は、自主トレの初日に選手を激しく叱った。, 選手が隊列を組んで走る時、先頭を切るのは新入団選手だ。次いで2、3年目の選手、中堅どころ、ベテランと、年齢順に並んで走るのが、大体どの球団でも習慣になっていた。近鉄でもそうだったが、先頭、2列目に並んで一生懸命に走る選手を、後ろにつけた連中がブレーキをかけていたのだ。(中略), 私はブレーキをかけていた何人かの選手を呼び止め、全員の目の前で怒鳴りつけた。ようやくプロの水になじみ、主力選手への道を歩き始めた連中だ。なるほど厳しい監督だと、選手たちが感じるシーンもあったかもしれない。だが、考え違いは一刻も早く指摘してやらないと、次の技量を身につける段階へ進まない。, 問題のある選手だけを片隅に呼んで、間違いを指摘してやるという方法もあるだろう。しかし、それが選手のメンツを重んじた方法だと私は思わない。いってみれば、チームは一家だ。なにが間違っているか、家長はなにを許さないかを、一家全員に知らせるためには、陰でこっそりとやらない方がいい。陰でやっていたら、周知徹底のために、何度も同じ事を繰り返さなければならなくなる。(中略), 初日に方針を明確にした事で、以後の練習はスムーズに運べた。あそこで私が、様子を見てから注意しようと、少しでもためらっていたら、チーム改革にはもっと時間を要したと思う。, 最初にガンとやった西本さんは1974年シーズン終了後のオフから新旧交代のために大きな決断をする。1976年シーズン後までにクリーンアップの一翼の土井正博、元首位打者の永淵洋三、勝負強い打撃で鳴らした伊勢孝夫のベテランの主力3人を次々と放出したのだ。その意図を『監督たちの戦い・決定版』はこう記している。, ベテランを外して生まれた空席に西本は1974年の自主トレ初日に叱った若手たちを抜擢していく。, 若手登用、育成を言うは易しいが行うは難しい。戦う集団には結果が求められるし、目先の結果に拘る雑音も内外から聞こえてくる。特にマスコミは功績のあるベテランに同情的だから往々にして「結果論」で責めたてる。ハイリスクでリターンの保証はない。西本さんは自身の決断をこう語る。, 1980年も近鉄は優勝したが前年を含めて日本シリーズは古葉監督率いるカープにいずれも3勝4敗で敗れた。1979年第7戦9回裏の攻防は故・山際淳司さんがスポーツノンフィクション「江夏の21球」にまとめ、多くのひとの記憶に残る。結局西本さんは日本シリーズに8度進出して8度とも敗退、1960年の日本シリーズと「江夏の21球」における2度のスクイズ失敗で短期決戦に弱い「悲運の名将」のイメイジが定着した。統計学的に言えば日本シリーズに8度進出して8度とも敗れる確率は0.3%だという。, 西本さんは自身を「幸運な凡将」とみなしていた。「日本一になれなかったのは心残りだが、最高の場へ8度も進めたのは、悲運どころか、幸運だったと思う。私はあの時点で、一番いいと思われる方法を選択したと思っているから、全く悔いはない。しかし、せっかくの選手の努力が実らぬ策をとって、皆に悪いことをしたと思う」。, 1981年、西本さんが近鉄監督として臨んだ最後の試合が終わった後、近鉄ナインはもとより対戦相手の阪急のナインも加わって合同胴上げが行われた。, 球界の功労者が退く際の合同胴上げは2009年CSセカンドステージの野村克也イーグルス監督、2019年日本シリーズの阿部慎之助選手(現在のジャイアンツ2軍監督)などで見られたが西本さんのケースはその先駆け。2009年CSセカンドステージの場合、ファイターズ監督の梨田昌孝がかつて西本さんを胴上げしたひとりだったので当時を思い出し、野村監督の合同胴上げを呼びかけた。, 西本幸雄さんは今まで取り上げた数多くの選手を育て、コーチで重用した上田利治や仰木彬などに大きな影響を与えた。2人は監督として西本さんが果たせなかった「ジャイアンツを破っての日本一」を成し遂げた。, 「人づくり」の名人であり、「育てる」と「勝つ」を両立した稀有な監督としてその名前はプロ野球史に輝き続けている。, choku_tnさんは、はてなブログを使っています。あなたもはてなブログをはじめてみませんか?, Powered by Hatena Blog