カリフ制とは (最後のカリフ:アブデュルメジト2世) ムハンマドの死後、その後継者としてカリフが成立します。 カリフは「ムハンマドの後継者」のことで、宗教的権限を除く、政治・社会に関する権限を有して、イスラム共同体(ウンマ)を指導しました。 株式会社ゆうちょ銀行および日本郵便株式会社が発行するプリペイドカード・デビットカード。国際的なクレジット決済ブランドであるVisaの加盟店で利用できる。年会費は無料で、満12歳以上(小学生を除く)のゆ... 「コトバンク」は朝日新聞社の登録商標です。「コトバンク」のサイトの著作権は(株)朝日新聞社及び(株)VOYAGE MARKETINGに帰属します。 しかし、きわめて短い期間にこれだけの大帝国の支配者となったことは、イスラム教徒同士の利害の対立を招き、第3代カリフのウスマーンと第4代カリフのアリーは、相次いで同じイスラム教徒によって殺された。アブー・バクルの即位からアリーの暗殺までを正統カリフ時代(632~661 イスラム主義, イスラームにおけるイーサー イスラム主義, イスラームにおけるイーサー モリスコ イスラーム建築 ムスタファ4世(1807年 - 1808年) 30. セリム3世(1789年 - 1807年) 29. ©The Asahi Shimbun Company / VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved. カリフ(英語: Caliph)あるいはハリーファ(アラビア語: خليفة‎ khalīfa) は、預言者ムハンマド亡き後のイスラーム共同体、イスラーム国家の指導者、最高権威者の称号である。 No reproduction or republication without written permission. スーフィズム ムハンマド・アリー・ジンナー, イスラム帝国(イスラムていこく、アラビア語: خلافة‎, 英語: caliphate)は、イスラム教(イスラーム)の教えに従って生まれたイスラム共同体(ウンマ)の主流派政権が形成した帝国のこと。, この用語は、イスラム帝国と呼ばれる政権自身の用いた呼び名に基づいたものではなく、現代の歴史叙述の上で便宜的に用いているものである。現代日本の用例では、おおよそ3つの使い方がある。, 大食(タージ)は、ペルシャ語の (Tāzī) の中国語音訳である。元来はアラブ人のことであるが、拡大してイスラム教徒全体や、その国家を表すようになった。, (Tāzī) は、アラブの有力部族だったタイイ族 (Tayy) の名から来ている。タジク人と同語源という説もある。, イスラム教の開祖ムハンマドの死後、ムハンマドの代理人としてイスラム共同体の後継指導者となった4人のカリフたちが構築した国家。首都はムハンマド以来のイスラム共同体の所在地であるマディーナ(メディナ)がそのまま使われた。, 初代カリフのアブー=バクルのときアラビア半島のアラブ人を統一、第2代カリフのウマル・イブン・ハッターブのときにはシリア地方、エジプト、イラク、イランにまで兵を進めて、アラブ人が多民族を支配する帝国を築き上げた。, 第4代カリフのアリー・イブン・アビー・ターリブのとき、首都をイラクのクーファに移したが、同じころ内部対立による不満が高まり、反乱が続発する。第3代カリフのウスマーン・イブン・アッファーンおよび第4代アリーは反対派による暗殺に倒れた。, アリーの暗殺後、アリーの政敵であったシリア総督ムアーウィヤが自らカリフに就任して建設した政権。就任に至る経緯、およびムアーウィヤがカリフ位の世襲化を始めたことから、これまでの4人の正統カリフに比べて合法性で劣るとみなされたが、大多数のムスリム(スンナ派)はウマイヤ朝の支配を承認したので、イスラム帝国最初の世襲王朝となった。, ウマイヤ朝は正統カリフ時代末期の内紛を収めて安定した支配を構築すると、西では北アフリカ、アンダルス(イベリア半島)、東ではホラーサーンまで勢力を広げ、アラブ人が異民族を支配する『大世界帝国』へと発展した。, 8世紀半ば、ウマイヤ家よりもムハンマドの家系に近いアッバース家を指導者として行われた革命によって成立した政権。ホラーサーンを王朝発祥の基盤とする東向きの帝国で、イラクのバグダードを首都とした。アンダルスではウマイヤ朝の残党が後ウマイヤ朝を建設してアッバース朝の支配から離れたが、それを除いた帝国のほとんどを継承し、さらにタラス河畔の戦いで唐軍を撃退すると中央アジア、インドまで勢力を広げてイスラム国家としては過去最大の版図を実現した。, 王朝の初期にはアッバース革命に参加したイランのペルシア人たちが政権において官僚として活躍し、地方でもアラブ人の絶対支配体制が解消されてムスリムの原則的な平等が実現した。このため、非アラブ人はイスラムに改宗することによる税制上のメリットが得られるようになり、かえってアラブ化・イスラム化が進むことになる。また、カリフの政治はイスラーム法に基づいて実施されるようになった。このため特にアッバース朝こそを「イスラム帝国」と呼ぶこともある。, しかし、9世紀に入ると地方が次第に自立し始め、早くも統一が失われていった。10世紀には北アフリカで興ったファーティマ朝がシーア派を奉じ、アッバース朝に対抗してカリフを称した。さらにアンダルスの後ウマイヤ朝もファーティマ朝との対抗上カリフを自称し、イスラム世界に3人のカリフが並存する本格的な分裂時代に入った。, また、バグダードのアッバース朝中央ではマムルーク(奴隷身分出身の軍人)がカリフにかわって実権を握り、アッバース朝の支配は弱体化した。946年にはイランのシーア派王朝ブワイフ朝がバグダードの支配権を握ってカリフ政権は形骸化し、1055年にはブワイフ朝を滅ぼしたセルジューク朝がカリフからスルターンの称号を与えられて世俗の支配権を譲られ、カリフは名目的な支配者となっていった。, セルジューク朝の衰亡後、バグダード周辺の支配力を回復しつつ、イスラム帝国の支配者カリフとして各地のスンナ派諸王朝に名目的な宗主権を認めさせていたアッバース朝がモンゴル帝国によって完全に滅ぼされるのは1258年のことである。以後もカリフを主張する者は現れたが、イスラム帝国の全域を覆う帝国はついに生まれなかった。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=イスラム帝国&oldid=79594452, ヨーロッパの歴史家が長らく正統カリフからアッバース朝までのイスラム国家に対する呼称として用いてきた「. イスラーム建築 スーフィズム モリスコ イバード派 https://web.archive.org/web/20140813213120/http://sankei.jp.msn.com/world/news/140708/mds14070813050006-n1.htm, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=カリフ&oldid=80181121. アラビア語で「後継者」の意味。イスラムの開祖ムハンマドの死後、イスラム共同体を政治と宗教の両面で率いる指導者を選び、カリフと呼んだ。 1922年にオスマン帝国が滅亡しカリフ制も終わった。 イスラム主義者には穏健、過激にかかわらず「カリフ制再興」を唱える声が根強くある。 〘名〙 (caliph, calif 元来は「(マホメットの)後継者」の意のkhalīfah からきた語) マホメットの死後、イスラム世界の最高主権者に与えられた称号。〔外来語辞典(1914)〕. また、当サイトで提供する用語解説の著作権は、(株)朝日新聞社及び(株)朝日新聞出版等の権利者に帰属します。 1876年のオスマン帝国憲法でスルタンとカリフの兼任が明文化。トルコ革命で1922年にスルタン位が廃止。1924年にカリフ位も廃止。イスラム世界公認のカリフは消滅。 28. イバード派 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報, イスラム教の預言者ムハンマド(マホメット)没後の、イスラム社会の最高指導者をいう、イスラム政治学での用語。アラビア語ではハリーファkhalīfa(継承者、代理人)といい、カリフはその英語なまりである。実際の最高指導者は「信徒の長(アミール・ル・ムーミニーン)」と称することが多く、カリフという称号が用いられた例はかならずしも多くない。, 最初の4代のカリフは、神に正しく導かれたカリフという意味で正統カリフとよばれ、その時代は正統カリフ時代(632~661)とよばれる。ついでウマイヤ家がカリフ位を独占するウマイヤ朝(661~750)、さらにアッバース家がカリフ位を独占するアッバース朝(750~1258)と続いた。10世紀から11世紀にかけての時期は、アッバース家のカリフに対抗して、ファーティマ朝の君主と後(こう)ウマイヤ朝の君主もカリフを称し、イスラム世界に3人のカリフが並存する時代であった。その両王朝が滅亡したのちは、各地で実質的に独立していたイスラム王朝は、アッバース家のカリフとしての権威を認めたが、アッバース朝滅亡後はその実質的な意味を失った。19世紀末から第一次世界大戦の時代に、オスマン・トルコ皇帝がカリフと称して全イスラム勢力の結集を試みたが失敗した。, 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例, …当時メディナにも70人余りのムスリムがおり,イスラムはわずか150人ほどの信者をもってその紀元(ヒジュラ暦)元年を迎えたのである。 ムハンマドの没後,新しい指導者としてアブー・バクルをカリフに選び定めたムスリムは,その指導のもとに大規模な征服を開始した。彼らは7世紀の半ばまでにササン朝の全領土を併せ,シリアとエジプトをビザンティン帝国から奪った。…, …16‐17年に行われたエジプトのブルジー・マムルーク朝のスルタン,ガウリーに対する遠征では,アレッポの北マルジュ・ダービクMarj Dābiqの戦で勝利を収め,シリアからエジプトに至る地域を属領化した。なおカイロに亡命中のアッバース朝カリフの末裔から全スンナ派の庇護者,信教の首長としてのカリフの称号を譲り受け,スルタン・カリフ制が成立したが,ロードス島攻略を準備中に没した。彼は詩人としての側面もあり,学術にも関心をもち,史書を愛好した。…, …第1次世界大戦後のイギリスの対トルコ政策,とくにイスラム国家最高主権者カリフの廃止をめぐり,カリフ制擁護を掲げてインド・ムスリムが立ち上がった反英闘争の一つ。アリー兄弟,アーザード,モハニらが結成したヒラーファトKhilāfat委員会に対して,この問題をヒンドゥー・ムスリム統一強化の好機とするガンディーは,国民会議派組織を挙げてこれに合流,自ら全インド・ヒラーファト委員会議長となる。…, …〈支配者〉〈王〉を意味する語。コーランでは神あるいは異民族の王の呼称として用いられ,カリフも自らマリクを称することはなかった。しかしアッバース朝以後のウラマーによれば,ウマイヤ朝時代からのカリフは,たとい称号はカリフであっても,その実態は世俗的な君主(マリク)にすぎず,わずかにアッバース朝時代の何人かのカリフがイマームに必要とされる水準に達したとされた。…, …旧説では中世ペルシア語vishirの派生語で,ササン朝ペルシアの制度を借用したものと考えられていたが,アラビア語のワジールは元来〈補佐〉や〈重荷を負う者〉の意味をもっていて,それが〈君主の助力者〉というイラン思想と結びつき,アッバース朝に入って公的な肩書となった。アッバース家運動を推進してきたアブー・サラマが革命軍のホラーサーン軍から〈ムハンマド家のワジール〉という尊称を贈られたのが最初であるが,この時はまだカリフから任命されたのではなく,制度としても未熟であった。しかし,その後カリフ体制の中央集権化を図るうえから,ワジールはカリフの単なる補佐役から,しだいに代務者の役割を果たすようになり,やがて9世紀末近くなると,ほとんどすべての行政機関の統括者になるとともに,ときには各州の総督や税務長官,裁判官の任命権をも掌握し,カリフに代わって国政の全般を指揮した。…. 正統カリフ時代のイスラム国家. Teitelbaum, Joshua (2001). ISIL(アイシル、英: Islamic State in Iraq and the Levant)は、イラクとシリアにまたがる地域で活動するイスラーム過激派組織である。イスラム国(英: Islamic State)と自称している。 ワッハーブ運動 ワッハーブ運動 ムハンマド・アリー・ジンナー, カリフ(英語: Caliph)あるいはハリーファ(アラビア語: خليفة‎ khalīfa) は、預言者ムハンマド亡き後のイスラーム共同体、イスラーム国家の指導者、最高権威者の称号である。, イスラーム共同体の行政を統括し、信徒にイスラームの義務を遵守させる役割を持つ。あくまで預言者の代理人に過ぎない存在であるため、イスラームの教義を左右する宗教的権限やクルアーン(コーラン)を独断的に解釈して立法する権限を持たない。これらは、ウラマーたちの合意によって補われる。, スンナ派イスラーム法学者によれば、一般にカリフの資格として求められるのは次のような条件である。, ただし現実には、これらの条件のいくつか(成年者であることなど)はしばしば無視された。例えばオスマン帝国はテュルク系の部族によって設立された王朝であるためムハンマドの部族であるクライシュ族の男系であることはありえない。またハワーリジュ派やムータジラ派は「たとえ奴隷や黒人であっても」全てのイスラーム教徒がカリフたりうると主張した。, 西暦632年にムハンマドが死去した後、イスラーム共同体の指導者としてアブー・バクルが選出され「神の使徒の代理人」(ハリーファ・ラスール・アッラーフ)を称したことに始まる。, 2代目のカリフとなったウマルは「信徒たちの長」(アミール・アル=ムウミニーン)という称号を採用し、カリフの称号とともに用いられるようになった。, その後、ウスマーン、アリーに受け継がれ、ウマイヤ朝、アッバース朝に世襲されてゆく過程でハワーリジュ派、シーア派などがカリフの権威を否定して分派し、従うのはスンナ派のみになった。, その後10世紀にアッバース朝のカリフがアミールに政権を委ねるようになるとカリフは実権を失った。, 1258年にはモンゴル帝国によってアッバース朝のカリフが見せしめとして処刑され、アッバース朝は滅亡したものの、マムルーク朝は生き残ったアッバース家の者を首都カイロに迎え新たにカリフとして擁立し、外来者であるマムルーク出身のスルタンに支配の正当性を与える存在として存続させた。(カイロ・アッバース朝), オスマン朝は当初、カリフ位の権威に頼らずとも実力をもってスンナ派イスラム世界の盟主として振舞うことができた。, そこで、16世紀初頭にオスマン帝国のスルタンはアッバース家最後のカリフからカリフ権の禅譲を受け、スルタンとカリフを兼ね備えた君主であるという伝説が生まれた(スルタン=カリフ制)。, オスマン帝国の滅亡によって、オスマン家のスルタン=カリフは1922年に退位し、スルタン制が廃止された。, 同年1924年、預言者ムハンマドに連なるハーシム家出身であったヒジャーズ王国の王であるフサイン・イブン・アリーがカリフを名乗ったが、オスマン帝国最後の皇帝メフメト6世[1]以外に目立った支持者はなくイスラム世界で広く承認されることはなかった。, その後はユースフ・アル=カラダーウィー[2]ら一部のイスラム主義者によりカリフ制の復活が唱えられたが、イスラム社会からは認められていない。現在、カリフ制統一国家樹立を目指す汎イスラーム主義的国際政治組織としてヒズブ・タフリールが存在する。イスラーム改革派「アフマディーヤ」は、カリフ制をとっている。, 2014年には、イラク、シリア両国にまたがる地域を掌握した過激派組織ISILが、支配地域における国家としての独立と指導者のアブー・バクル・アル=バグダーディーのカリフ即位を宣言した。これに対してはカラダーウィーがカリフ即位宣言は無効であると表明する[2]など、この即位について現時点ではイスラム社会を含め国際社会で承認する動きはない。. イスラム教の開祖ムハンマドの死後、ムハンマドの代理人としてイスラム共同体の後継指導者となった4人のカリフたちが構築した国家。 首都はムハンマド以来のイスラム共同体の所在地であるマディーナ(メディナ)がそのまま使われた。 Copyright © 2006 Flag of the Islamic State by Illegitimate Barrister イスラム国とは、イスラム教スンニ派の過激派組織の名称です。 組織の名称なのですが、イスラム国という名前の通り国家の樹立も宣言しています。 しかし、イスラム教の社会の中でも、国際社会の中でも、当然、国家として認められてはいません。 自分達で言っているだけ、という状態ですね。 当初は、「イラクとシャームのイスラーム国」という名称でしたが、2014年6月29日に国家樹立を宣言した際、「イスラム国」に改めました。 日本 … The Rise and Fall of the Hashimite Kingdom of Arabia, p.240, London: C. Hurst & Co. Publishers.