代表初招集の翌年、いわゆる「ドーハの悲劇」で日本中が悲嘆にくれた時、森保一もピッチに立っていた。1 1993年10月28日、カタール・ドーハの地で行われたその試合は、日本サッカー史に永遠に刻まれ … ドーハの悲劇(ドーハのひげき, Agony of Doha[1])は、1993年10月28日[注 1] にカタールの首都・ドーハのアルアリ・スタジアムで行われたサッカーの国際試合、日本代表対イラク代表戦の日本における通称。, 1994年アメリカワールドカップ・アジア地区最終予選の最終節で行われたこの試合は、第4戦終了時点で日本はグループ1位となり本戦出場が有力視されていた。, 最終第5戦、試合終了間際まで日本優勢で進み2-1でリードしていたが、ロスタイムにイラク代表のゴールが入り同点で終了する。この結果、勝点7のサウジアラビアが1位で、勝点6と日本と同数ではあったが得失点差により韓国が2位出場となり、FIFAワールドカップ初出場が期待されていた日本代表が一転して予選敗退する結末となった。, アジア地区最終予選は、ドーハでの集中開催方式にて行われた。1次予選A〜F組を1位通過した6か国が総当たりのリーグ戦で対戦し、上位2か国がワールドカップの出場権を得ることになっていた。日本は1次予選F組で7勝1分けとし、UAEを抑えて最終予選へ進出した。一方のイラクは1次予選A組で6勝1分1敗で勝点13、中国を勝点1差で抑えて進出した。, 日本は初戦のサウジアラビア戦を0-0で引き分けたが、第2戦のイラン戦を1-2で落としこの時点で6か国中最下位に転落した。スタメンの入れ替えを敢行した第3戦の北朝鮮戦を3-0で快勝。続く第4戦ではそれまでW杯と五輪のアジア予選で一度も勝てなかった韓国に三浦知良のゴールで1-0で勝利し、韓国に代わり首位に立った。守備は6チーム中最少失点(4試合中3試合を完封)、スーパーサブからスタメンに起用された中山雅史が攻撃を活性化するなど、攻守のバランスは上向いていた。, イラクは初戦の北朝鮮戦で2点を先取しながら退場者を出し、2-3で逆転負け。イラクサッカー協会が監督を更迭し、1980年代に2度五輪チームを率いたエマヌエル・"ババ"・ダウド (Ammo Baba) が監督に就任した。第2戦韓国戦は86分に追いつき2-2で引き分け、第3戦イラン戦は2-1で初勝利を収め、第4戦サウジアラビア戦は1-1で引き分けた。6チーム中最多の7得点を挙げながら、失点も7失点という出入りの激しいサッカーをしていた。, 北朝鮮以外の5か国が勝点の差「1」の中でひしめき、5か国のいずれにも本大会出場のチャンスが残されていた。同日・同時刻キックオフとなる最終戦(第5戦)3試合の組み合わせは, 【日 本】サウジアラビア、イラン、韓国の3か国のうち2か国を成績で上回る必要がある ↓次の条件のいずれかを満たすとき本大会出場, 【イラク】サウジアラビア、イラン、韓国の3か国のうち2か国を成績で上回る必要がある ↓次の条件のいずれかを満たすとき本大会出場, 【サウジアラビア】日本、イラク、韓国の3か国のうち2か国を成績で上回る必要がある ↓次の条件のいずれかを満たすとき本大会出場, 【イラン】日本、イラク、韓国の3か国のうち2か国を成績で上回る必要がある ↓次の条件のいずれかを満たすとき本大会出場, 第4戦終了時点で首位の日本は勝てば他会場の試合結果にかかわらず出場決定となり、日本が引き分けてかつサウジアラビアと韓国がどちらも勝った場合であっても、韓国が北朝鮮に1点差で勝利した場合には(即ち得失点差で日本と同数となる場合)、日本の総得点が韓国と同数以上であれば日本が出場権を得られるという、かなり有利な条件で日本は最終戦に臨んだ。一方、イラクは日本戦での勝利がまず必要となり、加えてサウジアラビア-イラン戦が引き分けかイランの2点差以内勝利(3点差以上の場合は得失点・総得点でイランとの争い)または韓国が北朝鮮に対し引き分けか敗れた場合、1986年メキシコ大会に続く2度目のW杯本大会出場が実現する状況だった。3位の韓国も自力出場の可能性が消滅しており、最終戦で勝利しても日本とサウジアラビアが共に勝利した場合は本大会出場ができない状況にあった。, 第4戦までは全試合がハリーファ国際スタジアムで行われてきたが、最終戦は3試合同時進行のため、日本-イラク戦はアル・アリ競技場で開催された。観客席はイラクのサポーターが多数を占めたが、遠来の日本サポーターも懸命に声援を送った。, 両国の過去の対戦成績は日本の1引き分け3敗で、ロサンゼルス五輪アジア・オセアニア地区最終予選(1984年4月21日 日本 1-2 イラク)以来9年半ぶりの対戦となる。第4戦からイラクは中3日、日本は中2日を挟んで最終戦に臨む。, 日本は、北朝鮮戦・韓国戦で成功した4-3-3システムを継続。前線には三浦知良・中山雅史・長谷川健太が変則3トップ気味に並ぶ。中盤のボランチのポジションには、韓国戦で活躍した北澤豪に替わり、出場停止明けの森保一が戻った。イラクは出場停止処分が重なり、主力数名を欠いた布陣で臨んだ。, 日本では、テレビ東京およびNHK BS1がテレビ中継を、ニッポン放送がラジオ中継を行った。, テレビ東京の放送では、現地実況を久保田光彦アナウンサー、解説を前田秀樹が務めた。東京のスタジオでは金子勝彦が司会を務め、ゲストとして釜本邦茂(当時:ガンバ大阪監督)、森孝慈(当時:浦和レッズ監督)、当時の日本代表主将・柱谷哲二の実兄である柱谷幸一(当時:浦和レッズ選手)がいた。ロスタイムの同点ゴール時には久保田が「決まった!」と叫んだあと久保田、前田ともに一言も発せず、日本の制作スタッフは放送事故かと慌てたという[3]。沈黙が30秒近く続いたあと、ようやく久保田が「仕方ないですね」と発した[4]。試合終了後、スタジオに画面が戻ってきても、金子、釜本、森、柱谷の四者とも呆然として何も言うことができず、特に柱谷は放送中にも関わらず頭を抱え込み泣いていた。森はロスタイムの同点劇について「これがサッカーなんですよ」とコメントし、金子は「サッカーの世界では、天国と地獄を見て初めて本当のサポーターになれる」との言葉を紹介した。柱谷は、金子から「お辛いでしょうけど」と促され、絞り出すように「1カ月、辛かっただろうけど、胸を張って帰ってこい」と弟の哲二ら選手にメッセージを送った[4]。番組の視聴率は日本時間の深夜帯にもかかわらず、同局史上最高の48.1%を記録した。, NHK BS1の放送では実況を山本浩アナウンサー、解説を田中孝司が務めた。スタジオでは友田幸岐が司会を務め、解説は岡田武史と田嶋幸三が担当した。試合終了後、岡田は言葉を詰まらせ、友田は「サッカーの怖さが出ました。何もこの試合じゃなくても良かったんじゃないかと…」とコメントした。岡田はこの4年後、1998年フランスワールドカップ最終予選中に急遽日本代表監督を引き継ぎ、ワールドカップ初出場を決めることになる(ジョホールバルの歓喜)。, ニッポン放送のラジオ中継は、実況が師岡正雄アナウンサー[5]、解説は小谷泰介が務めた。イラクの2点目(同点ゴール)の直後に、小谷が「何ということだ……」とコメントしている。フジテレビでドーハの悲劇の映像が流れる際にはこのニッポン放送の実況音声が使われた。, 日本サッカー協会強化委員会は同年11月5日に定例会議を開き、「修羅場での経験不足」を理由に翌1994年5月まで契約が残っていたオフト監督の解任を決定した。10日に川淵三郎強化委員長とオフト監督との間で会談が開かれ、翌11日に退任が正式発表された。, サッカー専門誌では、ハンス・オフト監督の作り上げた組織的サッカーが、この予選中でアジアトップレベルのサッカーを披露したとし、その功績を認めながらも、オフト監督自身の指導力の限界を指摘した。, 1994年、日本が出場を逃したワールドカップ・アメリカ大会でアジア勢は奮闘した。サウジアラビアはエースオワイランを中心に躍進。アジア勢として7大会振りのベスト16入りを果たす。土壇場で出場を決めた韓国も勝利を収めることはできなかったが、スペイン戦では試合終了5分前から2点差を追いつき、ドイツ戦でも3点ビハインドから1点差に追い上げ、前回大会全敗に終わったアジア勢の復活を印象付けた。, ドーハの悲劇から1年後、アジア予選突破・世界大会出場というフル代表が果たせなかった目標は、アンダー世代によってドーハの地で達成された。1994年10月、カタールで行われたU-16アジアユース選手権に出場したU-16日本代表は、アル・アリ競技場で行われた決勝戦を山崎光太郎の延長ゴールデンゴールで勝利し、初のアジア制覇と翌年のU-17世界選手権エクアドル大会出場を決めた。中心メンバーの小野伸二・高原直泰・稲本潤一らは1999年のワールドユースで準優勝し、「黄金世代」と呼ばれるようになる[48]。, 1996年、U-23日本代表がアトランタ五輪アジア最終予選でサウジアラビアと対戦した際には、ハーフタイム中に選手の興奮を鎮めたり[49]、リードした後半に効果的に時間を稼ぐなどドーハの悲劇の教訓が活かされ[50]、28年ぶりの五輪出場が成し遂げられた[51]。, 1998年のワールドカップ・フランス大会以降、アジア最終予選はホーム・アンド・アウェー方式で行われるようになった。日本は1997年のアジア最終予選でイランとの3位決定プレーオフに勝利してワールドカップ初出場を決めている(ジョホールバルの歓喜)。1994年大会出場を逃したいわゆる「ドーハ組」の中で、1998年大会の本戦メンバーに選ばれたのは中山雅史と井原正巳の2名のみだった。以後、日本は自国開催枠出場の2002年日韓大会を含め、2018年ロシア大会まで6大会連続でワールドカップ出場を果たしている。, 2011年、アジアカップ・カタール大会で日本代表は6試合中5試合をドーハで戦い、史上初となる4度目のアジア制覇を成し遂げ、「もうドーハは『悲劇の地』では無くなった」などと言われた[52]。特に初戦のヨルダン戦では、敗色濃厚の後半ロスタイムにショートコーナーからヘディングで同点に追いつくという、まさに18年前の立場を逆にしたかのような試合展開であった。, 2013年、2014年ワールドカップ・ブラジル大会アジア最終予選においては、『日本[注 7] がドーハの地でイラク[注 8] との最終戦[注 9] に臨む』ことが話題となった(試合は1-0で日本が勝利)。, 2015年、アジアカップ・オーストラリア大会のグループD第2戦では、ドーハの悲劇にDFとして出場したラディ・シュナイシェルが指揮を執るイラクとブリズベンで対戦し、1-0で日本が勝利した。, 2016年、リオデジャネイロ五輪アジア最終予選を兼ね、ドーハでアジアU-23選手権が行われた。準決勝ではU-23日本代表がU-23イラク代表と対戦し、後半48分に決勝点を奪ってリオデジャネイロ五輪本大会出場を決めた。この世代の選手は「ドーハの悲劇」が起きた1993年かそれ以降に生まれた選手たちだった。手倉森誠監督は勝利後のインタビューで「日本サッカー界のことを思えば、ロスタイムで取るあたり歴史を逆転させた。いい勝ち方だなと思います」と述べた[53]。, ベルリンの奇跡 - ドーハの悲劇 - マイアミの奇跡 - ジョホールバルの歓喜 - 日韓戦 - チーム別対戦成績, カタール時間16時15分開始の日本-イラク戦でロスタイムにイラクの同点ゴールが決まった時刻は18時過ぎであり、6時間の時差の関係で、日本では日付が変わり10月29日の0時過ぎとなっていた。, 当時のルールではFIFA公式戦の交代選手は2人まで。なお1994年ワールドカップ本大会からフィールドプレーヤー2人+ゴールキーパー1人の最大3人に改正された, サッカー不人気の理由に「引き分けが多い」というイメージがあったため、発足当時のJリーグは90分間で同点の場合は, 後半4分、フリーキックからイラクのヘディングシュートが決まったが、オフサイド判定で取り消され、怒ったイラクの観客が瓶を投げ入れた。, 松本秀夫『プロ野球 実況できなかったスゴイ話』ぜんにち出版、2009年、245-246頁。, 『1945-2015 サッカー「戦後70年史」』ベースボールマガジン社<分冊百科シリーズ12>、2015年、48頁。, 『Sports Graphics Number - ドーハの悲劇 20年目の真実』通号839号、61頁。, 『Sports Graphics Number - ドーハの悲劇 20年目の真実』通号839号、72頁。, 『Sports Graphics Number - ドーハの悲劇 20年目の真実』通号839号、57頁。, 『Sports Graphics Number - ドーハの悲劇 20年目の真実』通号839号、47頁。, 『Sports Graphics Number - ドーハの悲劇 20年目の真実』通号839号、25頁。, 『Sports Graphics Number - ドーハの悲劇 20年目の真実』通号839号、43頁。, 『Sports Graphics Number - ドーハの悲劇 20年目の真実』通号839号、31頁。, 『1945-2015 サッカー「戦後70年史」』ベースボールマガジン社<分冊百科シリーズ12>、2015年、26頁。, 西部謙司 『サッカー日本代表システム進化論』<学研新書070>、学習研究社、2010年、81頁。, http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/danwa/2013080500014.html, <狂気の左サイドバックが語る代表の20年> 都並敏史 「僕を一回り超える世界基準の男が現れた」, 賢者は敗北に学ぶが、愚者は敗北に浸る……「ドーハの悲劇」生き証人・清雲栄純が語るオフトJAPAN, <再び世界の頂点を目指して> “未来のサッカー日本代表”を強くするために、今やるべきことを考える。, 小野、高原、稲本ら後の黄金世代が出場、初のアジア王者に/1994年のAFC U-16選手権, “マイアミの奇跡”よりも熱かった! “ドーハの悲劇”の教訓が活かされたアトランタ五輪予選・サウジアラビア代表戦2/2, 【元川悦子コラム】アトランタ五輪プレイバック:「28年の壁」をこじあけた日本、そして「マイアミの奇跡」, http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2016/01/26/kiji/K20160126011928910.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ドーハの悲劇&oldid=80196922, 【韓国】日本、イラク、サウジアラビア、イランの4か国のうち3か国を成績で上回る必要がある, 当時の勝点は勝利2、引き分け1、敗戦0。勝点が同じ場合、得失点差、総得点、当該国間の対戦結果の順で順位を決した。, 最終予選のベストイレブンに、参加6か国では最多となる松永、柱谷、ラモス、三浦知の4名が選ばれており、表彰式に参加するよう日本サッカー協会に要請が来ていたが、当時オフト監督の通訳を担当していた日本サッカー協会強化委員会の鈴木徳昭総務担当が柱谷に確認したところ、みんなの判断で行けないとのことだったため、鈴木総務担当と川淵強化委員長、, 川淵は日本への帰国便に乗る前、「明日から我々に厳しい批判の声が飛んでくるけれど、それを受け止めて、前へと進んでいこう」と声をかけた, 韓国の選手は本戦出場決定に大喜びし、試合後にホテルで祝勝パーティーを行った。しかし、部屋に戻りテレビで日本の選手・サポーターが泣く映像を見ると、誰もが声を失ったという, この試合の結果、自力での本大会出場の可能性がなかった韓国が本大会出場を決めたため、韓国国内では「ドーハの奇跡(, イラク戦の後半、日本は中盤の運動量が落ちてボールを回収できず、ディフェンスラインが下がりっぱなしになりイラクの波状攻撃を浴びる状態だった。ピッチ上の選手は中盤のカンフル剤となる, イラン戦の敗戦で崖っぷちに立たされた日本は、オフト監督の「3WIN(残り3試合を全勝する)」というメッセージで気持ちを切り替え、活気を取り戻した, 後半ロスタイム突入間際、日本はカウンターから敵陣深くへ侵入したが、途中出場の武田はボールをキープせず、味方が詰め切れていないゴール前へセンタリングを上げた, 最終予選の対戦国ではサウジアラビアと韓国が難敵になると予想されていたが、オフト監督はイラクを「危険なチーム」として一番マークしていた, 柱谷哲二はのちに最後のコーナーキックの守備について、「マークについていなかった。ゴール前に密集していればクリアできるものだと思った」と語った, イラク代表は最終予選を通じて全チーム中1位の得点数を叩き出していた。また日本戦までの星どりは1勝2分け1敗だったが、ワールドカップ本戦出場国の韓国・サウジアラビアを苦しめた上での2分け、唯一の黒星となった北朝鮮戦も後半途中退場者を出すまで2-0でリードしており、日本戦においても主力を多く欠く中での引き分けであった。ラモスも最終予選を振り返った時に強かったチームはとインタビューで聞かれると「間違いなく韓国とイラク。イラクは特にサッカーをよく知っているなと思った」と述懐している。, アジア最終予選に関しては、イラク戦の結果のみがクローズアップされがちだが、それまでの経過に敗退の原因があるという意見もある。, 中山は快勝した北朝鮮戦・韓国戦でも決定的なチャンスが2・3本あり、そこで決めていれば得失点差で大きなアドバンテージになっていたはず、と語っている, 柱谷は「W杯に行けなかったのはイラク戦の引き分けよりもイラン戦の負けが要因だったと思う」「固定メンバーで熟成されていた半面、イランに分析され対応されたときに変化を出せなかった」と語っている, 戸塚啓『青の群像 サッカー日本代表クロニクル 1992-2007』、ソニーマガジンズ、2007年, 西部謙司 『サッカー日本代表システム進化論』、学習研究社<学研新書070>、2010年, 『1945-2015 サッカー「戦後70年史」』、ベースボールマガジン社<分冊百貨シリーズ12 永久保存版 全7巻シリーズ③>、2015年, 「Sports Graphic Number No.839 ドーハの悲劇 20年目の真実」2013年10月31日号、文藝春秋社.   掲載情報の著作権は提供元企業等に帰属します。 <悲劇から20年、指揮官として> 森保一×高木琢也 「監督に必要なことは、オフトとドーハが教えてくれた」 text by 金子達仁 Tatsuhito Kaneko 名将・森保一の原点には日本中が悲しみに暮れた”ドーハの悲劇”があった [写真]= Jリーグ, 「君、どこのポジションをやっているの?」 !』は、なぜ“立体的”に見えるのか? 「他で見たことない!」3つの表現法, <転身24年目>元SMAP森且行46歳、日本選手権初優勝 7年前に明かしていた「メンバーとの約束」, 神宮の珍事で嵐ファンと野球ファンが“場外乱闘”? 次々起こる“事件”経て、なぜか「アラフェス2020」観ることに, 「ぶん殴られて痛いなんて未熟ですよ」プロ格闘家・青木真也が東大卒プロゲーマー・ときどにズバリ, <悲劇から20年、指揮官として> 森保一×高木琢也 「監督に必要なことは、オフトとドーハが教えてくれた」. 武藤嘉紀との“ロシアW杯組”3ショット写真も, 怪物・井上尚弥、“豪傑・パッキャオ”の域を目指し、次戦はWBO王者カシメロ? それとも…, 坂本勇人、3085安打・張本勲超えへ“必要3条件”は満たすが…最大の“不安要素”とは, “奇跡のCS進出”ならず…それでもライオンズを陰で支えた西武鉄道の「野球ダイヤ」、特別な半年, 坂本勇人「31歳で2000本安打」への道を拓いた“2009年の屈辱” 後輩にも教わり極めた右軸打法, 年俸「120円」の42歳Jリーガーが月20万円の個人スポンサーを断ったワケ 監督は「考え方が違うんだよなあ」, 高校球児のダルビッシュ&イチローとの歓喜、見たことある? Numberカメラマンらが撮った“秘蔵写真”, 内川聖一「『僕は生え抜きじゃない』という遠慮が心のどこかに残っていました」監督がかけた言葉とは, なぜ楽天・涌井秀章(34)はウエートトレーニングをピタリとやめた? 本人が明かすイチローとダルの影響, 「ここまで勝点に貢献してくれるとは…」40歳遠藤保仁が移籍1カ月で“ジュビロの絶対的エース”に, 那須川天心に耳打ちした言葉とは? <独占>皇治インタビュー「あの子は人間、怪物ではない」, 大人気バレー漫画『ハイキュー! 柱谷 (東スポWeb) 【東スポ60周年記念企画 フラッシュバック(28)】いまやサッカー日本代表がW杯に出場するのは、当たり前の光景になっている。2018年ロシ … ドーハの悲劇の頃、森保一が将来日本代表監督になると予想していましたか? 予想は無かった。というか未来が全く読めなかった。カズが今も現役だとかね。 ドーハの悲劇(ドーハのひげき, Agony of Doha )は、1993年10月28日 にカタールの首都・ドーハのアルアリ・スタジアムで行われたサッカーの国際試合、日本代表対イラク代表戦の日本における通称。 浅田真樹 取材・文 text by Asada Masaki; photo by Getty Images; Follow.  1992年4月、森保一が初めて日本代表に招集された時、代表の常連だった井原正巳に真面目な顔で聞かれた言葉がこれだ。井原だけでなく他の代表選手もほとんど森保のことを知らなかった。所属チームであるマツダ(現サンフレッチェ広島)は、日本リーグ1部に前年復帰したばかり。特別に目立った活躍をしていたという自覚も森保自身にはなく、代表招集を伝えた河内勝幸コーチ(当時)に「冗談はいいから、何の要件なんですか?」と聞き返したという。, それほどの無名選手だった森保が一気に注目を集めたのは、初の国際試合出場となったキリンカップのアルゼンチン戦だった。試合は0−1で敗れたものの、同国のスーパースター、クラウディオ・カニーヒアが「日本の17番が本当にイヤだった」とコメントした。アルゼンチン代表のアルフィオ・バシーレ監督も「17番が日本代表でもっとも印象に残った」とコメント。言うまでもなく、17番とは森保一のことだ。, それまで、日本のサッカー界では三浦知良のようなストライカー(正確にいえば、当時はチャンスメイカーだったが)やラモス瑠偉のようなゲームメーカーばかりが注目されていた。しかし、アルゼンチンのスーパースターや名将が森保に言及したことで、彼のポジション「ディフェンシブハーフ」、今でいうボランチが注目を集めることになった。中盤でアグレッシブに動いてプレスをかけ、相手攻撃の数手先を呼んでパスをカットしたり、センターバックのプレーを助けたり。それまではマニアが注目していたこのポジションの役割に、森保の頑張りによってスポットライトが当たったのだ。もし、このエピソードがなかったら、山口蛍や井手口陽介のような「ボールハンター」は生まれてこなかったかもしれない。, 代表初招集の翌年、いわゆる「ドーハの悲劇」で日本中が悲嘆にくれた時、森保一もピッチに立っていた。1993年10月28日、カタール・ドーハの地で行われたその試合は、日本サッカー史に永遠に刻まれることとなる。, 当時のアジア最終予選は今のようなホーム&アウェイ方式ではなくセントラル方式だった。開催地のカタールにここまでの予選を勝ち上がってきた6カ国が集結して総当たりのリーグ戦を行い、上位2チームがワールドカップ出場権を勝ち取る。そう、この時代にアジアに与えられたワールドカップの出場枠は、たった二つしかなかったのだ。, 日本は初戦のサウジアラビア戦に引き分けた後、イランに敗戦。しかし、続く北朝鮮、韓国と撃破し、首位で最後のイラク戦を迎えた。勝てば文句なし。しかし、引き分け以下だと韓国、サウジアラビアの結果次第では3位に落ちてしまう。そんな瀬戸際の戦いに森保は先発した。, 一方的にイラクに攻め込まれながらも三浦、中山雅史のゴールで2-1とリードし、試合は最終盤を迎えた。時計の針が45分を指した時、イラクはコーナーキックを得た。この時代、アディショナルタイム表示はない。後半45分を過ぎれば、主審の判断でいつでも試合を終えることができる。, イラクはショートコーナーを選択。この時のことを、森保は今も悔やんでいるはずだ。少なくとも2005年、この時の話を聞いた時の彼はそうだった。, 「あの時、カズさんがショートコーナーに対応したんです。でも、問題はたった1人で行ったこと。2人じゃないといけない。僕が行かないといけなかった。1人で行くのなら、僕が行くべきだった。カズさんは相手にプレスをかけたんだけどかわされ、縦に走られた。自分は出遅れていたから、何もできない。結局、僕の頭上にクロスを通された。失点。ゴール前に人数もいたのに、みんなボールを見てしまった」, そして、絶望が訪れた。日本は韓国とサウジアラビアに抜かれ、3位に転落。手の内に入れていたワールドカップ初出場は、露と消えた。, 森保の記憶はそこから飛ぶ。どうやってホテルに着いたのかも分からない。同部屋だった柱谷哲二の証言によれば、ベッドに突っ伏してずっと泣いていたという。ふっと立ち上がってベランダに向かって落ちかけたこともあった。まるで夢遊病患者のように、森保は意識のないまま、部屋の中をさまよったという。, ドーハの悲劇の翌年、森保はサンフレッチェ広島の中心として、Jリーグ1stステージ優勝の立役者となった。京都、仙台でも活躍して、2003年に現役を引退した。翌年から指導者の道に入り、2007年のワールドユース(現U-20ワールドカップ)ではコーチとして吉田靖監督を支え、内田篤人、槙野智章、柏木陽介、香川真司ら“調子乗り世代”と共に闘ってベスト16進出に貢献。2008年からはミハイロ・ペトロヴィッチのもとで学び、新潟のコーチを経験した後、2012年に広島の監督となった。そして古巣を4年で3度の優勝に導いた実績が買われ、東京五輪代表監督、そしてフル代表の監督を兼務する重責を担うことになった。, 周囲に対する気配りの厚み。若者から「ポイチさん」と呼ばれても笑っていられる懐の大きさ。自分の実績を誇らず、常に周囲への感謝を欠かさない。接した人間が魅了される優しさ。人間性の豊かさは当然、彼のメリットだ。だが、広島の監督時代に何度も見せ付けた勝負強さの源泉は、間違いなく1993年10月28日にある。「こんなに悲しい出来事ってあるのか」と何度も自問自答を繰り返した悲劇の真ん中にいたから、自分の頭上を越えていった白いボールによって夢が破壊された光景を目の当たりにしたからこそ、森保一は稀代の勝負師となった。2015年Jリーグチャンピオンシップ第1戦、後半アディショナルタイムに入ってから2得点を奪ってガンバ大阪を逆転した広島の奇跡は、指揮官・森保一がドーハで学んだ「絶対に諦めない」メンタリティが、選手の身体の隅々までたたき込まれた、その結果なのである。, 【コラム】森保氏がA代表監督に就任、五輪監督兼任の「メリット」「デメリット」を考える, 【LEGEND STADIUM×SOCCER KING オリジナル動画】日本代表のために今だから話せること, Jクラブも支援!クリエイティブスキルが学べる 「CREATIVE GYM」が11月開講クラスの申込受付中!, アストン・ヴィラFWワトキンス、アーセナル戦2発に歓喜「アーセナルファンなんだ。嬉しくてたまらない」, PKでハット達成のC・ソレール、同僚からの温かいサポートを明かす「絶対に入ると…」, ユーヴェOBがC・ロナウドを痛烈批判!「彼は無知」「イタリアに2年間住んでいるのに…」, ついに本領発揮の久保がコメント「個人としても満足」…一方リーガでの先発への思いも?, 高校選手権、第16代応援マネージャーは本田望結さんに決定「選手の気持ちが分かるからこそ、お伝えできたら」, 久保建英、ELデビューで1ゴール2アシストの大活躍!…ビジャレアルは5発で乱打戦制す, 「制御不可能」「先発を確保しないわけが…」鮮烈パフォーマンスの久保を現地紙が絶賛!. Copyright(C) 2020 TOKYO-SPORTS, All Rights Reserved. 東スポtop 日本代表 1993年10月ドーハの悲劇 ... だから4―3―3の中盤を4枚にしてほしかった。森保、ラモスさん、よっさん(MF ドーハの悲劇って何? 森保J・リオ世代に中東コンプレックスはない . 広島県安芸高田市にある吉田サッカー公園は、広島市内に住む小中学生が気軽に行ける場所ではない。, たどりつくために必要な時間と距離は、ちょっとした旅と言っても差し支えがないほどである。, だが、もし可能なのであれば、サッカーを愛する多くの小中学生には、ぜひともこの“小旅行”の経験をお勧めしたい(なんだったら、大人も)。旅自体は人生のために何の役にも立たないこと請け合いだが、そこで行なわれているサンフレッチェ広島のトレーニングは、お金を払ってでも見る価値があるからである。, 特別なメニューがあるわけではない。素晴らしく斬新だったり革命的だったり驚異的だったり、誰も見たこともやったこともないような練習が行なわれている……わけでもない。, サイドバックがボールを持った。相手FWが寄せてきたのでGKに戻す。通常、ほぼ100%のGKがクリアを選択する場面で、サンフレッチェのGKたちはつなぐことを選ぶ。ユース時代、自らFKを蹴っていたという、つまりはキックに絶対的な自信を持っている日本代表GK西川周作だけではなく、控えのGKたちも同じことをしていた。自陣深いところではリスクを冒すべきではないというサッカーのセオリーからすると、完全に道を外れたやり方である。, こちらは雑誌『Number』の掲載記事です。ウェブ有料会員になると続きをお読みいただけます。, ウェブ有料会員(月額300円[税別])は、この記事だけでなくNumberWeb内のすべての有料記事をお読みいただけます。, <HONDA Method> ソルティーロが本田圭佑を超える日 連載第9回 「モノクロの世界にカラーを」, 「“鹿島っぽさ”を大切に、サポーター目線のコンテンツを」 5Gマルチアングル観戦体験で見えたこと, いい顔に迫る資生堂クロストーク「ONE ON ONE」羽根田卓也(カヌー選手) × 吉岡里帆(女優), 「SHISEIDO presents 才色健美 with Number」 最新コラム(右代啓祐さん)公開中!, ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号6091713号)です。, 坂本勇人「あのときの長野さん、自分のことのように喜んでくれて…」塁上で感極まったワケ, 乾貴士が神トラップ&岡崎慎司に友情の平手打ち!? 1993年10月ドーハの悲劇 柱谷哲二氏が激白〝28年越しの後悔〟 1993年10月ドーハの悲劇 柱谷哲二氏が激白〝28年越しの後悔〟 2020/11/03 10:00. そう振り返ったのは、サッカー日本代表兼u-22日本代表監督・森保一。ドーハの悲劇を経験した選手として初めての日本代表監督就任から、まもなく1年半。日本サッカーの未来を託された男に独占密着180日!いまだベールに包まれている森保一の本音に迫る! 柱谷 (東スポWeb) 【東スポ60周年記念企画 フラッシュバック(28)】いまやサッカー日本代表がW杯に出場するのは、当たり前の光景になっている。2018年ロシ … ¦ã‹ã‚‰ï¼‰åæ³¢æµ©ã€æ£®ä¿ä¸€, (名波)「僕がいま求めているのは、ポイチさん(森保の愛称)に4年以上代表監督をやってほしい。ここまでやってきた1年ちょっとの仕事の充実度、選手の躍動感は、4年以上つなげなくちゃいけない」(森保)「目指します!アジアでも世界でも、五分五分以上の勝率になるような、そういう勝つ確率が高くなるチーム作りをしていきたい」12月10日に開幕する今年最後の公式戦、E-1サッカー選手権では、2年ぶりに永遠のライバル韓国と対戦。そこから来年の東京オリンピック、2022年ワールドカップカタール大会へ向け、熱戦はすでに幕を開けている。改めて森保本人に問う「なぜ森保一は日本代表監督なのか?」その答えが、ここにある!, 掲載情報は発行時のものです。放送日時や出演者等変更になる場合がありますので当日の番組表でご確認ください。. 1993年10月ドーハの悲劇 柱谷哲二氏が激白〝28年越しの後悔〟 1993年10月ドーハの悲劇 柱谷哲二氏が激白〝28年越しの後悔〟 2020/11/03 10:00. 森保は、「ドーハの悲劇」を経験したドーハ戦士でもある。 1993年、カタール・ドーハで行われたアメリカW杯最終予選に出場した森保 ©文藝春秋 1993年、カタール・ドーハで行われたアメリカW杯最終予選、森保は日韓戦以外の全4試合にスタメン出場を果たし、最終戦のイラク戦もピッチに … 【東スポ60周年記念企画 フラッシュバック(28)】いまやサッカー日本代表がW杯に出場するのは、当たり前の光景になっている。2018年ロシア大会まで6大会連続出場。だが、それまで多くのイレブンが予選敗退の悔し涙を流してきた。中でも1994年米国大会での初出場をあと一歩のところで逃した「ドーハの悲劇」のインパクトは絶大だった。日本サッカー最大の衝撃となった舞台裏では何が起こっていたのか。本紙連載「フラッシュバック」では当時の日本代表で主将を務めた柱谷哲二氏(56)を直撃。改めて振り返ってもらった。, 1993年10月中旬から始まった米国W杯アジア最終予選は、近年の方式と異なりセントラル方式だった。1次予選各組1位の6チームがカタール・ドーハで総当たりのリーグ戦を行い、上位2チームが本大会の出場切符を手にできる狭き門。そんな中、悲劇はイラクとの最終第5戦で起きた。2―1とリードしていた後半アディショナルタイムに同点に追いつかれ、歓喜を目前にして“地獄”に突き落とされた。最終戦までの経緯を振り返ると、当時アジア最強と言われたサウジアラビアとの初戦に0―0で引き分けると、次戦でイランに1―2の敗北。いきなり窮地に立たされ、試合後にはMFラモス瑠偉がイレブンのふがいない戦いぶりに激怒するほどだった。, 柱谷氏(以下柱谷)ラモスさんは、みんなが本当に戦っていたのかと怒りが爆発していたし、僕もそう思った。ただ、修正するといっても次の試合まで中2日しかない。マズイぞと思っていたら、都並(敏史)さんとゴンちゃん(FW中山雅史)が、みんなの部屋を回って冗談言って明るくしてくれてね。誰だったか「あと3つ勝てばいいじゃん」って言い出して、すぐに雰囲気は良くなった。都並さんは悔しい状況(左足首の負傷)だったのに、盛り上げ役をやったのを見ると「都並さんをアメリカに連れていこう」という感じになったよね。, 痛い黒星から立て直したチームは、続く北朝鮮戦を3―0で快勝すると、宿敵・韓国にも1―0で勝って4戦を終えて首位に立ち、W杯出場へ王手をかけた。イラク戦で勝てば文句なしで突破する状況となった。, 柱谷 チームの雰囲気は、いい意味で普通。みんないつも通りやっていた。ただラモスさんだけは、韓国に勝った後からしゃべらなくなった。心配になって話しかけたけど「集中」みたいなことを言っていた。やっぱりみんなラモスさんの顔色を見ているところもあるし、チーム全体がナーバスな雰囲気にならないように、試合までの2日間は寄り添ってラモスさんを一人にさせなかった。, 主将の配慮もあって、イレブンは平常心を保ったまま、10月28日、運命の大一番に臨んだ。, 前半5分にFW三浦知良が幸先よく先制ゴール。後半9分に同点に追いつかれたものの、後半24分に中山が勝ち越し点を奪った。そしていよいよ試合は終盤を迎える。, 柱谷 2―1になってから相手も疲れてきて、パワープレーみたいに単純に放り込むようになってきた。僕自身の感覚では「これならしのげる」「井原(正巳)とはね返せばいい」というのがあった。ただ体は疲れ果てていて、ジャンプもできないくらい。視野も極端に狭くなってきて、しゃべっていないと全てが真っ暗になってしまうようで必死に何か言っていたと思う。そうなったのは人生で1度だけ。あの1試合だけだった。, まさに極限状態だったが、勝利への道筋は鮮明だった。柱谷氏は守り切ることが最善と考えた。, 柱谷 相手が放り込むようになったら、セカンド(ボール)を拾うのが大事になってくる。だから4―3―3の中盤を4枚にしてほしかった。森保、ラモスさん、よっさん(MF吉田光範)のところに北沢を入れたかった。ベンチに向かって「北沢を入れろ!」って叫んでいたのを覚えているよ。でも交代で出たのは、最初(後半14分)は福田で次(同39分)に武田が入った。, 土壇場になって生じた意識のズレ。それがあの一連のプレーを生んだ引き金になったのかもしれない。2―1の後半45分。武田がペナルティーエリア右からクロスを上げ、あっさりと相手ボールとなるも、森保が意地で奪い返し、ラモスに預ける。ラモスは裏へパスを出したが、カットされてしまう。そこから右サイドを攻められ、打たれたシュートをGK松永成立がはじいたところで90分が終了。そして悪夢のショートコーナーからの失点となり、イレブンがピッチに倒れ込むシーンにつながる。, 武田の右クロスをクローズアップする向きは少なくなかった。だが、主将の見解は違った。, 柱谷 キープしてくれという言葉が出なかった。してくれるものだと思っていたけど、キープって叫んでいれば…。悔やまれるのならそこかな。だけど僕らは間違い探しをすれば、ほかにもたくさんある。近くの人間がどうしてキープと言わなかったのかとかもそう。ただ、一つだけ言えることは当時、精度は別にしてみんな選んだプレー全てが正解だと思ってやっていた。, 何か一つの原因があるから悲劇が生まれたのではない。そういう意味では、選手交代から生まれた意識のズレを最後まで修正できなかったのも響いたと言える。, 柱谷 後ろにスペースが開いていたから、監督の心理としては武田のスピードで攻め込んでもう1点取って終わりにしたかったのかもしれない。でもそれは何年か後にわかったことで、あのときは点を取りに行くという発想にならなかった。やっている人間とベンチで見ている監督の差が(結果に)出てしまったのかもしれない。点を取りに行く感覚になれれば、また結果は変わっていたかもしれないけど、我々に経験が足りなかったということだと思う。, 日本サッカー界は失意のどん底に突き落とされたが、そこから這い上がって97年11月16日の「ジョホールバルの歓喜」で98年フランスW杯初出場を決めた。柱谷氏は「中東のセントラル方式は非常に不利だと、すぐに(日本)サッカー協会が動いてホーム&アウェーを確立させたことが、次につながったと思う」と指摘した。個人としても、その後の人生に大きく影響した出来事だった。, 柱谷 僕自身は忘れるつもりはないし、忘れてはいけないことだと思っている。これを経験したからどんなことがあっても乗り切れると思える。みんな(ドーハの悲劇を経験したメンバー)そういう感覚は持っているんじゃないかな。, 今もサッカーファンの心を刺激する歴史的出来事。だが、この悲劇は事件ではなく、日本サッカーを進化させるために避けては通れない試練だったのかもしれない。, ☆はしらたに・てつじ 1964年7月15日生まれ。京都府出身。国士舘大学から日産自動車(現J1横浜M)入りし、Jリーグ発足後はV川崎(現J2東京V)で主に守備的MFとして活躍。初代Jリーグ選手会長も務めた。日本代表では主将を務め、国際Aマッチ通算72試合6得点。指導者として2002年から札幌、東京V、水戸、北九州などで監督を歴任。京都などで監督を務めた元日本代表FW柱谷幸一氏(59)は実兄。, レアル主将ラモス、“100点満点”の絶妙トラップに反響 バルサ英雄DFも絵文字で反応, はやぶさイレブン FW永里源気のハットトリックなどで5―0大勝 首位キープで1部昇格へ一歩前進, レアル主将ラモス、“疑惑の転倒”に元主審が見解 「シャツが掴まれたのは事実だが…」, 「アンフェアだ」バルサのPK批判にS・ラモスが反論!ジダン監督は「あってもなくても…」, コートジボワール代表と日本代表の対戦成績は? ワールドカップでは逆転負け、かつては森保一監督もプレー. 森保一監督就任後の日本代表が挑む最初のメジャータイトル、2019年1月5日開幕のアジアカップは、UAE各地で行われる。要するに、中東で開かれる大会だ。, 日本サッカーにとって、中東の地は必ずしもゲンのいい場所ではない。日本代表は過去、何度となく彼の地で苦杯をなめさせられてきた。, 1993年10月、カタール・ドーハで行なわれた、ワールドカップ・アメリカ大会のアジア最終予選。現在とは予選方式が異なり、中立地での集中開催で行なわれていた当時の最終予選は、出場全6カ国が総当たりで対戦し、上位2カ国にアメリカ行きのチケットが与えられた。, 日本は4試合を終えて、2勝1敗1分け。最後のイラク戦に勝てば、自力で初のワールドカップ出場を決めることができる状況にあった。, ところが、日本は2-1でリードしながら、後半ロスタイムに同点ゴールを許す悲劇的な結末で、ワールドカップ初出場を逃したのである。森保監督はそのときの日本代表メンバーのひとりだ。, 当時はまだ、今ほど中東が身近な存在ではなかった時代である。日本ばかりか、欧米ともまったく文化や習慣が異なるイスラム圏の中東には、今以上に未知のことも多く、ある種の不気味さがあったのは事実だ。そんな背景もあり、中東での試合では何が起こるか分からない。そんなネガティブイメージが定着していったのだろう。, 嫌な思い出は、ドーハの悲劇だけではない。過去のワールドカップ予選やオリンピック予選を振り返っても、日本は中東で星を落とすことが多い。結果的に、本大会出場を逃す最悪の事態には至っていないものの、なるほど日本サッカーに中東コンプレックスが生まれても不思議はない状況ではある。, 本ホームページに記載の文章・画像・写真などを無断で複製することは法律で禁じられています。全ての著作権は株式会社集英社に帰属します。.