176, Published 2009, Published by World Almanac Books; "The Unfinished War: A Decade Since Desert Storm". Requirements, and U.S. Policy, http://www.asahi.com/business/update/1012/TKY201110120697.html, Leveraging the Media:The Embedded Media Program in Operation Iraqi Freedom, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=湾岸戦争&oldid=79696698. これにより,石油利権を守りたいアメリカとイランからの脅威をイラクに対処させたい湾岸諸国は、イラクにより多くのの資金と兵器をつぎ込むことになりました。, 結局双方とも相手に決定的なダメージを与えることが出来ず、1988年8月20日に国際連合安全保障理事会の決議を受け入れる形で停戦することになりました。, イラン革命からイラン・イラク戦争を生き抜いてきた少女の物語です。 アニメ 「ペルセポリス」, アメリカ合衆国のロナルド・レーガン政権が、イランへの武器売却代金をニカラグアの反共ゲリラ「コントラ」の援助に流用していた事件。1986年に発覚し、アメリカ国内はおろか世界を巻き込む政治的大スキャンダルに発展した事件である。(引用ウィキペディア イラン・コントラ事件), イランイラク戦争が始まったとき、アメリカはイランとは交渉せず、武器の輸出もしないことを国際的に宣言しており、ほかの国にもこれを守るよう要請していました。, アメリカ軍の兵士らがレバノン(内戦中)での活動中、イスラム教シーア派系過激派であるヒズボラに拘束され、人質となってしまった。彼らを救出する為、アメリカ政府はヒズボラの後ろ盾であるイランと接触し、イラン・イラク戦争でイラクと戦うイランに対し、極秘裏に武器を輸出する事を約束しました。, もう一つは、イラン革命で人質になったアメリカ大使館員の身代金の代わりに、武器を輸出することでした。, はじめアメリカは、イランにこっそり武器を輸出していたイスラエルを通して武器を渡していましたが、国際世論の反発を恐れたイスラエルが断ったため、アメリカが直接イランに武器を輸出することになりました。, さらに国家安全保障担当補佐官のジョン・ポインデクスターと、国家安全保障会議軍政部次長でアメリカ海兵隊のオリバー・ノース中佐らを通して、イランに武器を売却した収益を、左傾化が進むニカラグアで反政府戦争(コントラ戦争)を行う反共ゲリラ「コントラ」に資金援助していました。, この時イランとコントラの双方の交渉窓口は当時副大統領だったジョージ・H・W・ブッシュ(後の大統領)であったとされています。, このことは、民主党が多数を占める議会でアメリカとの関係が悪化していたイランへの武器販売、および反共ゲリラに過ぎないコントラへの資金提供に反対していた議決に反することでした。, イラクを支援していたアメリカが、裏でイランに武器を輸出していることを知ったフセイン大統領は、これ以後アメリカを信用しなくなりました。, 戦争が終わるとイラクは各国から武器援助(援助と言ってもタダではありません)を受けていた関係で600億ドルとも900億ドルともいわれる負債を背負い込みます。, 産油国のイラクは石油を売って払おうとしましたが、お隣のクウェートがOPECで決められた産油量の取り決めを破り、大量に石油を増産したため原油の値段が大幅に下がってしまいました。イラクはクウェートに産油量の減産を申し込みましたが言うことを聞いてくれませんでした。, 同じようにOPECの決めた量よりも多くの石油を産出していたサウジ・アラビアとアラブ首長国連合は、イラクの申し込みを受け入れ減産しました。, 更にクウェートはイラクとの国境にあるルメイラ油田で採掘をはじめ、イラクはクウェートが傾斜掘りという方法でイラク側の原油を盗掘していると怒ります。, 1990年7月25日、イラク駐在大使グラスピーがフセイン大統領に「米国はイラクの行動には関心がない」と話し、ジョン・ケリー国務次官補も「クウェートが攻撃されても米国にはクウェートを助ける責任がない」と公言したことを受け、サダム・フセインはクウェートに侵攻してもアメリカは介入しないと信じ、行動を起こします。, 1990年8月2日、イラク軍はクウェートに侵入し、8月8日クウェートを併合しました。, イラクがクウェートに侵攻した同日、国際連合安全保障理事会は即時無条件撤退を求めましたが、8月12日にイラクは「20年以上イスラエルのパレスチナ侵略を認めていながら、今回のクウェート併合を非難するのはおかしい」と主張(リンケージ論)して、イスラエルのパレスチナ退去を条件に撤退すると発表しました。, 8月7日、アメリカのブッシュ大統領は、石油の過剰輸出の件でイラクと対立していたこともあり、クウェートに続いて自国も侵略される事を恐れていたサウジアラビアに「イラクによる攻撃もあり得る」と説得して、アメリカ軍駐留を認めさせ、軍のサウジアラビア派遣を決定しました。, この時、アルカイダを率いていたウサマ・ビンラディンはイスラム教の聖地であるメッカやメディナがあるサウジアラビアに異教徒のアメリカ軍の基地を認めたサウード王家と対立し、後に国外退去させられます。, クウェート侵攻の翌日、モスクワ訪問中のアメリカのベーカー国務長官と、ソ連のシェワルナゼ外相は共同声明を出して、イラクの侵攻を激しく非難しました。これは冷戦時代には考えられないことです。, アメリカ下院議会の人権委員会公聴会でナイラという少女がイラク兵がいかに残虐な行為をしたか、証言をしています。, 『私は病院でボランティアとして働いていましたが、銃を持ったイラクの兵隊たちが病室に入ってきました。そこには保育器の中に入った赤ん坊たちがいましたが、兵士たちは赤ん坊を保育器の中から取り出し、保育器を奪って行きました。保育器の中にいた赤ん坊たちは、冷たいフロアに置き去りにされ、死んで行きました』, 上の動画で語っている通り、この証言は真っ赤なウソでした。これをあばいたのはニューヨークタイムズのマッカーサー記者でした。, マッカーサー記者によると、クウェート政府は『自由クウェートのための市民運動』という名の偽装した市民運動を通じて、大手広告会社ヒル・アンド・ノウルトンにアメリカが軍事介入するよう世論を誘導してほしいと頼みました。, ヒル・アンド・ノウルトンは調査の結果、イラク兵の残虐性をアピールすることにして、在米クウェート大使の娘、ナイラを使いアメリカ下院議会人権委員会公聴会でうその証言をさせました。, この証言から3ヶ月後、アメリカは湾岸戦争を起こし、イラクをクウェートから撤退させました。, ヒル・アンド・ノウルトン社はこのキャンペーンで1200万ドル(14億円)の報酬を受け取りました。, 当時サダム・フセインがフセインがわざと油田の油を海に「放出」していると報道され、環境は破壊され、海の生物が犠牲になっている「環境テロ」と話題になりました。, しかし、この映像はアメリカ軍が誘導爆弾にてゲッティ・オイル・カンパニーの原油貯蔵施設から流出させたため起こったことが明らかになっています。, その後もイラクはクウェートの占領を継続し、国連の度重なる撤退勧告をも無視したため、11月29日、国連安保理は翌1991年1月15日を撤退期限とした決議678(対イラク武力行使容認決議、早い話が「言うことを聞かないと武力に訴えるぞ」ということ)を採択しました。, 1991年1月12日にはアメリカの上下両院から大統領の軍事力行使認可決議も採択されます。, クウェート侵攻の後、45万人と見られるイラク軍がサウジ・アラビア国境近くに展開し、サウジ・アラビアまで侵攻する恐れが出た為、アメリカとその同盟軍の軍用機がサウジ・アラビア国内に配備されました。, また、ソビエトがアフガニスタン戦争から撤退して、崩壊寸前だったため、アメリカはヨーロッパに展開している陸軍最強の機甲軍団、第7軍団を西ドイツから呼び寄せました。これは重戦車師団2個、機械化師団1個からなる強力な軍団で、さらに戦時に本土から送られるはずだった補助部隊、第一機械化歩兵師団(第一機械化歩兵師団は第一大戦以来の歴史を持つ師団で、いわゆるBig red oneの通称で知られる精鋭部隊)が追加される事になります。この第7軍団の規模は、人員14万6千人、各種車両約5万台、主力のM1A1戦車1500台で、今まで戦闘に投入された部隊としては最大の規模を持ってます。, アメリカの「有志を募る」という多国籍軍編成の呼びかけに応じ、クウェートと関係の深いイギリスをはじめ、同盟国のフランスもこれに加わります。またエジプト、サウジ・アラビア、バーレーン、カタール、オマーン、アラブ首長国連邦もこれに加わり、アラブ多国籍軍を編成しました。, また用意された航空機は、固定翼機が2400機、ヘリコプターなどが1400機という具合であった。この中には、アメリカ空軍機の他、紅海とペルシャ湾で待機する計6隻の空母にある航空機、イラク周辺諸国に元々あり臨時体制になった航空機が含まれます。, このためイラク空軍は最初から戦うのを諦め、戦闘機を他国に避難させるなどして空軍の温存を計りました。, 砂漠の嵐作戦でアメリカの狙いは、クウェートからイラク軍を追い出すことではなく、イラク軍の主力を叩き潰すことにありました。ただ追い出しただけでは、いつ何時再び戦いを挑んでくるか分かりませんから。, この主力部隊と見られていたのがイラク共和国防衛隊(Republican gurd)でした。 全部で8個師団あり、2個の装甲師団と5個の機械化師団、そして1個の空挺特殊部隊師団からなる精鋭部隊であり、湾岸戦争中はそのうち5個師団がクウェート北部、1個師団が西部の国境地帯に配備され、不利な状態になったらすぐイラク国内に撤退できるようにしてありました。, 作戦の大まかな筋として、アメリカ海軍海兵隊とアラブ多国籍軍がクウェートに進軍して、イラク共和国防衛隊がそちらに気を取られている隙に、砂漠を大回りした最強の第7軍団が背後から襲い掛かり、殲滅させる予定でした。, イラクがクウェートから撤退する期限を過ぎて2日後の1月17日(この日は新月で月明かりがなく、真っ暗でした)に「砂漠の嵐作戦」は開始されました。F117がバグダットを空爆して司令部や無線局などの主な軍事施設を破壊します。, アメリカ軍の作戦本部はCNNニュースの現地速報で、作戦が無事実行されたことを知ったと言われます。, その後アメリカ海軍の各艦艇から24時間にわたって、100発のトマホーク巡航ミサイルが(1発2億5千万円します)大統領官邸、電話局、発電所、変電所を破壊します。, こののち、20万人と言われる多国籍軍が、海からイラクとサウジ・アラビア最奥の国境沿い(約400㌔あります)に配備完了するまでの約1か月間、空から攻撃を続けました。, この巨大な軍を支える補給基地も、軍と一緒に基地ごと砂漠を進軍するという凄まじいことをやっています。, 始めは地上戦開始の前日2月23日、クウェート沖の艦船から艦砲射撃が始まり、海兵隊が上陸の準備を始めます。クウェートにいたイラク軍は海からの上陸に注意を向けました。, その隙をついて2月24日午前4時、アメリカ海兵隊の本隊とアラブ多国籍軍がクウェートにやって来て、クウェートシティに向かって進軍しました。, この進撃の速度があまりにも早かったため、海からやってくるとばかり思っていたイラク軍は反撃の準備もできず、撤退してしまいます。, 約1日遅れの2月25日午前5時30分に進軍予定だったアメリカ第7軍団は、イラク軍が予想より早く撤退したため、2月24日午後3時にイラク軍の共和国防衛隊を包囲殲滅するため進軍を開始します。, この後、第7軍団は大きな間違いを犯します。24日深夜から25日朝にかけて進軍を停止してしまったのです。, この間にイラク共和国防衛軍は、一番サウジ・アラビアに近い所にいた一個師団を除き大部分が撤退を完了してしまいました。, このため最初の目的であったイラク軍の精鋭部隊、共和国防衛軍は殲滅を免れ戦力を温存することが出来ました。, 2月26日撤退中のイラク軍に対してアメリカ空軍は猛爆を開始して、2本の幹線道路は死のハイウェイとなりました。, 2月27日アラブ多国籍軍がクウェートシティを開放し、2月28日の朝、戦闘は終了しました。, 湾岸戦争後、イスラム教のシーア派や北部クルド人による反政府活動が活発になり、イラク18州のうち14州を支配しました。彼らはアメリカの支援を期待しましたが、アメリカは何の行動も起こしませんでした。, アメリカが介入しないと見たサダム・フセインは、生き残った共和国防衛軍と大統領親衛隊で反乱を鎮圧し、多数の反政府国民を殺害しました。, 結局アメリカは、サダム・フセインと、彼に反抗する市民双方から憎まれるようになりました。, なぜ全世界でCNNの報道陣だけが、湾岸戦争初戦のバグダット空爆を実況中継出来たのか? 映画 ライブ・フロム・バグダット, 映画「ガルフ・ウォー」湾岸戦争に出兵した兵士のうち帰国後に頭痛や倦怠感、果ては癌などの症状を訴える者が続出しました。, DMMに入会すると、希望するタイトル(あらかじめリストに登録しておきます)が2枚づつ封筒に入れて、郵送されてきます。返却は同じ封筒に入れて郵便ポストに投函するだけです。, またこのサイトで扱っている映画のDVDは、店舗に置いていないことが多いため、探したり取り寄せてもらったりする手間を考えると、望む商品を直接自宅に届けてもらえるこのサービスは、大変重宝です。, 今はやりのネットによる動画配信サービスよりも、はるかに多い約44万タイトルのDVDを扱っておりますので、なかなか手に入りにくい映画も見ることが出来ます。, 現在30日間無料体験サービスを行っておりますので、一度試してみることをお勧めいたします。, ロシア革命前後の女性ラーラーとそれを取り囲む3人の男達の物語 映画 「ドクトル・ジバゴ」, 自分たちが乗っている飛行機がハイジャックされ、テロの道具になるのを知った乗客たちは、「映画」 ユナイテッド93, なぜ、イラン・イラク戦争でアメリカの支援を受けていたサダム・フセインはアメリカを憎み、対立するようになったか。, 1918年 百日攻勢(前編) 第2次マルヌ会戦で勝利した連合軍は、ドイツ軍に対して反撃を開始します。, 映画 「ゾラの生涯」無実の罪で流刑に処されたユダヤ人将校ドルフュスの疑惑を晴らすため戦った、小説家エミール・ゾラの話です。, 映画 「ザ・ウェーブ」 大衆が権力に対して、いかに簡単に操られるか、示した映画です。, 映画 「ダンケルク(2017年)」フランスのダンケルク海岸に包囲された40万人のイギリス兵を救出する作戦を、参加した人たちの目から見た映画です。, 映画 「エイプリル・ソルジャーズ  ナチス・北欧大侵略」祖国がすでに降伏したとも知らずに、戦い続けた自転車部隊の若者たち. The New York Times. 22 March 1991. ]はこれを拒否した。さらに当時の外務大臣の中山太郎が、外国人の看護士・介護士・医師を日本政府の負担で近隣諸国に運ぼうとした際にも、日本航空の労働組合が近隣諸国への飛行を拒否したため、やむなくアメリカのエバーグリーン航空機をチャーターしてこれに対応した。, さらに、急遽作成した「国連平和協力法案」は自民党内のハト派や、社会党などの反対によって廃案となった。なお、時の内閣は第二次海部内閣の改造内閣であった。, また、鶴見俊輔や自動車雑誌『NAVI』編集者鈴木正文[56]などの文化人は、多国籍軍によるイラクへの攻撃に対して、攻撃開始前の時点から「反戦デモ」を組織して[57]、柄谷行人、中上健次、津島佑子、田中康夫らは湾岸戦争に反対する文学者声明を発表した。これらの文化人や作家の多くはイラクによるクウェート侵攻については批判していたが、これを「イラクによる正当な領土回復行為」とみなす者もいた。[誰? 2001. ƒ[ƒ‹‚Ì•\‘è‚Ɂu¼Œ´k“ñ‚³‚ñ‚ցv‚Ə‘‚¢‚āA ‚µ‚Ä‚¢‚é‚©‚Æ‚¢‚¤–â‚¢‚©‚¯‚É‘¼‚È‚ç‚È‚¢B "Syria Plans to Double Gulf Force.". The Associated Press. "Vanity Fair excerpt of the book "The Osama bin Laden I Know"". •’i‚©‚炱‚¤‚µ‚½”á”»‚É‘Ï‚¦‚¤‚邾‚¯‚Ì•ñ“¹‚ð 湾岸戦争(わんがんせんそう、英語: Gulf War 、アラビア語: حرب الخليج الثانية ‎)は、1990年 8月2日のイラクによるクウェート侵攻をきっかけに、国際連合が多国籍軍(連合軍)の派遣を決定し、1991年 1月17日にイラクを空爆して始まった戦争である。 https://www.youtube.com/watch?v=xGuxXU4Tlik, http://blog.goo.ne.jp/leonlobo/e/5df2cfc0e64a3a1fd0d471216fff85e3, https://www.youtube.com/watch?v=zWPAktCuzK4, https://www.youtube.com/watch?v=90oikVp8mKk#t=50, http://threechords.blog134.fc2.com/blog-entry-1879.html, https://mobile.twitter.com/TsutsumiMika/status/465741631887396864, http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%91%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%80#.E6.88.A6.E4.BA.89.E9.81.82.E8.A1.8C.E3.81.AE.E3.81.9F.E3.82.81.E3.81.AE.E3.83.97.E3.83.AD.E3.83.91.E3.82.AC.E3.83.B3.E3.83.80, http://www.liveleak.com/view?i=3b7_1422886401, http://www.liveleak.com/view?i=b21_1409358119, https://archive.org/details/HowTheyFAKEDTheJamesFoleyExecution, http://ameblo.jp/cargoofficial/entry-11987512659.html, http://www.huffingtonpost.jp/2015/02/09/government-criticism_n_6648844.html. 湾岸戦争で最も人々の記憶に残っている映像のひとつに、 油にまみれた水鳥の姿がある。 イラク軍が油田に放火し油が流出した、と報道された。 後にその映像は 全く別の場所でとられたことがわかったのだが、 これもレンドン・グループが イッザト・イブラーヒーム l‚¦‚Ä‚Ý‚é‚ƁAí‘ˆ‚ª“Á•Ê‚È‚Ì‚Å‚Í‚È‚¢B 鳥』もヤラセか」とアメリカの発表の仕方に「情報操作」の疑問を呈した。だが、毎日新聞以外の大手マスコミは、内々ではトチリの事実を知りながら、なんらの訂正の努力も見せておらず、イラク側の抗議を無視し続けている。, (『創』1991.4「湾岸戦争を考える/原油流出報道の『疑惑』を検証する」) "A Nation Challenged:Holy war lured Saudis as rulers looked away". ‚±‚¤‚µ‚½ˆÓŒ©‚Í“–‘R‚ ‚邾‚낤‚µA ‚µ‚Ä‚¢‚é‚©‚ª–â‚í‚ê‚Ä‚¢‚é‚Ì‚¾B, ¼Œ´k“ñ‚³‚ñ‚ÖŒƒ—ã‚⊴‘z‚Ȃǂ́A クラブ系ユニットcargoのオフィシャルブログOfficial Site : www.cargo-jp.com, 「戦争しようぜ!!」  ~日本人が騙されるメディアの大嘘プロパガンダ | cargo official blog powered by ameba. Retrieved September 5, 2009. 湾岸戦争で最も人々の記憶に残っている映像のひとつに、 油にまみれた水鳥の姿がある。 イラク軍が油田に放火し油が流出した、と報道された。 後にその映像は 全く別の場所でとられたことがわかったのだが、 これもレンドン・グループが 一つは1991年の湾岸戦争時に、サダム・フセイン悪魔化と戦争支持取り付けに絶大な効果を発揮した「油まみれの水鳥」写真です。このとき、ブッシュ(オヤジ)は、バブル崩壊で七転八倒する日本から1兆7千億円相当ものカネを巻き上げましたね。 ]。, しかし人的貢献が無かったとして、アメリカから「金だけ出す姿勢」を非難された。[要出典]なお、ドイツも同様に非戦協力のみであったが格別非難はされず、クウェートの感謝広告でも中央上段に国名が掲載されている。, 同盟国のアメリカから非難された結果、自民党・外務省・保守的文化人などのあいだで「『人的貢献』がなければ評価されない」とのコンセンサスが形成され、その後の自衛隊の任務拡張のための根拠にたびたび使われた。そして日本政府は国連平和維持活動(PKO)への参加を可能にするPKO協力法を成立させた。中山太郎外務大臣は、感謝広告に日本が掲載されなかったことを引き合いに出し「人命をかけてまで平和のために貢献する」ときのみ「国際社会は敬意を払い尊敬する」旨答弁している。その後、ペルシャ湾の機雷除去を目的として海上自衛隊の掃海艇を派遣し、自衛隊の海外派遣を実現させた(自衛隊ペルシャ湾派遣)。このPKO協力法が施行されたことにより自衛隊はPKO活動への参加が可能となった。, 2015年9月10日付で東京新聞は、クウェート側が広告掲載のためにアメリカ国防総省に求めた多国籍軍参加国のリストから日本が漏れていたとする記事を掲載した。アルシャリク元駐日クウェート大使はインタビューに対し、感謝広告はサバハ駐米大使(娘のナイラが「ナイラ証言」をしたことで知られる)による発案であり、サバハ大使の求めでアメリカ国防総省が示した参加国リストに日本が掲載されていなかったと話した。また同記事はクウェートの湾岸戦争記念館に日本の掃海作業や資金援助についての説明があること、2011年3月の東日本大震災の際にはクウェートからも富裕層から労働者まで多くの人々から義捐金が寄せられ、500万バレルの石油の無償提供が決議されたことを紹介し、クウェート人の間では湾岸戦争において日本が多額の資金援助をしたことは感謝の念とともに記憶されているとしている。前述のように、直接クウェートに渡った資金は6億3千万円程度に過ぎないという意見もあるが、日本国が日本国民の血税を投入してクウェート解放にかかった巨額の戦費負担の一翼を担った事実に変わりはない。, 日本では英語名を訳した「湾岸戦争」が開戦直後に定着した。ペルシャ湾に面したクウェートが舞台になったことから名づけられたと見られ、ほとんどの国が訳語を使用している。イラクのクウェートへの侵攻から始まったことから、「イラク戦争」と呼ぶ人もおり、2003年のイラク戦争を受け、こちらを第一次イラク戦争、後者を第二次イラク戦争とも呼ぶ。また、2003年のイラク戦争の事を「第二次湾岸戦争」と呼び、こちらを第一次湾岸戦争と呼ぶ人もいる。, 一方のイラクでは、多国籍軍が30か国ほどで結成されたことから「30の敵戦争」或いは、当時のイラクのフセイン大統領が「アラブ (イスラーム) 対イスラエルとその支持者 (アメリカやキリスト教国などの異教徒) 」と位置付けたこともあり、当時のアメリカの大統領の名前を取って「ブッシュ戦争」などと呼んでいた。, アラブ諸国では、イラン・イラク戦争を第一次湾岸戦争として、こちらを第二次湾岸戦争 (حرب الخليج الثانية)、あるいは過去4度の中東戦争との関連で第五次中東戦争と呼ぶことがある。, また、メディアによるリアルタイムの報道映像は、ミサイルによる空爆をテレビゲームのように映し出し、世界的には「ニンテンドー戦争」[60]とも呼ばれた。日本国内では「テレビゲーム戦争」と報道された[注 1][61][62]。, ほとんどの連合軍諸国は、自らの作戦及び戦闘を様々な名称で呼んだ。これらはアメリカ軍による「砂漠の嵐」をはじめ、しばしば戦争全体を表す名称として誤って使われる。, そのため、中立的でない偏った観点から記事が構成されているおそれがあり、場合によっては記事の修正が必要です。議論は, 日本政府の対応が10億ドルずつの逐次的支出で、全体として印象に残らなかったとする意見もある, 当時主流のゲーム機であったNES(ファミコン)の愛称がニンテンドーであったことから。, Gulf War Coalition Forces (Latest available) by country. Copyright © CyberAgent, Inc. All Rights Reserved. Troops, 26% Now Disabled, The Role of the United Arab Emirates in the Iran-Iraq War and the Persian Gulf War, Role of Kuwaiti Armed Forces in the Persian Gulf War, "Iraq and Kuwait:1972, 1990, 1991, 1997." 1月7日(月曜日)付朝日新聞朝刊の中面を見て、本当にびっくりした。16、17面の2面にわたる全ページ。強烈なインパクトを持つ紙面だった。「嘘つきは、戦争の始まり。」。大きな白抜きの見出し、左ページの中央に油まみれの鳥の大きな写真があった。見出しに比べてあまりに小さな白抜き文字の記事を読んだ。 「イラクが油田の油を海に流した」 その証拠とされ、湾岸戦争本格化のきっかけとなった一枚の写真。  … í‘ˆ‚́A‹É’[‚ÈŒ`‚Å 湾岸戦争の時の油まみれの水鳥の映像をまだ覚えている方も多いと思います。あれは当初はイラクが原油を放出したからという報道のされ方だったと思いますが、実際はイラクは関係なかったという話を聞いたのですが、真相をご存知の方がいま Miller, Judith. A1, B4. アメリカの世論を大きく動かし、湾岸戦争を始める大きな一因となったナイラ証言です。 米国議会にて、「イラク人が攻め込んで来て、病院の赤ちゃんを虐殺した」と証言した、クェート人少女ナイラの証言はまったくのでっちあげでした。 彼女はアメリカ人で、クェートに行ったことさえな� 《湾岸戦争・イラク戦争編》日々洪水のように垂れ流されるニュース。しかしこれらは、単なる「事実の断片」にすぎない。「事実」が『真実』を語っているわけではない。「事実」は慎重に加工されている。メディアは、国民に奉仕する機関ではなく、国家権力に奉仕する機関にすぎない。 2010 World Almanac and Book of Facts, Pg. アリー・ハサン・アル=マジード 第一章:一年未満で解明・黒い水鳥の疑惑 1 水鳥の映像にヤラセの疑い。軽率な速報競争に仕掛けワナ 「油まみれの黒い水鳥」の映像は湾岸戦争報道の象徴といっても過言ではない。 なぜ、イラン・イラク戦争でアメリカの支援を受けていたサダム・フセインはアメリカを憎み、対立するようになったか。 "Soldier Reported Dead Shows Up at Parents' Doorstep." ƒƒfƒBƒA‚Ì—Í‚ðŽŽ‚³‚ê‚éê‚Å‚ ‚邾‚¯‚ŁA ターハー・ヤースィーン・ラマダーン, 湾岸戦争(わんがんせんそう、英語: Gulf War、アラビア語: حرب الخليج الثانية‎)は、1990年8月2日のイラクによるクウェート侵攻をきっかけに、国際連合が多国籍軍(連合軍)の派遣を決定し、1991年1月17日にイラクを空爆して始まった戦争である。, 1990年8月2日、イラク軍は隣国クウェートへの侵攻を開始し、8月8日にはクウェート併合を発表した。これに対し、諸外国は第二次世界大戦後初となる、一致結束した事態解決への努力を始めた[11]。国際連合安全保障理事会はイラクへの即時撤退を求めるとともに、11月29日に武力行使容認決議である決議678を米ソは一致して可決し、マルタ会談とともに当時の冷戦の終結を象徴した。翌年1月17日にアメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領はアメリカ軍部隊をサウジアラビアへ展開し、同地域への自国軍派遣を他国へも呼びかけた。諸国政府はこれに応じ、いわゆる多国籍軍が構成され、これは第二次世界大戦以来の連合であった[12]。アメリカ軍が多くを占めるこの連合軍にはノーマン・シュワルツコフ米陸軍中将が司令官となり、イギリスやフランスなどといったヨーロッパのみならず、イスラム世界の盟主サウジアラビアを始めとする湾岸諸国(湾岸協力会議)やアラブ連盟の盟主エジプトといった親米アラブ諸国、さらにイラクと同じバアス党政権のシリアのような親ソ連の国も参加した。この湾岸戦争に参加したアラブ諸国はシュワルツコフではなく、サウジアラビアのハリド・ビン・スルタン(英語版)陸軍中将の指揮下に置かれた[13]。, 国際連合により認可された、34ヵ国の諸国連合からなるアメリカ、イギリスをはじめとする多国籍軍は、バース党政権下のイラクへの攻撃態勢を整えていった。イラク政府による決議履行への意思無きを確認した諸国連合は、国連憲章第42条に基づき[14]、1991年1月17日にイラクへの攻撃を開始した。, イラクのサッダーム・フセイン大統領は開戦に際し、この戦いを「すべての戦争の母」と称した[15]。また呼称による混乱を避けるため、軍事行動における作戦名から「砂漠の嵐作戦」とも呼ばれる[16]この戦争は、「第1次湾岸戦争」、また2003年のイラク戦争開始以前は、「イラク戦争」とも称されていた[17][18][19]。, このクウェートの占領を続けるイラク軍を対象とする戦争は、多国籍軍による空爆から始まった。これに続き、2月23日から陸上部隊による進攻が始まった。多国籍軍はこれに圧倒的勝利をおさめ、クウェートを解放した。陸上戦開始から100時間後、多国籍軍は戦闘行動を停止し、停戦を宣言した。, 空中戦及び地上戦はイラク、クウェート、及びサウジアラビア国境地域に限定されていたが、イラクはスカッドミサイルをサウジアラビア及びイスラエルに向け発射した。, 1988年8月20日に、イラクはシーア派イスラーム共和制国家のイランとの8年間に及ぶイラン・イラク戦争の停戦を迎えた。, 戦争中に五大国のアメリカ、ソビエト連邦、中華人民共和国、イギリス、フランスや経済的に豊かなペルシア湾岸のアラブ諸国に援助され、イスラエルをのぞいた中東では最大かつ世界的にも第四位の軍事大国となったが、600億ドルもの膨大な戦時債務を抱え、戦災によって経済回復も遅れていた。イラクの外貨獲得手段は石油輸出しかなかったが、当時の原油価格は1バーレルあたり15~16ドルの安値で、イラク経済は行き詰っていた。, イラクが戦時債務を返済できないことから、アメリカは余剰農産物の輸出を制限し始めた。食料をアメリカに頼っていたイラクはすぐに困窮してしまった。また、アメリカが工業部品などの輸出も拒み始めたことで、石油採掘やその輸送系統についても劣化が始まり、フセイン大統領は追い詰められた。, フセイン大統領はOPECに対し、原油価格を1バーレル25ドルまで引き上げるよう要請していた。この要求は突然のものではなく、7月10日にサウジアラビアのジッダで開かれたサウジアラビア、クウェート、イラク、カタール、アラブ首長国連邦の産油5カ国による石油相会議において、原油価格引き上げを希望していたが、OPECは聞き入れなかった。, 一方、サウジアラビアとクウェート、アラブ首長国連邦がOPECの割当量を超えた石油増産を行っていた。サウジアラビアは表向きOPECの指示に従っていたが、国有油田とは別にサウード家の私有物として石油を採掘し、海外に売りさばいていた。クウェートとアラブ首長国連邦はOPECを完全無視し大量採掘、原油価格は値崩れし石油価格は大きく下がり、石油輸出に依存していたイラク経済に打撃を与えていた。, 1990年7月17日、イラク革命記念日での演説においてフセイン大統領は「一部のアラブ諸国が、世界の原油価格を下落させることにより、イラクを毒の短剣で背後から突き刺そうとしている。彼らが言葉で警告しても分からないのならば、なんらかの効果的手段を取る」と間接的にクウェートとアラブ首長国連邦を非難した。, これを受けて、アラブ首長国連邦は石油増産を一応縮小したが、クウェートはいかなる行動も起こさなかった。7月18日、イラクのターリク・アズィーズ外相は、クウェートとアラブ首長国連邦がOPECの生産協定を破り、生産枠を越えた石油生産により、アラブ全体で5000億ドルもの損失を被ったと主張。そしてクウェートに限れば、イラクが890億ドルの損害を被ったばかりか、イラクの領土にあるルマイラ油田から石油を盗掘しているとし、盗掘が1980年代から続いており、イラクは24億ドルも損をしていると述べた。さらにクウェートが、国境付近のイラク領内に軍事基地を建設していると非難した。, クウェートはルマイラ油田から大量採掘を行ったが、この油田は、イラクも領有を主張、過去幾度か帰属を巡って対立してきた歴史がある(地下でイラク・クウェートの油田が繋がっていると考えられた)。イラクの批判に、クウェートのジャービル首長は、単なる金目当ての脅しと判断し、イラクの主張を否定すると共に、軍を動員した。また、クウェート国内では石油利益配分を巡って対立が起こっており、政府がイラクに無償援助した約100億ドルを返済させる運動が起こったため、クウェートはイラクに返済を働きかけたが、当然ながらイラクには返せる財産はなく、反対に更なる援助を要求され、両国は外交的衝突に至った。, この事態に周辺アラブ諸国が仲介に乗り出し、7月20日、サウジアラビアのサウード・アル=ファイサル外相が同国のファハド国王の親書を携えてイラクを訪問。同日、アラブ連盟のチェディル・クライビー事務総長がクウェートを訪れてジャービルを説得した。そして、クウェート政府はイラクとの間で盗掘問題を交渉することに合意したと発表し、軍の動員も解除した。 これらの外交交渉は実は、内心イラクの軍事的脅威を恐れるクウェート側がサウジアラビアやアラブ連盟に19日の段階で働きかけていたものだった。7月21日には、エジプトのホスニー・ムバラク大統領が、フセイン大統領と電話で会談し、慎重な対応をするように説いた。22日にはエジプトをアズィーズ外相が訪れたが、同日、イラク国営通信は、「クウェートは湾岸への外国勢力侵入に手を貸している」というイラク政府報道官の談話を発表し、国営紙「ジュムフーリーヤ」も「クウェートはまだイラクの油田盗掘を止めていない」と、イラクによる激しいクウェート非難は収まらなかった。, 事態を重く見たムバラク大統領は、問題解決のためにイラク・クウェート両国を訪問する意思があると表明し、アラブ外相会議の開催を求めた。一方で、当事者であるイラクとクウェートに対しては非難合戦を止めるよう求めた。しかし、そんなアラブ各国の動きを横目に、イラクは7月24日、クウェート国境に3万人の兵力を集結。同日、ムバラク大統領はイラクを訪問し、フセイン大統領に対してクウェートへ軍事行動を起こさぬよう釘をさし、イラク、クウェート、サウジアラビア、エジプトから成る4カ国会議を提案した。これに対してフセイン大統領は、クウェート側への要求として、石油盗掘分の24億ドルの支払い、国境画定に向けた直接交渉を求め、受け入れられなければイラクは軍事行動を取ると述べた。 ムバラク大統領の提案した4カ国会議は、クウェートに有利なものであったため、イラクが孤立することを恐れたフセイン大統領は、7月25日に4カ国会議を拒否し、あくまでもクウェートとの直接交渉を求めた。, 同日、フセイン大統領と会談を行ったアメリカのエイプリル・グラスピー駐イラク特命全権大使が、この問題に対しての不介入を表明したこともあり、ついにイラク軍が動いた。7月27日にはクウェート北部国境に共和国防衛隊集結をアメリカ軍の偵察衛星も確認した。集結した戦車隊は砲門を南側へ向け、威嚇していた。, アメリカはこれを周辺アラブ諸国に通知したが、湾岸諸国はあくまでクウェートに対する脅しと考え、まるで相手にしなかった。OPECはフセイン大統領を懐柔する為に、原油価格をそれまでの18ドルから21ドルに引き上げたが、フセイン大統領はすでに交渉による解決に関心を示さなかった。一方クウェートは、充分な防衛体制を敷かなかった。7月31日のジッダで開かれた両国会談では、イラク側代表のイッザト・イブラーヒーム革命指導評議会副議長がこれまでの要求に加えて、イラクが長年領有権を主張していたワルバ島(英語版)とブービヤーン島をイラクに割譲せよ、と要求をエスカレートさせた。これに対してクウェート側代表のサアド首相はイラクの要求を拒否すると共に、話し合いの継続を希望するとだけ答えた。イラクは、次回協議をバグダードで開くことをほのめかし、会議は成果無く終了した。, 8月1日に、両国を仲介していたムバラク大統領とパレスチナ解放機構(PLO)のヤーセル・アラファト議長は「イラクのクウェート侵攻は無い」とクウェートに明言し、自国のテレビで断言した。イラクとクウェートの武力衝突は避けられると思われた。, 1990年8月2日午前2時(現地時間)、戦車350両を中心とする共和国防衛隊機甲師団10万人はクウェート侵攻を開始。ムバラク大統領とアラファト議長を完全に出し抜いた格好だった。なお、イラク軍にすらこの侵攻計画は事前に知らされておらず、参謀総長や国防大臣は侵攻をテレビやラジオの報道で聞かされ寝耳に水の状況だった。, クウェート軍の50倍の兵力での奇襲により、午前8時までにはクウェート全土を占領。同時に革命指導評議会はクウェート政権が打倒されたと宣言し、同日夕刻にイラク国営放送が、クウェートにおいて革命を起こした暫定自由政府(ほぼ全員の政府閣僚が、クウェート人に知られていないイラク軍人による傀儡政権だったと見られる)の要請により介入したと報じた。一方、クウェートのジャービル3世首長はサウジアラビアへ亡命した。異父弟のファハドは少人数の警護隊とともに宮殿内での銃撃戦により死亡した(一説には、乗っていた飛行機がクウェート国際空港で足止めされたところをイラク軍に拘束され殺害されたともいう)。クウェート暫定政府はアラー・フセイン・アリーを首班とするクウェート共和国と名前を変えたが、翌日にはイラクに併合された。, イラクの軍事侵攻に対し、同日中に国際連合安全保障理事会は即時無条件撤退を求める安保理決議660を採択、さらに8月6日には全加盟国に対してイラクへの全面禁輸の経済制裁を行う決議661も採択した。この間に石油価格は一挙に高まったものの、決議661の経済制裁によって、イラクは恩恵にあずかることができなかった。, 8月7日、アメリカのブッシュ大統領は「サウジアラビアへのイラクによる攻撃もあり得る」と説得し、アメリカ軍駐留を認めさせ、軍のサウジアラビア派遣を決定した。アメリカはイラン・イラク戦争の際にイラクを支援しており、サウジアラビアも国内にメッカという聖地を抱え、外国人に対して入国を厳しくしている国であるため、友好国ではあるものの異教徒の国の軍隊の進駐を認めることは、多くのイスラム国家にとって予想外の出来事であった。, しかし、サウジアラビアとしても石油の過剰輸出の件でイラクと対立していたこともあり、クウェートに続いて自国も侵略される事を恐れていた。バーレーン、カタール、オマーン、アラブ首長国連邦、といった湾岸産油国も次々にアメリカに同調した。, しかし国連軍の編制は政治的に出来ないため、アメリカは「有志を募る」という形での多国籍軍での攻撃を決め、アメリカの同盟国かつクウェートと歴史的につながりの深いイギリスやフランスなどもこれに続いた。エジプト、サウジアラビアをはじめとするアラブ各国もアラブ合同軍を結成してこれに参加した。さらに、アメリカと敵対関係にあったシリアも参戦を決定したが、これはレバノン内戦に関する取引であった。アメリカはバーレーン国内に軍司令部を置き、延べ50万人の多国籍軍がサウジアラビアのイラク・クウェート国境付近に進駐を開始した(「砂漠の盾」作戦[21])。, イラクは国連の決議を無視、さらに態度を硬化させ、8月8日に「クウェート暫定自由政府が母なるイラクへの帰属を求めた」として併合を宣言、8月28日にはクウェートをバスラ県の一部と、新たに設置したイラク第19番目の県「クウェート県(英語版)」に再編すると発表した。8月10日にアラブ諸国は首脳会談を開いて共同歩調をとろうとしたが、いくつかの国がアメリカに反発してイラク寄りの姿勢を採ったので、取りあえずイラクを非難するという、まとまりのないものとなった。, 8月12日にイラクは「イスラエルのパレスチナ侵略を容認しながら今回のクウェート併合を非難するのは矛盾している」と主張(いわゆる「リンケージ論」)、イスラエルのパレスチナ退去などを条件に撤退すると発表したが、到底実現可能性のあるものではなかった。10月8日にエルサレムで、20人のアラブ系住民がイスラエル警官隊に射殺されるという、中東戦争以後最大の流血事件が起こり、フセインは激しく非難したが、これを機にパレスチナ問題が国際社会で大きく取り上げられるようになった。またこの主張によりPLOはイラク支持の立場を表明、結果クウェートやサウジアラビアからの支援を打ち切られて苦境に立ち、後のオスロ合意調印へと繋がる事になった。, さらにイラクは8月18日に、クウェートから脱出できなかった外国人を自国内に強制連行し「人間の盾」として人質にすると国際社会に発表し、その後日本やドイツ、アメリカやイギリスなどの非イスラム国家でアメリカと関係の深い国の民間人を、自国内の軍事施設や政府施設などに「人間の盾」として監禁した。, なおこの中には、クウェートに在住している外国人のみならず、日本航空やブリティッシュ・エアウェイズの乗客や乗務員など、イラク軍による侵攻時に一時的にクウェートにいた外国人も含まれていた。この非人道的な行為は世界各国から大きな批判を浴び、のちにイラク政府は小出しに人質の解放を行い、その後多国籍軍との開戦直前の12月に全員が解放された。, だが、その後もイラクはクウェートの占領を継続し、国連の度重なる撤退勧告をも無視したため、11月29日、国連安保理は翌1991年1月15日を撤退期限とした決議678(いわゆる「対イラク武力行使容認決議」)を採択した。, 1月17日に、多国籍軍はイラクへの爆撃(「砂漠の嵐作戦」[22])を開始。宣戦布告は行われなかった。この最初の攻撃は、サウジアラビアから航空機およびミサイルによってイラク領内を直接たたく「左フック戦略」と呼ばれるもので、クウェート方面に軍を集中させていたイラクは出鼻をくじかれ、急遽イラク領内の防衛を固めることとなった。巡航ミサイルが活躍し、アメリカ海軍は288基のUGM/RGM-109「トマホーク」巡航ミサイルを使用、アメリカ空軍はB-52から35基のAGM-86C CALCMを発射した。CNNは空襲の様子を生中継して世界に実況報道した。, 1月27日にアメリカ中央軍司令官であったアメリカ陸軍のノーマン・シュワルツコフ大将は「絶対航空優勢」を宣言し、戦争が多国籍軍側に有利に進んでいることを強調した。, アメリカ空軍はイラク軍防空組織に最初期から攻撃を加えており、イラク軍防空システムは早期の段階でほぼ完全に破壊された。これによって戦闘開始直後からイラク空軍の組織的な防空戦闘は困難となり、多くの航空機がイランなどの周辺国へと退避した。ただし開戦初日にはイラク空軍MiG-25によりF/A-18が撃墜されている。また、イラクの防空体制がまだ機能している状況下で、JP233による攻撃を行ったイギリス空軍のトーネードIDSは、多国籍軍の攻撃機としては、最も多くの犠牲を出した。, 一方、フセイン大統領は「アラブ(イスラーム)対イスラエルとその支持者(ユダヤ教・キリスト教などの異教徒)」の構図を築こうと考え、1月18日からイスラエルへ向けスカッドミサイル「アル・フセイン」と「アル・ファジャラ」計43基を発射、イスラエル最大の都市テルアビブなどに着弾し、死傷者が出た。, イスラエルは開戦直前にモサッドなどによりフセイン大統領が攻撃準備をしていることを知り、1月16日に全土へ非常事態宣言を出していたが、42日間に18回39発のミサイル攻撃を受け、うち10回の攻撃で226名が負傷し、2名がミサイルの直撃で、5名がミサイル警報のショックで、7名が対化学攻撃用ガスマスク(イラン・イラク戦争時に配布したもの)の取り扱いミスで死亡した[9]。, イスラエル世論はイラクへの怒りで沸騰したが、イラクからの挑発を受けてイスラエルが参戦することで、「異教徒間戦争」となるというフセインの目論見通りになることを恐れたアメリカや国連の要請によってイスラエル政府は動かず、フセイン大統領のもくろみは失敗した。続いてイラクはサウジアラビアとバーレーンに対して同数程度のミサイルで攻撃を行った。これは、「異教徒に加担した裏切り者を制裁することで、アラブ世界の結束を図ろう」という試みであったが、「不法な侵略者イラク対国際社会」の構図は揺らがなかった。, アメリカは急遽イスラエルや湾岸諸国にパトリオット地対空ミサイルシステムを配備して迎撃し、当時はほとんど打ち落としたと主張していた。しかし、本来これは対航空機用の兵器である。後の研究報告により、それほど役立っていなかったことが判明した(これを受けて、アメリカとイスラエルはミサイル迎撃システムの開発を進めることになり、ミサイル対応のパトリオットミサイル PAC-3を開発した)。, またスカッドを捕捉、破壊するためイギリス特殊空挺部隊(SAS)偵察チームがイラク後方に潜入したが、偵察チームの多くはイラク軍に捕捉され、死傷者が出た。特にアンディ・マクナブ軍曹の指揮する偵察チーム、コールサイン「ブラヴォー・ツー・ゼロ」は8名中3名が死亡、マクナブを含めて4名が捕虜となり、ただ1人クリス・ライアン伍長だけがシリアへの脱出に成功した。, 1月29日、イラク軍はサウジアラビア領のペルシャ湾上にあるカフジ油田を奇襲攻撃。しかし戦略も何もなく、また多国籍軍の抵抗にあって失敗し、翌30日に撤退した。, 1か月以上に亘って行われた恒常的空爆により、イラク南部の軍事施設はほとんど破壊されてしまった。2月24日に空爆が停止された。同日、多国籍軍は地上戦(「砂漠の剣」作戦[23])に突入。クウェートを包囲する形で、イラク領に侵攻した。, 大統領親衛隊や共和国防衛隊を除く主要のイラク軍は度重なる空爆によって消耗、装備も貧弱でまるで士気が無く、また一部では油田に火を放って視界を妨害しようとしたが、多国籍軍は熱線映像式暗視装置を持っていたため、煙の向こうのイラク軍部隊は反撃もできずに一方的に撃破され、また続々と投降した。, イラクは翌2月25日にスカッドミサイルでサウジアラビアを攻撃、ダーラン近郊の第14補給分遣隊兵舎に命中させ、28人を殺害、100人以上を負傷させた[10]。しかし、抵抗はここまでであった。地上戦開始から100時間後にイラク軍は二本の幹線道路に長蛇の列を作って撤退開始、2月26日から翌日にかけてそれを米軍機は猛爆し、死のハイウェイと化し、夜が明けた頃には無数の焼け焦げた車両と焼死体が散乱していた。2月27日にはクウェート市を解放、多国籍軍は敗走するイラク軍を追撃した。2月28日の朝(イラク時間)に戦闘が終結した。, アメリカのブッシュ大統領は記者会見で、「クウェートは解放された。」「イラク軍は敗北した。我々の戦闘目的は達成された。多国籍軍の勝利であり、国連の、全人類の、そして法の支配の勝利である。」と述べた。一方で、イラクのフセイン大統領は、「あなたがたは勝利したのだ、イラク国民よ。イラクこそ勝者である。イラクは悪とテロと侵略主義の帝国であるアメリカのオーラを破壊するのに成功したのだ」と強弁した[24]。, 3月3日に、イラク代表が暫定休戦協定を受け入れたが、イラク軍の主力は多くが温存され、この温存兵器が後の懸案事項となった(終戦直後に南部シーア派住民と北部クルド人が反フセイン暴動を起こしたが、米英の介入はないと見たフセイン大統領は温存した軍事力でこれらを制圧し、首謀者ら多数が殺害されたといわれる)。, 国連では1ヵ月後の4月3日に「クウェートへの賠償」、「大量破壊兵器(生物化学兵器)の廃棄」、「国境の尊重」、「抑留者の帰還」などを内容とする安保理決議687号が採択された。4月6日にイラクが受諾して正式に停戦合意、4月11日に687号は発効した。1995年4月に安保理が石油交易を部分的に許可する決議をしたが、イラクは全面解除以外に受け入れられないと拒否した。また、核開発防止のための国際原子力機関(IAEA)査察を拒否し、長期間にわたる経済制裁を受けることとなった。, 巡航ミサイル及び航空戦力による、空爆の重要性の増加は、戦争初期段階における一般市民の犠牲者の数をめぐる論争を引き起こした。戦争開始24時間以内に、1,000個以上のソーティーが飛行しており、その多くがバグダッドを標的とした。イラク軍の統制及びフセイン大統領の権力が座すバグダッドは、爆撃の重要な標的となったにもかかわらず、イラク政府は政府主導の疎開や避難を行わなかった。これは、市民の多大な数の犠牲者を生む原因となった。, 地上戦の前に行われた多くの航空爆撃は、民間人の被害を多数引き起こした。特筆すべき事件として、ステルス機によるアミリヤへの爆撃が挙げられる。この空爆により同地へ避難していた200人から400人の市民が死亡した[25]。火傷を負い、切断された遺体が転がる場面が報道され、さらに爆撃された掩体壕は市民の避難所であったと述べられた。一方では、同地はイラクの軍事作戦の中心地であり、市民は人間の盾となるために故意に動かされたとみなされ、これを巡る論争は激化した。, カーネギーメロン大学ベス・オズボーン・ダポンテ[26]の調査によると、3,500人が空爆で、100,000人が戦争による影響で死亡したと推定された[27][28][29]。, 正確なイラク戦闘犠牲者数は不明だが、調査によると20,000人から35,000人であると見積もられている[27]。アメリカ空軍の報道によると、空爆による戦闘死者数は約10,000から12,000人、地上戦による犠牲者数は10,000人であった。この分析は、戦争報道によるイラク人捕虜に基づいている。もっとも、捕虜となったイラク軍兵士の中で負傷者が数百名しかいなかったことや、戦後に反体制勢力を迅速に鎮圧した状況を見るに、実際の死者は10,000人以下との見解もある[30]。, フセイン政権は、諸外国からの同情と支援を得るため市民からの死傷者数を大きく発表した。イラク政府は、2,300人の市民が空爆の間に死亡したと主張した[要出典]。 Project on Defense Alternativesの調査によると、イラク市民3,664人と20,000から26,000名の軍人が紛争により死亡し、一方で75,000名のイラク兵士が負傷した[31]。, 国防総省は、MIA(英語版)(戦闘中行方不明)と呼ばれるリストを作成し、友軍の砲火による35名の戦死者を含む148名のアメリカ軍人が戦死したと発表した。なお、このリストには2009年8月に1名のあるパイロット(英語版)が追加された。更に145名のアメリカ兵は、戦闘外事故で死亡した[32]。イギリス兵は47名(友軍砲火により9名)、フランス軍人は2名が死亡した。クウェートを含まないアラブ諸国は37名(サウジ18名、エジプト10名、アラブ首長国連邦6名、シリア3名)が死亡した[32]。最低でも605人のクウェート兵は未だに行方不明である[33]。, 多国籍軍間における最大の損失は、1991年2月25日に起こった。イラク軍アル・フセインはサウジアラビア・ダーランのアメリカ軍宿舎に命中、ペンシルベニア州からのアメリカ陸軍予備兵(英語版)28名が死亡した。戦時中、合計で190名の多国籍軍兵がイラクからの砲火により死亡、うち113名がアメリカ兵であり、連合軍の死者数は合計368名だった。友軍砲火により、44名の兵士が死亡し、57名が負傷した。また、145名の兵士が軍需品の爆発事故もしくは戦闘外事故により死亡した[要出典]。, 多国籍軍の戦闘による負傷者数は、アメリカ軍人458名を含む776名であった[34]。, しかし2000年現在、湾岸戦争に参加した軍人の約4分の1にあたる183,000人の復員軍人は、復員軍人省により恒久的に参戦不能であると診断された[35][36]。湾岸戦争時にアメリカ軍に従事した男女の30%は、原因が完全には判明していない、多数の重大な症候に悩まされ続けている[37]。, イラク兵により190名の多国籍軍部隊員が殺され、友軍砲火または事故により379名が死亡した。 この数字は、予想されたものに比べ非常に少ないものである。またアメリカ人女性兵3名が死亡した。, イラク戦闘員による多国籍軍の死亡者数は非常に低く、友軍相撃による死亡者数は相当な数に上った。148名のアメリカ兵が戦闘中に死亡し、そのうち24%にあたる35名の従軍要員は友軍相撃により死亡、さらに11名が軍備品の爆発により死亡した。 アメリカ空軍A-10攻撃機がウォーリア歩兵戦闘車部隊2個を攻撃したことにより、9名のイギリス軍従軍要員が死亡した。, クウェートにおける石油火災はイラク軍により起こされた。多国籍軍に追跡されていたイラク軍は、焦土作戦の一環として700の油井に放火した。火災は1991年1月及び2月に始まり、1991年11月に最後の火が消された[43]。, 生じた火災は制御できないほど燃え広がった。これは消火作業員の投入が困難であったためである。油井周辺には地雷が設置されており、消火活動の前段階として同地域の地雷除去作業が必要となった。約6百万バレル (950,000 m3)の石油が毎日失われていった。結果、15億USドルの経費がつぎ込まれ、消火作業は終了した[44]。しかし、火災は発生より10ヶ月が経過し、広範囲にわたる環境汚染が生じた。, 1月23日、イラクは400億ガロンの原油をペルシア湾に流出させた。これは当時としては最大の沖合石油流出だった[45]。この天然資源への襲撃はアメリカ海兵隊部隊の沿岸上陸を阻むためのものであると報道された。このうち約30から40%は多国籍軍によるイラク沿岸目標への攻撃によるものであった[46]。, 国連は、イラク政府に対してイラク占領下及び戦争中におけるクウェートの被害について賠償させるために、「国連補償委員会」を設置。国連安保理決議687に基づき、総額で524億ドルの賠償を求め、石油収入の5%の支払いを義務付けられた。, フセイン政権は1994年から賠償金を支払い、現在までに301億5000万ドル(2兆6000億円)が支払われた。しかし、残高が223億ドル(1兆9300億円)も存在し、現行ペースでは完済に十数年かかると見られている。, このため、復興途上にあるイラクにとっては負担が大きく、再三減免を求めてきたがクウェートはこれを拒否。逆にクウェート側は、イラク側の補償が不十分とし、2009年に国連に対してイラクに対する経済制裁をまだ解除しないよう求め、イラク側の反発を呼んだ。, 現在のイラク・クウェート国境は、1993年5月27日、国際連合安全保障理事会決議833(英語版)に基づいて画定された[47]。1994年にサッダーム・フセイン政権はこれを承認した[47]。しかし、イラク現政府は同決議の承認を公式には表明しておらず、2010年7月14日、同国のアラブ連盟大使カーイス・アッザーウィーは、「現在の国境線は認められない」と発言したと報道された[48]。クウェート政府はこれに抗議し、イラク外相が釈明する事態となった。, アメリカ合衆国議会の計算によると、アメリカ合衆国はこの戦争に611億ドルを費やした[49]。その内約520億ドルは他の諸国より支払われ、クウェート、サウジアラビアを含むペルシア湾岸諸国が360億ドル、日本が130億ドル(紛争周辺3か国に対する20億ドルの経済援助を含む)[50]、ドイツが70億ドルを支払った。サウジアラビアの出資のうち25%は、食糧や輸送といった軍へ用務という形で物納により支払われた[49] 。多国籍軍のうちアメリカ軍部隊はその74%を占め、包括的な出費はより大きくなされた。日本の戦費供出も、当時の自国防衛予算の約3割にあたる多額の支出が行われた。, トマホーク巡航ミサイル、劣化ウラン弾、F-117ステルス攻撃機、パトリオットミサイル、バンカーバスター地中貫通爆弾、全地球測位システム (GPS)、F-15E戦闘爆撃機など、特にアメリカは数々の新兵器を投入した。, 中にはA-10攻撃機の様に、冷戦終結により一度は存在価値(欧州配備)を失ったものの、湾岸戦争での活躍により再評価された物も存在する。, アメリカ空軍のAGM-130誘導ミサイルといった誘導爆弾は、他の無誘導爆弾に比べ、実戦経験は少なかったにもかかわらず、過去の戦争と比べ軍事攻撃における市民への被害を最小限にできると評価された。ジャーナリストたちが、巡航ミサイルが飛び交うのをホテルから眺める中、バグダッド中心部の特定の建造物への爆撃は行われた。, 多国籍軍が投下した爆弾のうち、7.4%は精密誘導によるものであった。クラスター爆弾を含む複数の子弾を四散させる爆弾[51]及び15,000ポンド爆弾デイジーカッターは、数百ヤードにわたる範囲内の建造物を破壊可能である。, 早期警戒管制機 (AWACS)及び衛星通信システムもまた重要な役割を果たした。アメリカ海軍E-2ホークアイ及びアメリカ空軍E-3セントリーがその一例である。これらの航空機は作戦範囲における司令及び管制に使われた。これらのシステムは、陸軍、空軍、そして海軍間の必要不可欠な通信リンクを提供した。そして、これは多国籍軍が空戦において圧倒的優位に立った多くの理由の内の一つである。, 対して、イラク軍は地上戦力では9K52やT-72といったソ連製兵器や中国製59式、69式戦車などを投入した。ところが、中にはモンキーモデルと呼ばれる性能を輸出向けにダウングレードさせた仕様も存在したため、これらは多国籍軍の戦車に相次いで撃破された。他にも、対地攻撃用にスカッドミサイルやカチューシャといった装備も投入しており、これらの存在に多国籍軍は苦戦することになった。, 航空戦力には、装備していたソ連製・フランス製・中国製戦闘機や爆撃機を投入。中にはMiG-25のように撃破ないし撃墜に至らせた機体もあった。しかし、全天候能力を持たない機体も多く大部分は撃墜されているか隣国のイランに退避する事態を迎えた。現在でも、イラン空軍には当時イラクから逃げてきた飛行機が何機か配備されているが、これはイランも革命後にアメリカから支援を断たれたためやむを得ず使用しているためである。, イラク海軍はフリゲートやコルベット、ミサイル艇といった小型の艦艇で構成された艦隊が配備されていた。海上戦力において重大な脅威とみなされたのは(クウェート海軍から鹵獲された物を含む)ミサイル艇のみであったが、これらは多国籍軍の航空戦力によって一方的に殲滅されている。なお、イラン・イラク戦争後、イラク海軍はイタリアにミサイルフリゲートや補給艦を発注して海上戦力の充実を狙っていたが、フリゲートはキャンセルされている。また、補給艦はイラクへの回航中に湾岸戦争勃発により引き渡しが禁止され、エジプトのアレクサンドリア港に留め置かれた。, サウジアラビアはイラン・イラク戦争の折に、アメリカからF-15戦闘機などを導入し、アメリカはイラク監視を名目に第5艦隊在バーレーン軍司令部とともに戦後も駐留を継続した。同国出身のウサーマ・ビン=ラーディンは、自身のムジャヒディンでイラク軍から防衛する計画を提案したところ当時のファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ国王に断られ[52]、イスラム教の聖地メッカとマディーナを有する同国にアメリカ軍を駐留させたことに反発し、イスラム原理主義組織アルカーイダによるアメリカへの同時多発テロを実行したと発表されている[53]。このことからフセイン政権とアルカイダの関連が疑われてイラク戦争の開戦事由となったが、しかし、ビン=ラーディンはサダム・フセインをアラブ世界の汚物と酷評しており[54]、また、アメリカ上院情報特別委員会[55]はフセイン政権はアルカイダを脅威と見做していたと結論づけており、フセイン政権とアルカイダを繋げる証拠はなかった。, 過激派は数度にわたって中東に在留するアメリカ軍を襲撃したが、1996年のアメリカ軍宿舎攻撃はタンクローリーを爆破するもので、十数名のアメリカ兵が死亡した。1998年にはケニアなどでアメリカ大使館爆破事件を起こし約200名を殺害。2000年にはイエメン沖でアメリカ海軍艦コールを攻撃した(米艦コール襲撃事件)。これらの事件でアメリカはアルカーイダを非難し、当時アフガニスタンでアルカーイダを保護していたタリバンにアルカーイダの引き渡しを求めた。さらに2度にわたる国際連合安全保障理事会決議でも引き渡しが要求された。しかしタリバンは引き渡しに応じず、2001年にアメリカ同時多発テロ事件が発生した後にもアルカーイダを保護し続けた。このためNATOと北部同盟によるターリバーン政府攻撃が行われた。, 湾岸戦争前に、フセイン政権はレバノンのマロン派キリスト教勢力およびレバノン国軍に対して、(対立関係にある)シリア・バース党に対する対抗策として余剰の軍備を供与するなど同内戦に関与を深めていた。しかし、湾岸戦争の勃発により、これらの支援は途絶。マロン派キリスト教勢力は外国からの支援が途絶え、さらに民兵組織の処遇を巡って、同派の有力民兵組織レバノン軍団とミシェル・アウン率いるレバノン国軍は軍事衝突するに至った。また、イラクから支援を得ていた事から、レバノン政府及び軍に対する欧米からの支援も凍結され、レバノンのマロン派キリスト教勢力は深刻な内紛を抱え込み国際的に孤立する事となった。, 一方、シリアは多国籍軍への参戦を表明。アメリカはその見返りとして、(手詰まりに陥っていた)レバノン問題の解決をシリアに事実上一任する形となった。また、この事態はイラクを支持し、レバノン国内のパレスチナ難民キャンプを事実上支配地域としていたPLOに対する牽制ともなった。, アメリカの黙認を得たシリア軍は、レバノン国軍に対して、各宗派の民兵組織と連携して大攻勢を仕掛け、これを降伏させた。レバノン内戦はシリア主導によって終結に向かう事となった。, 湾岸諸国から大量の原油を購入していた日本に対して、アメリカ政府は同盟国として戦費の拠出と共同行動を求めた。日本政府は軍需物資の輸送を民間の海運業者に依頼したが、組合[誰?