世界大恐慌 暗黒の木曜日とフーヴァー大統領の政策 1920年代のアメリカは史上空前の好景気だった。株価は5年で5倍になり、誰もが株を買いあさった。そして1929年10月24日に株価が暴落し、その後一か月にわたって下落が続いた。 フーヴァー大統領の対策 独立運動が本格的になるのは、19世紀末、フィリピン独立の父とされるホセ・リサールの活躍によるところが大きい。リサールは、1896年12月30日に銃殺された。1898年、米西戦争勃発により、アメリカ合衆国はエミリオ・アギナルド[10]らの独立運動を利用するため支援した。ただこれは、後に判明するように、アメリカがスペインからフィリピンを奪って自国の植民地にすることが目的だった。, 1899年6月12日、初代大統領エミリオ・アギナルドの下、独立宣言がなされ、フィリピン第一共和国が成立した。フィリピン革命は、普通1896年8月から1899年1月までを指す。, なお、征服者レガスピの1567年の書簡に、当時すでに日本人がミンドロ島やルソン島へ毎年交易に来訪していたことが記されており、日比の交流はスペインが占領する以前からあったことがわかっている[11]。, 米西戦争の最中に独立を果たしたのもつかの間、1898年のパリ条約によりフィリピンの統治権がスペインからアメリカ合衆国に譲渡された。1899年1月21日にフィリピン共和国がフィリピン人によって建国された。5月18日にサンボアンガ共和国(英語版)がサンボアンゲーニョ(英語版)によって建国された。, フィリピン共和国の建国を承認しないアメリカによる植民地化にフィリピンは猛烈に抵抗したものの、米比戦争で60万人のフィリピン人がアメリカ軍により無残に虐殺され、抵抗運動は武力鎮圧された。1901年にアギナルドが米軍に逮捕されて第一共和国は崩壊し、フィリピンは旧スペイン植民地のグアム、プエルトリコと共にアメリカの主権の下に置かれ、過酷な植民地支配を受けることとなった。1903年にサンボアンガ共和国も崩壊したが、モロの反乱(英語版)は1913年まで続いた。フィリピン史では、1899年2月から1902年7月までをフィリピン・アメリカ戦争期として位置づけている[12]。, その後フィリピン議会議員マニュエル・ケソンの尽力で、アメリカ合衆国議会は1916年にジョーンズ法で自治を認めフィリピン自治領[要リンク修正]が成立した。1920年代にRCAが広域無線局を設置、ここを中継地点として香港経由で中国と交信した。1929年に世界恐慌が発生すると無課税でアメリカ本土に移入されていたフィリピンの砂糖がアメリカ本土の甜菜糖やキューバ糖に打撃を与え、アメリカの資産家で破産するものが続出した。そのためフィリピン糖排撃の声が高まり、関税を課すことを目的にフィリピン独立が叫ばれるようになった[13]。1934年にアメリカ議会はフーバー大統領の反対を押し切り[13]、タイディングス・マクダフィー法で10年後の完全独立を認め、フィリピン議会もこれを承諾したことで、フィリピン自治領からフィリピン・コモンウェルスに移行したが、アメリカはフィリピンにアメリカへの依存貿易を続けさせるなどの利権を確保し続けた[14]。, 第二次世界大戦中の1941年12月に、アメリカ合衆国軍との間に開戦した日本軍が、アメリカ合衆国軍を放逐しマニラ市に上陸した。アメリカ合衆国陸軍司令官のダグラス・マッカーサーはオーストラリアに撤退し、日本陸軍は1942年の上半期中にフィリピン全土を占領した。, アメリカは1935年にはフィリピンの独立を約束していたので、日本も1943年5月に御前会議でフィリピン(フィリピン行政委員会(英語版))とビルマを独立させた[15]。1943年10月14日、ホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン第二共和国が成立した。しかしアメリカは日本の傀儡政権であるとしこれを認めなかった[16][17]。その後ラウレルは日本との協力関係を築きフィリピン政府の運営を進めた。日本の敗戦が濃厚になると1944年12月8日に親日義勇隊のマカピリが設立されベニグノ・ラモスなどが参加し、戦闘に加わった[18]。また、アメリカの援助を受けて結成された反日ゲリラ組織のユサフェ・ゲリラと共産系のフクバラハップが各地で抗日ゲリラ戦争を行った。その後1944年末に米軍が反攻上陸すると、フィリピン・コモンウェルスが再び権力を握った。第二次世界大戦によって110万人のフィリピン人が犠牲となり[19]、マニラに20棟あった16世紀から17世紀にかけて建立されたバロック様式の教会は、米軍の攻撃により2つを残して破壊された。, 1945年の日本敗戦に伴い、独立を失いアメリカの植民地に戻ることを余儀なくされることとなったが、1946年のマニラ条約(英語版)で、フィリピン・コモンウェルスの組織を引き継ぎ、戦前から約束されていたフィリピン第三共和国(英語版)が再独立した。, 冷戦下では地主支配(アシエンダ)打倒を訴える共産系のフクバラハップが勢力を拡大し、ルソン島ではゲリラ戦争が続いたが、1950年代中に共産ゲリラはアメリカからの全面的な支援を受けたラモン・マグサイサイの手によって一度壊滅した。その後、親米政権によって農地改革が行われたものの、実効性には乏しいものとなった。, 1965年より反共産主義を唱えるフェルディナンド・マルコス大統領がマルコス独裁国家(英語版)体制を築いた。アメリカ合衆国からの支持を得たマルコス政権は、20年に渡る開発独裁政権となり、イメルダ・マルコス大統領夫人をはじめとする取り巻きによって、私物化され腐敗した政権に対して、中華人民共和国やソビエト連邦からの支援を受けたモロ民族解放戦線や再建共産党の新人民軍 (NPA) による武装蜂起が発生した[要出典]。, 1986年2月22日に起きた「エドゥサ革命」(二月革命、ピープル・パワー革命)で、民衆の不満が高まったためにマルコス政権は崩壊し、現在のフィリピン第四共和国体制が成立した。この革命は同年2月22日の国軍改革派将校の決起から25日のコリーアキノ政権樹立に至る4日間の出来事であった。民主化を求める市民が、マニラ首都圏の中心部でデモや集会、座り込みや兵士に花束を渡す行動を起こした。その模様をリアルタイムで、多くのテレビカメラの放列が世界中に生放送した。これらマスメディアの報道が心理的圧力となり、フィリピン共和国軍は市民に銃を発砲出来無かった[20]。, マルコスとイメルダはアメリカ合衆国のハワイ州に亡命した[21]。新人民軍による三井物産マニラ支店長誘拐事件(1986年11月15日 - 1987年3月31日)が発生。, 第二次世界大戦後の冷戦期間中のフィリピンは、同じく西側諸国に属すこととなった日本と同様に、極東アジアにおけるアメリカの重要な拠点となり、米軍に基地を提供していたが、1990年代初頭の冷戦終結を受けた米軍のアジア駐留軍縮小、およびピナトゥボ山の噴火に伴う基地機能の低下、フィリピン国内のナショナリズムの高揚、フィリピン共和国憲法改正により、在比米軍は軍備を沖縄に集約し、フィリピンから撤退した。, フィリピンの共産主義勢力フクバラハップは、第二次世界大戦中に日本軍と戦い、日本軍の撤退後もアメリカ軍と独立後のフィリピン政府軍と戦闘を続けたが、1954年までにマグサイサイ指揮下のフィリピン政府軍に制圧された。1969年、毛沢東主義による革命と体制変革をめざすフィリピン共産党 (CPP)(再建共産党)は新人民軍 (NPA New Peoples Army) を結成し、フィリピン政府軍に対する武装闘争を開始した。NPAは、ルソン島を中心にフィリピン全国に展開し、フィリピンの軍隊・警察・インフラ・企業に対する武力攻撃を繰り返し、フィリピン政府軍はNPAの武力攻撃に対して掃討戦を継続しているが、海外のテロ支援国家の支援を受けるNPAを完全制圧することは難しく、2013年現在、武力行使は継続中である。, ミンダナオ地区にイスラム教による自治区を作ることを目的としたモロ民族解放戦線 (MNLF Moro National Liberation Front) は、1970年にフィリピン政府軍に対して武装闘争を開始し、MNLFと政府軍の武力紛争は1996年まで継続した。1996年、MNLFはフィリピン政府との和平協定を締結して武装闘争を終結し、フィリピン政府はミンダナオ地区にMNLFのイスラム教による自治を受け入れ、その後はミンダナオ・イスラム自治区の与党として活動している。しかし2013年9月、後述するMILF主導の和平交渉への反発から、再び政府軍と衝突した[22]。, モロ・イスラム解放戦線 (MILF Moro Islamic Liberation Front) は、モロ国民解放戦線 (MNLF) がフィリピン政府と和平協定を締結しようと方針転換したことに反対し、フィリピン政府軍との武力闘争を継続するために、1981年MNLFから分離独立し、フィリピン政府軍に対して武装闘争を継続した。1997年、MILFはフィリピン政府と停戦協定を締結したが、その協定は2000年にエストラーダ政権により破棄された。2003年、MILFはアロヨ政権と停戦協定を締結したが、2005年MILFは停戦協定を破棄してフィリピン政府軍に対する武力攻撃を再開。2012年10月、政府との間で和平枠組み合意に至る[23]。, アブ・サヤフ・グループ (Abu Sayyaf Group) は、フィリピンのミンダナオ島、スールー諸島、ボルネオ島、および、インドネシア、マレーシア、タイ、ミャンマーなどの東南アジア地域にイスラム教で統治する国家の設立を目ざして、1990年にフィリピン政府に対して武装闘争を開始した。アブ・サヤフ・グループは、フィリピン政府軍および一般市民に対して爆弾攻撃、暗殺、誘拐・監禁、身代金要求を繰り返し、2000年以後は活動地域をマレーシア、インドネシアへも拡大し、2013年現在、武力闘争を継続中である。, フィリピン経済に転機が訪れたのは、1990年代後半だった。1997年にアジア通貨危機が発生すると、そのあおりを受けてペソ暴落に見舞われたが、経済がバブル状態ではなかったので、財政破綻したタイ、一時期国家崩壊の危機に陥ったインドネシア、国家破綻しかけた韓国などに比べると回復は早く、IMFの管理下になることを免れた。, フィリピンの経常収支は1000万人に及ぶ海外在住労働者の送金によって支えられており、出稼ぎ、特に看護師はフィリピンの有力な産業と言ってもよい[24]。主要な貿易相手国はアメリカと日本であるが、近年は距離的にも近い中華人民共和国や中華民国(台湾)や大韓民国との貿易も増えている。, 東南アジアではベトナム・インドネシアと共にNEXT11の一角にも数えられており、今後も経済発展が期待できる新興国の1つに数えられている。, また、長年の懸案であった、ミンダナオ島を活動拠点とする、南部武装ムスリム勢力に対しては、MILF・モロ・イスラム解放戦線との和解交渉が成立するなどの進展が見られた。ミンダナオ島にも、アメリカなどからの直接投資も入り始めている。一方、ISILへの支持を明確化したアブ・サヤフの活動が活発化。2017年5月、フィリピン軍は、ミンダナオ島マラウィ市にてアブ・サヤフと市街戦になった[25]。, 2018年7月26日、ロドリゴ・ドゥテルテ大統領はムスリムによる自治政府樹立を認める「バンサモロ基本法」に署名し[26]、翌年の住民投票の結果、従来のイスラム教徒ミンダナオ自治地域よりも強い自治権を有するバンサモロ自治地域が発足した。, 大統領を元首とする共和制国家であり、フィリピンの大統領は、行政府の長である。大統領と副大統領は、同日に別枠で国民の直接選挙により選出される。任期は6年で、憲法の規定により、再選は禁止されている。, 議会は、元老院(上院)と代議院(下院)の両院制(二院制)。上院は、24議席で任期6年。3年ごとに半数改選。下院は、憲法上は250議席以下と規定されているが、現在は214議席。20%を政党別の候補者リストから、残りを小選挙区制で選出され任期は3年である。選挙は、西暦が3で割り切れる年に行われる[注釈 2]。アロヨ政権は現在の大統領制から議院内閣制へ、両院制議会から一院制へ移行する憲法改正を提案するが進展は見られない。なお、地方自治体の州、市町村の正副首長と地方議会の議員は任期3年である。, フィリピン初の憲法は1899年に公布されたマロロス憲法であり、アジア初の共和制を定めた憲法であった。次は1902年のフィリピン組織法(クーパー法)で選挙による議会が設置された[注釈 3]。, 1935年にアメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトの承認と国民の賛成でフィリピン1935年憲法が実施され、フィリピン・コモンウェルスが成立、大統領の権限[注釈 4]が強化された[注釈 5]。, 1971年6月に憲法制定会議が開催され、全面的な改正に着手した。熱心な討議の末、新憲法草案は1972年11月に入って承認され、1973年1月に実施された。このフィリピン1973年憲法は、大統領制下での議院内閣制が特徴である。しかし、欠点[注釈 6]もあり、1980年と1981年に一部改正された[注釈 7][27]。, フィリピン軍は陸軍、海軍、空軍の三軍により構成される。2016年には、GDPの1.28%を軍事費に充てている。徴兵制度はなく、17歳から23歳(士官は20歳から24歳)の独身の男女で、72時間の大学の履修(士官は学士)が志願できる志願制度である。, 軍隊の始まりは、1868年にスペインが警察軍を創設したことによる。スペイン支配下では、通常軍と国家警察を使い分けた。アメリカ植民地支配下では、正規軍をマニラおよびその周辺に配置し、準軍事的な国家警察軍を全土に展開した。1916年Constabulary Academyが開校、1922年にフィリピン大学に予備役見習将校団 (ROTC) が設立され、1936年に陸海空の将校養成を目的としたフィリピン士官学校 (PMA) が設立された。国軍は治安対策であり、米軍が外的対策を担当した[注釈 8] また、多島海国家という特徴から島嶼間の移動は必然的に航空機または船舶を利用することになるため、各航空会社の路線網が発達している。, 以下の代表的な航空会社がある。(ここ数年、格安航空会社を中心に提携再編が繰り返されているので、最新の情報は要確認), マニラ南部ニノイ・アキノ国際空港近辺からカヴィテ州を結ぶSLEX(South Luzon Expressway)やケソン市からパンガシナン州を結ぶNLEX(North Luzon Expressway)といった高速道路があるが、短距離である。, 近年は、SCTEX (Subic-Clark-Tarlac Expressway) やSkyway(マカティ-ビクータン)等の路線も開通しているが、マニラ首都圏へ続く木の幹に当たるロハス通りの幹線道路に、全ての枝状の道路が集中する構造で、環状道路もエドゥサ通りしかなく、貧弱な道路インフラストラクチャーと相まって、道路信号なども充分に整備されておらず、深刻な交通渋滞が発生している[58]。, ごく短時間の間に、警察官による車線規制を行い、時間帯によって、1本の道路を上り専用、下り専用道路として運用されたり、複車線の道路も時間帯で上り下りの車線数が変更されることが有る。その他、マニラ首都圏では一部地域において月曜日から金曜日までの間、ナンバープレートによる流入車規制が行われている。, フィリピン全土では、アスファルト未舗装の道路も多く、道路舗装事情が良くないため、SUV四輪駆動車の需要が多い。, 長距離鉄道としてはフィリピン国鉄があり、ルソン島に鉄道網を持つ。北方線が1991年のピナトゥボ山の大噴火で全線運休し現在に至る他、台風などの自然災害で度々運休している。, 都市間輸送については、高速バスの方が早くて多頻度かつ経済的であること、航空網が整備されていることなどから、鉄道による旅客輸送は衰退している。鉄道車両は日本で使用されなくなった客車や国鉄203系電車が輸出され使用されている。, 都市鉄道としてはマニラ・ライトレール、マニラ・メトロレールの鉄道路線がある。マニラ首都圏の慢性的道路渋滞を解消するために建設された。料金は1路線につき10~15ペソ程度で運行本数も多く、市民の重要な足となっている。, フィリピンの国土は多数の島々から成るため、フェリーボート、貨客船の航路が発達しているものの、使用船舶は他国での中古船が多く新造船は殆ど無く旅客定員も改造によって安全基準を超過しているものもあり、安全に対する意識が低く、事故率も高い。例えば、ドニャ・パス号の事故などが知られる。, 人口が1億人を超えたフィリピンはマレー系を始めとする多民族国家である。タガログ族(英語版)・ビサヤ族(英語版)(セブアノ族(英語版)・ヒリガイノン族(英語版)・ワライ族(英語版))・イロカノ族(英語版)・ビコラノ族(英語版)・カパンパンガ族(英語版)・パンガシナン族(英語版)・モロ族(マギンダナオ族・バジャウ族(英語版)・ヤカン人(英語版)・タウスグ人(英語版)・サマル人(英語版)・en:Bangsamoro[要曖昧さ回避])・イヴァタン人(英語版)(台湾原住民)・華人・サンボアンゲーニョ(英語版)・メスティーソ・ネグリト(アエタ族・アティ族・バタク族[要リンク修正]・ママンワ族(英語版))・イゴロット族(ボントック族・イフガオ族など)・ティルライ族(英語版)など。, 現在ではフィリピン人とは、当たり前のことであるが、フィリピンに生まれ育った土着の人々の名称である。このような考え方は19世紀半ば以降に意識され始め現在に至っている。かつては、スペイン本国生まれのスペイン人と区別して、フィリピン諸島生まれのスペイン人を指して用いられた。彼らをフィリピーノ[60]あるいはクリオーリョ、そして、土着の人々をインディオといった。また、スペイン人や中国人の移住者の男性と現地の女性との間に生まれた子どもはメスティーソと呼ばれた。この背景には、インディオやメスティーソのなかの富裕層の子弟たちが、スペインの圧政に耐え兼ね、改革や自治を求めた様々な運動があったことが考えられる[6]。, フィリピンの主要民族はタガログ族であり、ルソン島のリサール州、ラグナ州、タルラック州、ブラカン州、バターン州などに住む、タガログ語は他のフィリピン諸語と同じく、オーストロネシア語に属する。これを母語とする者は2500万人以上と推計される。16世紀後半から約300年にわたるスペイン人の支配により、タガログ族の80%以上がカトリック教徒となっている。大半が木やニッパヤシでつくった小さな高床式の家屋に住み、水稲耕作を主とする農業を営んでいるが、主要な換金作物はサトウキビとココナッツである。19世紀から20世紀初頭にかけて起こった白人(スペイン人、アメリカ人)と日本人の植民地支配に対する革命運動で、最も重要な役割を演じた民族でもある。そのため、フィリピン国民の主要な英雄や、独立後の政府の指導者多く輩出している。ルソン島にはその他にもイロカノ族(人口約810万人)、ビコラノ族(人口約540万人。ビゴール語を話す)、カパンパンガ族(約人口300万人)、パンガシナン族(約人口110万人。但し、イロカノ族との混血が進んでいる)など、他にも多数の中小部族を抱えている。, 続く主要民族はビサヤ諸島(セブ島、パナイ島、レイテ島、サマール島)を中心として、ルソン島からミンダナオ北部にかけて居住する新マレー系住民のビサヤ族である。オーストロネシア語族に属するビサヤ諸語を話し、人口は2000万を超えると推定されるが、政治的に、社会的地位は、タガログ族が圧倒的優位を占めている。但し、一言にビサヤ族と言えど、実際には多数の部族が存在している。ビサヤ族の最大の部族はセブアノ族であり、セブアノ語を話し、セブ、シキホール、ボホール島などの各島に居住し、1200万人の人口を誇る。2番目の人口を有するヒリガイノン族の人口は約700万人であり、ヒリガイノン語を話し、パナイ、西ネグロス、南ミンドロなどの各島に居住している。3番目にはワライ族であり、人口は約310万人。ワライワライ語を使用し、サマール、東レイテ、ビリランの各島に居住し、おもな生業は水田耕作による水稲栽培であるが、一部は漁労や商業にも従事している。主食は米、魚、野菜、果物である。双系親族、儀礼的親族を有する。かつてはラオンと呼ぶ至上神を信仰し、アニミズム信仰も盛んであったが、現在はほとんどキリスト教に改宗している。他にも多数の中小部族が存在している。そのため、マニラ中心の中央政府と協調関係を取りながらも、独自の文化、習慣、言語、民族性を保持している州政府が多い。, ミンダナオ島などの南部にはイスラム教徒のモロ族(バジャウ族・ヤカン人・タウスグ人・サマル人など)が存在する。, フィリピン華人の大部分は中国福建省南部(特に晋江)の出身である[61]。明・清時代からの古い華人が多く、現地化や混血(メスティーソ)が進んでいる。元大統領コラソン・アキノも福建華人の子孫であり、フィリピン独立の英雄として知られるホセ・リサールも中国系移民の系譜を持つ[61]。現在でも中国語(福建閩南語)を話し、中国の習慣になれている者は100万人程度と推定される。苦力出身者がほとんどおらず、商業移民が中心となっている[62]。中国系移民の総人口に占める割合は比較的小さいが、2012年6月にフォーブズが発表したフィリピンの富豪上位10位の7割を中国系移民及びその子孫の企業グループが占めているように、経済的成功者も多く、フィリピン社会への影響力は大きい[61]。, フィリピンの華人は、スペイン統治時代に幾度も排斥政策を取られたことから、存続のため、現地社会との融合度が高く、現地人との通婚が進んでおり、仏教を捨ててカトリック教会への改宗者も多い[62][61]。また、フィリピンが反共を掲げた経緯から、同じく反共を掲げ、西側陣営に属した台湾(中華民国)との関係が深い。フィリピンの華人社会で使われる漢字は、台湾と同じ繁体字である[62]。, 過去数百年で中国系(華人)やスペイン人(サンボアンゲーニョ(英語版))との混血が進み、混血率は高い。地域によって混血率は違い、スペイン統治時代に重要な軍港であった地域、特にサンボアンガでは、スペイン人との混血率が高い。混血者はラテンアメリカと同様にメスティーソと呼ばれる。外国へ出稼ぎに行く国民が10人に1人はいる出稼ぎ国家で、外国で働く労働者が多いため、その他の混血の人も多い。その中でも、日本人・アメリカ人とフィリピン人のハーフが多い。, 山岳地帯のネグリト、ボントック、イフガオなどがいる。フィリピン各地の山岳地帯や南部のミンダナオ島、スールー諸島、パラワン島の住民は中北部の低地住民とは文化や生活様式を異にしてきた人々を少数民族という。これらの人々は全人口の10%前後であるといわれている。南部に住むムスリム(モロ族)と各地の山岳地帯に住む住民の2つに分けられる。アメリカは、少数民族を「非キリスト教徒部族民」と名付け、後進的な野蛮人と見なした(モロの反乱(英語版))。これらの少数民族からも国会議員や地方議員が出ているが、彼らは地域の「ボス」であることが多く、少数民族の利害や権利は政治に反映されなかった。差別の原因を宗教の違いにされたり、無知からくる偏見にさらされた[63]。, 1960年の人口は、27,087,685人。1980年の人口は、48,098,460人。2005年の人口は、87,857,473人。2010年の人口は92,337,852人。2015年の人口は100,981,437人と人口爆発が続いている[2]。, 2014年7月27日に、公式に1億人を突破したと発表した[64]。国連等の推計では、2030年には1億1千万人、2040年には1億2千万人、2050年には1億2千7百万人になるとされる。, 国語はフィリピン語 (Filipino)、公用語はフィリピン語と英語であるが、母語として使われる言語は、合計172に及ぶ。これらのほとんどはアウストロネシア語族に分類されるが、アウストロネシア語族の言語間にも、ほとんど意志の疎通が図れないほどの違いがある。他に使われる言語には、スペイン植民地の歴史を反映してスペイン語(フィリピンのスペイン語)やチャバカノ語(スペイン語とそのクレオール言語)がある。なおスペイン語は、1986年まで公用語の位置にあった。フィリピン政府は各地で英語とフィリピン語が使われている事実を持ってして公用語であると宣言しており、スペイン語やアラブ語(イスラム教徒)が自発的な運動により公用語になりうる事も示唆している。, フィリピン語 (Filipino) は、1987年に成立したフィリピン共和国憲法において、初めて国語を言い表すのに正式に採用された人工言語である。実質的にはマニラ首都圏を中心として話されている地方語の1つである『タガログ語 (Tagalog) 』を基にして採用された言語である。そもそもフィリピン国内では、ルソン島やミンダナオ島、セブ島を含む7100以上の島々からなる地域において、タガログ語をはじめ、セブアノ語(セブ語、ビサヤ語)、ボホラノ語(英語版)、ワライ語、ビコール語、ヒリガイノン語、イロカノ語、パンパンガ語の8大言語[67]を含む100近い言語集団があると言われている。, アメリカ合衆国の植民地であったこともあり、アメリカ英語がかなり普及しているが、ナショナリズムの高まりと共に政府はフィリピンが一体となって発展していくためには国内全域で通用するフィリピンの共通言語が必要であるとし、タガログ語を基本としたフィリピン語を作り普及に務めてきた。1934年のタイディングス・マクダフィ法を受けて、同年に開かれた憲法制定委員会で、公用語や国語の問題が話し合われ大論争となった。最終的には、固有の1言語を基礎として国語の確立をすることで収まった。これを受けて、1937年、ケソン大統領がタガログ語を国語の基礎として選択するという宣言を行った[68]。, フィリピンのキリスト教社会では、名前は西洋式に「名、ミドルネーム、姓」の3つの部分からなる[注釈 12]。その場合、未婚者および男性は母親の旧姓を、結婚して夫の姓となった女性は自分の旧姓をミドルネームとしていることが多い。ミドルネームはイニシャルのみを記す場合と、そのまま書き表す場合がある。スペインによる長い植民地支配時代の間に、地元民はスペイン人の姓から選んで名乗ってきたため、フィリピンではスペイン語姓が主流であるが、華人系の姓も多い。名は旧来のスペイン語の名前に加えて、英語その他主にヨーロッパ系の名前が自由につけられている[注釈 13]。, 婚姻の際には、従来の法律では、結婚時に女性側は、自分の姓をミドルネームとして相手の姓を用いるか、相手の姓のみを用いるか、相手のフルネームにMrs.をつけるか、を選ぶことが可能、とされていたが、2010年に、最高裁判所は、女性の権利を守る観点から、これらに加えて、相手の姓を用いず自分の姓のみを用い続ける(夫婦別姓)ことも可能、との判断を下した[69]。, フィリピンは、バンサモロ自治地域を除けば、東南アジアでは東ティモールと並ぶキリスト教国である。キリスト教は、スペイン植民地時代に広まった。スペインが16世紀に伝えたものは、ローマ・カトリックであった。そのため、今でも人々のほとんどが、ローマ・カトリックの信者である。, キリスト教徒は、フィリピンの全人口の90%以上を占める。2000年の国勢調査では、カトリックが82.9%(カトリック教会が80.9%、アグリパヤンが2%)、福音派が2.8%、イグレシア・ニ・クリストが2.3%、その他のキリスト教が4.5%を占める[70]。, 2000年の国勢調査でのキリスト教の他の宗教は、スペイン人到来以前にもたらされたイスラム教が南部ミンダナオ島を中心に5%、その他が1.8%、不明が0.6%、無宗教が0.1%である[70]。イスラム教やキリスト教が入ってくる以前は、各島の自然の精霊などを信じる原始宗教(フィリピン神話)があった。(フィリピンの神話上の生き物も参照されたい), フィリピン共和国憲法に政教分離の規定は存在するものの、カトリック教会の影響は強く、フィリピン司教協会は離婚法や人工妊娠中絶や避妊に対して反対し、政治家に対して政治介入しており、フィリピンで人口爆発と貧困が続く一因となっている。また、結婚があっても離婚自体が法律上無い国家として有名であり、法的離婚制度が無いのは、バチカン市国とフィリピンのみである[71]。, 2008年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は95.4%(男性:95%、女性:95.8%)である[70]。2009年の教育支出はGDPの2.9%だった[70]。, 教育政策として高等教育を重視しているのが特徴である。これはスペイン植民地時代から引き継いでいる。高等教育の就学率は27.4%(1995年)で、アジアの中でも高い方であり、高等教育機関は、国公立・私立合わせて1489(2003年)もの大学が存在する。その中でも聖トマス大学は、アジアでも最古で、1611年の創設であり、在フィリピンのスペイン人に聖職者教育を施すことを目的とした。1908年に設置されたフィリピン大学は、アメリカ統治時代のもので、英語でアメリカ式の教育を行い、現地調達の行政官や大学教員を育てることが目的であった[72]。, フィリピン料理は、中国やかつての宗主国であるスペインとアメリカの食文化の影響を受けている[73]。フィリピンは国際捕鯨委員会 (IWC) を脱退しており、現在でも食用に捕鯨を行っている。, フィリピンの初の近代小説はペドロ・パルテノ(英語版)による『ニノイ(英語版)』(スペイン語: Nínay、1885年)によって幕を開き、そのすぐ後にスペイン語で書いた2作の小説、『ノリ・メ・タンヘレ(英語版)』(1886年)と『エル・フィリブステリスモ(英語版)』(1891年)でスペインによるフィリピン植民地支配を告発したホセ・リサールが現れた[74]。米比戦争によって20世紀初頭にアメリカ合衆国に併合された後、公教育を通じて英語が教えられると、1925年頃から英語による作品が書かれるようになり、また、1939年にフィリピン作家連盟が結成されている[75]。他方、20世紀前半の現地語による文学は大衆娯楽小説が主であり、第二次世界大戦中の日本占領期にタガログ語創作が奨励されたものの、第二次世界大戦終結後は再び英語が文学語として重視されるようになった[75]。, 20世紀後半の文学は英語、タガログ語、その他のフィリピン地方言語などの様々な現地語で書かれた[76]。著名な作家としては、『二つのへそを持つ女(英語版)』(1961年)でフィリピン人のアイデンティを題材にしたニック・ホアキンや、英語で『ロザレス物語(英語版)』五部作(en:Po-on (novel)、en:The Pretenders (novel)、en:My Brother, My Executioner、en:Mass (novel)、en:Tree (novel))、『エルミタ(英語版)』などを著しフィリピン近現代史を題材にしたF・シオニル・ホセ、タガログ語で『マニラ 光る爪(タガログ語版、英語版) (Maynila: Sa Mga Kuko ng Liwanag)』(1968年)を書いたエドガルド・M・レイエスらの名が挙げられる[77](後に映画化された『en:Mga Kwento ni Lola Basyang』)。, フィリピン武術(エスクリマまたはカリ、アーニスと呼ばれる)がフィリピンの国技である。他にも地方や種族によって様々な武術がある。徒手空拳術と武器操作術のバランスに優れたフィリピンの武術は実戦的であるとして評価が高く、各国の軍人や警察官のほか、他の武芸・格闘技の使い手や映画俳優などにも愛好者が多い。, スポーツでは、室内競技であるバスケットボール、ボクシング、ビリヤード、バドミントンなどが人気を集めている。特にバスケットボールは、アジアにおいて初めてのプロリーグであり、NBAに次ぐ歴史を持つフィリピンプロバスケットボールリーグ (PBA) を立ち上げ、国民的人気を誇る。また、ワールドカップ(旧:男子世界選手権)でのフィリピン代表は1954年にアジア最高位の3位の記録がある。, ボクシングやビリヤードは世界チャンピオンを多く輩出している。「アジアの怪物」と呼ばれているボクサーマニー・パッキャオや、ビリヤードのエフレン・レイズなどはその世界では伝説的である。パッキャオの世界的活躍は彼を祖国の英雄へと押し上げ、後に続くフィリピン人ボクサーの米国での成功や世界的評価の急上昇という好循環を齎している。, その他、チアリーディング、バドミントン、バレーボール、ソフトボール、ゴルフ、テニスなども人気がある。空手なども行われており、ボクシングを含めて格闘技が盛んである。熱帯性の気候から、激しい運動を伴う屋外スポーツ競技は、あまり人気がない。, ミス・コンテストが地域に根付いており、学校単位でのミス&ミスター・コンテストや全国単位でのミス・コンテストが盛んである。ミス・ユニバースのフィリピン代表は3回優勝している。, 2001年にフィリピンで誕生したミス・アースも現在では世界四大ミスコンテストに数えられるほどに成長した。, フィリピン国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、自然遺産が3件存在する。, インドネシア | シンガポール | タイ | フィリピン | マレーシア | ブルネイ |  ベトナム | ミャンマー | ラオス | カンボジア, 座標: 北緯14度35分 東経120度58分 / 北緯14.583度 東経120.967度 / 14.583; 120.967, 例えば、2010年代であれば、2010年、2013年、2016年、2019年の4回である。, 35年憲法改正の準備は196年代の後半から本格化し、1970年11月の憲法制定会議代議員選挙で320名選出される。, 被害者総数は120万人に他するほどであった。一方、農業に適した養分を含む土地も形成した, 1960年から2000年代中頃までに約1万件の地震が観測されている。1990年7月に中部・北部ルソンを襲った大規模地震は7州に被害を及ぼし、120万人以上が被災した。葉山アツコ「自然・地理」, ただし最近では、スペイン語よりも英語の名前が主流となっている。例:Miguel、Margarita → Michael、Margaretなど。, 日本と比米との激しい戦闘で全土が焦土と化し、およそ111万人以上の犠牲者と60億ドル(1950年価格)にのぼる物的損害を出した。(, オアフ島の小高い丘の中腹に建つ敷地面積約500坪の豪邸で一家が亡命生活を送った。すでに腎臓病などが悪化し3年半後の1989年9月死亡した。72歳であった。(, 世界遺産のサンゴ礁破壊で高まる反米感情 モン・パラティーノ “ Newsweek(ニューズウィーク)日本語版 ”2013年2月12日号, 二宮書店編集部 『Data Book of the World (2012年版)』 二宮書店 2012年 234ページ, Highlights of the Philippine Population 2015 Census of Population, World Economic Outlook Database, April 2014, https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/philippines/data.html, “フィリピン、「真の独立」のため国名変更?:議員が提案、候補には「カタガルガン」や「マハルリカ」など”, https://jp.wsj.com/articles/SB10450239983503033595904583204531475610340, https://www.nikkei.com/article/DGXMZO41197590T10C19A2EAF000/, http://www.ide.go.jp/Japanese/Serial/Poverty/200506/07.html, “Japan may give planes to Manila for South China Sea patrols - sources”, http://www.abs-cbnnews.com/nation/08/06/15/japan-may-give-planes-manila-south-china-sea-patrols-sources, The World Factbook — Central Intelligence Agency, http://www.afpbb.com/articles/-/3027289?ctm_campaign=txt_topics, http://www.jica.go.jp/activities/issues/poverty/profile/pdf/philippines_fr.pdf, http://www.crossworldmarine.com/index.php?option=com_content&view=article&id=85:philippines-one-of-the-worlds-leaders-in-shipbuilding&catid=6:press-releases&Itemid=26, http://www.globalsecurity.org/military/world/philippines/industry-shipbuilding.htm, https://web.archive.org/web/20120711125757/http://www.census.gov.ph/data/quickstat/qs0909tb.pdf, http://www.atimes.com/atimes/Southeast_Asia/HE10Ae02.html, ftp://public.dhe.ibm.com/common/ssi/ecm/en/gbl03012usen/GBL03012USEN.PDF, http://www.abs-cbnnews.com/business/03/21/12/bpo-industry-generate-100000-jobs-year-wb, http://business.inquirer.net/53163/it-bpo-revenue-reached-11b-in-2011, http://www.pinoy-ofw.com/news/21364-itbpo-sector-sees-274b-revenues-2016.html, http://www.huffingtonpost.jp/naoji-shibata/trafic-jam-of-manila_b_9184818.html, フィリピンの中国系移民と中国との関係 福建から香港ルートへの傾斜と教育・言語の問題を中心に, http://www.newsweekjapan.jp/nojima/2016/05/post-1.php, Philippine population officially hits 100 million, Population of the Philippines : Census Years 1799 to 2010, http://famli.blogspot.jp/2008/04/miss-ms-or-mrs-philippine-law-on.html, http://sankei.jp.msn.com/world/news/121208/asi12120818010002-n1.htm, フィリピン文学における日本兵の描写 : 1920年代から80年代までの作品を中心に, Health Information for Travelers to Philippines, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=フィリピン&oldid=80362212, 早瀬晋三『歴史研究と地域研究のはざまで-フィリピン史で論文を書くとき』法政大学出版局, 関恒樹『海域世界の民族誌-フィリピン島嶼部における移動・生業・アイデンティティ』世界思想社, 作本直行『アジアの民主化過程と法-フィリピン・タイ・インドネシアの比較』日本貿易振興会アジア経済研究所, 五十嵐誠一『民主化と市民社会の新地平-フィリピン政治のダイナミズム』早稲田大学出版部, 小野行雄『NGO主義でいこう-インド・フィリピン・インドネシアで開発を考える』藤原書店. 1762年に、一時的にマニラがイギリス軍に占領されたが、1763年にパリ条約が結ばれ再びスペインの管轄下に戻った。18世紀になってスペインは南部への侵攻を開始したものの、西南ミンダナオ島、スールー諸島、南パラワン島では、スールー王国をはじめとするイスラム勢力の抵抗に遭い、最後まで征服できなかった。, スペイン統治下で、メキシコやペルー、ボリビアから輸入した銀や、東南アジア各地や中国(清)の産物をラテンアメリカに運ぶ拠点としてガレオン貿易が盛んに行われた。フィリピンではマニラ・ガレオンと呼ばれるフィリピン製の大型帆船がたくさん建造され、メキシコのアカプルコとアジアを結んでいた。, ヌエバ・エスパーニャ副王領の一部となった植民地時代に、布教を目的の1つとしていたスペイン人はローマ・カトリックの布教を進めた。スペイン人は支配下のラテンアメリカと同様にフィリピンでも輸出農産物を生産するプランテーションの開発により領民を労役に使う大地主たちが地位を確立し、民衆の多くはその労働者となった。, 支配者であるスペインに対する反抗は幾度となく繰り返されたが、いずれも規模の小さな局地的なものであり容易に鎮圧されてしまった。 第二次世界大戦が始まるきっかけは、1920年代に起きたニューヨーク株式市場の株価の変動にあった。この大恐慌のニュースが、第一次世界大戦後の世界を支配していた新たな世界秩序を次々に崩壊させて … 第二次世界大戦は、1939年9月から1945年8月まで、日本・ドイツ・イタリアの枢軸国とイギリス・フランス・中国・ソ連・アメリカなど連合国との間で起きた、世界的規模の戦争 … [28]。, 基本的にフィリピンは親米的であり[要出典]、日本と同じく軍事的、経済的、政治的にアメリカとの関係が深い。フィリピンは植民地から独立したが、アメリカが介入した朝鮮戦争、ベトナム戦争にも参戦し、現在行われている対テロ戦争にも参戦、反対世論が多かったイラク戦争(武装勢力によるフィリピン人拉致事件でフィリピン軍はイラクから全面撤退した)に同調し、東南アジア条約機構や米比相互防衛条約を結んでいる。 フィリピン共和国(フィリピンきょうわこく、タガログ語: Republika ng Pilipinas、英: Republic of the Philippines)、通称フィリピンは、東南アジアに位置する立憲共和制国家。首都はメトロ・マニラで、最大の都市は面積ではダバオ市、人口ではケソン市である。81の州と1の首都地域で構成され、最小行政単位はバランガイ(Barangay)で42,027にのぼる。, 7000以上の島[注釈 1]を領有する島国であり[4]、フィリピン海を挟んで日本とパラオ、バシー海峡を挟んで台湾、スールー海を挟んでマレーシア、セレベス海を挟んでインドネシア、南シナ海を挟んで中国およびベトナムと対する。, 国名のフィリピンは16世紀の旧宗主国のスペイン皇太子フェリペ(後のフェリペ2世国王)の名前から命名された。, 正式名称は、タガログ語ではRepublika ng Pilipinas(レプブリカ ナン ピリピーナス)、英語では、Republic of the Philippines(リパブリク オヴ ザ フィリピーンズ)。略称は、Pilipinas(フィリピン語)、the Philippines(英語)。, 日本語表記による正式名称の訳は、フィリピン共和国、通称はフィリピンである。かつてはフイリッピン、ヒリピンという表記もなされていた。漢字による表記は、比律賓[5]、菲律賓で、比島、比、菲と略される。, 国名は、1542年に、スペイン皇太子フェリペ(のちの国王フェリペ2世)の名から、スペイン人の征服者ルイ・ロペス・デ・ビリャロボスによってイスラス・フィリピナス諸島(フェリペの島々)[6]と名づけられたことに由来する。, このような歴史的背景から、植民地時代の残滓だという立場からの国名変更論もある。国民的英雄と見なされる独立運動家アンドレス・ボニファシオは、「タガログ人の国家」を意味する「カタガルガン」を推していた[7]。第10代大統領フェルディナンド・マルコスは、サンスクリット語に由来し「気高く誕生した」を意味するとされる「マハルリカ」に変更しようとした[7][8]。ロドリゴ・ドゥテルテ大統領も「マハルリカ」への変更に対する共感を表明している[8]。, フィリピンの歴史は多様な民族によって織りなされてきた。フィリピン諸島で最も古い民族は25,000~30,000年前に移住してきたネグリト族。次に新石器文化を持った原始マレー。この後が、棚田水田農耕を持った古マレー。, 更新世中期の遺跡として、ルソン島北部のカガヤン渓谷にあるリワン遺跡が発見されている。そこからエレファス(古代象)、ステゴドン(ステゴドン象)、ライノセラス(古代犀)などの絶滅種の動物化石が出土し、他の出土品ではチョッパー(片面礫器)、チョッピング・トゥール(両面礫器)、フレーク・トゥール(剥片石器)など多量に発見されている。カガヤン渓谷に「カガヤン原人」の骨化石を求めて発掘作業が行われている[9]。, 紀元前500年~紀元13世紀の間にマレー系民族が移住してきた。900年頃の日付が記録されているラグナ銅版碑文(英語版)などによれば、当時すでにカウィ文字(英語版)やバイバイン文字など複数の文化を受容出来る成熟した都市国家を形成していたことが明らかにされている。, 14世紀後半にイスラム教が広まった。中国(明)や東南アジアとの交易で栄えたが、7000を超える諸島である現在のフィリピンに相当する地域に統一国家は形成されていなかった。, 西方から進出してくるヨーロッパ列強に東南アジアが次々と植民地化される中、スペイン艦隊は太平洋を横断し東方から到来する。1521年、ポルトガル人の航海者マガリャンイス(マゼラン)が率いるスペイン艦隊が、ヨーロッパ人として初めてフィリピンのホモンホン島に到達した。マガリャンイスはこの後、マクタン島を攻めたが首長ラプ=ラプらに敗れ戦死した。1494年スペインとポルトガルが結んだトルデシリャス条約でブラジルを除く新大陸(インディアス)がスペイン領有とし、1529年のサラゴサ条約でフィリピン諸島をスペイン領有とした。スペインはフィリピンをアジア進出の拠点とした。やがてスペインなどの航海者が来航するようになり、1565年にはスペイン副王領ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)を出航した征服者ミゲル・ロペス・デ・レガスピ(初代総督)がセブ島を領有したのを皮切りに19世紀末までスペインのフィリピン支配が始まり、徐々に植民地の範囲を広げ、1571年にはマニラ市を植民地首府とし、フィリピン諸島の大部分が征服され、スペインの領土となった。これ以降、約250年間、マニラとアカプルコ(メキシコ)をつなぐガレオン貿易が続いた。